きみと水平線を歩けたら

顔に掛かる日差しで目を覚ました。

「良かった…晴れた」

体を起こし、時計を確認すると八時だった。
テレビのリモコンを手に取り、電源ボタンを押すとちょうどニュース番組の天気予報のコーナーが放送されていた。

『今日は、一日中快晴で気温も高くなるでしょう。しかし、明日はほとんどの確率で雨天になると予測されます』

「明日…雨なんだ…」

今日晴れたことには安心したが、明日雨になるというのはすこし気分が下がってしまう。
この時、ふとくうの言葉が頭に浮かんだ。

『次の晴れた日にっ』

もしかしたら明日はくうに会えないかもしれないと、心のどこかで心配していた。

部屋をでて、下へ降りてゆく。
いつものように歯を磨き着替えを済ませる。

家の扉を開くと強い日差しが肌を刺したが、気温はさほど高く感じなかった。
家をでて、図書館に向けて歩みを進める。
途中でイヤホンをつけ、好きな曲を流す。
好きな時間を聞いているときは、周りの音を遮断することができる。
三曲目を聞き終わるころに、あっという間に図書館には到着した。

昨日のように、くうは入り口の少し前で待っていた。
黒髪の頭には麦わら帽子がかぶされている。
くうがぼくに気づき、走り寄ってくる。

「かいくん、昨日ぶりですねっ」
「うん、久しぶりだね」
「お。うんっ、久しぶりですねっ」

くうはぼくが少しでも冗談にノッてくれたのがうれしかったのか、満面の笑みを浮かべている。

「それで、今日はどこの海に…いや、やっぱ聞くのやめておくよ」

どこの海に行くのかを聞こうと思ったが、寸前のところでやめておいた。

「ふふっ、賢明な判断だと思うよっ」

聞いても教えてくれないことは、今までの経験で分かっているのだ。

「それじゃあ、さっそく行きましょうかっ」
「そうだね」

ぼくは、昨日と同じように行く先も知らずにくうの後についていった。


電車とバスを乗り継ぎ、昨日よりも少し時間をかけて目的の海にはたどり着いた。
相変わらず電車の中では特に話すことが無く、窓の外を眺めていた。

「かいくん!あそこあそこっ!」
「おぉぉぉ」

今回の海もとても綺麗だった。
だんだんと海が目に入ってくると、くうだけでなくぼくもテンションが上がるようになっていた。
しかし、一目でわかる。
ここの海ではない。

「すごく綺麗だけど、やっぱりここの海じゃなさそうだね」
「やっぱそうだよねぇ、そんな簡単にはいかないよねぇ」

くうは、簡単に見つからないことを理解したのかあまり落ち込んでいる様子はなかった。

「で、ここでも遊んでく?」
「あたりまえでしょうっ!」

この海でも、くうはぼくにかまわずに遊んでいた。
ぼくは、くうの遊ぶ姿をぼうっと眺めながら、よくもひとりでここまで遊べるのだと変に感心していた。
しばらくするとくうは満足したのか、ぼくのもとへ戻ってくる。

「ふうっ、まんぞくまんぞくっ!」
「もういいの?」
「うんっ、もう十分ですよっ!」

くうが早い段階で満足したために、すぐに次の海に移動するのだろうと思っていたが今日は違ったみたいだ。

「あ、かいくんさっ」
「ん、なに?」
「今日はね、色々かいくんに聞きたいことがありまして」

突然のことに驚いたが、冷静になればぼくとくうはまだお互い知らないことばかりだ。

「聞きたいことってなんですか?」
「そうだねぇ、年齢はもう聞いたからぁ…通ってる大学とか!」
「それほんとに興味ある?」
「いや、まぁ、なんとなく」

大学名を聞かれて、自分がいまは通うのをやめている事を伝えようか迷ったが、くうには特に隠す必要もないだろうと思った。

「まぁ、いいけどさ。ぼく、最近は大学行ってないんだよ」
「え?行ってないって?」
「そのままだよ。退学はしてないけど、行ってない。退学も考えてるけどね」
「え、なにかあったの…?」

くうは少し心配そうに聞いてきた。

「いや、なにか特別な事情があるわけではないんだけど、あんまり周りに馴染めなくて」
「そうだったんだ…」

くうはどんどん暗い顔になっていく。
すこしくうが黙り込み、波の音がよく聞こえる。

「いやいや!そんな重い話じゃないからね!別にいじめられた訳じゃないし」

そのとき、くうの体が一瞬こわばったようにも見えた。
しかし、すぐに笑顔に変わったため自分の気のせいだと思うことにした。

「そうだよねっ、考えすぎだよねっ」
「聞きたいことって、それだけ?」

少し重くなってしまった空気を良くしようと、くうに次の質問を急かした。

「ほ、他にもある!そーだなぁ、好きな食べ物とか!」
「え、また変な質問だね。聞いてどうするの」

なにかもっと重要な質問をされると思って身構えていたが、どれも普通の質問だった。

「いやいや!いいからいいから!」
「好きな食べ物か…。そばとかかな」
「そば!おいしいよねっ!!」
「逆に聞くけど、くうは何が好きなの?」

ぼくの質問にくうは間髪入れずに答えた。

「私はお母さんの作る煮物かなっ」

チョコとかケーキとか、若い女の子らしい答えが返ってくると思ったが、思いがけない答えだった。

「なんか、意外だね」
「え、そぉ!?私お母さんも大好きだし、お母さんの作る料理も全部大好き!」
「それはすごい素敵な事だと思うよ」
「ふふっ、そうでしょっ」

彼女は誇らしげな顔で言った。
くうは家族思いの優しい女の子。
新たにくうの情報がぼくのなかに追加された。

「じゃあ、かいくん!私からの最後の質問!」
「うん、なに?」

「かいくんは、なにか大事なことを忘れてない?」 
「え…?」


この時、一瞬頭が真っ白になって、なんだか体の力が抜けたようなそんな気がした。

身体、意識、すべてがふわっとするような。

ぼくはなにか大事なことを忘れてる?
なにか、忘れてはいけないことを。

このとき、くうの声が頭に流れ込んできた。


『大事なものは写真たてに入れておくの』


何のことかは一切分からなかった。だけども、どこか懐かしさを感じる言葉だった。

「大事なものは…写真たてのなか…」
「え、かいくん?写真たてがどうしたの?」
「え?」
「かいくん今、写真たてのなかって」
「え、あ、うんうん、ごめんなんでもない」
「そ、そっか」

くうが不思議がるような顔をしているからと、慌てて話を戻す。

「だ、大事なものでしょ!んー…」

このとき気づいた、最近は大事なものなんて考えたことなかった。
考えたことないというよりも、そんなことどうだってよかったから。

「大事なもの…」
「無理に言おうとしなくても大丈夫だよ」

くうは優しく言ってくれる。

「ぼくには大事なものが…ないかもしれない…」

この言葉にひっかかるところがあったのか、くうは一瞬すごく悲しげな雰囲気をかもした。

「そっか…じゃ、じゃあこれから大事なもの見つけていかなくちゃねっ」
「うん、ごめんね、ありがとう」
「うんっ」
「それで、くうは?」
「ん?」
「くうの、大事なものは?」

くうはぼくに聞かれた途端、海へ目を向けて、少し間を開けてから言った。

「私の大事なものは、思い出かな」
「思い出?」

くうの言っていることはすぐにはピンとこなかった。

「うん、思い出。嫌だったことも、嬉しかったことも、悲しかったことも、幸せだったことも。全部私の大事な思い出」

くうは優しく微笑んでいる。

「そっか…思い出…か…」

ぼくがそう言っている間に、くうはサッと立ち上がった。

「私、悪い思い出も、良い思い出と同じくらい大事だと思うんだ」
「悪い思い出も大事にするの?」
「うん。私は…そうしたい」

この時にかけるべき言葉はぼくは分からなかった。
二人で少しの間沈黙を続けてからくうが言う。

「かいくん、今日は帰るのも時間がかかるし、そろそろ帰ろうかっ」
「うん、そうだね」


いつもの駅に帰ってきたころには、夕方になっていた。
昨日別れたところと同じ場所で、くうと話す。

「かいくん、今日もありがとうっ」
「うん、こちらこそありがとう」
「今日も海は見つからなかったけど、もうすぐ見つかる気がするんだっ」
「そうだね、みつけられたらいいね」
「じゃあ、また、次の晴れた日にっ」
「うん、次の晴れた日に」

そうだ、雨の日はくうには会えない。
くうに会えるのは、晴れている日。


家についてから、もう一度PCで海について少し調べたが、やはりそれらしきものを見つけることはできなかった。

眠気がきたところでベットに入りアラームをかけた。

明日も晴れるといいな。







「かいくんっ!ほらっ!こっこっち!」

くうが海にむかって走りながらぼくの名前を呼んでいる。

「ちょっとまっ…」

くうを追いかけようとしたとき、ぼくは足を止めた。
ぼくの横をすり抜けて小さな男の子が走ってくうの後を追っている。

「まって!まって!まって!!」

しかし、男の子はくうには追い付かず、くうはどんどん走って言ってしまう。

「まって!まって!まってよ!」

男の子の声がどんどんと大きくなる。

「まって!まって!」

脳に声が響いてくる。

「まって!まって!まって!まって!!」



「はっ!…はぁ…はぁ…」

目が覚めた。
ひどく汗をかいていて、呼吸も荒くなっていた。

「あれは…」

夢の内容はさっぱり理解できなかった。
そのときふと思い出し、カーテンをあけ窓に目を向ける。

窓のはたくさんの雨粒が付いていた。
くうの言葉を思い出す。

『次の晴れた日にっ』

雨は降っているが、図書館に行けばくうはいるかもしれないとぼくは思っていた。
図書館の前に待っていなくても、初めて出会ったあの席に座って、海の本を開き、探している海の写真を眺めているんだろうと。

いつも通り、歯を磨き着替えを済ませ、玄関へと降りてゆく。

傘立ての中から、ビニール傘を一本取り出す。
家のドアをあけると、冷たい風が吹いてきた。
すぐに傘をさし、図書館に向け歩き始める。
雨は少しずつ強くなっているのか、傘に雨が当たる音が増えている。
靴に水がしみてきたのか、足がとても冷たい。

図書館の看板がみえてきて、図書館に近づくとくうがほんとうにいるのか心配になってきて、心が落ち着かない。
すぐそこの角を曲がれば、図書館の入り口が見える。
くうがいることを願いながら角を曲がり、目を先に向ける。

くうの姿はなかった。
雨の日は会えないといわれたから当然かもしれないが、不思議とくうに会いたいと思った。
もしかしたら、もう中に入っててあの本を開いているのではと思い窓に目を向けたが雨粒が邪魔して中が見えなかった。

入り口に向かい、傘を閉じる。
中に入ると、前に注意された司書さんと目が合った。

「こんにちは」

司書さんの笑顔の挨拶に、ぼくは会釈で返した。

雨の影響なのか、ちらほら人がいるのがわかった。
自分のお気に入りの席に向かう。

席にもくうは座っていなかった。
すこし席を眺めてから、机に荷物を置いた。
椅子の後ろの本棚に目を通し"思い出の海"の題名を探す。
前にくうとぼくで一冊ずつ読んでいたから、二冊あるはずだ。

