あれから、二週間が経った。
それでも、朝目覚めるのはいつもと変わらない。
歯を磨くことも、着替えることだって何も変わらない。

なにか違うことがあるとするなら、少し気分が明るくて、表情も明るいこと。
そして、起きたときにまだ親は家にいて。

家を出てから向かう場所もちがう。

もうぼくは大学に行くことに嫌悪感は一切感じていない。友達が少なくなって、1人でも2人でも、ぼくを必要としてくれる限りぼくはなんとも思わない。もし、限り少ない友人がぼくを必要としなくなっていても、そらだけはぼくを必要としてくれる。

人の流れに身を任せながら、大学へと向かっていく。

「かい、おはよう」
「うん、おはよう」

陽太も眠そうな目をこすっていつも通り本を広げている。
あいてる席に座り、周りと同じように授業を受ける。授業は退屈だけど、別に嫌な訳では無い。
授業を受けた後は、食堂で昼食を食べてから、もう一度授業を受ける。
家に帰って、寝て起きたら、また大学へ行く。そして退屈な授業を乗り越えて、また家に帰る。
時々図書館に行っては、のんびりと本を読む。

ぼくの生活は、同じことを繰り返していて別に特別なことはしていない。
だけど、不自由は感じていない。
なにか特別なことがなくても、友達と学生生活を送れて、何事もなく生きている。
それだけで、ぼくは十分幸せなのだと気が付いた。
そして、どんな時でもぼくはそらちゃんの存在は忘れない。そらもぼくを忘れないでいてくれていたように。
そらちゃんをもう悲しませることのないように、精いっぱいぼくは生きている。

家に帰れば、本棚には 思い出の海 が入っている。棚にはそらちゃんとの写真がある。

『かいくんは、なにか大事なことを忘れてない?』

本を撫でながら、そらちゃんの言っていたことを思い出す。

「大丈夫、忘れてないよ」

そうやって、きっとどこかで聞いているであろうそらにむかって言ってやる。そうでもしないとほっぺを膨らませてつついてくるんだろう。

「ただいまぁ」
「あ、お母さんおかえり」
「あれ、かい早かったね」
「うん、今日は二限で終わりだったからね」

学校に行っていない時期は、どことなく気まづくて親としっかりと向かいあって話すことは少なかった。でも、いまでは父親ともよく話す。まさか自分がこんなふうに変わることが出来るなんて思ってもみなかった。これも、すべてそらちゃんのおかげ。とか言うと、どうせどこかで自慢気な顔をしてくるんだろう。でも、そらのおかげでぼくの人生が大きく変わったというのは、紛れもない事実だ。

「ほんとにありがとう」

ぼくはだれもいない空に向かってそう告げる。


「かい、お姉ちゃんが帰ってきたんだけど会いに行く?」

陽太がそう言ってきたのは突然だった。ぼくは早く月菜さんに会いたかった。たぶん月菜さんはいまでもそらちゃんのことを自分の罪だと思って過ごしている。そらの所縁の海に行っては自分の罪を認めているんだろうとぼくは思う。だから早く伝えなければいけない。そらの想いを。

「もちろん!ぜひ会わせてほしい!」

陽太の家へは、大学の授業が二コマで終わる日に行くことにした。二コマの授業はいつもなら考え事をしていればあっという間に過ぎてしまう時間だが、この日は早く月菜さんと話したくてうずうずしており、九十分の授業がやたらに長く感じた。

