二章

 そこは龍神が住まう天界。
 龍神とひとくくりに言っても、龍神の中には格の優劣は存在する。
 龍神の住まう天界は、四人の龍神を頂点として秩序が保たれていた。
 四人の龍神はそれぞれ、紫紺の王、白銀の王、漆黒の王、金赤の王と呼ばれていた。
 その四人の最高位の龍神のひとりである紫紺の王、波琉は主に仕事をするのに使っている部屋にて、他の龍神からの陳述書に目を通していた。
 紫紺の王である波琉が司るのは天候である。
 正直、他の王と比べると、文句……要望が多いはある。
 やれ、日照りが続くだの、かと思えば雨が多すぎるだのと文句が多いのなんの。
 龍神と言っても全能ではない。
 多少の雨の量など誤差である。
 そこまですべて希望通りにすることなど、波琉の力を持ってしても不可能なのだ。
 だが、できるだけ要求に応えるべく、各地の天候を操作する。
 しかし、天界のことばかり気にしてもいられない。
 人間界の様子を監視するのも波琉の役目であるのだから。
 とは言え、人間界のことに深入りはしないのが、龍神たちの決まりである。
 時に手を加えることもあるが、基本的にノータッチである。
 例外となるのが龍花の町と伴侶のこと。
 時折人間界へと遊びに行く龍神が拠点とする龍花の町は、人間の国であって、龍神の意志が大きく反映された町だ。
 その町に関しては、龍神たちも大いに手を出しまくる。
 町を害する者がいれば、徹底的に報復をし、自分たちの住処を守るのだ。
 そして、龍神の伴侶となり得る花印を持つ者も、その町では人間でありながら神と同等の扱いとなっている。
 龍神は花印を持つ伴侶を迎えに行くために龍花の町に降りると、人としての生涯を終えるまで町でともに暮らし、死するとその魂を連れて天界へ戻り、正式に伴侶とするのである。
 龍花の町はそんな花印を持った人間と龍神とをつなぐ場所でもあった。
 伴侶となる者が下界で生まれると、相手となる龍神に花のアザが浮かぶ。
 それを確認した龍神は、伴侶を迎えるべく龍花の町に行くのだ。
 けれど、花のアザが浮かんだからといって、すべての龍神が伴侶を迎えに行くとは限らない。
 すでに天界で相手を見つけている者。脆弱な人間への興味が薄い者。
 理由は様々だが、人間の伴侶を必要としていない龍神も存在するのは確かである。
 そもそも龍神は興味のあるものへの執着心が大変強い生き物である。
 興味のないものにはとことん意識が薄いとも言える。
 どうでもいいものには本当に適当な龍神なので、伴侶に執着してしまうことを嫌がる者もいるのだ。
 そんな三者三様な龍神の中で波琉はというと、正直どうでもいいという考えだった。
 現在、長い長い時を生きたが、これまで伴侶も恋人もいなことはない。
 補佐の瑞貴には『もっと生活に潤いを持ったらどうか』などと苦言を呈されてしまうほどに、華がない天界での生活だ。
 波琉はその言葉に対して、『それなら仕事を持ってくるなと』と言って話を終わらせたが、仕事はなんとかしようと思えばなんとかなるのだ。
 実際に白銀の王は恋人をとっかえひっかえして天界での生活を謳歌しているし、金赤の王は百年ほど前に人間界から花印を持つ伴侶を得て、今も夫婦仲は良好だと聞く。
 彼らとは反対に色恋の噂がまったく立たない波琉。
 紫紺の王という立場故、恋人になりたい立候補者はたくさん名乗りをあげてくるのだが、波琉の興味が向けられることはなかった。
「失礼いたします」
 そう声をかけて部屋に入ってきたのは、補佐である瑞貴だ。
 天候を司る波琉の側近に相応しい水の性質を持つ龍神であった。
 例外なく見目麗しい四人の王と比べると、平凡と言われてしまう容姿であるが、波琉と違って同じ龍神の妻を持つ愛妻家である。
 波琉に対して、なにかと妻の素晴らしさを惚気てくるちょっと面倒くさい奴であった。
「紫紺様、新しい書類です」
 そう言ってバサバサと書類の束を机の上に置く瑞貴に、波琉はなんとも言えない顔をした。
「瑞貴、またそんなに持ってきたの?」
「どうせ暇なんですからいいでしょう。」
「別に暇なわけじゃないんだけどな」
「どうせ逢い引きの相手もいないんでしょう。ちょっとは相手をしてあげてはどうですか?」
 口を開けばこれである。波琉いつものことながらげんなりしてくる。
「特に興味はないかな」
 瑞貴はやれやれというように肩すくめる。
「いっそ花印の方でも見つかるといいんですけどねぇ」
 それもまた瑞貴の口癖である。
「はいはい」
 波琉はまたかというようにおざなりに返事をして積まれた書類の一番上の紙を取ろうとした。
