午後の勉強を早めに終えたミトはネットで動画を鑑賞していた。
 すると、肩を叩かれ、振り向くと志乃がいた。
 どうやら志乃が近付くのにも気付かないほど集中していたようだ。
「ミト、あなたそろそろ帰った方がいいんじゃない?」
「えっ?」
 はっとして時計に目を向けると、夕方になっていた。
(まずい。今日は真由子が早く帰って来る日だ)
 真由子とは村長の孫娘だ。
 ミトより三つ上の大学生で、絵に描いたやうな我儘娘だった。
 村長夫婦が唯一の孫である真由子を甘やかした結果である。
 この村において絶大な権力を持つ村長の威光を存分に活用している子であった。
「私、先に帰ってるね」
「ええ、雨が降ってるみたいだから気をつけてね。雨が降ってるから、たぶん昌宏も帰ってる頃だと思うけど」
「うん、分かった」
 志乃はミトが真由子を苦手としていることを知っていたので、時間を知らせてくれたのだろう。
 できればもう少し早く教えてほしかったが、動画に集中しすぎたミトが悪い。
 慌てて鞄に荷物を詰めて、足早に村長宅を後にする。
「しくじったぁ~。いつもは注意してたのに」
 雨に濡れる舗装されていない道は走りづらかったが、そんなことはかまわず駆け足で家に向かった。
 やはりスズメの言っていたように雨が降っている。念のために折りたたみ傘を鞄に入れていたのは正解だった。
 あともう少しで家に着くので、速度を緩めて息を整える。
 そんな油断しているところに、背後から高い女性の声が聞こえてきた。
「やだぁ、忌み子がこんなところにいる~。最悪だわ」
(……最悪なのはこっちです)
 そう心の中で呟いて、聞かなかったことにして家を目指す。すると……。
「ちょっと、なに無視してるのよ!」
 忌み子の分際で!と、まるで当たり屋のように絡んできた。
 しかもどうやらいたのは真由子だけではなく、いつも真由子をよいしょする取り巻き三人娘もいたようで、ミトの行く手を阻むと、あっという間に囲まれてしまった。
「なにか用ですか?」
 俯きながら問いかけると、あろうことか真由子に髪の毛の根元近くを掴まれ引っ張られる。
 傘が地面に落ちるとともに、ブチブチと髪の毛が数本抜けた音がし、ミトは痛みに顔を歪めたが決して抵抗はしなかった。
 言葉だけでなんとかしようとする。
「やめてください」
 しかし、そんな言葉だけでやめてくれるような性格だったら、ミトはここまで真由子を苦手としてはいないだろう。
 むしろミトが痛がっているのを楽しむように嗤った。
「あはははっ、忌み子がなんか言ってるわね」
「聞こえなーい」
「無様よねぇ」
「もう一度言ってみなさいよ」
 取り巻き三人娘まで調子づき、ミトを嘲笑う。
「痛っ、痛い!」
「うるさいわね。これは教えてあげてるの。あんたに身のほどをね。私を無視したあんたが悪いんだから」
「くっ……」
 悔しい……。本当なら抵抗して暴れてやりたいが、もしそんなことしてやり返しても、真由子は村長に告げ口をしてさらにミトにやり返してくるだろう。
 両親の立場も悪くしてしまう。
 村長は真由子に甘いので、たとえ真由子が悪いことをしたうえでの正当防衛だとしても、ミトが悪いということになってしまうのだ。
 理不尽でしかないが、この村では真由子が絶対なのである。
 それを取り巻き三人娘も分かっているので、ミトを助けたりなんかしない。
 ようやくミトの髪を離した真由子は、手についたミトの抜けた髪を見て不快そうに顔を歪める。
「やだ、忌み子の髪がついちゃったじゃない。気味が悪い。呪われたらどうするのよ」
 呪いなんてない。
 大人たちだって不吉だとは言っても、呪われるなんて口にしているのを聞いたことはないのに、真由子はなにかとミトに対して呪われると騒ぐのだ。
「ほら、忌み子の髪よ」
 そう言って抜けた髪を取り巻きに向けて投げると、三人娘は「きゃー」と騒ぎながら逃げる。
「やめてよ、真由子ったら。汚いじゃない」
「消毒しなきゃ」
