たくさん泣いたあと、そのまま泣きつかれて寝てしまっていた。
ふぅ…といったん落ち着かせてから、母が机に置いていったものを確認した。
それは、まえに母が引っ張り出してきた、そらちゃんと神栖の海に行ったときのDVDだった。
軽く裏面に目を通してみてから、テレビにDVDをセットし、再生した。
最初には、波の音が聞こえたり、母と青井さんの会話がしたりと前と同じ様子がしばらく続く。
ぼくとそらちゃんの動きに意識を集中させる。
よく見ると、ぼくは少し楽しそうに体を揺らしながらそらちゃんの後を追っていく。
しばらく海に向かって二人で歩いていくと、そらちゃんの足がピタッと止まった。
それに合わせて、ぼくの足も止まる。
そらちゃんが止まった理由が理解できないのか、ぼくは不思議そうな顔でそらちゃんの顔を見上げているのがかろうじて分かった。
その状態がしばらく続いた。
ぼくに対して、そらちゃんがなにか言っているようにも見えたが、すこし遠くにいるため何を言っているかまでは分からなかった。
しかし、この状況にどこか覚えがあった。
どこかでこの状況をみたような。経験したような。
必死に頭の記憶を掘り下げる。
そのとき、とあることに酷似していることがわかった。
「夢だ…!」
それは夢でみたその時のままだった。
そらちゃんの立ち位置、ぼくの視点。
間違いがなかった。
これが夢で見た状況と同じ状況なら、このときそらちゃんはあることを言っているはず。
「きみと水平線を歩けたらな…」
鳥肌が止まらなった。
だんだんといろいろなことが繋がってきているような気がした。
しかし、なぜこの時そらちゃんが、まだ小さなぼくにこのようなことをいったのかはどれだけ考えても分からなかった。
「ここの海にいけばなにか分かるのか…?」
ぼくとそらちゃんの間で生まれた疑問も、ここの海にいけばすべてわかる気がした。
ぼくの忘れているはずの大事なことも、この海にいけば。
この時改めて、そらちゃんと二人でちゃんとこの海に行こうと心に決めた。
そらちゃんが図書館にいなくても。そらちゃんがこの世にいなくても。
このあとは、体調を少しでも良くしようと、しっかりと睡眠をとり回復に徹したところで明日を迎えることにした。
アラームがなる寸前で目を覚ました。
昨日の倦怠感はすっかりと無くなっており、熱も平熱まで下がってた。
カーテンを開くと、差し込む日差しがまぶしかった。
時間を確認すると、九時までにはまだ余裕がありそうだった。
リビングに降りてくと、母が声をかけてきた。
「あら、もう大丈夫なの?」
「うん、もう大丈夫」
「ならよかった」
歯磨きなどをすませ、自室に戻る。
家を出る前に、神栖の海までの経路を調べておく。
家を出る直前に、母に声をかけられた。
「気をつけて行ってらっしゃいね」
「うん、行ってきます」
ドアを開け、外にでると晴れの日に外出するのが久しぶりに感じた。
そらちゃんのことだけを考え、歩き出す。
もうしばらく会っていなかった。
最初はなんて声をかけようかな。
ぼくが昨日来なかったこと怒るかな。
色んなことを考えていたら図書館へはあっという間に到着した。
そらちゃんの姿は見当たらなかったが、まだ集合時間の九時にはなっていない。
すぐに九時になった。
結局そらちゃんは来なかった。
もしかしたら、遅れてくるかもしれないと思い図書館の中で本を読んで待つことにする。
いつものお気に入りの席に座る前に、ないと分かっていながらも"思い出の海"がないか探してしまう。
もちろんあるはずがなかった。
適当な本を手に取り、表紙を開く。
前までのように、時間を忘れて本をよんでいれば気づいた頃にはそらちゃんが来ているなんて妄想をしながら。
百ページ読んだら、周りを見渡してみる。
そらちゃんはいない。
二百ページ読んで、周りを見渡してみる。
そらちゃんはいない。
だんだんと周りに人が増えてくる。
時間は気にしていなくて見ていなかったが、ここにきてから一時間ほどが経ったような感覚だった。
まだ閉館までには時間はある。
本の中間くらいのページになっても、そらちゃんがくる様子は一切ない。
結局、そらちゃんがこないまま本を読み終えてしまった。
本を本棚へと戻し、新しい本を取り出しまた読み始める。
そんなことを繰り返しているうちに、周りの人がだんだんと減っていき、閉館時間が近づいているのだと分かった。
読んでいた本が終盤に近付いたころ、声をかけられた。
「お客様、閉館時間が近づいておりますので、よろしくお願いします」
時間を確認すると、閉館の数分前だった。
「はい…わかりました…」
司書は軽く頭を下げて戻っていった。
読んでいた本を閉じ、本棚へ戻す。
荷物をまとめて、出口へと向かった。
自動ドアが開くと、温かい風が体をなでる。
少し歩いたところで足を止め、空を見上げる。
「そらちゃん…どこにいるんだ…まだ伝えたいことがたくさんあるのに…」
ぼくの声は、大空に消えていく。
家に帰ると、ちょうど母と鉢合わせした
「あら、お帰りなさい」
「ただいま」
母はこれ以上はなにも言ってこなかった。
自室にもどり、荷物をおいた。
風呂などを済ませたら、すぐにベットに寝転がる。
短期間でいろいろなことがあり、複雑な気持ちを抱えたまま眠りにつく。
波の音が聞こえている。
目の前に、そらちゃんが立っていた。
「ただ…私のことを忘れてほしくなかったの…ずっとまってるよ」
目が覚めたのは午前の二時だった。
そらちゃんは、夢を通してぼくに何かを伝えているんだと、そう思った。
「そらちゃんが…待ってる…」
到底外に出る時間ではなかったが、なぜかそわそわして落ち着かなかった。
パジャマの上に軽く上着だけ羽織って外に出た。
親はもちろん寝静まっていた。
外は、夏の為寒くはなく涼しい程度だった。
のんびりと空を見上げながら歩く。
もうこの時間に外出している人はほとんどいないため、街は静まり返っていてたまに車が横を通るくらいだった。
いつもよりも少し時間をかけて図書館に到着した。
ぼくが無心でいたせいなのか、はじめは図書館の前に人影があるのに気づかなかった。
「あれ…だれかいる…」
暗くて顔はほとんど見えなかったが、女性というのは分かった。
もしかしたらそらちゃんなのかとも思ったが、すこし背丈が高く、髪も短めだったので違うだろう。
すこし様子をうかがっていると、向こう側もぼくのことに気づいたようだ。
気づいてから少し間を開け、こちらに近づいてきた。
顔が認識できるようになってから、向こうが頭を下げてきた。
ぼくもあわてて頭を下げる。
「いつも、ここにいらっしゃいましたよね」
その女性は、普段よく会う司書の女性だった。
「あ…はい…ぼくのこと認知してたんですね…」
女性はふふっと笑う。
「いつも決まった席に座ってましたから」
ぼくが固定の席を好んで利用していることが知られて少し恥ずかしく思った。
「今日はどうしたの?もちろんこの時間には図書館はあいてないわよ」
女性は冗談めかして言う。
「あぁ…少し落ち着かなくて、散歩です」
「散歩かぁ、なんかいいねぇ」
女性はにっこりと笑う。
「司書さんは…どうしてこんな時間に?」
司書といえど、この時間まで仕事をしているということはないだろう。
女性は、すこし間を開けてから空を見上げて言った。
「私、妹がいるの」
「妹さん…ですか」
「そう。ひとつ年下の妹でね、姉の私からみてもすごいかわいい子でね」
「なるほど」
女性は気づいたら少し寂しげな顔をしていた。
「自慢の妹だったんだけどね」
「妹だった…?」