どこにも"思い出の海"の題名は見つからなかった。

「おかしいな…ここら辺に…」

結局見つけることはできなかった。
もしかしたら誰かに二冊とも借りられてしまったのだろうと思うことする。
諦めて、興味のわくミステリー小説を読むことにした。

本を読んでいる途中にも、ぼくの名前を呼びながらくうがくるのではないかと少し期待していたが、もちろんそんなことは起きずただ時間だけが過ぎていき、読んでいた本も読み終えてしまった。


「本日、もうじき閉館になりますのでよろしくお願いします。」

司書の女性の声で、長時間が経過していたことに気が付いた。

「あ、はい、わかりました」
「ありがとうございます」

司書の女性はにっこりと微笑んで戻っていた。
ぼくは、読んでいた本を閉じ本棚へと戻す。
荷物をまとめ、席を立つ。窓に目を向けるとまだ雨は降っていた。
周りにはもう人はほとんどおらず、静かな図書館がより一層静かに感じる。

出口の自動ドアが開くと同時に、すこし雨が顔にかかる。
傘をさし、家へと歩みを進めた。
歩くたびに、水が靴下にじんわりと染みてくる。

くうはなぜ雨の日には会えないのか。なにか特別な事情があるのか。
いくら考えても仕方がないことは分かっていたが、無意識にそんなことばかり考えてしまう。

家に到着した時には、靴下はぐっちょりと濡れていた。
すぐにお風呂や晩飯などをすませ、自室のPCに向かい合う。
検索サイトに『思い出の海 写真集』と検索をかける。
同じ題名の本が多数存在し、多くの検索候補が挙げられたが、ぼくの知る表紙はその中には見つけられなかった。

「なんで、こんなにもみつけられないんだ…」

ここまで見つけることができないと、ほんとうにその写真集が存在するのかすら疑ってしまう。
しかしあのとき、ぼくは自分の手に取り、写真にひかれ、くうと海を探しにいった。
この事実がある以上、ぼくは写真集の存在を信じるしかない。

結局見つけることはできず、今日は寝ることにする。




目を覚ました時から雨音は聞こえていた。体を起こし、窓の外をぼうっと眺めながら、図書館に行くことを考えるが、少し倦怠感を感じ、頭痛すらもある気がする。
しかし、くうがいるかもしれないという考えが頭を離れず、結局行くことにした。

家から傘をさし、すこし早歩きで図書館にすぐ到着したがくうの姿はもちろんなかった。それに加え、今日が図書館が休館日ということを忘れていた。
「休館日」と書かれた看板を確認したぼくは、足早に家へと帰宅した。

帰宅してからすぐに自室に戻り、ベットに寝転んだ。雨で冷えた体を布団が温めてくれる。
寝転んでいたぼくは、気づかぬうちに眠ってしまっていた。



「おまえほんと気持ち悪いんだよ!」
「ほんとだよね!気持ち悪すぎ!」

顔はよく見えないが、長い黒髪を垂らした女子がトイレのような場所で金髪の女子を含めた三人に囲まれている。
誰かが悪口をいうと、周りがケタケタと嘲笑っている。

「ねぇ、お前がこんなに気持ち悪いってことは、お前を生んだ母親も父親も相当気持ち悪いんだろうね!!」

金髪の少女が、黒髪の女子の顔をのぞきこみながらそう叫んだ時だった。
今まで下を向いてうつむいてた女子が、顔をふっと上げ叫んだ。

「お母さんとお父さんの悪口は言わないでよ!!!」

そういって金髪の少女に詰め寄ったが、金髪の少女もひるむことはなく言い返した。

「うるせえな!口答えすんじゃねぇよ!!」

金髪の少女はそう言いながら、黒髪の少女を突き飛ばした。
黒髪の少女は、壁にぶつかり膝から崩れ落ち倒れた。

「もういこ!」

金髪の少女を含めた三人は、黒髪の少女を蹴りつけてからその場を去っていった。
倒れたままの少女は、少しうつむいて動いたかと思えば、涙をぬぐいながら号泣していた。

「あぁ…お母さん…お母さんごめんね…私…もうだめかもしれない…もう耐えられないよ…」




「はっ…」

ここで目を覚ました。

「前にもこんな夢みたような…」

前にみた夢と似ているところが多かったが、やはり夢に出てきたのが誰なのかはいまだに分からないままでいる。
複雑な感情のまま寝転んでいると、扉の外から母親の声がした。

「かい、起きてるのー?ごはんはー?」
「いや、今日はいいや」
「あら、そう」

どうしてもその気にはなれなかった。

窓に打ち付ける雨音を聞きながらまた目を閉じた。


















顔に掛かるまぶしい光で目を覚ました。

「晴れてる…」

ふとくうとの約束を思い出し時計を確認する。
八時四十五分だった。
ハッとして、ベットから飛び起き急いで支度をする。
家を出ると、昨日までの雨が嘘のように太陽が顔を出していた。

図書館に向けて、小走りで急ぐ。少しでも早くくうに会いたかった。
図書館に到着した時には九時五分だった。

「かいくんっ!五分遅刻ですっ!」

くうは手を後ろに組んでニコニコしながら言った。

「ごめんごめん、昨日寝落ちしちゃって」
「ふふっ、寝落ちか、可愛いじゃないかっ」
「可愛くはないと思うんだけどな…」
「いいよいいよっ、じゃあ早速行きましょうかっ」
「うん、いこうか」

ぼくがすんなりと受け入れたのが予想外だったのか、くうは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに笑顔になった。

「うんっ!」


今回の行先は、ぼくが過去に行った覚えのある所だった。駅名も、周りの景色も、しっかりと記憶に残っている。
だからこそ、探しているのはここの海ではないと早い段階で分かった。
しかし、くうには落ち込ませたくなかったために言わないでおいた。

「ついたよっ!」

くうが笑顔で指差した先に見えた海にはやはり見覚えがあった。
だけども、とても、とても綺麗な海だったことは間違いない。

「おぉ、すごく綺麗だね」

そう言った時、突然くうがぼくの顔を覗き込んできた。

「え、なに」
「いやぁ、ここの海ではない。て言いたげな顔してますねぇ」
「え」

突然のことにとても驚いた、ぼくはもしかしたら顔に出るタイプの人間なのかもしれない。

「図星でしょ!」

くうが、どうだ!と言わんばかりにニヤリと笑う。

「うん。まぁ。合ってるよ。ここには来たことはあるけど、探してるのはここじゃない」
「そうだよねぇぇ。まぁ、簡単にすぐ見つかっちゃうのも、それはそれでつまらないからね!」

くうは自分を励ましてるのか、それらしいことをいっている。

「そーゆーものなのかな」
「そうだよ!そうに決まってる!」
「じゃあ、次のところ行く?」

ぼくは切り替えて次に行こうと提案した。

「え、せっかく来たのにすぐに次行くの?」
「なにかしたいことでもあった?」

ぼくの問いかけに、くうはすこし顔をひきつりながら考えいた。

「ん、そ、そうだなぁ…。貝殻探しとか!」
「よし、次行こうか」
「うそうそ!まってぇ!」

彼女は笑いながらぼくの腕を掴んできた。

「貝殻探しするの?」
「それはうそぉ、本当のこと言うとかいくんに少し話したいことあったのぉ」
「え、なに話したいことって」
「まぁまぁ、座ってゆっくり話そうよ」

くうに言われるがまま、ぼくとくうは並んで腰掛けた。

「で、話したいことって?」

くうは言葉を発する前に、少しだけ眉をひそめた。

「えっとね、前にかいくんが学校行ってないって話したよね?」
「うん、したね」

くうは、少し遠慮がちに聞いてきたが、ぼくはもうくうになら全部話してもいいと思っていたため、なんとも思わなかった。

「そのことなんだけど、かいくんが学校行けてない理由とか、詳しく聞けたらなぁって…」
「なるほどね。でも、別にそんな面白い話じゃないよ」

ぼくは別に特別な事情があるわけでもないので、本当にありふれたことしか言えない。

「うんうんっ、そんなのは気にしないから、ただかいくんの話が聞きたいなって」

くうは心配そうにぼくを見ていた。

「うん、いいよ」
「ありがとうっ」
「まぁ、前も言った通り、周りに馴染めなかったんだ。べつに、誰かに悪くされたとか、いじめを受けたわけでもない」

ぼくは、誰かに何かをされたわけではない。
だけども、なぜか嫌だった。

「ただ、嫌だったんだ」
「嫌だった?」
「うん。ありがちかもしれないけれど、自分がなにしたいかわからなかった。なんのために学校に行くのか、なんのために生きてるのか。自分の進む先がまったく見えなかった」

くうは、ぼくの話を静かに、うんうんと相槌を打ちながら聞いている。

「そうだったんだね…」
「だから、図書館で本を読むことだけが生きる意味だったんだ、その時だけは何も考えなくて大丈夫だから」

ずっとぼくは、あの空間と本に救われてきた。

「だから、ぼくはその生きがいを失っていたら、いまこの世にはいないかもね」

笑いながら冗談めかして言った。
くうもいつものように笑って反応してくれると思ったが、違った。

「かいくん、ダメだよ…そんなことはいっちゃだめだよ…」
「え?」
「生きてる人はみんな分からないんだよ…。今も生きてる事の価値が、尊さが…分かってないんだよ…」

いまにも泣きそうな、すごくすごく悲しげな顔をしていた。

「生きてるって言うのは、自分だけの問題じゃない…だからかいくん…簡単にこの世に居ないかもなんて言わないで…」

ぼくはいつもの様に反論しようなんて考えは出るわけがなかった。
くうの考えが、なにひとつ間違っていなかった。

「ご、ごめん…もう言わないよ…」
「うん…ありがとう…」

くうは目を拭っている。

「んもぉ…女の子泣かせたぁ…」

くうがそう言った時に、とても申し訳ない気持ちと、いつものくうに戻った気がして笑顔になれた。

「うん、ごめんね、もう泣かせないようにするから」
「つぎはないからなぁ…」
「うん、ごめんよ」

それからは、くうがまたいつもの調子に完全に戻るまでくうの背中をさすっていた。

「もう、大丈夫っ」
「ならよかったよ」
「まったくぅ、女の子を泣かせたことをいつか後悔させてやるからな!」
「うん、わかったよ」
「ならよし」

くうは横でサッと立ち上がって、ぼくを見下ろしながら言った。

「かいくんに言いたいのはね、自分を必要としてる人は必ずしも自分の気づく範囲にいるとは限らないってこと」
「それは、どーゆーこと?」
「人間て、誰からも必要とされなくなったとき、本当にダメになっちゃうんだよ」
「誰からも?」
「そう、だけど、誰からも必要とされない人なんてほとんどいないよ」

くうは自分でうんっと頭を頷かせる。

「どんな人も、絶対にだれかからは必要とされてるの。それが家族じゃなくても、友達じゃなくても」

ぼくは本当にだれかに必要とされているのか。もしかしたら、過去にはいたかもしれない。だけど、今ぼくの気づく範囲では、両親くらいしかいない気がする。

「なるほどね」
「だから、かいくんにもたくさんの人を必要としてあげてほしいの」
「ぼくが、誰かを必要とするの?」

ぼくは誰かを必要とすることの詳細があまりわからなかった。

「そう、誰かを必要としてあげて。」
「でも、ぼくあんまり友達とか多いわけじゃないよ」
「うんうん、そんなことは関係ないの。別に、仲が深くなくたって良い。ただ、あの人と話したいなとか、それだけで良いの」
「それだけでいいの?」
「うん、それだけでいいんだよ。もしかしたらそれだけで救われる人がいるかもしれない」
「そっか…」
「だからかいくん、無理する必要はないけど、もう一度大学にいってみたら?」

