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 いつからだろうか、その夢を見るようになったのは。
 小さな頃からだというのは確かだ。
 一番古い記憶で三歳ぐらいだったろうか。
 けれど、もっと前から見ていた気がするが、記憶は朧気で正確な年齢は分からない。
 これまでいろいろな夢を見てきた。
 空を飛ぶ夢、村の外に出る夢、龍花の町にいく夢。
 それらは目が覚めたらなんの夢だったかも忘れてしまうようなぼんやりとしたものだ。
 そんな中でとてもはっきりとした、まるで現実のことのように明確に覚えている夢があった。
 それはいつも決まっている。
 澄み渡る青い空と、どこまでも続く一面のお花畑。
 そして、お花畑の中にぽつんとたたずむ、銀色の髪をした紫紺の色の瞳の青年。
 銀色の髪はキラキラと輝き、彼自身もそれに負けないぐらいの綺麗な顔立ちをしていた。
 穏やかで優しそうな雰囲気の彼は、今の時代にはそぐわない和服を着ていたが、より彼を神々しく見せていた。
 幼い頃、ミトはこの世界は天国なんだと疑わなかった。
 それほどに美しい景色と、綺麗な青年は現実離れしていたから。
 それとは逆に、夢というにはあまりにも意識がはっきりとしていた。
 風が運んでくる花の香り、地面を踏む感触。それらすべてが夢ではないとミトに訴えかける。
 だからミトはここが夢なのか現実なのか判断ができていない。
 ただ、ここに来て思うのは、どうにかあの美しい青年と話しができないだろうかということ。
 ミトが青年に気付いたように、青年もまたミトの存在を認識していた。
 なので青年に向かって歩いて行こうとするのだが、まるで行かせまいとするように、いつも同じ場所で壁にぶつかる。
 まるで硝子のように見えない壁が、ふたりの間を阻んでいた。
 なんとかして行けないものかと悩んだミトは、その見えない壁を叩いたり蹴ったりしたがびくともしない。
 彼も何度か試みたのだろうか。
 幼いミトが壁に挑戦し続けるのを、無理だというように首を横に振っている。
 半ば意地になっていたミトは、壁から距離を取り、勢いをつけて体当たりをした。
「うりゃぁぁ!」
 しかし、まだ小さなミトの体は見えない壁に跳ね返されて尻餅をついてしまう。
「いたた……」
 その痛みすらまるで現実と相違なく感じてしまうのだから、いったいここはなんなのだろうか。
 顔をあげれば、心配そうに青年が壁に手をついてこちらを見ていたが、やはり青年もこちらには来られない様子。
 何度か見えない壁を叩いてから、残念そうに叩くのをやめてしまった。
 そんな青年を見て、心配をさせてしまったことが申し訳なくなる。
「大丈夫だよ」
 そう言ってにぱっと笑えば、青年はほっとしたように微笑むと、なにやら口をぱくぱくと開閉している。
 どうやらなにかしゃべっているようなのだが、この壁のせいなのか、お互いが話している声は聞こえないのだ。
 だから先ほどミトが言った『大丈夫』という言葉も向こうには聞こえていないはずだ。
 それでもどうにか意思の疎通をはかれないかと、この夢を見るたびに試行錯誤するがどうにもうまくいかない。
 せめて名前だけでも伝えたいのに。
 この夢はほんのひと時の間だけですぐに目が覚めてしまうので、ゆっくり考えている暇もないのだ。
 彼は誰なのか、名前はなんというのか、どこから来たのか。
 聞きたいことは山ほどあるというのに、壁と格闘している間に夢はすぐに終わってしまう。
 そして、いつもの自分の部屋で目覚めては、今日も無理だったと落ち込むのである。
「う~。次こそは」
 そうして気合いを入れて夜に備えるのだ。
 そして、また夢の時間がやって来る。
「うーん……」
 ミトは唸りながら、顎に手を置きグルグルとその場を行ったり来たり。
 今日はなにをやらかすのかと、青年は興味深げに見ていることにミトは気付いていない。
「はっ、閃いた!」
 ミトは一面に咲き誇る花びらをぶちぶちと毟っていく。
 ちょっとかわいそうだが、そもそも夢の中である。遠慮せずに摘み取り、その花びらで字を描いたのだ。
 ミトの名前、星奈ミトと。
 その文字と自分を交互に指差しながら、必死に自分の名前を青年に伝えると、ミトのジェスチャーで意図を理解できたのか、彼はこれまでにない優しい笑みを浮かべ何度も頷いた。
 そして、『ミト』と、その口が動いたように見えた。
 やっと伝えられた嬉しさが込み上げてくると共に、今度は青年の名前が知りたくなった。
「あなたの名前はなに?」
 自分の名前の文字と青年とを指差しながら青年を見れば、どうやら伝わったらしい。
 青年はミトと同じように花を手折り、文字にしていく。
 じーっと花を置いていく青年の手を見ていくとできあがったのは『波琉』という文字。