「もう七年も前に突然亡くなっちゃってね」
息をのんだ。
「そう…だったんですか…」
「そうなの、妹が亡くなった日には私はもう就職しててね。東京にはいなかったの。」
ぼくはなかなか言葉が出てこなかった。
「その妹が、ここの図書館で本を読むのがすごい好きだったの。だからね、たまにこうやってここにきてあの子を思い出すんだ」
「そうだったんですね…」
ぼくは、少し重くなってしまった空気を変えようと、話をどうにか切り替えようとした。
「すみません…話変わるんですけど…司書さんは…いつから…何年前からここで?」
「いつからか…んー…六年くらいかな?」
「そんなに長く…」
「ほんとは違うところで関係ない仕事してたんだけどね、妹が亡くなってから、すぐに仕事辞めてこっちに戻ってきたの」
この時、女性が長くここで司書をしていると知りひとつ、ずっと気になっていることを聞くことにした。
「あの…ひとつ聞いてもいいですか?」
「ええ、もちろんよ」
「あの、ぼくここの図書館で一冊の本を探してて」
「あら、そーゆーことなら私は何でも知ってるわよっ、なんていうタイトルの本?」
もしかしたらこの人なら知ってるかもしれないとわずかに期待した。
「あの…写真集のような本なんですけど…」
「うん」
「"思い出の海"というタイトルの本を…」
ぼくがそう言った時だった、いままで微笑んでいた女性の表情があからさまに変わった。
目を見開いて、とても驚いているようだ。
「いま…なんて…」
ぼくはいまいち女性の考えていることが分からなかった。
「え…"思い出の海"っていうタイトルの…」
女性は、少し体が震えているようにも見えた。
「なんでそれを…」
少し黙ったかと思ったら、女性は驚くことを言った。
「もしかして…きみ…かい…くん…?」
なぜ彼女がぼくの名前を知っているのか全く理解ができなかった。
彼女のことは、図書館の司書として認識していたため、図書館以外での関りはないはずなんだ。
「え…なんで…ぼくの名前を…?」
「やっぱり…そうだったんだ…」
女性は少し涙を流した。
「ごめんね…急にこんなこと言われても困っちゃうよね…」
「あ…いえ…」
「私は、青井未来(あおいみく)っていうんだけど…青井空…そらの姉です」
全身の鳥肌がぞわっと反応した。
「え…そ…そらちゃんの…お姉さん…?」
本当に驚いた。
いままで、ただの司書だと思っていた女性はそらちゃんの姉だったのだ。
「え…じゃ…じゃあ、さっきの妹さんのことって…」
「うん…あれはそらのこと…」
しっかりと思い返すと、未来さんは『もう七年も前に突然亡くなっちゃってね』と言っていた。そらちゃんが亡くなったのも七年前だった。
「そっか…かいくんだったんだね…」
「ごめんなさい…全然気づかなくて…」
確かに、改めて顔を見てみるとどこかそらちゃんに似ているような気もする。
「ううん、私も気づけなかったからね。でも、本当にびっくりしたね、まさかこんなタイミングでかいくんとまた会えるなんてね」
「ほんとうですね…」
ぼくはそらちゃんのことを、ずっと忘れていたからあまりいい反応はできなかった。
「ごめんね、"思い出の海"のことだよね」
「はい…その本のおかげでそらちゃ…大事なものにまた出会えたので…」
「なるほどね…」
「だけど…ここの図書館にあったはずの"思い出の海"が見つからなくて…別の司書の方に聞いても、ここには無いと…」
「そうだったんだね…。うん…ここには無いはずだね」
未来さんは少し何かを考えているような素振りを見せている。
「ここにはってことは、他のところにはあるっていうことですか!?」
そう聞くと、未来さんは軽く首を横に振った。
「いや、かいくん、"思い出の海"はどこの図書館とか書店を探しても無いの」
未来さんの言っていることは理解できなかった。
言い方的に、"思い出の海"という本自体の存在は否定しないが、どこを探しても無いというのだ。
「それって…どーゆー…」
未来さんはぼくの目を少し見つめてから口を開いた。
「"思い出の海"はね、そらが自分で撮影した海の写真をまとめたアルバムみたいなものなの」
やっと、"思い出の海"の本当のことが分かった。
"思い出の海"は、売られてるような本ではなく、そらが作ったひとつしかないもの。
なぜ、ぼくがここの図書館で"思い出の海"を見つけられたのかは分からないが、間違いなく"思い出の海"はこの世に存在している。
もしかしたら、"思い出の海"がここからなくなったのには、そらの存在が関係しているのかもしれない。
いろいろと分からないことも多くあったが、"思い出の海"がこの世には存在している、その事実がぼくには最大の朗報だった。
「そんなに大事なものだったなんて…」
「あの子、海が本当に好きだったの。だから仲の良い友達と海に行くたびに写真を撮ってたの」
「それって…"思い出の海"はいまどこにあるか分かりますか!?」
答えはすぐに返ってきた。
「それなら実家にあるとおもうわ、お母さんならしってると思うよっ」
「そうですかっ!ありがとうございますっ!」
すごく大事なことを知れたと、心の中ですこし喜んだ。
にっこりと笑っていた未来さんは、時計をみた。
「あら、もうこんな時間だね」
もう時間は午前四時前になっていた。
「かいくんも、もう帰ろうか。お母さん心配させちゃだめだからねっ」
「はい、そうします。ありがとうございました」
そう言って頭を軽く下げたとき、未来さんは優しくお腹をさすっていた。
「いまね、五カ月なの」
ぼくがそらの話に集中しすぎていたからか、まったく気づかなかった。
「そうなんですね…おめでとうございます」
「ありがとうございます」
未来さんもにっこりとしながら頭を軽く下げる。
「生まれたら、ぜひ会いに来てねっ」
「はい、ありがとうございます」
「じゃあ、また図書館でねっ」
そういうと、ゆっくりとぼくの家とは反対の方向へとあるいていった。
ぼくも、しばらく未来さんの背中を見送ってから家に帰った。
帰り道で、また青井さんの家にいって"思い出の海"を見せてもらおうと決めた。
リビングへ降りていくと、母に声をかけられる。
「かい、昨日は変な時間にどうしたの?」
母はぼくが外出していたことに気づいていたようだ。
「あ、いや、ただ散歩してただけ」
「ふーん、珍しい」
昨日のことはそれとなくごまかした。
なるべく深掘りはされないように、すぐに自室に戻る。
時計を確認すると、九時は近づいてた。
神栖の海への経路を調べた画面をスマホに保存して家を出た。
そらちゃんは図書館に来ないかもしれなくても、そらに伝えなければいけないことがたくさんあり、約束の場所に、約束の時間でそらちゃんを待つことしかぼくにはできなかった。そして、"思い出の海"が青井さんの家にあるかもしれないという事実。
このときのぼくは、色々なことが起こっていて、なにを自分はすべきなのかを明白にすることができなかった。
いつも通りの見慣れた道を通って図書館へと向かう。
「今日は未来さんいるのかな…」
そらちゃんというおぼろげな存在を求めているぼくにとって、そらちゃんの姉の未来さんという存在は本当に大きいものだった。
あっという間に図書館に到着し、未来さんと話していたところを眺め、昨日のことを思いだす。
『"思い出の海"はね、そらが自分で撮影した海の写真をまとめたアルバムみたいなものなの』
なぜ"思い出の海"がここの図書館にあったのかはいまだに分からない。
「そらちゃんはやっぱいないか…」
そらちゃんがどこにもいないことを確認した。
