夢を見始めて十三年ほどの月日が経った頃、波琉はミトの様子がおかしいことに気がついた。
 どこか元気がないというか、無理矢理笑っているようにも見えた。
 それはその日だけでなく何日も続き、けれど、ミトが波琉になにかを言ってくることはなかった。
 悩みがあるなら教えてくれればいいのに。
 知ったからとて、波琉になにかできるわけでもないが、ミトのことに関して知らないことがあるのがなんとなく許せない。
 言い出してくれるのを待っていた波琉だったが、日に日に笑顔が少なくなっていくミトに、波琉の方が我慢できなくなってしまった。
『ミトの心を教えて』
 花で綴ったその文字は、波琉の心からの願いだった。
 その直後、くしゃりを顔を歪ませてミトは泣き出した。
 壁の向こうで泣き叫んでいることが分かったが、波琉にはその涙を拭ってやることもできない。
 それがとてももどかしい。
 読唇術を多少身につけた波琉がミトの口を見て読み取れたのは、『忌み子』、『違う』、『仲間はずれ』の短い単語。
 それだけではミトになにがあったのか理解してあげることはできなかった。
 乱暴に涙を拭うミトの頭を撫でてやりたいのに、波琉の伸ばした手は壁に阻まれてしまう。
 このあふれてくる言いようのない気持ちはなんだろうか……。
 波琉は再び花を摘んで文字を作った。
『僕はミトの味方』
 そんなことしか言えない自分の力のなさをを嘆いたことは初めてかもしれない。
 ミトといると、波琉はいろいろな感情を知っていく。
 それは不思議な感覚でありながらも、けっして不快なものではなかった。
 残念ながらその日のミトとの時間はそこで終わりを告げてしまった。
 日中、ミトのことで頭がいっぱいで、やきもきとした気持ちでいた波琉の部屋に、慌ただしく尚之が入ってくる。
「紫紺様ぁぁ!」
 もっとミトの言葉を読み取れるようになるべく、読唇術の勉強中だった波琉は、やれやれと思いつつ仕方なく手を止めた。
「どうしたの?」
「紫紺様と証を同じくするお方が見つかりましてございます!」
「証?」
 きょとんとする波琉に、尚之はどうして分からないんだと言いたげな表情。
「花印のことでございますっ!」
 すっかりさっぱり忘れていた波琉は、どうでもよさそうに「あー」と、今思い出したというような気のない返事をした。
「どうしてもっと喜ばれないのですかぁぁ。やっと伴侶とお会いできるというのにぃ」
「うーん、だって正直どうでもいいし」
 そんなどこの誰とも分からない者より、ミトの方が大事だと波琉は口に出さないまでも断言する。
 今頃あの子はどうしているだろうか。
 また泣いてはいないだろうか。
 今、波琉の頭の中をいっぱいにしているのはそんなことばかりだ。
「そうおっしゃらずに、とりあえず会ってみてくださいませぇぇ」
「えー、今途中なんだけどなぁ。また今度でいいんじゃない?」
「お会いしてくだされば、読唇術が得意な教師をお呼びいたしましょう」
「…………」
 波琉が無言で尚之を見る。
 その目はなんでもっと早く連れてこなかったんだと訴えていたが、尚之はさっと視線を逸らした。
 龍花の町は人の出入りが厳しく管理されている。
 それ故、教師を願おうにも、そう簡単に連れてこられるものではないことを波琉は承知していた。
 読唇術などという特殊技能を持つ者は、小さなこの町にいないと思い、独学で取得しようとしていたというのに……。
「読唇術ができる教師がいるの? この町に」
「神薙の試験のひとつでございますので、神薙ならば誰でもできます」
「聞いてないんだけど」
「聞かれておりませんので」
 しれっと答える尚之に、波琉はじとっとした眼差しを向ける。
 結構いい性格をしているようだ。
 蒼真が尚之のことを『くそじじい!』と怒鳴っている気持ちを、今の波琉なら心から共感できる気がした。
「会えばいいの?」
「はい! もう先方はお待ちです」
 にっこにことした顔で尚之は、波琉の外套を彼の肩にかける。
 波琉も仕方ないと、しぶしぶ立ちあがった。
「どこ?」
「応接間にてお待ちです」
「どうして今まで見つからなかったの?」
「どうやら母親が外国の方で、花印についてよく知らなかったようです。花印は日本独自のものですからなぁ。仕方のないことですが、母親はただのアザと思っており、女の子にアザがあるのはかわいそうだと、常に絆創膏で隠していたのを、国外へ単身赴任していた日本人の夫が帰国したことで発覚したようです」
 それはなんともお粗末すぎないかと、波琉はあきれる。
 国外に単身赴任していたと言ったって、一度も帰ってこなかったわけではないだろうに。
「父親は勤めていた会社をクビになったそうで、家族ともにこの龍花の町に越してくることを希望しています」
「その父親大丈夫なの?」
 花印を知らなかった母親は仕方ない気がするが、十三年も気付かない父親は問題だろう。
 しかもここに住むということは、暗に職の斡旋を希望しているということ。
 会社をクビになってすぐに娘が花印だと分かるなんて、都合がよすぎるのではないか?