 まだそれほど漢字を知らない子供のミトは、読むことができずにこてんと首をかしげる。
「分からないよ」
 そう言って困った顔をするミトに気付いたのか、文字の横にさらに字を描く。『ハル』と。
「ハ、ル。波琉!」
 にこりと微笑んで、青年、波琉に向かって口を大きく開いてその名前を呼んだ。
 やっと青年の名前を知れたと、ミトはその場でぴょんぴょん跳びあがった。
 その日はそこで目が覚めてしまったが、起き上がってもその名前を忘れることはなかった。
「波琉」
 ベッドの上で忘れないようにもう一度名前を口にすると、込み上げてくる喜び。
 その日は異様にテンションの高い日となった。
 そんな波琉との夢の中でのみの交流はずっと続いていた。
 小学生になる年齢になっても、中学生になる年齢になっても相変わらず。
 変わったのは、ミトの姿だけだ。
 不思議なことに、ミトが幼子から十数年の年月が経っても、波琉の容姿が変わることはなかった。
 成長することも老けることもない波琉に、やはりこれは夢なのだと思わされる。
 そのことに残念な気持ちでいる自分がいた。
 ミトはいつしか、会話すらしたことのない波琉に恋心を抱いていたのだ。
 そのことに気付いたのはいつのことだったか。
 枯れた泉から少しずつ水が湧いてくるように、静かに想いは募っていった。
 これは夢なのに、なんて愚かなのだろう。
 思いを寄せても、この気持ちが報われることはないというのに。
 今日も今日とて優しげに微笑む波琉が憎らしく思ってしまうほどだ。
「私の気も知らないで」
 恨めしげにじとっとした眼差しを向けるミトに、波琉はこてんと首をかしげるのだった。
 そんな仕草すら、かわいい……。と思ってしまうミトは重症だと自分でも理解していた。
 これは夢なのだと。波琉などというのは、現実には存在しない夢の住人なのだと何度自分に言い聞かせただろうか。
 夢を見なくなってしまったらあきらめもつくだろうか。
 けれど、ミトはいつかそんな日が来ることを怖れている。
 どうかこの苦しくも幸せなひと時が終わらないでくれと願っている。
 そんなミトも十六歳となり、体つきも女性らしくなってきた。
 同じ年頃の子と比べて、多少発育不足な気がしないでもないが、これからだと自分を励ましている。
 波琉には自分がどう見えているのかが、最近気になることだ。
 年頃の女性となったミトを見て、なにか感じてくれているのだろうか。
 少しは女性として見てくれていたら嬉しいのに。
 しかし、これは夢なのだと考えてしまう自分もいて、そうすると波琉がいないことを認めてしまうようで、最近のミトは必死でそのことを考えないようにしていた。
 幼い頃と違い、背が伸びたことにより近くなった視線が合わさる。
 いつもにこにこと微笑んでいる波琉を見るたびに胸がぎゅっとしめつけられるようだ。
 この気持ちを直接伝えられたらどんなに幸せだろう。
 いや、変わらぬ笑顔で断られたら立ち直れないかもしれない。
 けれど、あふれ出てくる気持ちは時間を追うごとに大きくなっていって、ミトにもどうすることもできなくなってきていた。
「……好き」
 波琉を見ながらそう口にしてから、ミトは自分の発言に赤面する。
 顔を見られないように波琉に背を向け、熱くなった頬を手で隠す。
「なに言っちゃってるのよ、私ってば」
 自分で自分の発言が恥ずかしくてならない。
 壁があって幸いだった。
 こんなことを波琉に聞かれていたら、恥ずかしさのあまり死んでしまう。
 手でパタパタと顔を扇いで心を落ち着けてから振り返ると、そこには口を手で隠し顔を赤くしている波琉の姿があった。
「えっ」
 波琉はじっと見つめるミトの視線に恥ずかしそうにしながら、チラチラとミトをうかがう。
 そうなってようやくミトは思い出した。
 最近の波琉は読心術ができるようになったようで、ある程度ミトの言っている言葉が伝わるようになってきていたのだ。
 そして、その答えを波琉が花びらで文字を作って返してくれる。
 さすがに長文となると波琉も聞き取るの難しいようだが、ミトの言った『好き』の二文字ぐらいなら理解するのは容易い。
 つまり……。
 波琉は、先ほど思わず口からこぼれ落ちてしまった心の声が届いてしまったのである。
 意図せずして波琉に告白してしまった。
 それを理解した瞬間、瞬間湯沸かし器のように顔を真っ赤にしてミトは叫んだ。
「きゃぁぁぁ!」
 そして、夢はそこで覚める。
 ベッドから勢いよく起きあがったミトは、激しい動悸に襲われていた。
「ああ、どうしよう。私ってばなんてことを」
 夢であってくれ。いや、あれは夢の中の話なのだが、そうではなくて、夢のそのまた夢であってほしいという意味であって……。
 そんな風にミトの頭の中は大混乱になっていた。