また中で本を読んで待ってようと、図書館の入り口に歩き始めたときだった。
「あら、かいくん?」
後ろから聞き覚えのある声で呼び止められた。
足を止め、声の方へ向くと青井さんの姿があった。
「青井…さん…」
「やっぱかいくんだったのねっ、今日は図書館に?」
「あ…はい」
「そうだったのねっ」
慌てて頭を下げたが、この時に前に家にお邪魔した時のことを思い出した。
「あ…青井さん…」
「どうしたの?」
「このまえは…その…突然すいませんでした…」
あの時は、そらちゃんのことしか頭になかった。
顔を上げてみると、青井さんはすごく優しく微笑んでいた。
「そんなこといいのよっ、気にしないでっ」
「はい…」
「それよりもね、かいくんに少し話したいことがあるの。このあとうちで少し時間大丈夫かしら?」
恐らくそらちゃんのことについてだろう思いながら、"思い出の海"のこともあるため、ここは承諾することにした。
「あ、はい…大丈夫です…」
「よかった」
青井さんはにっこりと笑う。
未来さんがいるかもしれないが、"思い出の海"を見れる機会と思い青井さんについていくことにする。
青井さんの家にはあっという間に到着した。
「さあ、あがって」
「はい、お邪魔します」
青井さんの家には前に来たばかりなのに、久しぶりに来たようなそんな感覚だった。
廊下を通り、リビングへと入った。
「いまお茶いれるからね、くつろいでね」
「ありがとうございます」
仏壇には、そらちゃんの遺影が置いてある。
すこし遺影を眺めてから、席についた。
「おまたせしました」
しばらくして青井さんがお茶をぼくの前に置いてくれた。
「ありがとうございます」
青井さんはぼくの目の前に席に座る。
「いきなりごめんねぇ、わざわざ家にまで来てもらっちゃって」
「いえ、ぼくももう一度お邪魔したいと思っていたんです」
「それならよかったっ、それでね、かいくんに話したい事なんだけど」
「はい」
「話したいことというか、聞きたい事なんだけどね」
青井さんはずっとやしい顔をしている。
「かいくん、最近、そらとあったのかな?」
「え…」
聞かれたことはぼくの想像とは違ったものだった。
そして、ぼくがそらちゃんと会ったことに気づいているということにとても驚いた。
「なんで…そのことを…」
青井さんは、少し黙ってからまた口を開いた。
「やっぱり、そうだったんだね。最初はそんなわけないって、そらはもういないんだからって自分に言いつけてたんだけどね、かいくんが」
「ぼくが…?」
「かいくんが、そらのことを「くう」って呼んでたのを聞いて、確信したの」
いまいち理解ができなかった。
なぜ、くうの名前で確信がついたのか。
でも、そらちゃんがくうと名乗っていたのは間違いがない。
「くう…ですか…」
「そう。くうっていう名前はね、かいくんが知ってるはずがない名前なの」
「ぼくが知っているはずがない…?」
「くうっていうのはね、「そら」の空っていう漢字を「くう」ていうように読み方を変えたあだ名みたいなものなんだけど」
ここで、はじめて「そら」と「くう」という名前の繋がりを知ることができた。
「だけどね、くうって呼んでたのは本当に仲が良かった一部の同級生だけだったの」
「一部の…」
「そう、だからあの時まだ小さかったかいくんが知っているはずがなかったの」
「そう…だったんですね…」
だんだんと、そらちゃんのことがわかっていく度に、そらちゃんとの思い出が浮かんでくる。
『ふふっ、わたしは…くうって呼んでっ』
あの時の一瞬の沈黙は、本名の「そら」というか迷っていたのではないかと勝手に思った。
「ぼくは…ぼくは図書館で本を読むのが好きで…あの日もいつもみたいに図書館に言ったんです…。そのときに出会ったのが…くう…そらちゃんなんです…」
青井さんはうんうんと静かにぼくの話を聞いている。
「あのときは…そらちゃんだったなんて…ほんとうに…」
「そらが、かいくんに会いに行ったのかな」
「ぼくに…あいにきてくれた…」
ぼくがそうつぶやいたとき、青井さんが突然立ち上がった。
「そうだ、ちょっと待っててね」
「あ、はい…」
そういうと青井さんは奥の部屋へと入っていった。
しばらくして青井さんが戻ってくると、手に何かを持っている。
「ごめんね、かいくんにこれを」
青井さんが僕の目の前に置いたものをみて声をだした。
「これって!」
「そうなの、昨日娘から連絡があってね、これをかいくんにって」
ぼくの目の前には、表紙に『思い出の海』とペンで書かれたアルバムのようなものが置かれている。
「未来さんが…」
ぼくの体は震えていた。
ずっと探していたもの。
見つからなかったもの。
大事なものが今目の前にある。
「そらがずっと大切に持っていたの。新しい写真を撮ってはここに貼ってね…」
青井さんは少し悲しげな表情を浮かべている。
「やっと…ずっと…ずっと探してたんです…」
涙がこぼれてくる。
最近は泣くことが多い。
「もしかしたら、そらはかいくんにこれを見せたかったのかもね」
手にとると、図書館で見たものとは微妙に違うところがあったが間違いなかった。
「中をみても…大丈夫ですか…?」
青井さんは静かにうなずく。
表紙をめくると、まさに図書館でみたものと同じ写真が貼られていた。
写真の下には、一枚一枚、日付と海の名前が書かれている。
一枚ずつしっかりと見たかったが、それよりもぼくは神栖の海の写真を見たかった。
そらちゃんも眺めていた、あの写真を。
ページを一枚ずつめくっていく。
もうすこしであるはずだ。
そう思い、次のページをめくった瞬間、手が止まった。
「あれ…なんで…」
後のページも見てみるが、やはりそうだ。
神栖の海の写真だけ、貼られていなかった。
写真一枚分のスペースがぽっかりと空いているのだ。
「青井さん…これって…」
「そうなの…そこの写真はがれたのかと思って探してみたけどなかったの」
自分が見落としているだけかと思い、前後のページを確認したがやはりなかった。
「やっぱりなさそうですね…」
少し落ち込みながら、本を閉じた。
写真がなかったことはとても残念だったが、ぼくにはもうひとつ青井さんに聞いておくべきことがあった。
「あ、あの…青井さん…」
「どうしたの?」
ぼくは、そらちゃんのことについてもっと詳しく聞かなければと思っていた。
自分の大切な存在であるそらちゃんのことを。
「その…そらちゃんのこと…母から聞いたんです…」
少し聞くのは怖かった。
青井さんを悲しませるかもしれないから。
だけども、それ以上にしっかりと知っておかなければと思った。
「いじめのこととか…」
青井さんは悲しげな顔をすると思っていたが、そんなことはなく、ぼくにふんわりとやさしい笑みを向けていた。
「そうだね、そらのことちゃんとかいくんには知ってもらった方がいいよね」
「その…失礼なのは重々承知です…だけど…」
「ううん、大丈夫よ」
それから、青井さんはぼくにそらちゃんについてゆっくりと話をしてくれた。
「そらはね、本当にいい子だったの」
ぼくは、青井さんの話を静かに聞いていた。
「小学校でも、中学校でも、友達をすぐに作っては私に伝えに来るの。『ママ、お友達たくさんできたよ!!』ってね。そらがそうやって笑ってくれるだけで私は幸せだった。少しつらいことがあっても、そらの笑顔があればそんなのすぐに吹っ飛んだ」
青井さんは、そらちゃんの遺影を微笑みながら見つめている。
「それで、高校に入った時も友達はすぐにできたみたい。家にも何回か友達が来たのを覚えてるわ…」
このとき、青井さんは少し沈黙を続けた。