「信用できるの?」
 そう、波琉が聞いてしまうのも無理なかった。
「確かにアザは確認してございます」
「ふーん」
 波琉はあまり乗り気ではなく、同じ印を持つからといって、その者を伴侶にするつめりなどさらさらなかった。
 けれど、瑞貴からも言われているので、一応顔を合わせておく必要があるだろうと、重い足を動かす。
 上機嫌の尚之には悪いが、波琉はすでに断るつもり満々だった。
 波琉が断れば、波琉の庇護を受けることはできないが、花印を持つ者として大事には扱われるだろう。
 それで満足してもらうしかない。
「こちらでございます」
 尚之がすっとふすまを開き中へ入ると、畳に置かれた座布団に座る三人の男女が、ぽかんとした表情で波琉を見あげていた。
 龍神という者は人間に比べれば容姿が秀でているのでその反応は全然おかしなことではない。
 龍神を初めて目にした者ならだいたいが似たような反応をするだろう。
 しかし、自分の顔をじっくりと見られるのはあまり気分のいいものではなかった。
 波琉の不機嫌そうにしかめられた眉に気がついた尚之が、軽く咳払いをすると、三人の男女は我に返ったように波琉に頭を下げた。
「君が僕と同じ印を持つ子かな?」
「はい!」
 両親を挟んで真ん中に座っていた、ミトと同じ年頃の少女が元気よく答える。
 自然とミトとを比べてしまうのはいたしかたない。
 波琉にとってもっとも身近な少女はミトなのだから。
「見せて」
「はい!」
 少女は右の手の甲を波琉に差し出した。
 そこには確かに波琉のアザと似たアザがあった。
 そう、似たアザが。
 途端に目を細める波琉から、強い神気があふれ出す。
 それは神気を感じ取れる神薙である尚之だけでなく、只人である親子ですらも飲み込み、畏怖させた。
 ガクガクと体を震わせる少女に、波琉はそれまで尚之が聞いたことのない冷たい声を発した。
「ねぇ、馬鹿にしてるの?」
「あ、あ……」
「気付かないとでも思った? そう思われているほど龍神は愚鈍だとでも?」
 親子は怯えるばかりで答えない。
 思わずひれ伏したくなるような威圧感の中、尚之が波琉の前で頭を下げる。
「紫紺様、いかがなされましたのか? なにか至らぬところがございましたでしょうか」
 尚之も、この身を震わせる神気を前にして、そう問いかけるのがやっとだった。
 すると、波琉は怒りの矛先を尚之へと変えた。
 すぐそばで感じる神の怒りは、尚之に“死”を連想させる。
「本気で言ってるの? 僕が怒ってる意味が分からない? ねぇ、これが花印だと、神薙である君はそう言うのかい?」
「えっ……?」
 尚之は、波琉の言葉にすぐ反応することができなかった。
 波琉は尚之の横を通りすぎ、少女の前に立つと、彼女の右腕を持ちあげた。
「や……いや……」
 怯える少女は、両隣の両親に助けを求めるように視線を向けるが、神気の前の怖ろしさに身動きができない様子であった。
 波琉は、少女のアザのある手の甲を何度か擦る。
 すると、アザが綺麗に消えてなくなったのである。
 これには尚之も目をむく。
「なんと! こ、これは……。これはどういうことだ! 神を謀ったのか!?」
 尚之は、少女の父親に向けて激しく問いただす。
 そうすれば、父親はガタガタと体を震わせながら頭を畳に叩きつける勢いで頭を下げた。
「申し訳ございません! 申し訳ございません! 申し訳ございません!」
「それだけでは分からん! どういうことか説明せよ!」
 ひたすらに謝る父親と、説明を求める尚之。
 そのふたりを冷めた眼差しで一瞥すると、掴んでいた少女の手を投げ捨てるように離し、波琉は私室へと戻った。
 しばらくして、尚之が申し訳なさそうに部屋に入ってくる。
「紫紺様、このたびは……」
「謝罪はいいよ。どうしてこうなったか教えて」
「は、はい!」
 いつも通りの穏やかな波琉に戻っていることにほっとした顔をしつつ、尚之はたたずまいを直す。
「どうやら、一部で紫紺様の印の情報が漏れていたようです。それにより、紫紺様のアザの形を知った先ほどの父親が、娘の手に刺青を施して偽装しようと考えたと申しております。会社をクビになり、借金をしていたことから、紫紺様の伴侶となれば贅沢な暮らしができると、浅はかな考えで行動したようです。彼らは警察に引き渡しました。我が国において、花印の偽称は法で裁かれることになっております。厳罰に処されることになりますので、それでどうか矛を収めてはいただけないでしょうか……」