くうの唐突の発言に、ぼくは反応するのが少し遅れてしまった。

「え、大学に??」
「そう、だって、もしかしたら大学の中にかいくんを必要としてる人がいるかもよぉ?」
「それはないと思うけどね」

ぼくは、これには確信があった。大学は高校みたいにクラスがある訳じゃないから、親しい友達なんていないし、顔が知らない人ばかりいる。

「まぁ、でも一度行ってみるのもアリだとは思うっ」
「そうかな…」

そこからはくうは何も言わずにいた。

「じゃあ、時間もあるから、次の海へ行こうかっ」

あっという間に時間は過ぎていた。
ぼくも立ち上がり、頷く。

「そうだね、いこうか」

ぼく達は次の海に向けて駅へ向かった。

次に到着した海も、探している海ではなかった。

「ここでもないかぁ」

くうはさすがに疲れてきたのかへなぁとなった。

「うん、やっぱりここでもないね」
「ねえぇ、かいくん」

くうが体を脱力させながら呼んできた。

「どうしたの?」
「私お腹すいたよぉ」

くうに言われて気が付いたが、ぼくとくうは海を探しているときはほとんど食事をしていなかった。
しかし、ぼくは普段から基本小食で、朝ご飯も食べることの方が少ないくらいなので、そんなことは微塵も考えていなかった。

「ぼくはあんまりお腹すいてないけどね」

そういうとくうは、ほっぺをぷくっと膨らませた。

「女の子がお願いしてるんだぞ!」

くうはなにかと女の子という言葉を悪用してくる。

「いや、そんなこと言われても…。分かったよ…」

くうに対抗しても無駄だとわかっているため、ぼくが早めに折れることにした。

ぼくたちは、海が見える日陰のベンチを見つけそこに並んで腰かけた。

くうに、なにを食べるのかと問いかけると、自分で持ってきていたみたいだ。

「え、まさかと思うけど、それってスープ…?」

くうはバッグから保温ができるケースを取り出したのだ。

「え、なにか悪いですかー?」
「いや、悪いとかではないけど、こんな真夏によく…」

くうがケースの蓋をあけると、中から湯気がもくもくと出ていた。

「まったく、かいくんはなにも分かっていませんねぇ」
「なにがですか…」
「こんな暑い日に熱いものを食べると、より一層おいしく感じるんだよ!」
「なにを言っているのか全く理解ができないです」

こんな会話をしながら、ぼくはコンビニで買ってきたおにぎりをひとつ食べながら海を眺めていた。

「あ、かいくんに朗報がありますよっ」

くうがにっこりと笑いながら言った。

「本当に朗報ですか?」

あまり信用ができなかった。
どうせ、今日はこれからもう一箇所行くとかそんなところだろう。

「今日は、これからもう一箇所海にいきますっ!」

やっぱりそうだ。

「そういうとおもったよ」
「え!嘘つけ!」

くうは図星をつかれたのが悔しかったのか、詰め寄ってくる。

「はいはい、じゃあすぐに行こうか」

ぼくはサッと立ち上がって歩いていく。

「ちょ、ちょっとまってよぉ!」
「ほらほら早く行くよぉ」



電車の中で、くうがぼくに次に行く海の写真を見せてくれた。

「ほら、こんな感じのところだよっ、綺麗でしょうっ」

その海は、かすかにぼくの記憶に残っており、少し懐かしさを感じた。
過去に来たかもしれないという要素も相まって、探している海はここじゃないかと期待が高まった。

目の前に広がった海を見たときにぼくの期待は砕かれた。
たしかに、とても綺麗で、わずかな懐かしさはかんじるがやはり違う。

「ここじゃ…ないな…」
「残念だぁぁぁ、私はもうつかれたよぉ」

くうはへなぁっと砂浜に座り込んだ。
ぼくはその横に座る。
このとき、ちょうど夕日が綺麗な時間で海や砂浜がすこし赤く染まっていた。

「夕日…すごいね…」
「うん、やっぱり何回見ても飽きないくらい綺麗だね」

本当にこの日の夕日は、一日に何度見ても飽きないくらいに綺麗だった。

「かいくんの探してる海はどこにあるんだろうねぇ」
「そうだね、長い道のりになりそうだね」

夕日はじわじわと水平線に沈んでいく。
この光景をみてぼくはあることを思い出す。

「ねえ、くう」
「んー」

くうは夕日を眺めて脱力したまま適当に返事をする。

「前に、ぼくに水平線を歩きたいって言ってたよね」

ぼくの言葉に、くうの体が少し反応した気がした。

「そんな変なこといったっけ…」

くうは少し聞かれたくなかったのかどこかとぼけているようだ。

「うん、いってたよ。水平線を歩けば空を歩いてることにもなるって」

くうは何も答えず夕日を眺めている。
ぼくはくうにもう一度声をかける。

「ぼくは、くうならいいかなって思って、大学に行っていない理由を言ったんだよ。
だから、ぼくにだってくうのことを少しでも教えてほしいんだ。」

くうはすこしぼんやりとした顔を続けてから口を開いた。

「私ね」
「うん」
「私、お父さんいないんだ」
「えっ…」

このとき初めて聞いたから、思わず声を出してしまった。
くうの顔ははじめて見るほど悲しげな顔をしていた。

「お父さん、私が小さい頃に病気で死んじゃったんだって」
「そ…そっか…」

相槌以外に適切な反応がぼくにはできなかった。

「だから、お父さんの顔は覚えてなくて、写真でしか見たことがないの」

ぼくは余計なことは言わずに、くうの話を聞くことに徹底した。

「お父さんは空にいるんだって」

くうは震える声で悲しげな顔のまま続ける。

「お父さんはいなくなったんじゃなくて、空に行っているだけなんだよってお母さんに言われてた」

くうが腕をふっと上げ、水平線を指さした。

「水平線は、空と海が繋がって見えるよね。だから水平線まで行けば…空を歩ければ…お父さんに会えるのかなって…」

気づけば、くうの目からは大粒の涙がこぼれていた。
ここからぼくとくうが話すことはなく、ただただ沈んでいく夕日を眺めていた。


「今日は帰ろうか」

くうの目は赤くはれていた。くうはぼくの呼び掛けに涙を拭いながら小さく頷いた。





「かいくん、今日もありがとう」

ぼくたちは図書館の目の前で向かい合っている。

「ううん、こちらこそ」
「かいくん、もし明日学校にいってみるんだったら、私のことは気にしなくて大丈夫だからね」
「うん、ありがとう」
「だけど、もしそれが嫌だったらここにきてくれれば、私かいくんのこと待ってるから」

くうはぼくを勇気づけてくれるだけじゃなく、逃げ場も用意してくれていた。

「うん」
「じゃあまたね、また晴れた日に」
「うん、晴れた日に」

そう別れを告げてぼくたちは逆の方向へと歩いて行った。


家についてから、母親に声をかけられたがろくな返答もしなかった。
今日はくうのことを新しく知ることができたが、いつも明るいくうからは正直想像できないことばかりだった。
しかし、くうに言われた言葉のおかげで、ぼくは明日は大学にいって一つでも授業を受けてこようと思えた。

くうの『誰かから必要とされているかもしれない』という言葉を信じて。






今日はいつもより少し早く起きて学校に行く準備をする。
準備といっても、ただバッグに筆記用具とノート、財布を入れるだけだが。
リビングに降りていくと、両親が朝食を食べていた。

「あら、かい今日は早いね」
「うん、まぁ」

顔を洗い、歯を磨いたらまた自室に戻る。
改めてバッグの中身を確認し、必要なものが入っているかを確認する。

家を出ると、久しぶりの時間帯ということもあり違和感を感じた。
周りには、登校中の高校生や出勤中の会社員が多くみられる。
すごく新鮮で久しぶりな感じがした。

電車に乗り、大学の最寄り駅へと向かう。
駅に着くと、同じ学生であろう人たちが多くみられる。
人の流れに任せて道を進んでいくと、大学の大きな建物が見えてくる。
人波が大学の入り口に飲まれていくかのに中に入っていく。
ぼくもその流れで中に入っていった。

自分の受ける授業の教室に入ると、やはり大勢の学生がすでに席についていた。
後部から中間部の席はもう空いておらず、前の方の席に座るしかなかった。
周囲の人は友達と話すのに夢中で、だれもぼくのことなんかは気にしてない。

時間が経つと教授が入ってきてまもなく授業が始まった。
授業中はずっとくうと海や、最近のことばかり考えていた。
昨日の、くうの父親についての会話や水平線の話。
くうとの会話中、突然頭に流れ込んできた『大事なものは写真たてに入れておくの』という言葉の意味。
夢に出てくるどこかで聞いたような「そら」という名前。
"思い出の海"という題名の本のこと。

最近は、色々なことが自分に起きている。
そんなことを考えてた時だった。

「水平線というのは」

という言葉が耳に入った。
その言葉に反応するかのようにぼくは顔を教授の方へ向ける。
受講している科目的に、水平線という単語は無縁のため、なにかの余談だろうと思った。

「水平線というのは、水面と空の境界線を言うんですよね。そしてですね、観測者から約五キロほどの位置に見えるらしいですよ。意外と近いような気がしますよねぇ」

寝ていたり、携帯を隠れていじっている人が多くいる中でぼくはこの話だけをしっかりと聞いていた。

しばらくして、授業が終わった。
教授の、おつかれさまですという声と同時に話し声がだんだんと聞こえ始め次の授業の教室に移動を始める。
ぼくもあまり目立たぬように、早めに移動しようと席を立ち人波に混ざって教室を移動した。

次の授業でも前の方に座った。
なんとなくノートを広げ、教授がアピールした単語をとりあえずメモしておく。
今すぐに図書館にいって本を読みたいなと思っていた。
別に、今のところ嫌なことが起きたわけでもなく普通に授業を受けているだけなのだが、授業内容が頭に入っていない以上は授業を受ける意味はほとんどない。

こんなにも無駄な時間を過ごすくらいなら、好きなことをしたいと思うのは当然のことだろう。

ほどなくして授業は終わった。
この日は二コマしか授業が入っていないため、周りの人は荷物をまとめ始め、出口へと向かっていった。
ぼくも帰ろうと荷物をまとめているときだった。

「ねぇねぇ」

と声をかけられた。
ぼくには大学には友達はおらず、同じ高校だった人も特に仲が良かったわけではなかったため声をかけてきたのが誰なのか見当がつかなかった。
顔を見るとやはり知らない人で、おとなしめな雰囲気の男子だった。

「え…」

あまりの突然のことにまともな反応ができなかった。

「あ、急にごめんね、君学校来るの久しぶりだよね?」

この時は本当に驚いた。
ぼくは確かに入学してからはじめの頃は学校に来ていたが、誰かと会話したわけではなく、授業内でグループワークなどがあったわけでもないため、ぼくが久しぶりに学校に来たと認識している人がいるとは思っていなかった。

