数日経って、ようやくあたしの気持ちも凪いできた気がする。考えてみれば、これから何人もがあたしの身体も心も行き過ぎていくのに、いちいち気にしていられない。高校生活もラスト一年未満。もう尻尾には火がついている。ぼんやりしていたら火だるまになってしまう。

 昼休みの廊下の雰囲気が好きだ。なんとなく気だるく、同じ学年の子たちが何人も歩いているのに、互いに無関心を決め込んでいる。古い校舎なので、一階の廊下には南側の教室のドアの窓からしか陽の光が入らず、いつも薄暗かった。それも悪くない。
 どこの学校も南側に窓がつくられ、生徒は西側にある教壇を向いて授業を受ける。これは世間の大多数を占める右利きの人間が、書き物をするときに自分の右手で影を作らないようにするための配慮らしい。左利きのあたしはいつも影の中で、たいしてうまくもない字を書くためにペン先を走らせている。数年後の未来どころか、明日もちゃんと息をしているかどうかすら自信が持てない。だからこそ、先を明るく照らしてくれる存在が欲しかった。
 その存在はいま、自ら光を放っているとさえ感じる眩しい存在たる大切な親友と一緒に。

 頭を振った。だめだ、ぜんぜん凪いでねえ。こんな中で船を出すなんて、マグロ釣りに行くおっさん漁師くらいだ。沈没必至だ。
 ちらりと目線を動かしてみたら、男子トイレから出てきた彼と目が合った。船首から海に沈んでゆく船体が、音を立てて真ん中で二つに折れたのを感じた。

 彼に、ねえ、と声をかける。

「黒元くんさ」
「うん?」

 にこにこと笑顔をつくりながら、あたしは軽い足取りで彼に近づき、耳元で囁く。

「葵と付き合うことになったんだって?」
「なんで知ってる」
「むしろ知らないの? 葵はあたしの大親友。あの子を泣かしたら、あたしはきみがいくら泣き喚いても土下座しても許さない。とこしえに深い絶望に沈めてあげる」

 なんだそれ、と呟く彼を放り出して、あたしは自分の教室に向かってダッシュする。ああもう、まだ鼻に残ってんだよ、彼の香水。マリンノートの香り。海の香りだけれど、爽やかさより、海の底みたいなしっとりした香り。
 むしろあたしが彼と一緒に、絶望の海に沈んでしまいたい。
 やばい。

 そんな気持ちで教室に転がり込むと、葵は窓際の自分の席に座って、文庫本のページをたおやかに開くところだった。あたしはそんな葵に後ろから抱き着いた。腕に渾身の力を込める。
 折れてしまいそうな身体の感触。慈しみたい、壊したい。
 大切な存在が、あたしじゃない誰かのモノになってしまう前に。

「えっ、怜ちゃん」
「ああもう、葵ちゃんってば甘くていい匂い。あなたはお菓子の国で生まれたの?」
「いや、でも、そしたら怜ちゃんも同じ国で生まれてるはずだけど」
「へっへっへっ」

 葵は困ったように笑っていた。