一歩踏み出したとき、陽が傾きはじめた冷たい空気の中を「怜ちゃん」という葵の声が届いてきた。
 つんのめって、振り返る。

「わたし、最後に二人で話したときは怜ちゃんのことが怖くて仕方なかった」
「それは―――」
「彼を奪われると思ったから、ってことじゃない。小さい頃からわたしは怜ちゃんとずっと友達だったし、これからもずっとそうでありたいと思っているから。わたしの弱さのせいで、怜ちゃんが変わってしまうのが怖かったの」

 そこで葵は言葉を切った。そしてこちらに駆け寄ってくると、そっとあたしの手を握ってきた。さっきまで彼にあたためられていた葵の体温が、冷え切ったあたしの手にじんわりと伝わってくる。

「もう大丈夫。わたしたちは、ちゃんと越えたから。それに、わたしは怜ちゃんを失いたくない。怜ちゃんは、まだ何も失くしてない」

 恋人を奪われかけたというのに、この子は、なぜ。
 一瞬だけそんなふうに、頭にカッと煮え滾った血が上る感覚があった。あたしが葵ならば、あたしの胸倉を掴み、力いっぱいに頬を打つ。しばらくの間は、掌に残る肉の感触をふとした瞬間に思い出して、そのたびに嫌な気分を味わうだろう。そうなるとは思っても、やはり一発や二発くらいぶん殴ってやらないと気が済まないはずだ。
 なのに、葵は今もまっすぐな瞳でこっちを見つめながら、あたしの手を握りしめている。雫のかたちの爪がこちらを向いていた。

「どうして。あたし、葵にも彼にも嫌なことしちゃったのに」
「一度嫌いになった相手のことは二度と好きになれないって人がいるよね。わたしはその考え方を否定しない。だから、わたしも自分の考えを他人に否定されるいわれはないと思ってる」
「どういうこと」
「いくら正しく生きようと思っても、誰だって間違える時がある。だからわたしは、たった一回の間違いでその人のことを嫌ったり、否定したりはしたくない。今回はここにいる全員が、何かしら間違えてたんだよ。だったらもう繰り返さないように努力すればいいじゃない」

 ね、と葵は夜明けの太陽みたいに笑いかけてきた。鼻につんとくる感覚を押しとどめながら、顔を少し上げる。葵の後ろでこちらを見つめていた彼と、目線がぶつかった。

「きみは、どう。前にあたしに相談したことの答えは見つかったの」

 警戒と緊張の色が混ざる瞳でこちらを見つめつつ、彼は言った。

「笠島にだって、わかるだろ」
「なにが?」
「ただ慈悲をもって赦されることが、何よりも重い罪だ」

 彼の言葉は相変わらず難しい言い回しだったけれど、理解はできた。

「今後あたしみたいな女が現れたときは言って。きみができないなら、代わりにひっぱたいてあげる」
「金を積まれても断る。おれは、自分自身がちゃんと正しいと思えることをしていくだけだ」
「そっか」

 頷いた彼は、課せられた名もなき罪の重さを噛みしめるように、口を真一文字に結んでいた。
 あたしはもう一度、葵と視線を合わせる。今のあたしにわかるのは、この可愛くて誰にでも優しい親友は、甘くていい匂いがするお菓子の国から来た存在ではなかったということだけだ。ずっと傍にいたはずなのに、見えるけれど見えないものの存在に気づいたような感覚だった。
 彼や葵がそうであるように、あたしももう一度、やり直すことが許されたのだということに気づく。自分が自由気ままに振る舞うことで誰かの手を煩わせる罪悪感にはもう耐えられそうもない。あたしは突き抜けられなかった。雰囲気に流されず、その瞬間にその場所で自分にできることを考え続けながら生きていくべきなのだろう。

「葵。一つわかったことがある」
「なに、怜ちゃん」
「あたしは弱かった」

 葵は一瞬だけ意表を突かれたような顔をしたけれど、すぐにそれは花が咲くような笑顔にのみこまれていく。くすくすと笑ったあとに葵は、そっとあたしの耳元に顔を近づけた。

「わたしは昔から知ってたよ」