「あ、はいそうですけど…なんで知ってるんですか…」
「あぁ、初めの授業の休み時間の時に君、本読んでたよね」

ぼくは学校が始まってすぐのころは、空き時間に本を読んでいた。しかし、彼がなんの本のことを言っているかは分からなかった。

「ま、まぁ…一応読んでましたけど…」
「だよねだよね、自分君の読んでた本の作者の大ファンでさ」
「あのミステリー小説のこと…?」
「そうそう、あの作者さんの本は伏線とか繊細で好きなんだよね」

三冊候補があったが、恐らくミステリー小説のことを言っているんだろうと思い聞いてみるとやはりそうだった。
彼はその本の作者の大ファンと言っているが、ぼくは特にそんなことはなく、タイトルで読むことを決めただけなのだ。
しかし、ここでわざわざそれを伝えることもないと思いなんとなく話を合わせることにした。

「そうだね…あの本の内容自体も面白かったし」
「そうだよね、だから君とは趣味が合いそうと思って友達になりたかったんだよね」

彼は、すごく淡々としていた。
だけどもぼくとしてはそれがすごくありがたかった。

「な、なるほどね」
「あ、引き留めちゃってごめんね、もう帰るよね」
「あ、うん、まぁ」

特に急いで帰る理由はなかったが、この後にいつもの図書館にいこうと考えていたためそう答えた。

「そうだよね、今頃で悪いけど自分、中村陽太」
「ようた…、自分は大野海」
「かいくんね、よろしく、今後も話しかけるようにするね」
「あ、うんわかった」

そういうと陽太は出口の方へ向かっていった。
一連の流れがスムーズに進みすぎて、しばらくはあっけにとられていた。

「これって、友達ができたってことでいいのか…?」

大学でのはじめての友達ができた。



大学をでてからもしばらくはぼうっとしていた。
もしかしたらくうの言っていた、ぼくを必要としている人がいるかもしれないというのは、このようなことなのではないのか。
図書館に行ってすぐにくうに伝えようと思った。

来た道を戻り、駅について電車に乗った。

最寄り駅についたら、自分の家ではなく図書館の方へ歩いていく。


図書館の中にくうがいるのが見えた。
中に入ると、いつもの司書の女性が挨拶をした。

「こんにちは」

とても柔らかい笑顔でいつも出迎えてくれる。
ぼくは軽い会釈を返し、くうのいる席へと向かった。

くうは海の写真集を眺めていた。
今日は誰にも借りられてないようだ。

「くう」

近づいて声をかける。

「あ、かいくんっ!」

くうはいつもの満面の笑みを向けてくれる。
隣の席に荷物を置き、座った。

「今日は、大学行ってきたよ」

くうは一瞬驚いたような顔をしてから、すぐに笑顔に戻った。

「そっかそっかっ!どうだった!?」
「うん、思った以上に普通だった。別に変な目で見られるとかもなかったし」
「そうでしょっ!一瞬怖いと思うものでも、勇気だしてやってみると簡単だったりするんだよっ」

くうの言っていることは一理あるなと素直に思った。
ぼくが、大学という場所を安直な理由で敬遠していただけだった。

「別に怖いとは思ってなかったけどね」
「いいのいいのぉ」
「それでね、もう一つ報告があって」
「お、なになに?」

くうが身を乗り出してくる。

「一人友達ができたんだ」

くうは一瞬固まってから、満面の笑みを浮かべた。

「ほんとにっ!すごいじゃんっ!」
「まぁ、ぼくから話しかけたわけじゃないけどね」

ぼくの言ったことに、くうはぶんぶんと首を振っている。

「うんうん、それでもいいんだよっ」
「それならいいんだけどね」

そのとき、くうがぼくの頭のほうに手を伸ばしてきた。
なにをするかと思うと、ぼくの頭を優しくなでた。

こんなことをされるのは最近ではなかったため、すごくびっくりしたが、すごく優しく、温かい手だった。
くうの顔をみると、いつものくうではなく、子を見つめる母のような優しい表情をしていた。

「え…どうしたの…」

くうは微笑んでいて、しばらくしてから手を戻した。

「いやいや、ほんとに偉いよっ」
「う、うん、ありがとう」

くうは笑顔でずっとぼくをみていた。

しばらくしてくうが言った。

「そうだかいくん、明日も海探しに行くよねっ」

いつものぼくだったらすぐにこの誘いを承諾していただろう。
だけども、この日のぼくは明日も学校に行こうと考えていた。

「くう、ごめんぼくさ」
「ん?」
「明日も学校行ってみようと思うんだよね」

くうは少し悲しむのかと思ったが、そんなことは一切なかった。

「そかそかっ!じゃあ、明日以降の晴れた日だねっ」
「うん、ありがとう、次の晴れた日だね」
「次に海に行くときには期待してくれていいんですよぉ」

くうの表情をみるに、探している海の有力候補が見つかったのだろう。

「なかなか自信ありそうだね」
「まあね!」
「それじゃあ、かいくん学校から直接来たってことはまだご飯食べてないだろうから、帰ってご飯食べてきなっ」

そういえば朝食を食べず、大学に行って直接ここにきているため、今日はいまだに何も食べていなかった。

「ぼくはあんまりお腹すいてないけどね」
「ほらぁ、またそんなこと言ってぇ。体持たないんだから駄目ですっ」
「わかったよ」

正直対して空腹でもなかったが、くうに心配をかける必要もないと思い、いったん帰ることにした。

「じゃあ、帰るね」
「うん、明日以降の晴れた日っ、忘れないでねっ」
「わすれないよ」
「大学、がんばってっ」
「うん、ありがとう」

ぼくはくうと約束を交わし、図書館をあとにした。

くうと会うのはまた次の晴れた日に。

翌日のぼくも、昨日と同じ道を歩き、学校に向かっていた。
陽太の存在がぼくにはとてもありがたく、昨日よりかは学校に行くことに対しての嫌悪感は大幅に軽減されていた。

教室に入ったら、陽太がいち早く話しかけてくるのかと、心のどこかで期待していた。
教室に向かっているだけなのに、不思議なくらい心臓がどくどくとしていた。

教室に到着し、中を少し除くとやはり人がたくさんいた。
パッと見では陽太の姿を見つけることはできなかった。

教室内にはいり、あたりを見渡してみると、前の席の方でぼくに向かって手招きしている人がいた。
よく見てみると陽太だった。
陽太のもとに早歩きで向かっていき、横の席に座った。

「おはよう」

ぼくが先に言った。
陽太は本を読んでいたみたいだ。
作者名をみると、昨日話していた作家の名前だった。
やはりよっぽど好きなのだろう。

「おはよ、すごいよねここに来たの遅いわけでもないのに、後ろの席なんかすぐ埋まってたよ」

やはり、相当早い時間にこないと最後列はおろか、後部の席にさえ座れないようだ。

しばらくして授業が始まった。
授業中はもちろん陽太と話すことはなく、淡々と進んでいった。
九十分ほどして授業が終了した。九十分座りっぱなしで話を聞くというのはなかなか酷だなと授業が終わると感じる。

次の授業までは長時間空くため、陽太と食堂に向かった。
昨日久しぶりに学校に来たばかりなのに、新しくできた友達と並んで昼食を食べているのは、とても違和感のある状況だった。

先にぼくがご飯を食べ終え、スマホで海の写真をぼうっと眺めていた。

「ん、それ海の写真見てるの?」
「あ、うんちょっと事情があって」
「事情があって海の写真見てるって、どんな事情がすごい気になるな」

はじめは、わざわざ海を探しているということを伝える必要はないと考えたが、隠す必要も特にないと思い、大まかな事情を伝えた。

「なんか不思議なものを感じた海の写真を見つけて、その海がどこにあるのか探してるんだよね」

陽太はどんな反応をするのか想像できなかったが、想像以上にすんなりと理解してくれたようだった。

「おぉ、なるほど。なんか不思議な話だね」
「うん、口で説明するのはなかなか難しいんだけど、なんか感じたんだよね」
「その、海探しっていうのはひとりでやってるの?」
「いや、ひとりではなくて、年下の女子と」

今更思ったことだが、年下の女子と二人で一日中海をめぐっているというのはなかなかに珍しい状況なのだ。

「その子とは、なんか幼馴染とか?」
「あ、いや、それが最近図書館で知り合ったばかりで」
「ふーん、なかなか不思議な関係だね」

陽太は軽く笑いながら言ってきた。
くうとは、最近出会ったはずなのだ。
ぼくにひとつ年下の女子の友達はいないし、そもそもくうに出会ったときに来ていた制服が、ぼくの知らない学校の制服だったから。

「で、その探している海は見つかりそう?」
「うーん、いくつかそれらしいところはあったけど、まだ遠くなりそうかな。でも彼女が次行くところは期待ができるって言ってたから、もしかしたらって感じかな」
「そこだといいね」
「そうだと助かるんだけどね」
「そこの海の写真とかは無いの?実際の」

そう聞かれて、たしかになと思った。もし陽太が偶然でもその海のことを知っていれば、陽太に写真を見せればすぐに見つけることが出来る。

「いまは無いかな。写真も撮ってなくて」
「なるほどね、もしその写真あったらおれが見れば分かるかもしれないね」
「そうだよね、出来たら今度見せれるようにする」
「おっけい、ありがとう」

海についての話をしていると、陽太が時計を見ていった。

「もうそろ授業の時間になるからいこうか」
「あ、うん」


この後の授業も、とくにかわり映えせず、淡々と過ぎていった。

「じゃあかい、帰ろうか」
「そうだね」



高校を卒業してから、だれかと大学から帰るというのも初めての経験だった。

「あ、かいさ」
「ん?」

昨日知り合ったばかりだけど、陽太とはもうすでに自然体で話せるようになっていた。

「おれね、実は写真の趣味があってさ」
「写真の趣味?」
「そう、まあ、いろんなところにいって綺麗な写真撮ったりしてるんだけど」
「え、すごい」

自分には、カメラなどの知識が全くなかったから、素直にカメラなどを扱える人は凄いと思えた。

「まぁ、べつに、そんなプロでもないし、上手く撮れるってわけじゃないんだけどね」
「いやいや、それでも十分すごいとおもうよ。それで、どんな写真撮ってるの?」
「まぁ、もちろんいろんなところの写真撮ってるんだけど、海の写真も今までに何枚か撮ってるんだよね。おれのお姉ちゃんが海好きでさ」

陽太が撮った写真の中に、ぼくの探している海があるのはありえないと思っていた。
だけども、少し期待をしてしまった。
もしかしたら。

「え、そのなかにもしかしたら!」
「うん、まぁその可能性はすごく低いと思うけど、もしかしたらかいの探している海の写真がぼくのアルバムにあるかもしれない」

可能性がどれだけ低くても、ぼくにはとてもありがたい朗報だった。

「え、その写真って見せてもらうことできる!?」
「うん、もちろん。だけど、明日明後日は土日だから、次の月曜日に海の写真を何枚か持ってくるよ」
「ほんとにありがと!」
「全然いいよ」