「はい、それじゃあ今日はこの辺りで終わらしましょうか」

待ちに待った教授のその言葉を聞いてからすぐに立ち上がった。

「陽太、いこ!」
「すごい張り切ってるね、まぁ、いこうか」

陽太はケラケラと笑いながらもすぐに準備を終わらせてくれた。
学校を出て、駅へと向かって歩いていく。

「そういえば、陽太ってどこに住んでるの?」

最近気づいたが、ぼくは陽太の最寄り駅や住んでる地域をいまだに聞いていなかったのだ。ぼくも陽太に自分の住んでいる場所などは伝えていないため、お互いさまではあるが。

「おれは、品川が最寄り駅だね」
「うわ!金持ちの街だ!」

ぼくはあえて、オーバーなリアクションを取った。

「いや、全然そんなことないけどね」

陽太は笑いながら顔の前で手を違う違うというようにして振った。
こんな話をしていたら、駅にはすぐに到着した。

「向こうの路線ね」
「ぼくとは反対の方向なんだ」
「かいは向こうなのか」

陽太の利用している路線は、ぼくはほとんど使用しない都心部を巡回する路線だった。電車の中は冷房が良くきいていてもはや寒いくらいだった。

「もう、すぐにつくよ」

品川の位置を確認すると、三駅しか経由しないようだった。

「陽太の家ってすごい近いんだね」
「まぁ、もはや家の近さで大学選んだまであるからね」
「確かに大学の距離は相当大事な要素だよね」

三駅先の品川までは、10分もしないうちに到着した。

「それじゃ降りようか」
「うん」

電車を降りると、一気に温かい湿度の高そうな空気に体を包まれる。

「ほんと東京の夏の暑さって嫌な暑さだよね」

暑さに嫌気がさしているような顔をしながら陽太がそう言う。

「そうだよねぇ、沖縄とかの方がまだ乾燥してるから絶対マシだよね」
「ほんとにそうだと思う」
「めっちゃ暑いけど、家割と近いから安心して」
「それはほんとに助かります」

陽太の言った通り、駅から出て少し住宅街を歩けば陽太の家にはあっという間に到着した。

「ここだよ」

そこは、本当に立派な大きな一軒家だった。扉も、窓も大きく、少し小さいが庭もある。

「え、すごい、豪邸だ」
「いや、豪邸は言い過ぎ、ほら暑いから入ろ」

陽太はポケットから家の鍵を取り出し、差し込んだ。

「入って」
「あ、ありがとう。お邪魔します」

大きいドアの先には広い廊下があり、いくつかのドアがあった。

「靴適当に置いて大丈夫だからね」

陽太にそう促され靴を脱いでいると、奥の扉が開き女性が二人出てきた。

「あなたがかいくんねっ、いらっしゃい!」

そう言って母親と思われる女性がにっこりとした笑顔で出迎えてくれた。自分が名乗る前に、陽太の母親に名前を呼ばれて少し驚いたが、陽太が事前に伝えてくれていたのだろう。しかし基本的に人見知りなぼくには少しありがたいことだった。

「あ、大野海です。初めまして」
「こちらこそ初めましてっ、ささっ、あがってあがって」
「ありがとうございます、お邪魔します」

そういってもう一度軽く会釈をした。そうすると、母親の横に立っている月菜さんであろう女性も優しい笑顔で会釈を返してくれた。
母親の後ろについて廊下を渡りリビングに入ると思わず感嘆の声を漏らした。

「おぉ…すごい…」

リビングは吹き抜けになっている構造で、とても広かった。テーブルも大きく、キッチンもぼくの家とは比べ物にならないくらい広かった。壁にはおしゃれな絵画のようなものがかかっており。テレビのサイズもすごく大きい。

「荷物そこらへんに適当に置いてね」
「うん、ありがとう」

陽太にそう促され、荷物を椅子の上に置いていると、陽太が手招きしている。
陽太のところに行ってみると、一つの部屋に通された。

「はいって、ここおれの部屋」

陽太の部屋も本当にすごかった。壁一面には陽太が撮影したであろう写真がたくさん貼られている。それは、綺麗な自然の景色や、都会のビル街、昆虫の写真まで様々なジャンルの写真があった。