「高校三年生になって、クラス替えをしたの。だけど、そら…そのクラスの女の子達から良く思われていなかったみたい…。なんでだろうねぇ…あんなに…あんなに優しい子だったのにねぇ…」
青井さんは涙を流して、声を震わせている。
「ごめんね…あの子のことではもう泣かないって決めてたんだけどね…」
「全然…大丈夫です…」
「ありがとう…」
青井さんは、ハンカチで目を軽くぬぐってからまた話をつづけた。
「それで、クラスの子達からいじめを受けていたんだけど、そらがいじめられていたって言うのを私が知ったのは、あの子が亡くなってからなの…」
息が止まった。
青井さんは、そらちゃんが亡くなるまでいじめがあったことを知らなかった。
「それって…」」
「あの子、私に心配かけたくなかったのかな…、家に帰ってきてもいつも笑顔だし…一切そんな話は聞かなかったの…」
「そう…ですか…」
言葉に詰まらせているときに、そらちゃんの言葉を思い出す。
『私お母さんも大好きだし、お母さんの作る料理も全部大好き!』
そらちゃんは、本当に母のことが好きなのだと改めて思った。
母のことが大好きだからこそ、言えなかった。
母に心配をかけないために。
「そらが亡くなった後、クラスメイトだった女の子から話を聞いたの。今でも覚えてる、月菜ちゃん。中村月菜ちゃんていう子でそらとすごく仲良くしてくれていたの。」
その瞬間、ぼくの体を衝撃が襲った。それと同時にある言葉が頭をよぎる。
『月菜だね。結構珍しくて同じ名前の人見たことないけど』
「月菜…陽太の…お姉ちゃん…??」
そらと学生時代、仲が良かったのが陽太の姉で。いろいろなことが突然に押し寄せて整理がつかなくなってしまった。しかし、そうなるとあの時陽太に見せてもらった海の写真がすべてぼくとくうの巡った海というのも納得がいく。月菜さんはそらが巡った海を同じように巡ったのではないか。それが罪滅ぼしかどうかまでは今のぼくにはわからないが。
「かいくん?どうしたの?」
考え込んでいた顔をしていたぼくに青井さんが、心配をしてくれている。
「あ、いや…ごめんなさい、大丈夫です」
ここでは、青井さんには伝えず、今後陽太のお姉ちゃんに会えた時にすべてを伝えようと決めた。そして、伝えようと。ぼくが経験したことを、そらと過ごしたことを。
青井さんはすこし息を整えて、続けて話し始める。
「月菜ちゃん、そらがいじめられているところを見てたみたいで、私に泣いて謝ってくれたの。私は見てるだけで、そらちゃんを助けられなかったって。いじめの内容は…その時は聞いてて本当につらかった…。殴る蹴る、物を壊したりとか…本当にひどかったみたい…」
青井さんの話を聞いていると、自分の見た夢との辻褄があってくる。
あの時にみた、いじめられていた光景も、もしかしたら。
そんなことを考えてしまい、涙が不思議なくらい出てくる。
「すみません…どうしても…勝手に涙が…」
「ううん、大丈夫よ。聞くのがつらかったら無理しなくても大丈夫だからね」
「いえ…すみません…続きをお願いします…」
青井さんは静かに頷く。
「そらはね、いじめのことを私だけじゃなくて、友達にも誰にも相談してなかったみたい」
「だれにも…ですか…」
「そう、ひとり、いじめられてるとこをみてからそらに声をかけた子がいたみたいなんだけど、その時も何事もなかったように笑ってたって」
「全部…ひとりで…」
「そう…だから私…あとになってたくさん後悔した…私が…母親の私が気づいてあげてればって…」
青井さんの涙はもう止まらない。
「かいくん…」
「はい…」
「そらと神栖の海に行ったのは覚えてる…?」
「ごめんなさい…その時のことはほとんど覚えてなくて…」
「そうだったのね…、そらはかいくんと神栖の海に行った翌日に…亡くなったの…」
衝撃を受けた。
夢で見たあの光景。
ビデオに残っていた記録。
あの、海に行った翌日にそらちゃんは亡くなったのだ。
「翌日…ですか…?」
「そうなの…あの日の翌日の朝からそらが出かけてくるって行ったの。雨が強めに降っていたけど、あの子、図書館に行くのが好きだったから…いつも通り見送ったの…。だけど…あの子家を出る直前に『お母さん、大好き』って…まさかあの言葉が最後になるなんてね…」
「雨の日に…」
そらちゃんが、雨の日は会えなかったのもこのためなのかもしれない。
雨の日に亡くなったから、かもしれないと。
ぼくは涙を流しながらも、質問をした。
「そらちゃんは…そらちゃんはどうやって…」
青井さんはもう一度沈黙を続けてから口を開いた。
「その日の夜に、警察から電話があったの…そらは、神栖の海で溺れて亡くなっていたって…」
「入水自殺…!?それも…神栖の海で…!?」
信じられなかった。
そらちゃんは雨の降る夜、自分から海へ入っていき、亡くなった。
そして、その海はぼくとそらちゃんが探し求めていた神栖の海だった。
「私も、最初は信じられなかった…。悪い夢でも見てるんじゃないかって…なにかのドッキリなんじゃないかって…」
青井さんの悔しさや悲痛が伝わってくる。
そらちゃんは、本当に海が好きだったから、青井さんの気持ちには痛いほど共感できた。
「そらちゃん…海が…本当に好きでしたから…ですよね…」
「そうなのよ…あの子は本当に海が好きだったから…」
リビングには、ぼくと青井さんの涙を流す音しか聞こえていない。
「そらが海を好きなのは、お父さんの影響でね…」
「そうだったんですか…」
そらちゃんの父親の話を聞くのは初めてだったが、そらちゃんの父親を想う姿から、優しい人だったんだろうという想像ができる。
「まだ、娘達が小さい頃にね…家族四人でよく海に行ったの…。そのときに、お父さんはよく、娘達を抱いてから、海の方へ指さして『水平線を歩いたら、普段は会えないような大事な人に会えるんだよ』ってよく言ってたの…。今でもその意味は私には分からないけどね…」
青井さんはすこし笑顔を見せながら言った。
ぼくがその時、青井さんにできるのは、そらちゃんがぼくに行ったことを代弁することだった。
「水平線は…水平線は空と海の繋がりだから…だから、水平線を歩けば…空にいる人に会えるって…そんな気がします…」
青井さんは、ぼくの言うことをしっかりと聞いてから微笑んだ。
「ふふっ、そうかもしれないね」
青井さんは、どこか嬉しそうに微笑んでいて少し安心した。
「それでね…かいくんにひとつお願いがあって」
今のぼくには、青井さんの願いを断るという選択肢は一切なかった。
「なんですか?」
青井さんはさっきの優しい微笑みのまま言う。
「かいくんには、そらのことをずっと忘れないでいてほしいの。」
「はい…」
ぼくは今までそらちゃんのことを忘れていた、だからこそこれからは忘れないでほしいと、青井さんの願いなんだとぼくは受け取った。
「少しでもいいから、そらがさみしくならないように、ずっと覚えててほしい」
「もちろんです…だけど…ぼくは…そらちゃんのことをずっと忘れてました…」
青井さんは嫌な顔は一切せず、ぼくの言うことを優しく聞いている。
「ぼくは…あんなにぼくのことを大事にしてくれた…かわいがってくれたそらちゃんを…お姉ちゃんみたいな存在だったはずなのに…」
ほんとうに、自分を恥じた。
「ぼくに会いに来てくれたのに…全然…気づけなかった…」
体に力が入る。
しかし、青井さんから帰ってきたのは優しく、包み込むようなものだった。
「そんなことはいいのよ。いま思い出せてるだけでも、そらはきっと喜んでるはずよ。あの子は、本当に優しい子だもの」