この時、陽太とぼくを巡り合わせたのはこのためだったのではないかと薄々感じていた。

「ていうか、陽太お姉ちゃんいるんだね」

さっきの話の中で出てきた、陽太のお姉ちゃんについては知ったところでなにもないと思うが、兄弟がいるというのが少し意外で聞いてみることにした。

「ん、あぁ、いるよ結構年の差あるけどね」
「何歳差?」
「んと、おれが十九で、お姉ちゃんが二十六だから七歳差か」
「ほえぇ、結構な年の差じゃない?それ」
「まぁね、でも年の差ある方が変に喧嘩とかしないから楽だよ」

自分には兄弟がいないからあまり分からないが、もし兄弟がいたらたぶんそうなんだろなと勝手に納得していた。

「名前はなんて言うの?」

駅までもう少し距離があるため、なんとなく名前も聞いてみる。

「月菜だね。結構珍しくて同じ名前の人見たことないけど」
「たしかに、聞いたことないかも。陽太と月菜で太陽と月なんだね」

そういうと、陽太が少し笑った。

「まぁ、名前の由来聞いたことないけどちょっと意識してるだろうね」

ぼくもそれに合わせて軽く笑う。

「そのお姉ちゃんが海好きだったんだ?」
「あ、うん。なんかおれは小さい頃だから分からないけど、お姉ちゃんが高校生の時はその時の友達とよく海遊び行ってたらしくて。今でもよく1人で色んな海に行ってはぼうっとしてるらしいよ」
「へぇ、そうなんだね」

こんな会話しているとあっという間に駅に到着していた。

「じゃあ、自分あっちだから」
「あ、うん、じゃあまた」
「うん、また月曜ね」

陽太とは、違う路線のため駅内で別れた。


最寄り駅についてから、図書館に寄ってみたが、くうの姿はなかった。

「くう…今日いないんだ…」

くうはいなかったが、明日晴れれば会えるため、この時は特に気にしていなかった。










今日もしっかりと太陽が顔を出していて、まぶしいくらいだった。
時間を確認しながら準備を進め、九時に図書館に到着できるようにする。

家をでて、のんびりと歩いていると図書館にはすぐに到着する。
図書館に歩いただけで、すこし背中が汗ばんでくる。

「かいくんおはようっ」

図書館の前には、にっこりとしたまぶしい笑顔がぼくを迎える。

「おはよう」
「ちゃんと時間通りに来てくれましたねっ」

この時に気が付いたが、ぼくはくうより先にここで待っていたことが無い。
くうは早い時間からいつもここでぼくを待っているのかもしれない。

「そんなくうは、いつもぼくより先に来てて早いよね」
「まあねっ!私はここの図書館に住んでるからねっ」

くうはクスっと笑う。

「それはそれは」

くうの冗談を聞いていると、不思議とぼくも笑顔になってくる。

「それじゃあ行きましょうかっ」
「うん、そうだね」

ぼくとくうは並んで駅へと歩いていく。

「そういえば、今から行くところって期待していいとこなんだよね」
「そうだよっ、もしかしたら今日中に探している海が見つかっちゃうかもねっ」
「そろそろ見つけたいからね」

相変わらず、向かっている海の場所は教えてくれないためぼくもただ後ろをついていく。


しばらく静かに席に座ってぼんやりとしていたが、ふと長い時間電車に乗っていることに気が付いた。

「ねぇ、くう、今日は少し遠いところにいくの?」

そうきくと、くうは指を顎に当てすこし考えるそぶりを見せた。

「うーん、そうだねぇ、今までのところよりは少し距離があるねぇ、だから今日は一箇所だけしか行けないかもしれないんだよねぇ」
「そうなんだね」

そういうと、くうは少し顔をのぞかせてくる。

「え、なに」
「私と一緒に海に行く回数が減るんだから、もっと悲しんでくれてもいいんですよぉ?」
「あ、そんなことですか」
「そんなことってなんですかぁ」

くうは頬をぷくっと膨らませる。

何気ないやり取りをしているうちに、電車は目的地へとどんどん近づいていく。



「かいくんっ、ついたよっ」

ぼうっとしていたが、くうの声でハッとした。
正確な時間は分からないが、だいぶ長い間電車に乗っていた気がする。
窓の方へ目を向けると、ここからでも微かに海が見える。
完全に停車して、ドアが開くと優しい風と共にわずかな潮の香りが鼻をなでた。

「ほらっ、おりるよっ」
「うん」

くうの後に続き、電車を降りる。
駅の規模は小さめで、周りにいるには地元の人のような人ばかりだった。
駅の周囲の景色で、ぼくがここに来るのが初めてだということは薄々感じていたがまだくうには言わないでおく。

「いやあ、結構電車長かったねぇ」
「そうだね、それでここはどこらへんなの?」

駅名もなじみの無い名前の為、ここがどこの県なのかすらぼくは理解していない。

「ここはね、茨城県だよっ」
「茨城県…か」

過去に茨城の海には来た気がしなくもないが、だいぶ前のことなのでいまでは全く覚えていない。

「まま、そんなことより海ですよっ!早く行かなきゃ!」
「わかったわかった」

くうはまだ海には到着していないというのにご機嫌だ。

もはや当然かのように、探している海ではなかった。
この日もいつものように、海は見つけられず、期待もあったせいかくうも少し落ち込んだ様子で一日を終えた。

次の日も、これほどかというくらい日が当たる晴天だった。今日こそはくうよりも先に集合場所についてやろうと思い、三十分ほど早く家を出た。少し大股で急いで歩くと、どんどん身体が熱をもって汗が滲んでくる。服をパタパタとさせて空気を送り込むが、送られてくる空気も暖かく特に意味が無いようにも思える。
図書館の近くに着き、入口を見た時頭を抱えた。

「いや、早すぎる…」

20分ほどはやく着いたというのに、くうはすでに入口で待っていてニコニコとこっちを見ているのだ。

「私より早くここに着こうなんて考えたって無駄ですよ?」

そう、くうはぼくをからかう様に言ってくる。

「別にちょっと早く起きたから偶然早く来ただけで、くうより早く着こうなんて考えたこと無かったですけど?」

ぼくも、そう言って意地を張る。

「ふっ、かわいいやつめ」
「ぼくより一つ年下のくせに」
「なっ!それは言わない約束でしょ!」

そう言ってくうはゲラゲラ笑いながら肩を叩いてくる。こんなように集合してすぐ2人でケラケラ笑っている。

「ささっ!行きましょうか!」

くうがパチンと手を叩き、駅の方へ体を向ける。

「うん、いこうか」

ぼくもその横に並ぶようにして共に歩いていく。
いつもの様に、学校での様子や普段なにしているかなどの雑談をしていれば、多少遠い場所でも目的地にはすぐに到着する。

「ついたついたっ!」

またくうはキャッキャとはしゃいでいる。
でもやはり、駅で降りた時点で感覚的に探しているのはここでは無いと分かってしまう。感じるものがないのだ。それでもせっかく来たし、嫌いな海を見るのはやはり気持ちがいい事なので向かうことにする。海に向かって歩いてる時、ふと学校での陽太との会話を思い出しくうに話しかける。

「あ、くう」

少し前を歩いているくうはこちらにくびだけ向けようようにして反応した。

「どしたの?」
「あの、ぼくが前、学校で友達が出来たって言ったでしょ」
「うん、言ったね」
「それでその友達が、写真を撮るのが趣味らしくてね」

そういうと、くうは興味ありげにうんうんと頭を頷かせ始めた。

「で、その子のお姉ちゃんが海が好きらしくて、一緒について行って海の写真も何枚か撮ってるんだって」
「ほうほう、それでそれで?」
「その写真を、明日持ってきて見せてくれるみたいなんだよね。だからその中にもしかしたらぼく達が探してる海があるかもしれないなって」

それを聞くと、くうは分かりやすく笑顔になった。

「えっ、すごいすごいっ!ほんとに見つかるかもじゃんっ!」

くうは楽しそうにぴょんぴょん跳ねている。

「それで、そのお友達の名前はなんて言うの?」
「あ、そう言えば言ってなかったね」

思えば、友達ができたとは伝えたが、名前まではくうには伝えていなかったのだ。

「名前はね、陽太くんだよ」

その時ぼくは、くうの表情が一瞬固まったのを見た。なにか陽太という名前に聞き覚えがあるのだろうか。表情をそのままに、くうは続けて聞いてきた。

「陽太くんか、名字は?」
「名字は、中村だよ。中村陽太」

明らかにくうの表情が変わった。少し虚ろな表情をして、どこか悲しげな雰囲気も含んでいる。ぼくと目を合わせず、一点を見つめて何かを思い詰めているように。

「え、く、くう…どうかしたの?」

そういっても、少し目線をこちらに向けてくれるだけで反応はなかった。その代わりに何かを呟いている。

「中村…陽太…そんなことって…」
「ねえ、くう、どうしたの??」

そう言ってぼくはくうの両肩を持った。そして顔を見るとくうは泣いていた。

「え…どうしたの…」

それにくうは震えた声で返した。

「ごめんね…かいくん…ごめんね…私だめだ…今日は帰ろ…」

ここまで来て急に帰るというのも良く分からないことだが、くうがこんな状態だとこれ以上一緒にいても良くないというのは明らかだった。涙の真意は何も分からないが、ここは素直にくうのお願いを受け入れようと考え、くうの目をみて頷いた。

「うん、わかった。今日は帰ろう」

そうすると、くうはより一層唇を震わせた。

「ありがとう…ほんとうに…」

そうしてぼく達は海にもうすぐ到着するであろう場所で引き返し、来た道を帰り家の最寄り駅まで帰っていった。電車の中でも特に話すことはなく、くうはずっと下を
向いてうなだれていた。

「かいくん…ごめんね…本当にごめんね…」

夕方過ぎに最寄り駅に到着したあとの別れ際も、くうはぼくは必要以上に謝ってきた。

「やめてよ、くうはなにも悪いことしてないし、ぼくも大丈夫だよ」
「でも…でも…」
「本当に大丈夫だって。ほら、家に帰ってゆっくり休もうよ」

そうなだめるとくうは少しコクコクと頷いた。

「そう…だね…」
「それじゃ帰ろうか」
「うん…」

ぼくはくうに背を向け自分の家の方へ歩き出した。振り向いてくうに声をかける。

「気を付けて帰るんだよ」

そうすると、くうは悲しげな顔をしたまま頷いた。ぼくもそれに軽くうなずいて返しまた家の方へ歩みを進めた。

「またとしょ…あれ…」

また図書館で会おうと声をかけようとして、振り返った時にはくうの姿はそこには無かった。

「あれ…急に…」

すこし考えたが、軽くぽつぽつと雨が降ってきたため足早に家に帰ることにした。


翌日、いつも通りアラームで起床して学校に向かう準備を済ませた。準備をしてる時、ずっと昨日のくうの様子が頭をよぎる。

『中村…陽太…そんなことって…』

くうが陽太のことを知っているはずがないのにも関わらず、陽太の名字を気にして、フルネームを知った時にはなにかを思い詰めるような表情をしていた。陽太と同じ名前の人がいてその人となにかあったのか、それとも本当に陽太と関りがあるのか。必死に考えたところで何もわからなかった。
諸々の準備を済ませたら学校へ向かっていく。大学の最寄り駅に着き、イヤホンで音楽を聴きながら大学に向かって歩いていると、後ろから肩をたたかれた。驚いて後ろを振り向くと、そこには陽太がいる。すぐにイヤホンを外す。

