その後、波琉の心配は的中してしまい、次から次へと花印を騙った少女が現れた。
 少女の年齢が年若いことから、保護者の責任は明白。
 だが、中には親に内緒で自分から名乗り出る者もいる始末。
 欲深い人間は後を絶たないものだと、偽物がやってくるたびに、波琉はため息が尽きない。
 もしこれがミトだったなら、偽物でも本物と言ってしまう自信がある。
 むしろ偽物として来たりしないかななどと、波琉は空想していた。
 そんなことはないと分かりつつ。
 それにしても、ここまで偽物が多いとは思わなかった。
 やはり紫紺の王の伴侶というブランド力は、人間にはとてつもない価値があるのだろう。
 最初の親子のように、花印に神気をまとわせてくる者もいれば、そんなことすら知らずにアザだけ似せてくる愚か者もいた。
 尚之などは、偽物と分かるたびに自らハリセンと頭を波琉に差し出して、「けじめをつけさせてください」と、言ってくる。
 別に波琉は尚之のせいとは思っていないが、神薙本部の不始末によって情報が漏れたことが原因なのは間違いない。
 情報を漏らした者も、現在調査中とのことだが、龍花の町の中にある神薙本部は、神薙と龍神、そして一部の人間しか入れない警備の厳重な場所だ。
 犯人を絞るのは簡単そうだが、捜査は難航しているらしい。
 そわなところも尚之は申し訳なく感じているのだろう。
 執拗に叩かれることを望む尚之に、本人の気が収まるならと遠慮なくスパーンと叩くことにしているのだが、なにやら最近尚之の肌つやがよくなってきているのは気のせいだろうか。
 後退していた頭部も、心なしか毛が生えて白髪が減ってきたような……。
 叩く時に少し神気が漏れてしまっていたのかもしれない。
 神薙の間では、紫紺様にハリセンで叩かれると若返るという噂がまことしやかに囁かれるようになったと蒼真が教えてくれた。
 最近しわが気になってきた者や、頭部が寂しい年寄りの神薙を中心に、紫紺様に叩いていただけないだろうかと、相談されようになって面倒くさいと、蒼真から苦言を呈される。
「なにしたんですか?」
 そう問われても、波琉もさっぱりだ。
 波琉は普通に叩いたつもりだったのだから。
 尚之は味をしめたようで、ことあるごとにハリセンで叩かれることを望むようになった。
 上目遣いで頬を染めて「どうぞ好きなだけ叩いてくださいませ」とハリセンを差し出す尚之に、神薙のチェンジは可能だろうかと本気で考えてしまった。
 じじいにそんな恋する乙女のような目で見られても嬉しくない。
 神薙の試験に十回落ちたという蒼真の方がましである。
 そんな日々をすごしていくにつれ、夢の中のミトからは幼さが抜け、大人っぽくなっていった。
 まるで蕾が花開くように綺麗になっていくミトに、波琉は言葉にできない想いが募る。
 黒というよりは濃い茶色の長い髪は、緩いクセがあり、大きな焦げ茶の瞳はくりくりとしていて、華奢な肩は庇護欲をかき立てる。
 その笑顔は波琉を喜ばせると同時に、心を落ち着かなくさせる。
 ミトに自分はどう見えているのだろうか。
 少しは好意を持ってくれてはいるだろうか。
 最近はそんなことばかりを考える自分に、波琉は胸を痛める。
 この距離がなんとももどかしい。
 この壁を越えていけたらどれだけ嬉しいだろうか。
 そう感じるとともに、壁があってよかったとも思うのだ。
 もしミトに触れてしまったら、きっと自分は止まれなくなるだろうから。
 この夢を見始めてもう十六年の月日が経った。
 波琉にとっては、これまで感じたことのないほど長く、それでいてあっという間に感じた十六年だった。
 人間の成長は早い。
 ここらが潮時なのではないかと、波琉は思っていた。
 これ以上ミトと一緒にいては、戻れなくなってしまう。
 そう、頭の中で警戒音を鳴るのが分かるが、どうしても自分から引くことができずにいた。
 かと言って、このままミトが老い、いなくなってしまうのが怖い。
 その感情は、遙か時を生きる波琉が初めて感じる感情だった。
 人間界に来たことで見始めた夢。
 ならばきっと天界に戻れば見なくなるだろう。
 そもそも睡眠を必要としない龍神なのだから、夜に眠りさえしなければ夢を見ることはないのだ。
 波琉はあと一度、もう一度と、少しずつ決心を固めたいっていた時、それは突然に告げられた。
