あれからさらにもう一年が経った。
 あたしと葵は保育園からずっと仲が良くて、お互いの家に泊まったこともあるし、家族にも言えないような秘密を打ち明け合ったりもした。二人だけで遠出したこともある。あたしの家の親はわりかし口うるさい部類に入る親だけれど、遊んだり出かけたりする相手が葵だと知ると、いつもフリーパスで話が通った。悲しいかな、葵と出かけるからと嘘を吐いて異性と出かけたりするようなシチュエーションは未だ迎えていないが、もしかしたらそういうことをするのかもしれない。そう思い描いて高校に入学したのはもう二年前であり、あっという間に最高学年になっていた。

 クラスが別だったこともあって一年生の頃は少し疎遠になっていたあたしと葵は、二年生で一緒のクラスになってからはいつも一緒に行動していた。二人とも帰宅部だし、家も近所だから、一緒に帰ることも増えた。その日も二人で肩を並べて、学校の最寄り駅までの道を歩いていた。
 綿を引きちぎったみたいに尾を引く雲も暮れなずむ空の色も普段と変わらないのに、その日にあたしが違和感をおぼえたのは、いつもこくりこくり頷きながらあたしのくだらない話を聞いてくれる葵の返事が、なんというか、生返事な感じがしたのである。はいはい隣の家に新しい垣根がね、みたいな。そもそも最近垣根のある家なんて少ない。家よりも、わたしたち人類は互いの心に垣根をつくっていやしないか。今は誰とでも簡単に繋がれるようになった反面、そうやすやすと他人に自分をさらけ出せなくなった。どこで不特定多数に暴露されるかわからなくなったから。この世界ではいまこの瞬間も、善意と悪意の入り混じるリレーが、電子の蜘蛛の糸の上で行われているから。

「葵、なんか話したいことでもある?」

 歩きながらあたしが訊くと、葵はびくっと一度だけ大きく身体を震わせた。皿に落としたプリンが揺れたみたいに、ぷるん、と髪の先が振れる。決められたとおりに物事をこなすのは葵の得意技だが、不意打ちに弱い。あたしはある程度の無茶振りは軽くいなせても、他人に「やれ」と言われたことは簡単に飲み込めないひねくれ者。「なんで?」と訊き返してきた葵の声の終わり際は、やっぱり弱々しく震えていた。

「いつもと違って、なんか心ここにあらずって感じがしたから」
「ごめんね。怜ちゃんの話を聞きたくない……とかではないの」
「まあそれはいいけど、どうしたのさ」

 頭の後ろに手をやりながら、訊ねた。あたしたちが互いについて知らないことなど、もうほとんど残されていないはずだ。あたしの左胸の下と、葵の臍の横にそれぞれほくろがあることだって、きっと葵本人とあたし以外、おそらく互いの家族すら知らないに違いない。それほどまでに互いをさらけ出しているのだ。今更隠しごとなんかしてほしくないし、したくもない。この時点で、あたしは素直にそう思っていた。

「実はね。今日、男子に告白されて」

 今度はあたしの身体が、火花散る電線を突っ込まれた水の中の魚みたいに跳ねた。むしろショックとしては、まだ感電の方がマシかもしれない。葵はかわいいけど大人しくて成績がいいから、うちの学校のへなちょこ男子どもは逆に手出しがし辛いようだったし、なにより葵のそばにはいつもあたしがチョロチョロしているから、一部の男子たちはショーケース越しにショートケーキを眺めるみたいにして、ちらちらと葵の方を盗み見ていた。
 まさかショーケースのガラスをぶち破って盗もうとするやつが現れるなんて。

「マジで? 誰にさ」
「F組の、黒元(くろもと)くんっていうんだけど、知ってる?」

 知らないわけがない。
 黒元、(はやて)。あたしは一年生の時、学校祭のステージで彼といっしょに賞状を受け取ったのだ。

 クラスが離れてからも、校内で姿を見かけるたびに、だめだだめだとちっともだめじゃないのに思いながら、あたしは目線だけで彼を追っていた。なんなら今日もそうした。そこまでしているのになんの手出しもできず、いま、彼はあたしが大好きな親友と結ばれようとしている。
 丹精込めて育てようと思っていたわけでないにせよ、張り裂けそうなほどぱんぱんに膨れ上がったあたしの恋は瞬く間に行き場を失い、今や一秒先に形状を保っているかどうかも危うい。なんなら思いっきり大爆発して、周りにあるモノもヒトもずたずたに傷つけかねない。あたし自身も、彼も、葵もすべて。
 葵は親友だ。けれど彼はあたしの想い人でもある。何もできなかったけれど、手に入れたいと思っていた存在。好きな人も親友も失ってなお、あたしはニコニコと笑みを顔に貼り付けていられる自信がなかった。

「怜ちゃん?」
「ん、ああ、一年生の時に同じクラスだった。いいじゃん、前は爽やかな感じだったと思うけど」
「前からそうだったんだ。確かに、割と感じのいい人だなーって思った」

 ああそうだよ感じのいい男だよ。今日も女子が落としたハンカチを拾って、走って追いかけて渡してたな。あたしもなんか落とそうって思ったけど、ポケットにはガムの銀紙じゃない方の包み紙しか入ってなかったな。そういうとこなんだよ。でなければ、この状況にどうやって説明をつければいい。大好きなはずの親友の顔を、丸めて捨てたガムの包み紙みたいにくしゃくしゃにしてやりたくなっている、この状況をだ。
「で、葵はどうするの」と、自分でも笑っちゃうくらいに恐るおそる訊いた。

「怜ちゃん、わたしが誰とも付き合ったことないの知ってるもんね」
「うん」
「だから、ピンときてないの。でも黒元くんなら、なんとなくいいかなーって気がして、いいよって言った」
「良くない」

 思わず口に出てしまって、はっ、と手で口元を覆った。「え?」と葵はこっちの方を向いて、きょとんとした顔をしている。

「え、あー、あれよ。あたしにとっての葵は、そのへんの男よりよっぽど大事だから。そういう意味では良くないけど、やっぱり葵が心地いいと思う選択をすればいいと思う」
「なるほど、なるほど」

 葵はにこにこと人懐こい笑顔を浮かべた。あたしは本心と建前がないまぜになった台詞をのたまった疲労感が一気に津波のように押し寄せてきて、頭を掻くふりをしつつ静かに溜息をつく。口だけは勝手にオートパイロットで動いていたけど、何を話しているのかは自分でもひどく曖昧な心地がした。