「やっと気づいた、声かけても反応しなかったから」
「ごめんごめん、全然気づかなかった」

そういって陽太に笑いかける。ぼくは基本的に音楽を大音量で聴いているため周りの音はほとんど聞こえていない。そのため、声をかけられた程度では気づけないのだ。

「あ、授業終わったら海の写真見せるね」
「あ、ほんとにありがとう」
「全然全然」

ぼくと陽太は横並びで歩いていき、大学へ入っていった。特に時間に余裕をもって到着したわけでもないため、やはり席は後ろから真ん中まではびっしりと埋まっており、前の方の席しか空いていなかった。

「そこに座ろうか」
「うん、まぁどこでも大丈夫だよ」

そう言って前から三列目の席に座った。席に座って数分後、教授が教室に入ってきてしばらくしてから授業が始まった。授業中は、一応スマホなどは触らず教授の方へ目線を向けているが、やはり海のこと、くうのことが頭から離れず授業の内容はほとんど頭に入ってこなかった。しかし、休憩がてら話していた余談のような教授の話が少し興味深かった。

「皆さん、夢って見るでしょう?私も内容は曖昧ですけど昨日夢見ましてね。なんか、夢って混沌としているというか突っこみ所満載っていう感じしません?なんであなたがでてくるの?とかそんな感じで」

確かになと思った。夢はよく見るが、どれも脈絡のない内容ばかりで理解に苦しむ内容ばかりだからだ。

「それで、夢っていうのは普段起きた出来事とか、蓄積した情報を整理すために見るらしいんですね。私もネットで調べたんですけどね。脳に溜まってる過去の記憶とか、最近の記憶が同時に処理されるために、あんな混沌とした感じになるらしいです」

この話を聞き終わり、ふと最近見た夢のことを思い出す。

『きみと水平線をあるけたらな』

黒髪の女の子にそう言われたあの夢。あの夢も、もしかしたら忘れてるだけでぼくが過去に経験してきたことなのかもしれない。あの夢も。あの夢も。

「はい、じゃあ今日はここらへんで終わりましょうかね」

教授のそのセリフと共に授業を受けているみんなの静寂が解かれる。九十分の授業はどうしようもない考え事をするにはあっという間の時間だった。

「いやぁ、やっぱ九十分て退屈だね」

陽太が横で伸びをしながらそう言ってきた。

「まぁ、九十分て結構長いよね」

この日は授業が二コマしかないため大体の生徒は授業が終わったらすぐに教室を出て帰宅していく。

「写真、食堂で見ようか」
「うん、そうしよ」

ぼくの通っている大学では、食堂は食事をするだけの場所ではなく、暇な時間に勉強をしたり談笑したりする場所でもある。ぼくらが食堂にいくと三割ほどは食事以外の目的で使用している。

「ここらへんでいいか」

ちょうどよく空いていた席に座り荷物を置いた。陽太はバックの中から薄い本のようなものを取り出しながらぼくに尋ねた。

「かいは昼ご飯食べる?」
「あ、おれは食べなくていいや。陽太は?」
「おれも別にいいかな」

朝ご飯も食べてないが、正直そこまで空腹というわけでもないので昼ご飯も抜くことにする。

「それで、一応これね」

そう言って陽太が机に置いたのは写真を一枚一枚収納できるクリアファイルみたいなものだった。

「みても大丈夫?」
「もちろん、見てもらうために持ってきたからね」
「ありがとう」

ページをめくってみると、本当に驚いた。良いカメラを使っているというのもあると思うが、撮影する角度、収める位置などセンスにあふれていて、プロのカメラマンが撮影したといわれても遜色ないほどの仕上がりだった。

「え、すごすぎる…」

そうつぶやくと、頬杖をついてこちらを見ている陽太がにこにこしながら言う。

「いや、そんなことないけど、父親がくれたカメラ使ってて、それがなかなかに良いカメラなんだよね」
「なるほど…だとしてもやっぱすごいと思う」
「ありがとう」

陽太は少し照れくさそうにしている。三枚目の写真に目を通したあたりでぼくはあることに気が付いた。この写真に写っている海、どこかで見覚えがあるのだ。そうしてぺらぺらとページをめくっていくとやはりそうだった。写真に写っている海、そのすべてが、ぼくとくうが今までに巡った海だった。

「え…ここも…ここも…覚えてる…」

間違いなかった。はっきりと覚えていた。どの写真を見ても、やっぱりすべて見覚えがある。最後のページに到達し、ぼくとくうが探している海こそ写っていなかったが、そこにあるすべての写真の海にぼくはくうと行っていた

「こんな偶然…あるわけ…」
「かい、どうした?なにか気になる?」

目を見開いて一人で呟いているぼくに陽太が声をかける。

「い…いや…」
「ん?」

陽太は怪訝そうな顔をしている。

「陽太…この海って…なんで…?どうやって…?」
「どうやって?」
「なんでこの海を選んだの?」

ぼくが何を言っているか分からないと言いたげな顔をしながらも陽太は答える。

「海は、おれが選んで行ってるわけじゃなくて、お姉ちゃんが行きたいとこにおれが付いていってるだけなんだよね」
「じゃあ、陽太はこの海のことはあんまり知らないってこと…」

きょとんとした顔で陽太はそうそうと頷く。

「なんで陽太のお姉ちゃんはこの海に…?」

陽太のお姉ちゃんが行くと決めた海が、こんなにもぼくとくうと被るなんて偶然だとしても無理がある、これはなにか関係があるかもしれないと考えざるを得なかった。

「あぁ、おれは写真を撮ることしか興味なくて特に詳しいことは聞いてないから分からないけど、お姉ちゃんが行かなきゃいけない、見ておかなきゃいけない海だからみたいなことは言ってたような気がするけど」

そう言われて、陽太のお姉ちゃんに会いたいと思った。陽太のお姉ちゃんに会って話を聞けば、ぼくの気なっていることがすべてわかるようなそんな気がした。

「それで、どう?探してる海はその中にありそうだった?」

ぼくは静かに首を横に振った。

「ごめん…わざわざ持ってきてもらったのに…」

そう謝ると、陽太は軽く笑った。

「いやいや、謝る必要なんてないでしょ、おれも自分の写真友達に見せたの初めてだからなんかうれしいわ」
「ほんとに良い写真だと思う」

そう伝えて、アルバムを陽太に返した。

「ありがとう、うれしい」

ニコッと微笑んだまま陽太はそれを受け取りバックの中にしまった。そしてバックの中をみたままぼくに声をかける。

「あ、そうだ。写真の海がすごい気になってるみたいだからさ、今度おれのお姉ちゃんに会って話聞いてみる?何かわかるかもよ」

陽太から言われなければ、自分からお姉ちゃんに合わせてもらえるようにお願いしようと思っていたので思ってもない朗報だった。

「え、いいの!?」
「うん、お姉ちゃん、今は千葉に住んでるんだけどちょくちょく実家に帰ってくるんだよね。だから帰ってきたら伝えるから合わせてあげるよ」
「え、ありがと!ほんとに助かる!」
「任せてよ。それじゃ、今日はそろそろ帰る?」

写真のことに集中して時間を忘れていたが、思ったよりも食堂に長居してしまったようだ。

「そだね、帰ろうか」
「うん、そうしよ」

そうしてぼくたちは荷物を持って食堂をでて大学を後にした。




















起きると雨が降っていて、窓ガラスをパツパツと叩いている。
雨の影響か、部屋の空気がひんやりとしている。

「雨…か…」

起き上がる気力もなかったため、枕もとのスマホの時間を確認してからもう一度目を閉じる。



「かいくんっ、かいくんっ!見つけられるよっ!」

くうの声が頭の中に響く。
くうは目の前にいるが、姿がとてもぼんやりとしていてうまく見えない。

「見つけられるって、なにを!?」

くうがにっこりと笑って溶けるように消えてゆく。

「くう!くう!」




目を覚ました。
寝ていたわずかな時間の間に夢を見ていたようだ。
なんとなく窓の方へ目を向けると、さっきよりも雨は強くなっており、外に出る気なんて起きるはずもなかった。

今回見た夢はいつもより、声がはっきりとしていて、近くで言われているような感覚だった。

「なにを見つけられるんだろう…海…かな…」

この時のぼくは、雨で気分が落ちていたのもあり、くうに申し訳ないが海を探すのをあきらめかけていた。

喉の渇きを感じて、水を飲もうとリビングに降りていくと、母親がタンスの中の段ボール箱を整理していた。

「なんで急にそんな整理しはじめたの」

コップに水を注ぎながらなんとなく聞いた。
母は、段ボールの中をゴソゴソとあさりながら答えた。

「いやぁ、なんとなくねぇ」
「ふーん」

コップに注いだ水を一気に飲み干し、自室に戻ろうとしたとき、母が何かを見つけたのか声を出した。

「うわぁ、これなつかしいねぇ」

母は、一枚のDVDを手に持っていた。

「なにそれ」

ぼくの質問に、母はケースを軽くなでながら答えた。

「これは、たぶん七年前に、かいがよく遊んでもらってたそらちゃんと海に行った時の映像だね」

母にこういわれたとき、なんとなく返事したが、そらという名前を聞いた途端少し体がぞわっとするのを感じた。

「ふーん…そら…ちゃん…?」
「そうよ、そらちゃん。覚えてない?まぁ、七年も前のことじゃあ覚えてないかもね」

そらという名前には聞き覚えがあった。
最近夢でよく耳にするのだ。

「そらちゃんて…」
「うん?そらちゃんがどうしたの?」

母は不思議そうに聞き返す。

「そらちゃんて…どんな…」

そらという子の顔が見たかった。
顔を見れば、なにかぼくが忘れている重要なことを思い出せるようなそんな気がした。

「どんなっていわれてもねぇ…あっ、このビデオの中に顔写ってるんじゃないかな?」

母はそういうと、DVDをセットしてテレビの電源ボタンを押した。
ぼくは、もっていたコップを机におき、テレビに近づく。


ビデオが再生されると、初めに地面の砂浜がアップで映された。
一定のリズムで、波の音が聞こえる。
しばらくすると、母ともう一人の女性の声が聞こえてくる。

『これで、撮れてるかな?』

母の声だ。

『大野さん、これじゃ地面しか映ってないよ』

もう一人の女性が笑いながら言う。
ぼくはこの女性の声にも聞き覚えがあった。
それも、昔にではなく、最近に聞いた覚えが。

「この声…」

ぼくがボソッというと、母が少し驚いた様子で返した。

「かい、覚えてるの?」
「いや、覚えてるというか…聞き覚えがあるだけ」
「これは、そらちゃんのお母さんの声だよ」

そらの母親だと聞いて、最近この女性には会ってないことから、聞いた覚えがあるのはぼくの気のせいだろうと思うことにした。

テレビから声が聞こえる。
まだ砂浜が映ったままだ。

『かいー、あんまり遠く行っちゃだめよー。そらちゃんも、かいをよろしくねぇ』

言い終わってから、カメラが動いて前方にいる、ぼくとそらという子が映し出された。
ぼくはまだ小さく、少し前を歩くそらという子の後を追っていた。
母がテレビの画面を指さした。