「これ、全部陽太が撮ったの?」

机をごそごそと漁っている陽太の後ろ姿にそう問いかける。

「うん、そうだよ。おれは撮るジャンルに特にこだわりがなくて、ジャンルがばらばらになってるけどね」

笑いながらそう答えた。そして、ぼくにある物を見せてくれた。

「これで、写真は全部撮ってるんだよね」

それは、カメラだった。それは、最近の最新機種よりかは古い見た目である程度年季が入っているようにも見えたが、それ以上に、なにか圧倒するものを感じた。

「父親も写真撮るのが好きでさ、ずっと使ってたものをくれたんだよね」
「それはちょっと前のカメラだよね?」

そう尋ねると、陽太は微笑みながらカメラを優しくなでた。その仕草から、どれだけ他のカメラより古かろうと、陽太にとってはかけがえのない大事な宝物なのだということが伝わってきた。

「うん、父親が若い頃使ってたカメラを引き継いだから、もう15年くらい前のやつかな」
「15年て…すごいね」
「すごいよね。だけどやっぱカメラの性能はあんま関係ないと思うんだよね。どんな良いカメラを使っても撮る人によって写真の美しさなんて変わるからね」

そういってカメラを眺めてる陽太がすごくかっこよく見えた。

「てか、今日の本題はカメラじゃなかったね、リビングいこうか」
「カメラの話も面白いけどね、今度またゆっくり聞かせてよ」
「うん、もちろんだよ、語りつくしてあげるよ」

そう言って陽太はカメラを大事そうにしまった。
リビングに戻ると、テーブルにはコップに注がれた麦茶が置かれていた。

「かいくん、すわってすわって」
「ありがとうございます、失礼します」

すこし頭を下げてから椅子に腰を掛けた。

「外、暑かったでしょう?」
「そうですね、嫌になっちゃいますね」

母親はすごく優しげな方でぼくの言うことにアハハと笑って応えてくれる。

「暑いのにわざわざ来てもらってごめんなさいねっ」
「いえいえ、こちらこそ、突然お邪魔してごめんなさい」

母親はそれに対して、顔の前で手をぶんぶんと振って否定した。

「陽太ね、今まで友達を家に連れてきたことなかったからほんとにうれしいの!」

母親はソファに座ってる陽太にわざとらしく聞こえるように言う。

「別に、ただ家に呼ぶ必要がなかっただけだよ」

陽太が、母親と話しているところを見るとすごく不思議な感じがして新鮮だ。

「かいくん、ほんと陽太と仲良くしてくれてありがとうねぇ」

そう言われたが、それはこちらのセリフだと思った。孤独でいたぼくに話しかけてくれたのは陽太で、本当に感謝している。

「いえいえ、こちらこそ本当になんとお礼を言ったらいいか」

ソファの陽太が笑いながらそれに反応する。

「大袈裟だよ」
「それでも本当にありがとう」

母親に頭を下げられたので、ぼくもそれに応えるように頭を下げた。

「てか、あれだよ、かいを今日呼んだのはお母さんに合わせるためじゃなくて、お姉ちゃんだからね」

こちらに首を伸ばして陽太が言う。

「あ、そうだったのね、それじゃ私は失礼しようかね」
「あ、いえ、お母さんとも話しててすごく楽しいのでいたままでも全然大丈夫ですよ」
「あら、うれしいこと言ってくれるねっ、じゃあ月菜呼んでくるわね」

そう言って陽太の母親は奥の部屋へと入っていった。

しばらくして月菜さんが部屋から出てきた。

「ごめんなさいね、お待たせしました」

そうしてぼくに向かい合うようにして席に着いた。

「初めまして、陽太の姉の月菜です。暑い中わざわざ来てくれてありがとうね」

月菜さんはすごく優しい声をしていて、おっとりとしたそんな印象だった。

「初めまして、大野海です。こんな初対面で申し訳ないんですけど、今日は月菜さんに伝えたいこと…用があって」

詳しい事情は陽太から聞いていないのか、月菜さんは何のことか分かっていないようできょとんとしていた。それも無理はない。突然、弟が初対面の友達を連れてきて伝えたいことがあるなんて言われたら、ぼくが月菜さんだったら理解が追い付かないだろう。

