少し前までは汗を拭っていたはずの日々はどこかへ消え、今は吹きすさぶ風に身を縮こまらせる日々だった。略装期間が終わり、今は上着を着ていないと怒られる。たとえこれを剥いでも、その下に着ているブラウス、キャミソール、下着まですべて外さなければ、あたしの本当の姿は誰の目にも映らない。そうは思いつつ、生まれたそのままの姿を最後に自分から能動的に見せた相手は、彼だ。
 葵から、あれきり彼との関係に関する相談を受けることはなかった。違和感はなかった。きっと彼はもう、葵に身体のふれあいを求めようとしていない。もしかすると、もう心を通わせようともしていないかもしれない。彼の気持ちをそう導こうとしたのはあたしだけど、今となってはもう、毛ほども興味のないどうでもよいことに成り下がっている。
 彼に求められることが幸福だった。
 手を繋ぎ、唇を合わせ、身体を重ねるだけで、まるで自分の存在を承認されているような気がした。もちろんそこにあたしへの愛情や恋慕があればなお良いが、なくてもいいし、この際もう嘘でもよかった。大好きだと思っていた人と触れ合うことができれば。彼があたしをなんとも思っていなくても。あたしだけが一方的に、彼を想い、勝手に重ね合わせているだけでいい。適当に切符を買い、行先を見ずに電車に乗って居眠りをして、目が覚めたらとんでもない場所にいても、それはそれで楽しいし、思い出になるのだから。

 俯けていた顔を上げる。木の葉と木の葉が擦れ合って、かさかさと音を立てていた。樹木は養分を生産できる量に制限ができる冬に備えて、秋に葉を落とす。その様子までも美しくととのえてしまう仕組みには頭が下がる。要らない、と切り捨てられる人間はたいてい無様に泣き喚くうるさい存在だが、葉を落とす前段階としてクロロフィルが分解されるだけで美しく色付く樹木の葉は、眺める人の目を楽しませる。
 あたしは何色に染まれるのかなあ、と間抜けなことを考えながらベンチに座っていた。遠くから自転車に乗って、葵がこちらに近づいてくる。いつもなら片手でぶんぶんと手を振りながら、にこにこと笑顔を振りまいているその姿は、今日は葉が落ちきって寒々しい木のように寂し気な表情をしている。あたしは今日、葵とここで待ち合わせをしていた。
 ごめん待たせた、と呟く葵が隣に腰を下ろした。ぜんぜん待ってないよ、と返すと「待ってない割に顔が寒そうだよ」とめざとく指摘された。寒さであたしの頬が赤く染まっていたのだろう。

「呼んだのはわたしなのに、遅れてごめんね。先生に呼び止められて」
「今更そんなこと気にしないでよ。今日はどうしたの」
「うん、あのね。……わたしが怜ちゃんに余計なことを話したのがそもそもいけなかったんだけど」

 余計なこと。
 どれが。
 あたしが思うに、この世界はたくさんの余計なことに守られた、一握りの本当のことで成り立っているじゃないだろうか。危ういバランスの上で、あっちへふらふら、こっちへふらふら。この世界はあたしの生き方そのものだ。あたしの本当って、一体何だろう。
 思いつめた表情で、葵は言葉を並べはじめる。

「確かにわたしは、彼と別れようかと思ってた。でもそれって、わたしがちゃんと彼と向き合っていなかったからいけなかったことだったんだ。わたしがこの認識をあらためれば、彼もわかってくれるはずなの。だから怜ちゃんが自分を犠牲にすることなんかない。わたしはこれからしっかり彼と話をしなきゃって思う」
「だからあたしに、彼に近寄るなって言いたいの? 答えはノー」
「どうして」
「もう電車は動き出してるから」

 そもそもあたしが彼に近づくことが「余計なこと」であるような言い方が、このときは癪に障った。そもそもあたしが彼をなんとも思っていないなら、確かに余計だ。けれど彼はもともと、あたしの好きな男子だった。葵が彼に告白されるよりも、ずっと前から好きだったのだ。
 たったそれだけで、あたしたちはこんなにも、ややこしくなってしまった。
 これは余計じゃない。言うなれば、悲劇だ。

「話したいことって、それだけだよね。帰るわ」と言って、あたしは立ち上がった。瞳を大きく見開きながら、葵が縋るような声を上げる。

「待って、怜ちゃん」
「待てないよ。あたしがそうであるように、葵も自分の言ったことに責任を持ったほうがいい。本当に大切なものなら、たとえ相手が誰であっても簡単に渡そうとしちゃダメなの」

 一歩踏み出したと同時に、何年もかけて少しずつ縒ってきた糸が、乾いた音と共に切れて、力なく垂れ下がる。あたしは振り返らずにその場を後にした。

 葵は追いかけてこなかった。