一章

 都会から離れた奥深い山村。かろうじてライフラインが通っているが、信号もなく、夜になれば真っ暗になってしまうような小さな村で、ある夫婦がまさに出産の最中であった。
 部屋には夫婦と産婆、そして手伝いに来た近所の主婦もやって来ていた。
 これから母になる若い女性は、額に汗を浮かべながら産婆に促されつつ必死で力を入れる。
 女性にとっては、これが初めてのお産である。
 子供を取り上げてくれる産婆は幾人もの子供の出産を手伝ってきたベテランである。
 女性もまたこの産婆に取り上げられたひとりだった。
 なので、産婆に対する信頼は篤かったが、初産である以上、怖れがあるのは仕方ない。
 不安が当然ある中で襲ってくる、これまで感じたことのない痛みと苦しさ。
 それを、愛しい我が子に会いたいという強い想いで歯を食いしばって耐え忍ぶ。
 そばにいる夫である男性はオロオロしながら妻である女性の汗を拭っていた。
 そうしてようやく赤子が取り出され、赤子の泣き声が部屋に響くと、赤子を生んだ女性も、この度新しく父親となった男性も、ようやくほっと表情を緩めた。
「志乃、大丈夫かい?」
「ええ、あなた。それよりも赤ちゃんの顔が見たいわ」
 女性の体力は限界まで消耗していたが、自分の体よりも気になるのは、生まれたばかりの我が子のことである。
「ちょいと待ちなさい。慌てるんじゃないよ」
 産婆が生まれたばかりの赤子の体を優しく拭いていたが、不意にその手が止まった。
「これは……なんということだい」
 驚きと切迫感のあるその声に、夫婦はその顔に不安を露わにした。
「どうしたの? 赤ちゃんは?」
「なにか問題でもあったのか?」
 夫婦そろってその声には緊張が表れていた。
 めでたく父となった男性は妻から離れ、産婆に近付いていくと、産婆は柔らかなタオルで赤子を包みながら抱いている。
 その顔は強張っており、否が応でも男性に不安を与えた。
「なんだ、どうしたんだ?」
「これを見てみな」
 そう言って、産婆は赤子の小さな手を父となった男性に見せた。
 そこには、薄い朱色のアザが浮かんでいた。
 ただのアザではない。
 小さな手で分かりづらいが、その手の甲には確かに花の形をしたアザがあったのだ。
「そんな……」
 男性は衝撃を受けたように一歩後ずさり、手で口を押さえた。
 顔色を悪くする夫の様子に不安に襲われた女性は、身を乗り出そうとするも、うまくいかなかった。
「なに? どうしたの、あなた。赤ちゃんになにかあったの?」
 その間にも元気よく鳴き声をあげている赤子の声がいやに耳に響く。
「花の……アザが……」
「えっ? あなた、もう一度言って。よく聞こえなかったわ」
「子供の手の甲に、花のアザが浮かんでいる」
 それを聞いた女性は息をのんだ。
「そんな、まさかそれって……」
「花印。龍神の伴侶の証だ」
 女性は両手で口を押さえ、喉の奥で悲鳴を押し殺した。
 他にいた近所の主婦たちもにわかにざわめく。
「なんてこと。星奈の一族から花のアザを持つ子が生まれるなんて」
「不吉な」
「性別は?」
「女の子よ」
「よりによって、女の子だなんて。なにか悪い予兆ではないの?」
 新しい命が誕生したというのに、この場で赤子が無事に生まれたことを喜んでいる者はいなかった。
 両親ですら、その顔には喜びではなく、戸惑いと怖れが浮かんでいた。
「あなた……」
 すがれるものを探すように、女性の手が男性に伸ばされる。
 男性は強張ったままの表情で、その手を握った。
 男性自身もなにかにすがれるものが必要だというように。
「赤ちゃんを見せて。お願い」
 震える声で、女性は懇願する。
 自分の目で確かめなくては信じられなかったのだ。
 自分の子がよりによって花の印を持っているなんて。
 いつの間にか、手伝いに来ていた主婦たちは部屋からいなくなっていた。
 きっと村長に知らせに行ったのだと心の隅で思っていたが、夫婦はそんなことを気にしていられる状態ではなかった。
「ゆっくりだよ」
 産婆はさすが年の功か、冷静さを取り戻し、赤子を女性へと渡した。
 女性は赤子の小ささに嬉しさが込み上げてきたが、それと同時に赤子の手の甲にある花の形をしたアザが目に入ってくる。
「本当に花のアザだわ」
 女性は今にも泣きそうな顔で赤子の手を取り、その手の甲をじっくりと見つめた。
 どうか勘違いであってくれと願いながら、指で赤子のアザを擦る。
 けれど、その願いは無情にも崩れ落ちる。
 何度擦ってもそのアザが消えてなくなってくれることはなかった。
 ぽたりぽたりと意図せずして涙がこぼれ落ち、その雫が赤子の頬を濡らす。
 それはこの子のこれからの未来を案じてのもの。
「どうしてよりによって私たちの子が……」
 男性はかける言葉が思い付かず、ただ女性の肩を抱くことしかできなかった。
 想いは男性も同じなのだから。
 その時、きっゅと指を握った。
 小さな手で、しっかりと母である女性の指を掴んだのだ。
 その手の温もりは確かに自分たちの子が生きていることを感じさせられた。
 あふれ出てくる『愛おしい』という想い。
