滝ヶ原虹治(たきがはらこうじ)だ」

男はそう名乗った。
静かな、秋の空を吹く風のような声だと、和泉は思った。

「年は……今年で二十五になった。故あってここに住んでいる。国家防衛にかかる職を拝命している」

必要なことを、必要最低限に。
そんな話ぶりだが、不思議と嫌な印象はうけない。
言葉少ななのが、かえって誠実に感じられた。

「その、妻を迎えることを周囲に求められてはいたのだが……のらりくらりとしているうちに、すまない、何らかの形で君を巻き込んでしまったようだ」
「い、いえ……」

頭を下げられて、恐縮してしまう。
へりくだるのは、和泉の仕事なのに。
二人のやりとりを黙って眺めていた銀夜が、口を開く。

「和泉殿をお連れしたのは、俺です。さるお方からの指示で、あなたの住まわれていた町に貼り紙をだしました」
「町に……?」

郊外にある、田舎町だ。
どうしてあの町が選ばれたのか、まったくもって和泉には理由がわからない。

「天の思し召しというやつでね」
「……余計なことを」
「虹治様、聞こえていますよ」
「聞こえていて結構。そも、無断で細君を迎える手筈を整える従者がどこにいるんだ」
「ここでーす」
「……はぁ」

要するに。
この滝ヶ原虹治という男は、なんらかの理由で早急に結婚相手を探す必要があった。
そこで、従者だという銀夜が和泉の住む町にあの奇妙な貼り紙を出したというわけだ。
和泉を差し出して結納金をせしめるべく、唐紅家が名乗りをあげ……今に至る、と。

「とにかく、和泉さんをはやく元の町にお返ししなさい。かわいそうに、訳もわからずこんなところまで連れてこられて心細かったでしょうに」

虹治が心遣いを見せる。
が、銀夜は渋った。

「んー……それなんですが。これご覧になってから、考えてみませんか?」
「どういうことだ?」
「和泉殿、失礼」
「え……きゃっ!」

銀夜に左腕を掴まれた。
はらり、と振袖の袂が捲れて、和泉の細い細い腕が外気に晒される。

「……っ!」

虹治が、はっと息をのむ音が聞こえた。
飢えと過労で痩せほそった和泉の腕。そこには、赤黒いひきつれが無数にあったのだ。
銀夜が飄々とした声のまま、しかし有無をいわさぬふうに質問をよこす。

「火傷の跡、ですよね。しかも、これって」
「お見苦しいものを……も、うしわけ、ございませ……」

この火傷は、義父によるものだ。
何か気に入らないことがあると、和泉に難癖をつけて熱く焼けた火箸を押し付けるのだ。
当たり散らかすという意味だけでなく、彼のなかに残酷な衝動があって、それをぶつける先として和泉を選んでいるというふうだった。
もう何年も前から、そういったことが続いている。
冬は、火鉢があるから嫌だった。

「…………」
「こう言ったらなんだけど、この子の家の者は結納金のことしか頭にないみたいでしたよ。こんなに痩せてて、顔色も悪い彼女を追い返しますか?」

銀夜の言葉に、虹治はぐぅっと黙り込む。
ああ、優しい人だ……と。和泉はそう思った。
追い返すと答えれば、和泉の身体は危険に晒されることが確実だ。
さりとて、追い返さないと言えば……それは、和泉を憐んでいることになる。
憐れむというのは、蔑みに似ている。自分と相手に絶対的な格差があることを認めることになるからだ。
虹治は、不用意に誰かを憐れむたぐいの人間ではないようだった。

「……それに」

銀夜はたたみかける。

「これは虹治様にとっても、都合がいいことでしょう」