「ほら、これがそらちゃんだよ。んー、あんまり顔がみえないねぇ」

ずっと後ろ姿が映されていて、顔は全く見えなかった。
角度のせいか、いまだに海がうまく映っていない。

母の声が流れる。

『ほんとに、かいとたくさん遊んでくれて、そらちゃんにはお礼しないとねぇ』

そらの母親の声が返す。

『いやいや、いいのよぉ、そらだってかいくんのこと弟みたいにかわいがってるんだから。あ、大野さんこれだとうまく海が映ってないね』
『あ、ほんとだ』

なかなかカメラの扱いがうまくいかないのか、二人で笑っている。

今ぼくの横に座っている母も、テレビを見ながらクスクスと笑っていた。

『よいしょ』

母親の声が流れたと同時に、カメラの角度が変わり、海の全貌が映し出された。
日の光を反射し、キラキラと美しく光る海が目に入った途端、ぼくは呼吸を止めた。

そこに映し出された海は、ぼくとくうが、ずっと探し求めていた写真に写っていた海に間違いなかった。

砂浜も。海の透明さも。美しく伸びる水平線も。
ぼくの探していた海そのものだった。

ぼくは少し震える足を進めながら、テレビに近づいた。

「ここだ…間違いない…この海だ…」

母が心配そうに顔を見てきた。

「かい?どうしたの?」
「ここ…この海…!ここ、どこ!?」

母はぼくの突然の声に驚いていた。

「え、どこって?」
「この海!どこの海!?」

母はぼくの聞きたいことを理解したのか、少し考えるそぶりをした。

「急にそんなこと聞かれてもねぇ…もう七年も前のことだから…」

母は、頭をすこしコンコンと叩いている。
すると、顔を上げて口を開いた。

「あっ、そうだ思い出したっ、神栖!」

神栖という地名にはぼくは聞き馴染みがなかったが、探していた海の場所が判明したことによる興奮で体が震えていた。

「神栖…神栖…!」

ぼくは急に立ちあがり、自室へ走った。

「え、かい?急にどうしたのよ!」

母の声はぼくの耳には届かなかった。
いち早く、海の確認をしたかった。


自室に戻り、すぐにPCを開き電源を入れる。
『神栖 海』と検索をかけるといくつかの画像が出てきた。
画像を見て、ぼくは震えた。

「ここだ…間違いない…!」

胸が驚くほど高鳴った。
外は相変わらず雨が降り続いているが、くうにいち早く伝えなければと思い、図書館に行く準備を始めた。


玄関に行くと、後ろから母の声がした。

「どこか行くの?」
「うん」

軽く返答だけして、ドアをあけた。
冷たい風が吹き込んできた。
雨粒も顔に掛かる。

傘立てからビニール傘を一本取り出し、ドアを閉めた。

雨の影響か、周りにあまり人は見られず車がいつもよりも多く感じた。
息を切らせながら、小走りで図書館へと向かっていく。
靴下は、すぐにびしょぬれになったが気にしないようにした。

図書館に到着したが、周辺にはやはりくうの姿はどこにもなかった。

「なんで…なんでこんな時に限って雨なんだ…」

今すぐに神栖の海に一人で向かうことも考えたが、やはりくうと二人でいかないと駄目だと思った。
図書館の窓にも目を向けたが、中にもくうの姿はない。

「くう…海…みつけたよ…」

雨空を見上げる。
今日雨の日だしくうに会うことは叶わないと思い、明日晴れることを願うことにした。

もと来た道を歩いていく。
雨は弱くなることはなく、どんどん強くなっている気がした。

家に着いた頃には、靴だけでなく、服まで少し濡れていた。
靴下を脱ぎ、そのままシャワーを浴びた。


ベットに寝転がりながら、スマホで神栖の海を眺める。
目的の海がわかっても、海に行けばぼくが何を思い出すのか。何を感じるかまでは分からなかった。

天気予報は見る気になれず、スマホを枕もとに置き部屋の電気を消した。

あした、くうに海のことを報告し、海へ行く。
そんな想像をしながら目を閉じた。

「頼むから…明日は晴れてくれよ…」


窓ガラスにはいまだに雨が打ち付けている。








目を開けたくなかった。

目を開けなくても、窓ガラスをたたく雨音ははっきりと聞こえていた。
それも、昨日よりも音は大きく、強い。

ゆっくりと目を開き、窓へ目をやるとやはり昨日よりも雨は強くなっており多くの雨粒が付いていた。
昨日やっと海の場所が判明したのに、くうに報告できるのはまた後日になる。

おでこに手を置き、溜息をついたとき、お腹がぐぅと鳴った。
そういえば、昨日はろくに食事もしないでいた。
お腹の音で自分の空腹を認識し、なにか少しでも食べようとリビングへと降りて行った。

リビングに行くと、母親がソファに座ってテレビを見ていた。

「あら、かいどうしたの」

首をこちらに向けながら言ってきた。

「いや、ちょっとお腹が空いたなって」

そういうと母は冷蔵庫を指さした。

「冷蔵庫の中に、ご飯がタッパーに入ってるからそれチンして食べな」
「うん」

冷蔵庫を開いて、青い蓋のタッパーを取り出した。
レンジに入れて、一分にセットする。
温まるのを座って待っていると、母が話しかけてきた。

「かい、昨日はどうしたの?神栖って言った途端急いで部屋に戻ったりして」
「あ、いや、別に何でもないよ」
「ふーん、そう」

レンジの終了の音が鳴る。
中からタッパーを取り出し、ご飯を茶碗に移した。

「いただきます」

ご飯を食べ始めると、母がまた声をかけてくる。

「あ、かい、今日青井さんの家に行くけどかいも一緒に行く?」

雨が降っていて、くうにも会えないし特に用事はなかったし、青井さんという名前にはピンとこなかったため、なんとなく断ることにした。

「いや、いいや。青井さんて知らない人だと思うし」

そういうと、母は手を「違う違う」というようにした。

「かい、青井さんはそらちゃんのお母さんのことだよ?ほら、昨日のビデオの」
「え」

そらという名前を聞いて箸をとめた。

「そら…ていう人のお母さん?」
「そうだよ、最近また会ったりしてるの」

色々と考えたが、今日青井さんの家へ行けば自分の中にある、そらという人物の正体がなにか分かると思った。

「じゃ、じゃあやっぱり行く」
「あら、じゃあご飯食べ終わったら準備してね」
「うん」

残りのご飯を口にかき込み、茶碗をシンクに置いた。


自室に戻ると着替えをした。
洗面台へ向かい、歯を磨く。
準備を終えると、母もすでに準備が済んでいたみたいだった。

「準備できたよ」
「はい、じゃあいこうか」

母は自分の傘を、ぼくは適当に昨日と同じビニール傘を手に取った。


「うわぁ、すごい雨だね」
「そうだね」

風も強く、雨は横殴りのような状態で降っていた。
ふと思ったが、母とこうして一緒に外出するのはいつぶりだろうか。

「青井さんの家ってどこら辺にあるの?」

少し飛ばされそうな傘を抑えながら、母に聞く」

「すぐ近くよ、もうすぐつくから」


しばらく歩くと、母が足を止めた。

「ほら、ついたよ」

そこは家から、図書館よりも少し近い場所にあった。
母が、扉に近づきインターホンを押す。

すぐに声がした。

「はーい」
「あ、青井さん、大野です」
「あぁ!大野さん、すぐ開けますね」

ガチャっと切れるとすぐに扉が開き、四十代くらいの女性が出てきた。

「いらっしゃい、あらかいくんも!ほら入って入って」

こっちこっちというふうに手招きしている。

「おじゃまします」

母と、一緒に中に入っていった。
玄関に入ると、なにか料理でもしていたのか良い臭いがした。

「ささ、あがってあがって」

廊下を通り、扉を開けリビングにはいる。
リビングは広々としていて、部屋の奥には大きな仏壇が置いてあり遺影がふたつおかれていたが、顔はあまり見えなかった。

「いまお茶出すから、くつろいでてっ」

青井さんはそう言ってコップを三つ用意した。
母と、椅子に並んで座った。

しばらくして、青井さんが湯気がたつ温かいお茶をぼくと母の前においてくれた。

「わざわざありがとうございます」
「ありがとうございます」

青井さんも自分の分のお茶をテーブルに置き、母の前の椅子に腰かけた。

「いやいや、こちらこそこんな雨の日にわざわざありがとねぇ」
「いえいえ、家からも大して遠くないから大丈夫ですよ」
「ならいいんだけどねぇ」

そういうと青井さんはぼくの方を見た。

「それにしてもかいくん久しぶりねぇ!何年ぶりかしら」
「あ、どうも…」

久しぶりに会ったようだが、ぼくはあまり覚えていなかったので少し声が小さくなってしまった。

「青井さんがかいと会うのは七年ぶりとかだと思いますよ」

横から母親が言う。

「あら、もうそんなに経つのねぇ。かいくんすっかり大きくなっちゃってねぇ」

ぼくの方へ優しく微笑みながら言った。

「まだまだ子供ですけどねっ」

母はぼくをからかうように笑った。

「もう十九なんだけど」
「そっかぁ、かいくんもう十九歳なんだねぇ」

この時、青井さんは少し悲しげな表情を浮かべたがぼくは特に反応しなかった。

この後は、母と青井さんが世間話にはなをさかせていた。
外を見ると、雨で天気が悪かったのも相まって暗くなってきているように見える。


「あ、青井さんそういえば」

母が、新しい話題を青井さんに持ち掛けた。

「どうしたの?」
「昨日、家の物置から神栖の海に行った時のビデオが出てきたんですよっ」

ずっとぼうっとしていたぼくも、母のこの言葉には反応して顔をあげた。

「神栖…なつかしいねぇ、あのときはかいくんも小さくてねぇ」

青井さんがふふっと笑った。

「かいなんて、ずっとそらちゃんにべったりでしたからねぇ」

母もくすくすと笑っている。
母と青井さんは笑い終えて、ふぅと一息ついた。

「かいくんが十九歳じゃあ、そらはかいくんに歳ぬかれちゃったねぇ…」
「…え…?」

それは青井さんにとっては何気ない発言だったのかもしれないが、ぼくにとっては驚愕の一言で、不意に声を出してしまった。

「え…ぼくがそらちゃんの歳を…ぬかしたって…どーゆー…」

ぼくがそういうと、青井さんはきょとんとしていた。
母の方をみると、すこし暗い顔でうつむいている。
青井さんは黙っていたが、ぼくと母の顔色をみるとなにかを察したのか、席を立ち横の部屋に入っていった。