ぼくの涙は、泣いても泣いても足りないようだ。
「ありがとうございます…」
握りしめた手を震わせながら、頭を下げた。
「ぼくは…ぼくはそらちゃんに伝えなきゃいけないことが…まだ…。だけど…もうそらちゃんには会えないかもしれない…」
ぼくはまだそらちゃんに言えていないことがたくさんある。
また会わなければならない。
謝らなければならない。
ありがとうって言わなければならない。
「大丈夫、あの子はまた会いに来てくれると思う」
「本当ですか…」
「本当だよ、あの子、かいくんのこと大好きなんだから」
この日のぼくは、青井さんの言葉に救われてばかりだった。
「本当ですか…」
「うん、必ずね」
そう言ってくれた青井さんの目は真っ赤にはれている。
靴を履き、家をでる準備を整える。
「本当に、ありがとうございました。これもいただいてしまって」
ぼくの手には"思い出の海"がしっかりと持たれている。
「うんうん、いいのよ。あの子もかいくんが持ってくれてるなら喜ぶと思うわ」
青井さんは、わざわざ見送りに来てくれている。
「また必ず来ます」
「かいくんがまた来るのいつでも待ってるからね」
「はい。じゃあ、お邪魔しました」
青井さんは笑顔で見送ってくれた。
扉が閉まってから、手元にある"思い出の海"をみつめる。
「もしかしたら…あそこで…」
このあとのぼくの行先はひとつしかなかった。
スマホを取り出し、神栖までの経路を改めて確認する。
スマホをポケットにしまって、ぼくは駅に向かって歩き始めた。
「そらちゃん、待っててね」
あの写真に写っていた海に、そらちゃんが空へと旅立っていった海に。
久しぶりにそらちゃんに会えるから、ぼくの心は緊張すると思っていた。
だけど、自分でも驚くほど落ち着いていて、淡々と神栖へと向かっている。
そらちゃんに会えたら、まず何を話そう。
そらのことを忘れていたぼくに対して腹がたったか?とか。
なんでぼくとの約束破って、図書館に来なかったんだよ!とか。
今まで忘れていてごめんね。とか。
どれだけ謝っても、そらちゃんを忘れていた事実は変わらないことはもちろん分かっている。
分かっていた。
何を言っても、そらちゃんがこの世に帰ってこないことだってもちろん分かってる。
そらちゃんは七年前にこの世を去っているのだから。
だけど、伝えなければいけなかった。
君のことを忘れててごめんねって。
助けてあげられなくてごめんねって。
よく、がんばったねって。
ぼくを許して欲しいって。
電車はぼくを乗せて、うなりを上げながら海へと向かっていき、ビルがどんどん木に変わっていく。
ぼくは"思い出の海"を抱きしめながら、揺れに身を任せている。
電車に乗っている時間なんて感じなかった。
遠くまで来ているのか、それすらも曖昧だった。
ぼくの頭にあるのは、そらちゃんと会えたら。
それだけ。
ようやく目的の駅に着いた。
いつのまにか、電車に乗っていたのはぼくだけになっていた。
「ここか…」
周りを見渡すが、見覚えはない。
だけど、不思議と行くべき方向は分かる。
木々が連ねる道をひとりあるいていく。
道では誰ともすれ違わない。
ただ静寂の中をひたすらに歩いていく。
しばらく歩いたところで、潮風が鼻をついた。
その時、頭に記憶が流れ込んでくる。
『かいくん…わたし…だめかも…』
そらちゃんが、ぼくを呼んでいる。
ただひたすらに歩みを進める。
だんだんと波の音が聞こえてくる。
『水平線を…向こうまで…』
そらちゃんの声が頭に響く。
「そらちゃん…もうすぐだから…」
そのとき、地面が日に照らされた。
ぼく以外、だれもいない海がそこには広がっている。
波の音は、もうしっかりと聞こえている。
潮の香りもしっかりと。
足をとめて、ゆっくりと顔を上げる。
太陽がまぶしい中、ぼくは目を見開く。
砂浜も。水も。水平線も。
そこにはぼくの求めていたすべてがあった。
写真に写っていた海が。
そらちゃんと探していた海が。
太陽を反射して、宝石が浮いているかのように水が輝いている。
ぼくは体全体を震わせて、無意識に涙を流していた。
「あった…ここだ…間違いない…あった…!あった!!」
涙を拭いながら海を見つめる。
震える足を進めながら、砂浜へと入っていく。
砂も真っ白で美しく、まるで別世界にいるようなそんな気がした。
砂浜へ入ってから、ぼくは膝から崩れた。
「やっとみつけた…やっと…」
見つけることができた感動を抑えきれない中、青井さんの言葉を思いだす。
『そらは、神栖の海で溺れて亡くなっていたって…』
そらちゃんは、七年前にこの海でこの世を去った。
雨の降る中ひとりで死んでいった。
「そらちゃんは…ここで…この海で…そらちゃん…そらちゃん…」
いくら名前を呼んでも、帰ってくるのは波の音。
誰もいない浜辺に響くのは、ぼくの声と波の音だけ。
ぼくはもっていた"思い出の海"をみつめた。
「ぼくは確かに七年前にここに来たんだ…そらちゃんと…」
ぼくがうなだれていると、夏なのにも関わらず周りがどんどん暗くなってきた。
太陽がじわじわと沈んでいき、水平線へと近づいていく。
ここの海だけが、周りよりも時間が早くながれているように感じる。
みるみるうちに辺りは赤く染まっていく。
「え…なにが…」
夕日がより赤く染まったと思ったその時だった。
目をつむってしまうほどの強い光がぼくを包み込んだ。
「うっ…」
手で目をさえぎる。
光に包み込まれた瞬間に、頭の中にたくさんの声が流れ込んでくる。
『おまえなんて!死んじまえ!!』
『お母さんのことは悪く言わないでよ!!』
『そら、ほんとに大丈夫なの…?』
『そらは…大事な妹だから…』
『お父さんは…お父さんに会いたいよ!!』
『わたし…もうだめかもしれない…』
『私を許して欲しいの!!私は…強くなかった!!』
少しして、ゆっくりと目を開けていく。
波打ち際に目を向けたとき、ぼくは自分の目を疑った。
海の方を向いて、ひとり少女が立っている。
ぼくは反射的に立ち上がった。
「くう…く…そらちゃん!そらちゃん!!」
間違いなかった。
風になびく髪。
出会ったときに身に着けていた制服。
ぼくは荷物を置きっぱなしにしたまま走り出した。
「そらちゃん!そらちゃん!!」
そらちゃんは何も反応しない。
一心不乱に走り、そらちゃんの少し後ろで足を止めた。
疲れと興奮で、息が激しく切れている。
「そらちゃん…」
なにも返ってこない。
「探してたんだよ…ずっと…」
少し間を開けてから、柔らかく、優しい声が聞こえてくる。
「信じてたよ。かいくんが、ここに来てくれるって」
返答はするが、いまだに顔は見せてくれない。
「もっと…もっとはやくここに来たかったよ…。もっとはやく…そらちゃんのことを…思い出したかった…」
涙はとっくに止まることをしらない。
「なんで…なんで初めからここに…」
そらちゃんは静かに海を見ている。
「なんで…もっと早くここに連れてきてくれなかったの…」
風は温かく、ぼくらを包み込むように吹き続けている。
「かいくんと、少しでも長く一緒にいたかったの。少しでも長く、顔を眺めていたかった」
「それでも…!それでもぼくは…そらちゃんのこと忘れてたんだ…七年間も…ずっと…」
ぼくは必死になって続ける。
「そらちゃんが会いに来るまで…ずっと無意識に生きてきた…。ずっと忘れてたけど…ぼくはそらちゃんが大事だったんだ!ぼくを認めてくれて、ぼくをかわいがってくれて!そらちゃんは…そらちゃんはぼくにとってお姉ちゃんみたいな存在なんだ!!だから!だからもう一度…もう一度ぼくといっしょにいてほしいんだ!