 不快な彼女たちの笑い声がミトの耳に嫌でも入ってくる。
 悔しくて、抵抗できないことが情けなくて、涙をこらえるように歯がみする。
 ぐっと握った手のひらに爪が食い込むが、その痛みがミトに冷静さを保たてさせてくれる。
 強くなっていく雨がミトを濡らしていく。
 すると、今度は背後から強く背を押されてしまい、踏ん張ることもできずに雨で濡れた地面に倒れ込んでしまう。
 ばしゃんと水飛沫があがるとともに、ミトの体を泥が汚す。
「きったなーい」
「さすがにひどいんじゃないの、真由子」
 ひどいなどと言ってはいるが、その声は心配とは無縁の楽しげなものであった。
「忌み子なんだからなにしたっていいのよ」
「そうよね、この村の疫病神なんだから」
「早く消えちゃえばいいのに」
 真由子たちは気が済んだのか、楽しそうにおしゃべりをしながら村長宅の方へと去って行った。
 ミトは静かに起きあがると、落ちて泥だらけになった鞄と傘を拾って我が家へと向かった。
 服は泥だらけ。膝は倒れた時に擦りむいたのか、ジンジンと痛い。
 それでもミトは奥歯を噛みしめて雨を滴らせながら家の中へ入った。
 そして、ようやく張り詰めていたものが解け、それとともに涙が頬を伝う。
「くっ……うっ……」
 決して声をあげたりしない。
 それはミトの最後の意地なのだろう。
 声を押し殺して泣いていると、家の中から昌宏が姿を見せた。
「おーい、誰か帰ったのか? ……ミト!?」
 昌宏はひどく驚いていた。
 それもそうだろう。服も鞄も泥だらけのひどい姿で泣いているのだから。
「ミト、どうしたんだ!?」
 聞かれてもミトは首を横に振るだけで答えなかった。
 けれど、村に長く暮らす者として、なにより父として、察するものがあったのだろう。
「真由子か?」
「…………」
「そうか」
 無言は肯定だった。
「だいじょ、ぶだから」
 嗚咽を我慢しながら、昌宏を安心させるべく無理矢理笑おうとしたが、頬が引きつったような笑みになってしまいうまくいかなかった。
 それが余計に昌宏の顔を暗くさせてしまう。
 昌宏はおもむろにミトを抱きしめた。
「お父さん。汚れちゃうよ」
「ごめん。ごめんな、ミト。俺たちのせいで」
「なんでお父さんが謝るの? お父さんはなにもしてないじゃない。悪いのは……」
 そう、悪いのは自分だ。
 花印などを持って生まれてきてしまったこと。それこそがそもそもの間違いなのだから。
 昌宏はミトの言わんとしたいることを察したように否定する。
「お前はなにも悪くない。悪いはずがないだろう!」
 昌宏の悲痛な声が、ミトを悲しくさせる。
 自分が生まれてきさえしなければ、ふたりは村人から厭われることもなく、幸せな家庭を作っていただろうに。
「こんな私が生まれて来ちゃってごめんね……」
 小さな小さなミトの懺悔の声は、確かに昌宏の耳に届き、抱きしめる腕が強くなる。
「お前は俺たちの大事な娘だ! 誰がなんと言おうと、それは変わらない。二度とそんなことを言うな! ミトでも許さないからな」
 昌宏の強い愛情が伝わってきて、ミトは小さく嗚咽しながら泣き続けた。
 落ち着きを取り戻してお風呂に入って出てくると、リビングでは帰ってきていた志乃が夕食を作り始めており、昌宏は救急セットを準備していた。
「ミト、怪我をしていただろう? 消毒するからそこに座りなさい」
「うん……」
 膝の擦り傷に吹きかけられた消毒液で痛みが走り顔が歪む。
 テキパキと治療を終えて、絆創膏を貼った昌宏は、なにも言うことなくミトの頭をわしゃわしゃと撫でた。
 志乃もミトがどういう状態で帰ってきたか昌宏から聞いているだろうに、それに触れることなくいつも通りでいてくれた。
 それがなによりありがたかった。

 その夜、いつものように波琉の夢を見た。
 真由子のことですっかり昨夜の告白のことを忘れていたミトは、様子のおかしな波琉に首をかしげ過ごした。
 夢から覚めてから、告白していたことを思い出して、二日連続でベッドのうえで身悶えたのだった。