「え…?」

ぼくはまったく状況が理解できてなかった。
母は何も言わない。

しばらくすると、青井さんがなにかを持って戻ってきて、席についた。

「かいくん、これ」

青井さんが差し出したのは写真たてだった。
なかには写真が一枚。

写真を見たとたん、ぼくは目を見開き頭は真っ白になった。


写真には、海を背景に映る幼いころの自分と、満面の笑みでにっこりと笑っている
くうの姿があった。


なにも理解できなかった。

なにも。

なんで。なんで。なんで。

「なんで…」

写真たてをもち、写真をみたまま立ちすくんでいるぼくを母と青井さんが不思議そうにみている。

「かいくん…どうしたの…?」
「なんで…なんで…なんでくうが…」

体の震えが止まらなかった。

「かい、どうしたの?」

このときに、不思議そうにしていた青井さんが目を見開いていた。
母は、いまだに不思議そうにぼくを見ている。

「くうは…?」
「かい?くうってだれ?」

母が聞く。

「くうは…この子は今どこに!?」

ぼくはあることを思い出し、写真たてをおいて、仏壇の前にいき写真をみた。

写真をみるまでは、そんなことはないと信じていた。
そんなわけはない。
まさか、そんなわけが…。

仏壇には、優しそうな男性の写真があり、その隣にもうひとつ遺影がある。
視界にいれるのがこわかった。
少しずつ目線をずらして遺影をみる。

そこにはいつもぼくに向けていた愛らしい笑顔のくうがいた。

「あ…あ…なんで…なんでぇ…」

涙がでてきた。
くうの声を思い出す。

『図書館の前で待ってるねっ』

ぼくは立ち上がり、玄関へ走り出した。
母はもちろん驚いている。

「え!?かいどこいくの!?かい!」

だけどもそんなことはどうだってよかった。
青井さんはなぜか冷静でいて、母を止めている。

「大野さん、大丈夫」
「青井さん…でも…」

青井さんは優しく笑う。













ぼくは青井さんの家を飛び出した。
雨はものすごい強さだったがそんなことは気にならなった。
図書館に向かって全力で走り出した。

くう…くう…。

まだ状況は理解できていなかった。
なぜくうが遺影に映っているのか。
そらという少女は、くうと同一人物ということなのか。
なにかの間違いじゃないのか。
不思議なくらい涙がでてきた。

雨でとっくに靴も服もびしょぬれだが、必死に走った。

いつもならわざわざ避けて通る水たまりも踏んで走った。

いつもなら図書館には歩いてもあっという間につくのに、今日はなぜか走っているのに遠く感じる。

もう一度くうに会わないといけないと直感的に感じた。

そこの角を曲がれば、図書館が。

「なんで雨なんだ…なんで…なんでだよ…」

大事な時に限って雨が降る。ぼくのことを邪魔するかのように。くうとの間に壁を作るみたいに。


図書館の前には誰もいなかった。

ハアハアと息を切らせながら立ちすくむ。

雨の日にくうがいないことは今までも同じだったが、今日は少し違う気がする。

もう、くうには会えないのではと心のどこかで思い始めていた。
ゆっくりと歩き出し図書館へと入っていく。

すれ違った人は全身ぐっしょりと濡れたぼくを見て嫌な顔をしていた。
中に入ると、数人から見られたが気にならない。
ぐっしょりと濡れたぼくをみて、いつもとは違う司書の方が近寄ってきた。

「あの…お客様…その状態ですと…」

ぼくはすいませんと小声でつぶやき、いつもの席に向かう。

あれをみればなにか分かるかもしれない。

司書の方はぼくについてきて、お客様…と言っている。

本棚へ目を向け、上から徐々に視点を落としていく。
お願いだ、あってくれ。と願いながら。

やはり"思い出の海"はどこにも見当たらなかった。
司書の人ならなにか分かるかもと思い、ぼくを心配そうに見ている司書の女性に尋ねてみた。

「すいません…」

突然ぼくが口を開いて司書の女性は驚いていた。

「は…はい…」
「ここに…ここの本棚に…"思い出の海"という写真集のようなものがあったと思うんですけど…いまどこにあるか分かりますか」

司書の女性は少し固まっていたが、慌てて返事をした。

「あ…はい!"思い出の海"という本ですね!ただいまお調べいたしますので少々お待ちください!」

司書はぺこりと一礼すると、急いでカウンターの方へ行った。

"思い出の海"を見ても何も分からないのかもしれないが、とにかく見たかった。
くうと出会ったきっかけの本だから。

しばらくすると司書は戻ってきた。

「お待たせしました…」

すこし顔がうつむいている。

「あの…"思い出の海"という本ですが…こちらの方でお調べしたところ、そのようなタイトルの書籍は…こちらの図書館では扱っておりませんでした…」

司書の言っていることが理解できなかった。
ここに無いわけがないのだ。
ぼくは間違いなくその本でくうと出会い、くうと海を探しに行った。
くうがみていた分と、ぼくの読んでいた分、二冊以上はあるはずなんだ。

「そんなわけない…"思い出の海"ってもう一度調べてください!あるはずです!」

司書は困り果てている。

「タイトルの間違えなどはございませんか…」
「間違っているはずは!…そんなわけ…」

もうなにも分からなくなってしまった。

ここにいても何も分からないと思い、諦めて出口にむかっていった。
司書はぐしょぬれのままのぼくを心配そうに見ている。

図書館をでても、雨は先ほどと変わらず降り続いている。
家の方へ、とぼとぼと歩き始める。
すれ違う人は、傘もささずうつむきながら歩くぼくを不思議そうに見つめながら通り過ぎていく。

青井さんの家の遺影にはそらという女性ではなくくうが写っていて、くうと出会うきっかけの"思い出の海"は存在していないと告げられ。

今までぼくがした、くうに関わることはすべてなんなのか。

夢か、妄想か。

「あぁ…どうなってるんだよ……」

涙が止まらなかった。
なにも信じられなくなりそうだった。

もうほんとうにくうには会えないのかもしれない。
それとも、そもそもぼくは初めからくうとあっていなかったのかもしれない。

今までのくうの言動が頭に蘇る。


『かいくんっ!』

『はやくはやくっ!』

『きみと水平線を歩けたらな…』


「くう…どこにいるんだよ…」

薄暗い空を見上げていった時に寒気と悪寒がしてきて、膝から崩れ落ちた。

「くう…くう…どこに…」

ぼくの大粒の涙は、すべて雨に紛れていく。

だんだんと意識が薄れていく。冷たい地面を皮膚に直に感じ体の震えが止まらなくなってくる。


「おい!なにしてんだ!大丈夫かよ!かい!」

だれだか分からなかったが、どこかで聞いた声だった。

「かい!かい!」






雨の降りしきる夜、くうと手を繋いで浜辺に立っていた。
しばらくすると、くうがスッと繋いでいた手を放していき、海に向かってゆっくりと歩いていく。

「くう!どこいくんだよ!くう!」

くうはぼくのことなど気に留めずどんどん海へ入っていく。

「え、ちょっと!くう!まってよ!くう!」

海に消えていくくうを追いかけてぼくも海へと入っていく。

くう!くう!くう!

くう!!




「あ…」

そこはぼくの部屋だった。
横には母が座っている。
窓の外をみると、昨日の悪天候が嘘かのように太陽が顔を出していた。
体は燃えるように熱く、頭痛もひどい。

「かい、起きたのね…」

おでこには水で濡らして絞ったタオルが乗せられている。

「え…お母さん…なんで…」

昨日、図書館から家に向かって歩いている途中からなにも覚えていなかった。

「昨日、かいが道で倒れてたとこを、中井君が見つけてここまで運んでくれたんだよ」
「え…中井君が…」
「そうよ、今度お礼しなさいね」

母は、ぼくの額のタオルをとり、新しいのを乗せる。

「かい、昨日どうしたの」
「昨日…図書館にいって…」

この時ふと、くうとの約束を思い出した。


『次の晴れた日にっ』


晴れた日には、図書館でくうがぼくを待っている。

「あ…くうが…待ってる…」

ずっしりと重い体を起こしベッドを出ようとする。

「かい、どうしたの」
「図書館に…いかないと…!」

母はぼくの肩を持ち、体をおさえる。

「なにいってるのよ、あなた今ひどい熱なんだよ?」

ぼくの体調はどうでもいい。
ただくうに会いに行きたかった。

「かい、今日はやめなさい」
「いかなきゃなんだよ…いかないと…」

だるい体に力を入いれて起き上がろうとすると、母の抑える力も少し強まる。
ぼくは必死に肩をつかむ母の手を振り払おうとする。

「だめなんだ…図書館にいかないと…約束が…!くうが待ってる…!」
「かい!だめ!」
「くうが…くうが待ってるんだ…!」

だんだんと涙が溢れ出てくる。

「お母さん…どいてよ…くうが…くうがぼくを待ってるんだよ…!」

しかし、母は力を弱めず、ぼくの顔をしっかりと見ている。

「お母さん…いかないとだめなんだよ…どいてよ…」
「だめよ」
「なんで…」

母はすこし黙ってから言った。

「かい。そのくうちゃんて子が私にはだれか分からないけど、あなたが今こんな状態で会いに行っても、その子はうれしくないと思うよ」

母はまじめな表情だった。

「でも…でも…」

母は表情を変えない。

「かい。しっかり休んで、ちゃんと体調直してからまた会ってあげなさい」

体の力が抜けた。
ぼくはベットにパタンと寝転んだ。

「お母さん…」
「どうしたの?」

現実を知るのはとてもとても怖かったが、このままの状態をほったらかしておくのが一番嫌だった。

「くうは…そらちゃんは…」

母はそう言われた途端に、あからさまに変化し暗い顔をした。

「ほんとに…ほんとにごめんね…かいには言ってなかったんだけど、そらちゃんは…そらちゃんは七年前に亡くなったの…」

認めたくなかったことは、現実だった。
名前が、そらではなく、くうと名乗っていた理由は定かではないが、くうはこの世にはいない。
体の力が抜けていくのを感じる。

「なんで…なんでそらちゃんは…」

ぼくの想像では、何らかの事故か、病気か。
それとも。

「そらちゃんは…。ん…」

母は、死因を伝えるのをためらっていた。
ぼくは静かに返答を待った。

「そらちゃんは…自分で…じ…自殺を…」

一瞬、言葉が出なかった。
あんなにも明るい姿をみせていたくうは、たくさん笑っていたくうは自分で命を絶ったのだ。
誰かの手によるものではなく、くうが自分で。自分自身で。

「そらちゃん…学校でいじめを受けていたみたい…」

ショックを通り越して、怒りを覚えた。
なぜ。なぜあのくうが、そらちゃんがいじめられなければならなかったのか。
しかし、それ以上にそらちゃんという、ぼくにとってかけがえのない存在を、七年もの間忘れていた自分自身を許せなかった。

「いじめられていた原因とかはお母さんには分からないんだけどね…」

目からあふれ出る涙を抑えるのは不可能だった。

「あぁぁぁ…なんで…なんで…なんでだよ…」

母も涙を流している。

「ごめんね…あの時のかいにはもうそらちゃんに一生会えないなんてこと…お母さんには言えなかった…ごめんね…」

目からぽたぽたと涙が落ちていく。

「ごめんね…ごめんね…」
「ああああああぁぁぁぁぁぁ」

子供のように泣きじゃくった。
こんなにも泣いたのはいつぶりだろうか。

「ぼく…ずっと忘れてたんだ…そらちゃんのこと…。あんなにぼくをかわいがってくれてたのに…大事にしてくれてたのに…。ずっと忘れてた…」

母は目を抑えながら立った。

「ごめんね…私はでるね…これだけ置いておくね…」

そう言って母は何かを置いて、部屋をゆっくりと出ていった。

それからぼくはたくさん泣いた。
くうのことを、そらちゃんのことを思い浮かべながら。