もう一度…」
ぼくの必死の訴えにも、そらちゃんから返ってきたのは一言だった。
「だめだよ」
「なんで…なんで…!」
ダメということは、前から分かっていたはずだった。
だけど、そらちゃんを前にしてしまうと、ダメなことでもどうにかしてでもと考えてしまう。
「私はもう生きてないんだよ」
「そんなの知ってる!そんなこと知ってるよ!!だけどそんなことどうだっていい!ぼくはただ、そらちゃんにずっと!ずっと一緒にいてほしいだけなんだよ!!」
心からの願いだった。
そらちゃんには、ただ一緒にいてほしい。
生きていなくたって、なんだってよかった。
「かいくん。ごめんね」
「おねがいだ…そらちゃん…おねがい…もうどこにもいかないで…ぼくと一緒にいてください…」
顔の下の砂浜は、雨が降ったかのように涙が濡らしていた。
「かいくんのことが本当に大事だったの。こんな私と一緒にいてくれて、いっぱいくっついてくれて。私にたくさん好きっていってくれた。学校でひとりだった私はかいくんに救われてた。ほんとにうれしかったの。かいくんが私と同級生だったらなってたくさん思ったよ」
久しぶりに聞く声は、前のくうのような明るさではなく、とても落ち着いていて、ぼくを慰めてくれるような優しい声をしていた。
「ぼくと生きて欲しかった…ぼくと同じ時間を…。なんでぼくを置いて行っちゃったの…」
そらちゃんと話せる時間はもうすぐ終わりがくる。
そんな気がしていた。
「最初は、私が耐えてればって、私が強くあればって思ってたの。お母さんを、お姉ちゃんを、大事な友達を悲しませないためなら、どんなに酷いいじめをうけても頑張ろうって。」
そらちゃんは、ひとりで戦い続けてたのだ。
周りの人を心配させまいと。
「だけどね、私はそんなに強くなかったの。たくさん自分をごまかしてみたり、笑顔を作ったりしてたけど、だめだった。ほんとはもっと、もっと一緒にいたかった。
お母さんも。お姉ちゃんも。かいくんも。大好きな友達も、みんなと」
「そらちゃんは変わらないのに…あのときのままなのに…。ぼくはこんなに大きくなったんだよ…もう十九歳だよ…そらちゃんを追い越しちゃったよ…」
ぼくは、自分でも気づかぬうちにそらちゃんの年齢をぬかした。
そらちゃんよりも大人になった。
そらちゃんは永遠に十八歳なんだ。
『私は永遠の十八歳なのっ』
そらちゃんがぼくの年齢を越すことはない。
成人することも、絶対にない。
そらがゆっくりとこちらへ振り返った。
大粒の涙をたくさん流している。
「そらちゃん…」
そらちゃんは、涙を流しながらまぶしいくらいの笑顔を作る。
「かいくん…おおきくなったねっ」
それは、ほんとうにお姉ちゃんのような、ぼくを包み込む優しい表情だった。
そらちゃんの体が少しずつ薄くなっている。
呼吸が止まるくらい嗚咽交じりに涙があふれだした。
「ああぁ…いやだ…いやだよ…」
そらちゃんは海の方へ向きなおして、海の方へ歩いていく。
そらちゃんの体は、微かに海の上を歩いているように見えた。
水平線に近づいていくうちに、体が風に溶けているかのように。
「まって…まって…そらちゃ…そら…やだ…まって!」
あふれ出る涙をこぼしながら、必死にそらちゃんを追いかけて海に入っていく。
服が濡れることなんて気にするわけがなかった。
「いかないで!いかないでよ!もう忘れたりしないから!!」
そらちゃんはゆっくり歩いているように見えるが、不思議と追い付くことができない。
「いやだ!いやだ!もっとぼくと一緒にいてよ!!」
水はどんどんと深くなっていき、腰辺りまで来ている。
「ぼくも一緒に水平線まで行くから!ひとりでいかないで!!」
もうそらちゃんの姿はほとんど見えなくなっており、水は首ほどまでになっている。
後ろから服をつかまれて大きな声をかけられる。
「きみ!なにしてるんだ!あぶないぞ!!」
危ないなんてどうだっていい。
ただそちゃんに追いつくことだけを考えていた。
「やめてくれ!!はなせよ!!いかないと!!はやくいかないとだめなんだ!!!」
「やめろ!!死ぬぞ!!!」
もうそらちゃんの姿は完全に無くなっている。
「あああああああ!!!まだ!!まだ!!!」
「やめろ!!おい!!やめるんだ!!!」
「そら!!!そら!!!あああああああああああああああ!!!!!」
呼吸が苦しくなり、だんだんと意識が遠のいていった。
『かいくんにお願いがあるの。私の家族に、私のことを自分のせいだと思ってほしくないの。だから、そのことを伝えてほしい。ずっと大好きだよって』
最後に一瞬、美しく光る水平線だけが目に入った。
『かいくん。かいくん。かいくん。』
誰かがぼくを呼んでいる。
ふわふわとした優しい声で。
『かいくん。かいくん』
「かい、かい」
目を覚ますと、そこは見慣れた自分の部屋だった。
横から母が声をかける。
いまだに状況が理解できない。
「なんで…お母さん…」
母はものすごく悲しげな顔をして涙まで流している。
「かい…なんで…」
「なんで…?」
「なんで海になんて入っていったの…」
ここでだんだんと昨日のことを思い出してきた。
ぼくは昨日、神栖の海に行った。
そこでそらちゃんに会って。
そらちゃんは水平線へと歩いていき、消えた。
「昨日…海で…」
そう言いかけたとき、母が強い力でぼくを抱きしめた。
「ほんとに…心配したんだからね…」
母の声は震えており、涙をぽろぽろ流している。
「ごめんなさい…ごめんなさい…」
それから、しばらくは母は涙を流し続けていた。
ぼくは、神栖の海でそらちゃんと再会した。
ぼくにしか姿が見えてないとしても、間違いなくあの場にそらちゃんはいた。
七年前と変わらない優しさで、ぼくを待ってくれていた。
ある日を境に図書館に来なくなったのも、ずっとあそこで待っていたからかもしれない。
そらちゃんと再会した日から、いままですっかり忘れていたはずのそらちゃんとの思い出をはっきりと思い出すことができる。
それが七年前のことだとしても、しっかりと。
目が覚めると、まぶしい光がさしていた。
ぼくは昨日、海に入っていき溺れていたところを、タイミングよく通りがかった管理者の男性に助けられたらしい。
母のところに警察から連絡が入り、母がぼくを家まで帰してくれた。
ぼくは探していた海にたどり着き、そらちゃんと再会できた。
だが、まだやり残していることがあった。
"思い出の海"にあるはずの神栖の海の写真を見つけることだ。そして、陽太のお姉ちゃんで、そらとの友人だった月菜さんに会うこと。
ベッドからでて、リビングへと降りて行った。
「あら、おはよう」
母はいつものように声をかける。
「うん、おはよう」
準備を済ませて、家をでる。
今日は、なんとなく青井さんの家に行くべきだと思った。
日差しも強く、少し暑いが、秋が少しづつ近づいているのがわかる。
肩にかかっているバックには"思い出の海"が入っている。
しばらくして青井さんの家に到着した。
玄関に取り付けられているインターホンを押す。
すぐに声が聞こえてくる。
『はーい』
「突然すみません、大野です」
『あらっ、かいくん!今開けますねっ』
インターホンがきれ、少し間を開けてからドアが開いた。
「かいくん、いらっしゃい、どうぞ」
ぼくは軽く頭を下げて、入っていった。
廊下を抜けてから、リビングに入ると、そらちゃんの遺影に軽く目を通してから椅子に座った。
青井さんはぼくの前にお茶を置いてから、席についた。
「青井さん、突然お邪魔してすみません」
青井さんは笑顔で手を横に振った。
「いいのよいいのよ、いつでも大歓迎だからね」
「ありがとうございます。今日はそらちゃんのことで少しだけお話がしたくて」
ぼくは、昨日そらちゃんにあったこと、そらちゃんの青井さんへの想いをすべて伝えたかった。
「昨日、そらちゃんにあったんです」