 すると、「ああぁぁぁ!!」と、瑞貴が驚愕した様子で絶叫したのである。
 これには波琉も、思わずびくっと身を震わせた。
「急にどうしたの? びっくりするじゃないか」
「そそそそそっ」
 瑞貴は声が出てこないのか、なにかに驚きながら波琉に向かって必死で指を差す。
「人に向かって指を差すのはよくないよ? いったいどうしたの?」
「手、手! ご自身の右手の甲を見てください!」
「右手?」
 怪訝そうにしながら波琉は自分の右手の甲を見ると、そこにはいつの間にそこにあったのか、朱色の花のアザが浮かんでいたのである。
「あー、なんか浮かんでるねぇ。いつからだろ。気付かなかったなぁ」
 その声にはまったく緊張感も驚きも感じられない。
 自分の手に浮かんだというのに、どこか他人事のようだ。
「いや、なんでそんな冷静なんですか! それって花印でしょうに、もっと驚いてくださいよ!」
「むしろ瑞貴が騒ぎすぎでしょ」
「これが騒がずにいられますか! 花印ですよ、花印。あの、あの紫紺様の伴侶になり得る方が現れたんですよ!」
 あの紫紺様とはどの紫紺様だ。
 あまりいい意味でないことは波琉にも察せられた。
 この瑞貴は長く瑞貴の補佐をしているせいか、紫紺の王である波琉に対しても遠慮がない。
 まあ、波琉はそこが気に入っているのだが。
「まっ、とりあえず仕事終わらせちゃおうか」
「えっ! いやいや、仕事どころじゃないでしょう。もちろん龍花の町に降りられるんですよね?」
「うーん。どうしょうかな」
「どうしようかなじゃなくて、とっとと行ってきてください! 仕事は他の龍神たちでなんてかしておきますから!」
 瑞貴は激しく興奮しながら波琉を龍花の町へ行かせようとする。
 これまで仕事を減らせと言っても忙しいと聞きいれなかったのに、やろうと思えばできるのではないか。
 いや、それよりも……。
「どうして瑞貴が決めるの? 僕の意志はいずこに」
「そんなもんありゃあしませんよ。やっと紫紺様に春の訪れがやってきたというのに、このまま見過ごすことはできませんよ」
「えー」
「えーじゃありません。花印の方を気に入らなければ拒否もできるんですから、とりあえず会いにいってみてください」
「どうして瑞貴はそんなに私と誰かをくっつけたがるの?」
「あなたが龍神らしすぎる龍神だからですよ」
 波琉はよく分からないようで首をかしげる。
 瑞貴は視線を部屋にあった花瓶に活けられた花に目を移す。
 それは偶然にも波琉のアザと同じ椿の花だった。
 瑞貴に釣られて波琉も椿に視線を向ける。
「あなたは花を見て美しいと思ったことはありますか? 誰かに対して愛おしいと思ったことは? かわいらしい動物を目にして癒やされたことが一度でもありますか?」
「んー。ないね」
 それほど考える時間もなく、波琉は答えた。
 別に波琉が非情なわけではない。
 他の仲間の神に対しても、優しく接する波琉は、四人の王の中でも人気が高い。
 常に穏やかで、声を荒げることもなく、癇癪を起こすわけでもなく、すべての者に等しく同じ態度。
 逆を言えば、波琉が感情を露わにしているところを見たことがない。
 それは温厚なのではなく、ただ、心が動かないのだ。
 だが、それは波琉に欠陥があるわけではない。
 むしろ誰よりも龍神らしい龍神だと瑞貴や他の龍神は思っていた。
「天帝がなにゆえ龍神に人間の伴侶を与えるかご存じのはずです」
「まあね」
「これはきっと天帝のお導きに違いありません。紫紺様の伴侶に選ばれた方は、きっと紫紺様をいい意味で変えてくださると私は信じています」
 そう言う瑞貴は波琉のことを案じているのだ。
 龍神はそもそも天帝の眷属である。
 天帝により生み出された龍神は、もともと感情というものが存在しなかったという。
 天帝より与えられた職務に忠実であることを求められた龍神には感情など必要ないから。
 けれど、それを嘆いたのは、龍神を生み出した天帝自身。
 忠実である故に喜びも悲しみも怒りも感じない龍神のために与えられたのが、感情豊かな人間の伴侶である。
 人間と関わることにより、龍神は今のように心を得ていったという。
 なので、人間と関わることのできる龍花の町は、波琉のような感情の起伏が小さい者ほど必要な場所なのである。
「私は知ってほしいと思います。誰かを愛する気持ち。慈しむ心を。そう、妻を愛する私のように!」
「結局惚気につながるんじゃないか」
 やれやれと、波琉はため息をついた。
「いいですから、とっとと行ってきなさい!」
 そうして波琉は瑞貴に追い出されるようにして天界から人間の世界にある龍花の町へと降りることになったのである。