 尚之は波琉の顔色をうかがいながら、深く土下座した。
「いいよ」
「えっ?」
 返ってきたあまりに軽い口調のその声に、尚之は一瞬呆ける。
「僕もちょっと怒りすぎたかなって反省していたんだ。ちゃんと対処するというなら、彼らのことはそちらに任せる」
「あ、ありがとうございます!」
「けれど、僕の印の情報が漏れているなら、今後も似たようなことが起こるんじゃないかな? それはどうするの?」
「そのことなのですが、紫紺様はどうしてあの一瞬で偽物と見分けることができたのですか?」
 アザを持つ子供は、それが本当に花印か、厳しい調査がなされる。
 いくつもの調べに合格した者が、晴れて花印と認められるのだ。
「花印からは、わずかだけど神気が感じられる」
「それは神薙ならば全員承知しております。今回の娘のアザにも神気を感じられたからこそ花印と認められたのです。なぜ偽物のアザから神気が感じられたかは現在調査中ではありますが……」
「その神気は、証を持つ者と同じ性質をしたいるんだよ。部屋に入ってすぐに、自分とは別の神気を感じたから僕とは違うことは分かったけど、アザを見て花印自体から発せられたものじゃなく、後付けされたみたいな違和感を覚えたから、これは偽物だなって判断したんだよ。まあ、神薙だとしても、人間にはそんな細かい違いを見分けるのは難しいかな?」
「そうでございますな。私たちには、龍神様方の気はだれもが強く大きく、その神気の違いまでは分かりません。ましてや、後付けされたかどうかまでは……」
 尚之も困ったように眉を下げる。
 これはゆゆしき事態だ。
 神の印は厳重に管理されているはずなのだ。
 それは今回のような、同じアザを持っていると騙った偽物が現れないために。
 それなのに、よりによって最も貴い紫紺の王の印の情報が漏れてしまった。
 しかも、神気をまとわせるという小細工までして。
 きっと……。
「きっと今後も現れそうだねぇ」
 尚之の心の声を代弁するかのように、波琉が言葉を発した。
 とは言え、その声色は尚之の思いとは真逆の呑気なものだった。
「おそらくは。しかし、我々では見分けがつきませんので、片っ端から紫紺様にお会いしていただくしか方法がございません」
「うわぁ、面倒くさいことになった」
 波琉は嫌そうに顔を歪める。
「どうかお願いたしますぅぅ」
 尚之には頼むことしかできない。
 そのためならいくらでも頭を下げるだろう。そんなもので神の勘気から逃れられるのなら。
 波琉は仕方なさそうに深いため息をつく。
「しょうがない。その代わり、読唇術を教えてくれる先生を頼んだよ」
「承知いたしました! 不肖この私めが教鞭を執らせていただきます」
「えっ、君が先生? すごく不安なんだけど」
「お任せください!」
 自信満々でドンと胸を叩く尚之には悪いが、あまり信用していない。
 いないよりましかと、波琉は再びため息をついた。
 その日夢に見たミトはいつもの元気を取り戻していて、笑いかけてくるその笑顔に波琉の心も穏やかになった。
『アリガトウ、ハル』
 と、作られた文字を見て、自分はミトの力になれたことを知り嬉しく感じる。
 にこりと微笑むミトに、やはりミトには笑顔が似合うなと思いながら、波琉は無意識のうちに手を伸ばしていた。
 しかし、それはミトに届く前に見えない壁にぶつかってしまう。
「つっ」
 変なぶつけ方をして、一瞬痛みが走ったが、その痛みが波琉を我に返らせた。
 ミトが心配そうに『大丈夫?』と口を動かしていたが、それに反応を返すどころではなかった。
「なにをやってるんだ、僕は……」
 自問しながら、波琉は思ってしまったのだ。
 昼間やって来た少女と同じ年頃のミトを見て、花印を持っているのがミトならいいのにと。
「そんなはずがないのに……」
 ミトの手を見てみれば、そこにはアザもなにもない。
 だが、そこでふと気付く。
「そう言えば僕のアザが消えてるな」
 花印が浮かんでいるはずの手の甲には、あったはずのアザがなくなっていた。
 これがなにかを意味するのか、紫紺の王である波琉をもってしても分からない。
 まあ、なくても困るものではないので問題ないかと波琉は気にはしなかった。