もう七年も前に亡くなった人に会ったなんて、だれも信じないだろうと思うが、青井さんは優しい笑顔のまま頷いていた。
「ちゃんと、お話できたかな」
「はい、長い時間は話せなかったけど、そらちゃんにいろいろなことが聞けました」
そらちゃんは、本当に家族を大事にしていた。
そらちゃんが亡くなったことを、青井さんに自分のせいだと思ってほしくなかった。
「その、青井さんに、思い詰めてほしくないんです」
青井さんは静かにぼくの話を聞いている。
「そらちゃんのことは、青井さんのせいじゃないって、だから自分を責めないで
欲しいって。ぼくとそらちゃんから伝えたいことです」
青井さんは目が少しうるんでいるが、どうにかこらえているようだった。
「かいくん…そらはほかに…なにか言ってた?…」
そらの言葉が頭をよぎる。
『かいくんにお願いがあるの。私の家族に、私のことを自分のせいだと思ってほしくないの。だから、そのことを伝えてほしい。ずっと大好きだよって』
「ずっと、ずっと大好きだよって」
ぼくの言葉に、青井さんは少し涙をこぼした。
だけど、それは悲しい涙じゃなくて、幸せの涙のようにぼくには見えた。
「ありがとう…ありがとう…。最近は私泣いてばっかだね…」
涙を流しながらも、笑顔をみせた。
ぼくは青井さんが落ちつくまで、静かに待っていた。
「その、青井さん、ひとつお願いがあるんです。」
ぼくはここに来てから、ひとつ見ておくべきものを思い出した。
「お願いって?」
「前に見せてくれた、ぼくとそらちゃんの写真を少し見せて欲しいんです」
くうがそらちゃんと気づくきっかけになった写真を見れば、"思い出の海"のなくなった写真のことがなにか分かるような気がした。
「ええ、大丈夫よ」
そういって青井さんは奥の部屋に入っていき、前と同じ写真たてに入った写真をもっきてくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとうございます」
写真の中では、海を背に幼いぼくと笑顔のそらちゃんが並んで写っている。
「それ、ずっとそらが自分の部屋に飾っていたの。いまでは私の寝室に置いてあるんだけどね」
ぼくが、そらちゃんとの思い出を考えながら写真を見つめているときだった。
頭の中に、そらちゃんの言葉がひとこと浮かんだ。
『大事なものは写真たてに入れておくの』
「大事なものは…写真たてに…」
「かいくん?」
青井さんは不思議そうにぼくを見ている。
ひとつ、あることがぼくの頭に浮かんだ。
「青井さん、この写真…中から取り出しても大丈夫ですか…?」
「え…ええ、大丈夫だけど…」
「ありがとうございます…!」
ぼくは慎重に、写真たてを取り外し、写真を中から取り出した。
「やっぱり…」
「かいくん?どうしたの?」
ぼくの考えは当たっていた。
中に入っていた写真は一枚ではなかった。
ぼくとそらちゃんが写る写真と、もう一枚重なっていた。
ゆっくりと、後ろの写真をずらす。
「あった…ここにあったんだ…」
「それって…」
出てきたのは、海の写真。
真っ白な砂浜、太陽を反射して輝く水面、横に美しく伸びる水平線。
写真越しでも、目を奪うほどの海だった。
「神栖の海だ…"思い出の海"の最後の一枚…。ぼくとそらちゃんはこの写真で…」
この時、青井さんがぼくにいった。
「かいくん…これ…裏面はなんて…?」
「え…?」
青井さんは写真の裏面を指さしている。
「裏面…?」
ゆっくりと、写真を裏返してみると文字が書いてあった。
「これ…そらの字…」
青井さんの言うように、そらちゃんが書いたもののようだった。
ゆっくりと一文字ずつ読んでいく。
『私が、どれだけ遠くにいる存在でも。
私が、どれだけ離れている存在でも。
みんなからは見えなくても。
もし、私のことを忘れてしまったら。
そのときは。
そのときだけは。
きみと水平線を歩けたら』
視界は少しの涙でかすんでいた。
そらちゃんが残してくれたもの。
すごく、悲しかった。
けれども、それ以上に心は温かく、自然と笑みがこぼれていた。
「青井さん…そらちゃんは…ほんとうに優しくて…強かった…」
そらちゃんは多くのことをぼくに伝えようとした。
友人ではなく、まだ幼い自分に。
「そらちゃんは…ぼくにいろんなことを授けてくれました…」
青井さんは、ずっと優しい表情のままぼくを見守っている。
「そらちゃんがぼくに伝えたかったこと…あの頃はまだ分からなかったけど…今なら…今ならわかる気がするんです…」
ぼくは手に持った写真を離さず体を震わせている。
「青井さん…この写真…」
青井さんはぼくの言いたいことを理解していた。
「ええ、もちろんよ。かいくんが持っていたほうがあの子もきっと喜ぶわ」
「ほんとうに…ありがとうございます…」
母親である、青井さんが持っておくべき物なのはもちろん分かっていた。
だけど、そらちゃんの生きた証、そらちゃんが残してくれたもの。
それがぼくには必要だった。
ぼくは"思い出の海"を取り出し、写真を挟んで閉じる。
「貼ったら、裏面が見えないですからね」
ぼくと青井さんは顔見合わせて笑う。
青井さんは玄関までぼくを見送ってくれた。
「青井さん、突然お邪魔したのに、色々とありがとうございました」
頭を深く下げる。
「うんうん、いいのよ、娘が帰ってくる時以外はひとりだからさみしいの。だからいつでもまた来てね」
「はい、ありがとうございます。では、お邪魔しました」
改めて頭を下げてから、外にでた。
なんとなく空を見上げる。
いつもと変わらないはずの景色だが、今のぼくには不思議と新鮮なものに感じた。
太陽がいつもより優しく暖めてくれるし、鳥の鳴き声がよく聞こえる。
色々なことを感じながら、足は自然と図書館へと向かっている。
図書館にはすぐに到着して、中に入る。
ドアが開くと同時に、カウンターにいる未来さんと目が合った。
「こんにちは」
未来さんは、そらちゃんみたいににっこりと笑ってくれる。
ぼくは未来さんに近づいていき、軽く頭を下げながらいう。
「こんにちは。未来さん、"思い出の海"のこと、ありがとうございました」
未来さんがいなかったら、ぼくが"思い出の海"を見つけることはできていなかった。
「ふふ、いいのよ。ちゃんと見つけられてよかったわ」
未来さんは、ぼくのいつもの席の方へ目を向けた。
「あそこの席、そらのお気に入りの席だったの」
ぼくは、今までずっとそらちゃんのお気に入りの席で本を読んでいた。
この時は、驚きよりも、喜びが勝っていた。
そらちゃんが、ぼくのお気に入りの席に座っていたという事実が、なんとなく嬉しかった。
「そうだったんですね」
ふと、笑みをこぼしながら視線を落とした時に膨らんでいるお腹が目に入る。
ぼくの目線に気づいた未来さんがお腹をさする。
「たまに、ぽこってするのよ」
「中で、遊んでいるんですかね」
未来さんが、ぼくの手をとり、お腹に触れさせた。
「どうかなぁ?」
手を止め、じっと待っていると、ぼくの手を中からポコッと叩くのを感じた。
「あっ」
「ふふっ、してくれたねっ」
すごく不思議な感覚だが、どこか幸せな気持ちになった。
「私はもうすぐ産休に入っちゃうから、この子が生まれたら会いに来てねっ」
「もちろんですっ、楽しみにしてます」
未来さんはにっこりと微笑みカウンターへ戻っていった。
ぼくも、いつもの席に向かっていく。
椅子に腰かけ、一息つく。
「そらちゃんのお気に入りの席だったんだ」
そらちゃんも、かつてここに座っていた。
そのときは、どんなことを考えながら、どんな本を読んでいたんだろう。
そらちゃんも、ぼくと同じ景色を見ていたのかな。
窓の外に目を向けながら、ずっとそんなことばかり考えていた。
しばらくしてから、後ろの本棚から一冊の本を取り出しページをめくる。
ふとした瞬間に、もう一度窓の外を見る。