 またぽたりとひと雫の涙が落ちた。
 その時、扉が開かれると、数人の男たちが無遠慮にずかずかと部屋に入ってきた。
 その筆頭にいるのは、この星奈の村の村長である。
 この村での絶対権力者。彼に逆らえる者はこの村にいない。
 きっと、主婦たちから話を聞いて慌てて確かめに来たのだろう。
 花の印を持つ子が生まれたのか否か。
 とっさに女性は赤子を隠すように抱きしめる手に力を入れた。
 男性もまた、妻子を守るように前へ出た。
「村長……」
「花印の子が生まれたというのは本当なのか?」
 厳しい表情と声色で詰問する村長に、夫婦は気まずそうに視線を外す。
 それがもう答えだった。
「なんてことだ。この星奈の一族に忌み子が生まれるなんて」
 頭を押さえ、深いため息をつく村長に、女性は必死で訴えた。
「村長、けれどこの子は私たちの大事な娘です。どうかこの子を受け入れてください」
「お願いします!」
 まだベッドから起き上がれない妻に代わり、男性がその場で土下座をした。
 女性も赤子を抱きながら必死で頭を下げる。
 そんなふたりにかけられたのは、非情な言葉。
「お前たちの娘だ。お前たちが育てることは許そう。だが、国に届け出ることは許さん」
 勢いよく男性が顔をあげる。
「えっ、ですが、花の印を持つ子は、国に報告義務があります」
「ならん!」
 厳しい怒鳴り声に、夫婦は体を震わせる。
「そんなことをしては、いつなんどきその娘の存在が知られるか分かったものではない。表向きはこの国に存在せぬ、日陰の者として育てるのだ。それができぬのなら、お前たちから引き離すしかない」
「そんなっ!」
 夫婦にとって待ちに待った子供である。
 生まれてすぐに引き離されるなど苦痛以外のなにものでもない。
 それに、引き離された後、赤子がどんな仕打ちを受けるか、考えるだけで怖ろしい。
 それだけは絶対に避けなければならないと強く思った。
「……わ、分かりました」
 そう答えるしかなかった。
 それこそが唯一我が子を守る選択だったから。
 涙をのんで答えた苦渋の決断を聞くと、もう用はないとばかりに村長たちは部屋から出ていった。
 産婆も悲しげな視線を向けながらも、そのままなにも言うことなく部屋を後にした。
 残ったのは、表情を曇らせる夫婦と、まだなにも分かっていない、純真無垢な赤子だけ。
「あなた、今から龍花の町に駆け込んで助けを求めたらどう? 私はまだ動けないけど、あなたなら。そうしたらこの子の存在を知らせることができるわ」
「無理だ。村長も馬鹿じゃない。そうすることを考えて監視を置いているはずだ。俺が行動を起こしたら、その場で赤ちゃんを取られてしまう」
「そんな……。じゃあ、この子はこのままこの村で暮らさなければならないの? そんなのってないわ。……この子はこれからどうなるの?」
 不安そうにする女性に男性は無理矢理微笑んだ。
「ミトなんてどうかな?」
「えっ?」
 女性はなんのことを言っているのか分からずに目を丸くする。
「赤ちゃんの名前だよ。ずっと考えてたんだ。女の子ならミトにするって。漢字じゃなくてカタカナでミト。かわいいだろう?」
 男性が、絶望とも言えるこの空気を変えようとしているのが分かったためか、女性もその顔に笑みを浮かべた。
「そうね、すごくかわいいわ」
「だろう?」
 男性は女性の肩に手を回して、赤子の顔を覗き込む。
「今日から君はミトだ。ミト、お父さんだぞう」
「まだ分からないわよ」
 くすりと笑う女性ごと、男性は抱きしめた。
「俺がお父さんだ。だからなにかあっても絶対に守ってみせるから。だから……っ」
「あなた……」
 男性の目には涙がにじんでいた。
 けれど、決してこぼれ落ちることはなかった。
 それがせめてもの父親としての矜持だったのかもしれない。
 村長に対して反論することも逆らうこともできなかった情けない親だけれど、それでも、この小さな命を守れるのは自分たちだけだと心に刻みつけるように、赤子の頬をそっと撫でる。
「守ってみせる」
「ええ。私たちの子ですもの」
 普通ならば、花の印を持つ子が生まれたら、それはもう大騒ぎになる。
 それは悪い意味ではなく、いい意味でである。
 間違っても忌み子などと言われるはずがないのだ。
 それなのに、よりによってこの星奈の一族に生まれたばかりに、忌み嫌われてしまうことになる。
 他の家に生まれていれば、一族をあげてお祝いをしていただろうに。
 花のアザ。龍神の伴侶の証。
 今後ミトはそれを隠していかなければならない。
 そればかりか、国に届けを出すことを許されなかった。
 それはつまり、戸籍もなく、ミトという存在はここにいながらにして生きていない存在ということになる。
 それが今後ミトの将来に大きな障害となることは、嫌でも想像できた。
 けれど、星奈の一族である以上は、村長の言葉に逆らうことができなかった。
「情けない親でごめんよ。けれど、忘れないでくれ。俺たちは君が生まれてきたことが嬉しいんだ。かわいい俺たちのミト」
「そうよ。私たちだけはずっと味方だからね、ミト」
 夫婦の腕の中には、すやすやと穏やかな表情で眠る赤子がいた。