 じっと見つめるミトが、焦げ茶色の瞳に熱を帯びながら、波琉に向かって言ったのだ。『好き』と。
 最初すぐには理解することができなかった。
 読唇術をかなり習得した波琉に、その短い言葉は間違いなく読み取れたのに、頭が真っ白になった。
「好きって……ミトが、僕を?」
 ここにはミト以外に自分しかいないのだから、それが波琉に向けられた言葉に間違いない。
 それが親愛という意味での好きではないことは、恥ずかしそうに後ろを向いたミトの様子を見ていれば分かる。
 意味を理解すると、次に波琉を襲ってきたのは、どうしようもない歓喜。
 今きっと自分は真っ赤になっていることだろう。
 それほど、自分の意志ではどうにもならない熱が顔に集まっていた。
 躍りあがりそうになる心を抑えつけるのがやっとだった。
 こんな緩んだ口元をミトには見せられないと手で隠す。
 そしてようやく振り返ったミトは、波琉の様子に顔を赤くしてなにかを叫んでいたのだった。
 そこで目を覚ました波琉は布団から起きあがることもできず、むしろ掛け布団を頭までかぶり、嬉しさと恥ずかしさに打ち震えた。
 この気持ちをなんと表現したらいいのだろうか。
 この想いの名を波琉は分かっている。
 これまでは気付いていないふりをしていたが、もう隠してはおけない。
 愛おしい……。
 花印を持つ者ではなく、ミトが欲しい。
 けれど、花印を持たない人間の魂を天界に連れていくことはできない。
 それは紫紺の王である波琉だとしても変えることのできない決まりである。
 ならば、せめてこの龍花の町にいる間だけならば……。
 波琉の力ならば、ミトを天界に連れてはいけなくとも、龍花の町に住まわせることはできる。
「ミトが先に告白してきたんだし、問題ないよね」
 波琉は自分がちょっとばかり暴走していることは百も承知だったが、止まることができなかった。
 波琉は早速尚之と蒼真を呼び出した。
「お呼びとのことですが、いかがいたしましたか?」
 波琉がわざわざふたり同時に呼び出すことはこれまでなかったので、尚之も蒼真も少し身構えているようだった。
「うん、花印のことなんだけどさ、もう来ても追い返してくれる? たとえ本物でも」
「ええ! なぜでございます!?」
「この十六年やって来るのは偽物ばっかりでしょう? 嫌気が差しちゃってね。もう花印の子に興味がなくなっちゃったんだ」
「そ、そんな!」
 突然の告知に、尚之はわたわたしていたが、蒼真の方は「だよなぁ」と納得した表情。
 龍花の町に来た当初は頼りなさげだった蒼真も、この十六年でずいぶんとしっかりしてきた。
 最初にあった触れたら切れるようなとげとげしさも、若干和らいだ気がする。
「いや、しかし、ですが……」
 言葉が続かずに、いかにして波琉の考えを変えさせようかと策を巡らせているのがよく分かる表情だ。
 動揺する尚之に代わり、蒼真が問いかける。
「では、紫紺様は天界に戻られるということでしょうか?」
「うーん、それなんだけどねぇ。こちらの要求を聞いてくれるなら、あと一度だけ花印候補の子に会ってもいいよ」
「ほんとでございますか!」
 尚之がずいっと身を乗り出してくる。
「ほんとほんと。けど、僕のお願いを聞いてくれたらね」
「なんなりとおっしゃってください」
 その言葉を波琉は待っていた。
「星奈ミトという十六歳前後の女の子を連れてきてほしい」
「ほしなみと?」
「女の子?」
「うん、こんな字」
 そう言って、波琉は紙に書いた『星奈ミト』という文字を見せる。
 それを見てもピンとこなかったのか、尚之と蒼真は不思議そうにした。
 それもそのはず。波琉はこの十六年、この屋敷の敷地から一歩も外には出ていないのだから。
 波琉と関わりがあったのは、神薙である尚之と蒼真、そして数人の使用人だけだある。
 これまで花印を持つ子が現れても大きな興味を見せなかった波琉が、自分から会いたいと言い出す人物とはどんな者か。
 あいにくと、ふたりの記憶の中に該当する者はいなかった。
「失礼ですが、紫紺様。その娘はどういう方ですか?」
「そもそも紫紺様との接点は?」
「ミトは僕のとっても大切な子だよ。どこで出会ったかは教えてあげなーい。で、どうする? 連れてきてくれるの?」
 尚之と蒼真は互いに視線を合わせると、こくりと頷いた。
