その日「怜ちゃん、おはよう」と葵が声をかけてきたとき、あたしは彼にキスした時よりもずっと緊張した。同意も覚悟も手にして実行したことが、何年もかけてつくりあげた友情を粉々にするのでは……と、急に恐ろしくなったのである。
 けれどこれも、覆水盆に返らずというやつだ。全部現実のことなのだから、今更どれだけ喚こうと、覆ることはない。
 怯えを振り払うがてら、髪をかき上げた。

「おはよ」
「怜ちゃん、ベストなんか着てて暑くないの? わたしには無理」

 ブラウス姿の葵は、ノートをうちわ代わりに扇ぎながら笑っている。確かに今日はそこそこ暑いけれど、この方が可愛いと思うから着ているだけだ。もともと寒がりだから、汗もあまりかかない。帰りはアイスでも買って帰ろうかな……と謡うように話す葵はまだ、あたしと彼の間に何が起きたのか知らないようだった。もしかすると葵は、あたしが自分の彼氏を奪うと言ってきたことを本気とは思っていないのかもしれない。もっとも、今更「待った」をかけられても遅いのだけど。
 恋と愛の境界線は曖昧だが、これらの前では幾千幾万日をかけて築き上げてきた絆も、友情も、たった一突きで脆くぼろぼろに崩れ去る。そういった場面をあたしも目にしてきた。友達と好きな異性を奪い合い、片方が勝つ。一言で表せばたったそれだけの話で、大衆はキュンとしたとか切なかったとか好き勝手なことを言って盛り上がる。
 あたしはこれから何を代償に、何を創ろうとしているのか。自分にもわからないまま、鞄の中から勉強道具を取り出す。今の問いを解決するのには何の役にも立たない教科書や参考書。学校では教えてくれないこと。
 そう思うと、高校生の恋愛とは究極の自学自習であり、実学だ。

 放課後、教室前の廊下の壁に貼られたポスターを眺めていた。高校生作文コンテスト。またやんのこれ、と思いながら応募要項を目で追っていると「笠島」と名前を呼ばれる。声の方へ顔を向けると、彼が立っていた。少し前までならホームを滑り出てゆく電車みたいに唸りをあげていた心音は、不思議なくらい落ち着いている。
 首をかしげながら言った。

「どしたの、黒元くん」
「今日、これから時間ないか」
「数学の講習ないらしいし、暇だよ」
「ちょっと相談事があるんだ」

 言いさま、彼の瞳があたしたちの教室の中を一瞥した。葵を含めた何人かのクラスメイトが、教壇のところにいる担任と何か話している。手に持っているものから推測するに、来週の合同進学説明会に関することのようだ。
 ははあ。

「いいよ。あたし今日は掃除当番もないし」
「わかった。じゃあ早速」
「偉いね」
「なにが」

 何のことかわかっているはずなのに彼がそう訊き返してきたのが妙にいじらしくて、あたしは余裕を込めながら、くすっと笑う。

「約束通り、いつも通りにしてくれて」

 彼は何も言わなかった。
 この瞬間、あたしは確かに彼を自分のコントロール下に置いている。
 そのことを認識して、朝に感じた怯えが嘘のように、胸をぎゅうぎゅうに満たす優越感をおぼえた。