「私に伝えたいこと?」
「はい…その…なんと伝えたらいいのか…」

なんとか、そらちゃんの事を伝えようかと思っていた時‟思い出の海”のことが頭に浮かんだ。
そして、おもむろにバックに手を入れてそれを取り出した。

「月菜さんに、これを」

ぼくがゆっくりと月菜さんの前にそれを置くと、月菜さんは口に手をあて、目を見開いた。

「え…それ…なんで…なんで…」

月菜さんは、そんなことは有り得ないと言いたげな表情を浮かべている。

「ごめんなさい。ぼくみたいな部外者がこんな大切なものをを持っていること自体、理解できないかもしれないと思います」

月菜さんは首を横に振っている。

「だけど…だけどこれだけは月菜さんに見せておかないと…伝えておかないとダメだと思ったんです」
「…これ…これ…」

月菜さんは震える手を‟思い出の海”に伸ばして手に取った。月菜さんの声は震えていて、もうすでに目には涙が浮かんでいる。

「中…見ても大丈夫…?」
「もちろんです」

震える手のまま、月菜さんは表紙をめくった。

「これ…これ…そらの…そらの字だ…」

月菜さんの口は軽く開いたままになっていて、今にも信じられないというような表情をしている。もしぼくが月菜さんの立場だったらこんな状況になったら頭が真っ白になってなってなにも考えられなくなる。そんなことを考えながら月菜さんの目を見つめる。月菜さんはそれでも、一ページ、また一ページと丁寧に震える手を抑えながらめくっていく。

「本物だ…ほんとにそらのだ…」

そうしてページをめくっていくと、とあるページにたどり着いた。そのページを見たとたん、月菜さんの涙がブワッと溢れ始めた。そう、そのページにはぼくが探し求めた海が写っている。ぼくの人生を変えてくれた海であり、そらちゃんの人生を終わらせた海。太陽を美しく反射させ、空とつながる水平線が写る神栖の海に月菜さんはページをめくる手を止めた。

「あ…あぁ…やだ…やだ…そらぁ…」

今にも消えてしまいそうな声で月菜さんは泣き崩れた。声をあげて泣いた。月菜さんがこうなってしまうのも仕方ない。自分と仲の良かった友人が自ら命を絶った場所を突き付けられているのだから。

「そら…そらぁぁ…」

嗚咽交じりに涙を流す月菜さんに陽太の母親が優しくハンカチを手渡した。陽太は会話を邪魔しないよう、いつの間にか自分の部屋に戻っているようだった。ぼくは母親に軽く頭を下げた。ここから、すこし月菜さんが落ち着きを取り戻したところで、月菜さんはゆっくりと顔を上げ、ぼくの目を見つめた。

「かいくん…ありがとう…本当にありがとう…」

ぼくは、コクっと頷いて、月菜さんからの感謝を受け取った。そして、月菜さんがこう続けた。

「やっと…やっと会えた…会いに来てくれた…かいくん…あの時の子はかいくんだったんだね…」
「え…?」

ぼくは月菜さんの言っていることが理解できなかった。ぼくと月菜さんの間にそらちゃんという存在がいるのは間違いないが、ぼくと月菜さんには今までなんの関係もないのだ。

「月菜さん…ぼくのこと…知っているんですか…?」

月菜さんは震える口を抑えながら、何度も頷く。

「そらからよく聞いてたの…弟みたいに可愛がっている男の子がいるって…」

そらは、月菜さんに対してもぼくの存在を知らせていた。そらちゃんからの愛情を感じた。

「私…そらが自分で命を絶ってから…もうその頃のことは考えないようにして生きてきたの…たぶん…逃げてたんだと思う」

月菜さんは、責任を感じていた。自分がそらを見捨てたと、自分がそらを見殺しにしたと。

「だから、陽太からかいくんの名前を聞いた時も何も思わなかった…年齢も名前も同じだからもしかするのにね…」

月菜さんは息を整えて、しっかりとぼくの方へ向き合った。そこには、覚悟のような強い意志を感じた。

「かいくんには、しっかり話さないとね。そらのこと。そらのお母さんから聞いたこともあるかもしれないけれど、私からも。私の中のそらを」

ゆっくりと月菜さんは静かに言葉を発して、そらちゃんのことを語っていく。