「かしこまりました。その娘を連れてくることで最後のチャンスをいただけるのであれば、連れてこぬわけにはいかないでしょう。それで、どこに住んでおられるのですか?」
「さあ?」
「さあって、名前以外にご存知のことは?」
「ないかな」
 これには尚之と蒼真は絶句した。
「どこの誰とも知れぬ者を連れてこいと」
「うん」
 なんの悪意もなくにっこりと肯定する波琉に、尚之と蒼真はそろってこめかみを押さえた。
 その仕草はさすが血縁関係を感じさせるほどよく似ていた。
「名前とだいたいの年齢が分かれば、君たちなら探せるでしょう?」
「まあ、そうですな」
「できなくはないですけどね、戸籍を調べれば一発ですし」
 そんな蒼真の表情には、ありありと『面倒くせえ』という心の声が浮かんでいた。
「じゃあ、頼んだよ。ミトを連れてくるまで僕は花印の子とは会わないからね。それに花印の子に会うのはこれが最後だから、慎重に選んだ方がいいよ」
「はいはい。そっちの方は神薙の本部がなんとかするでしょう。俺は戸籍に照会をかけてみます。くそじじいは神薙本部にこのこと話して、花印の調査してくれ」
「ちゃっかり簡単な方を取りおってからに。だがまあ、本部の狸どもを納得させるには、お前ではまだ力量不足か。それでは紫紺様、御前失礼いたします」
「うん。よろしく~」
 ひらひらと手を振って部屋を出て行くふたりを見送った波琉。
 しかし、一時間もしないうちに蒼真が戻ってきた。
「あれ、早いね。もうミトは見つかった?」
 しかし、蒼真の表情はどことなく固い。
「その娘なんですけど、実在している人物ですか?」
「どういうこと?」
「戸籍を調べたのですが、十六歳前後で星奈ミトという者はいませんでした」
「えー、そんなはずないよ」
 波琉がミトと会っていたのは夢の中だ。
 普通なら夢と現実を一緒にすることはないだろう。
 けれど、ミトは現実に存在している。決して夢の中の空想の存在ではないと確信していた。
 それは龍神の勘といったものかもしれないが、間違いなく生きた者の魂の力をミトから感じていたのだ。
 なにかのきっかけで、波長の合った自分とミトが夢を通してつながったのではないかというのが、波琉の見解である。
「もっとよく探してみて。ミトは絶対にいるから」
 しかし、数日かけてどこをどう探しても、『星奈ミト』という存在は見つけられなかったのである。
 機嫌を悪くする波琉の前で、ふと尚之は思い出した。
「星奈と聞いて思い当たることがひとつあるのですが……」
「なに?」
「百年ほど前、金赤様の勘気に触れ龍花の町を追放された一族の名前が、確か星奈という姓だったはずです」
「あー、それは俺も昔聞いたことがあるかも。禁句扱いになった追放された一族の話」
 ミトと同じ星奈の名前。ミトの手がかりがない以上、それにすがるしかない。
「追放された理由は?」
「先ほども蒼真が口にしましたが、星奈の一族のことは、龍花の町では禁句扱いなのです。それほどに金赤様の怒りに触れ、金赤様のご命令で星奈の一族は龍花の町に立ち入ることを禁止されております」
「じゃあ、もしミトがその星奈の一族だったらここには連れてこられないの?」
「いえ、同じ位に立たれる紫紺様がお認めになるのでしたら問題ないかと。龍花の町の決まりでは、現在この町にいらっしゃる龍神様の中で最も格の高いお方の命令が優先されますので。まあ、紫紺様がお探しの娘が本当に星奈の一族であればの話ですが」
 波琉は一瞬考え込んでから、尚之に目を向ける。
「星奈の一族の居場所は分かるの?」
「ええ、少しお時間いただければ調べれることは可能でしょう」
「ならすぐに調べて、現地に行ってミトという子がいないか見てきて。もしもミトがいるならこの町への立ち入りを許可する」
「かしこまりました。特定次第行って参ります。蒼真が」
「はっ、俺!?」
 名指しされた蒼真はぎょっと目をむいた。
「当たり前だろう。私は花印の方の選定に忙しい。そもそもお前が決めたなんだから最後まで責任を持たんか」
「今から変わるからじじいが行けよ」
「いやだ。星奈の一族は山の奥に逃げたと伝わっている。そんなところに足腰の弱った老人を行かせようとするとは、なんたる爺不幸者だ」
「たしかに尚之の言う通りだ。行ってくれるよね、蒼真?」
 波琉はハリセンをペシペシと手で叩きながら笑顔ですごむ。
「ははは……まじか」
 蒼真は頬を引きつらせながら『是』と言うしか道は残されていなかった。