青空に大きな雲が浮いている。
「そらちゃん…お父さんと会えたのかな…」
そのとき、青空が一瞬きらりと光った。
それが何なのかは分からなかったが、ぼくにはそらが何かしたんだろうと、そんなふうに思えた。
ひとりで軽く微笑んでから、ぼくはもう一度本に目を落とした。
あれから、二週間が経った。
それでも、朝目覚めるのはいつもと変わらない。
歯を磨くことも、着替えることだって何も変わらない。
なにか違うことがあるとするなら、少し気分が明るくて、表情も明るいこと。
そして、起きたときにまだ親は家にいて。
家を出てから向かう場所もちがう。
もうぼくは大学に行くことに嫌悪感は一切感じていない。友達が少なくなって、1人でも2人でも、ぼくを必要としてくれる限りぼくはなんとも思わない。もし、限り少ない友人がぼくを必要としなくなっていても、そらだけはぼくを必要としてくれる。
人の流れに身を任せながら、大学へと向かっていく。
「かい、おはよう」
「うん、おはよう」
陽太も眠そうな目をこすっていつも通り本を広げている。
あいてる席に座り、周りと同じように授業を受ける。授業は退屈だけど、別に嫌な訳では無い。
授業を受けた後は、食堂で昼食を食べてから、もう一度授業を受ける。
家に帰って、寝て起きたら、また大学へ行く。そして退屈な授業を乗り越えて、また家に帰る。
時々図書館に行っては、のんびりと本を読む。
ぼくの生活は、同じことを繰り返していて別に特別なことはしていない。
だけど、不自由は感じていない。
なにか特別なことがなくても、友達と学生生活を送れて、何事もなく生きている。
それだけで、ぼくは十分幸せなのだと気が付いた。
そして、どんな時でもぼくはそらちゃんの存在は忘れない。そらもぼくを忘れないでいてくれていたように。
そらちゃんをもう悲しませることのないように、精いっぱいぼくは生きている。
家に帰れば、本棚には 思い出の海 が入っている。棚にはそらちゃんとの写真がある。
『かいくんは、なにか大事なことを忘れてない?』
本を撫でながら、そらちゃんの言っていたことを思い出す。
「大丈夫、忘れてないよ」
そうやって、きっとどこかで聞いているであろうそらにむかって言ってやる。そうでもしないとほっぺを膨らませてつついてくるんだろう。
「ただいまぁ」
「あ、お母さんおかえり」
「あれ、かい早かったね」
「うん、今日は二限で終わりだったからね」
学校に行っていない時期は、どことなく気まづくて親としっかりと向かいあって話すことは少なかった。でも、いまでは父親ともよく話す。まさか自分がこんなふうに変わることが出来るなんて思ってもみなかった。これも、すべてそらちゃんのおかげ。とか言うと、どうせどこかで自慢気な顔をしてくるんだろう。でも、そらのおかげでぼくの人生が大きく変わったというのは、紛れもない事実だ。
「ほんとにありがとう」
ぼくはだれもいない空に向かってそう告げる。
「かい、お姉ちゃんが帰ってきたんだけど会いに行く?」
陽太がそう言ってきたのは突然だった。ぼくは早く月菜さんに会いたかった。たぶん月菜さんはいまでもそらちゃんのことを自分の罪だと思って過ごしている。そらの所縁の海に行っては自分の罪を認めているんだろうとぼくは思う。だから早く伝えなければいけない。そらの想いを。
「もちろん!ぜひ会わせてほしい!」
陽太の家へは、大学の授業が二コマで終わる日に行くことにした。二コマの授業はいつもなら考え事をしていればあっという間に過ぎてしまう時間だが、この日は早く月菜さんと話したくてうずうずしており、九十分の授業がやたらに長く感じた。
「はい、それじゃあ今日はこの辺りで終わらしましょうか」
待ちに待った教授のその言葉を聞いてからすぐに立ち上がった。
「陽太、いこ!」
「すごい張り切ってるね、まぁ、いこうか」
陽太はケラケラと笑いながらもすぐに準備を終わらせてくれた。
学校を出て、駅へと向かって歩いていく。
「そういえば、陽太ってどこに住んでるの?」
最近気づいたが、ぼくは陽太の最寄り駅や住んでる地域をいまだに聞いていなかったのだ。ぼくも陽太に自分の住んでいる場所などは伝えていないため、お互いさまではあるが。
「おれは、品川が最寄り駅だね」
「うわ!金持ちの街だ!」
ぼくはあえて、オーバーなリアクションを取った。
「いや、全然そんなことないけどね」
陽太は笑いながら顔の前で手を違う違うというようにして振った。
こんな話をしていたら、駅にはすぐに到着した。
「向こうの路線ね」
「ぼくとは反対の方向なんだ」
「かいは向こうなのか」
陽太の利用している路線は、ぼくはほとんど使用しない都心部を巡回する路線だった。電車の中は冷房が良くきいていてもはや寒いくらいだった。
「もう、すぐにつくよ」
品川の位置を確認すると、三駅しか経由しないようだった。
「陽太の家ってすごい近いんだね」
「まぁ、もはや家の近さで大学選んだまであるからね」
「確かに大学の距離は相当大事な要素だよね」
三駅先の品川までは、10分もしないうちに到着した。
「それじゃ降りようか」
「うん」
電車を降りると、一気に温かい湿度の高そうな空気に体を包まれる。
「ほんと東京の夏の暑さって嫌な暑さだよね」
暑さに嫌気がさしているような顔をしながら陽太がそう言う。
「そうだよねぇ、沖縄とかの方がまだ乾燥してるから絶対マシだよね」
「ほんとにそうだと思う」
「めっちゃ暑いけど、家割と近いから安心して」
「それはほんとに助かります」
陽太の言った通り、駅から出て少し住宅街を歩けば陽太の家にはあっという間に到着した。
「ここだよ」
そこは、本当に立派な大きな一軒家だった。扉も、窓も大きく、少し小さいが庭もある。
「え、すごい、豪邸だ」
「いや、豪邸は言い過ぎ、ほら暑いから入ろ」
陽太はポケットから家の鍵を取り出し、差し込んだ。
「入って」
「あ、ありがとう。お邪魔します」
大きいドアの先には広い廊下があり、いくつかのドアがあった。
「靴適当に置いて大丈夫だからね」
陽太にそう促され靴を脱いでいると、奥の扉が開き女性が二人出てきた。
「あなたがかいくんねっ、いらっしゃい!」
そう言って母親と思われる女性がにっこりとした笑顔で出迎えてくれた。自分が名乗る前に、陽太の母親に名前を呼ばれて少し驚いたが、陽太が事前に伝えてくれていたのだろう。しかし基本的に人見知りなぼくには少しありがたいことだった。
「あ、大野海です。初めまして」
「こちらこそ初めましてっ、ささっ、あがってあがって」
「ありがとうございます、お邪魔します」
そういってもう一度軽く会釈をした。そうすると、母親の横に立っている月菜さんであろう女性も優しい笑顔で会釈を返してくれた。
母親の後ろについて廊下を渡りリビングに入ると思わず感嘆の声を漏らした。
「おぉ…すごい…」
リビングは吹き抜けになっている構造で、とても広かった。テーブルも大きく、キッチンもぼくの家とは比べ物にならないくらい広かった。壁にはおしゃれな絵画のようなものがかかっており。テレビのサイズもすごく大きい。
「荷物そこらへんに適当に置いてね」
「うん、ありがとう」
陽太にそう促され、荷物を椅子の上に置いていると、陽太が手招きしている。
陽太のところに行ってみると、一つの部屋に通された。
「はいって、ここおれの部屋」
陽太の部屋も本当にすごかった。壁一面には陽太が撮影したであろう写真がたくさん貼られている。それは、綺麗な自然の景色や、都会のビル街、昆虫の写真まで様々なジャンルの写真があった。
「これ、全部陽太が撮ったの?」
机をごそごそと漁っている陽太の後ろ姿にそう問いかける。
「うん、そうだよ。おれは撮るジャンルに特にこだわりがなくて、ジャンルがばらばらになってるけどね」
笑いながらそう答えた。そして、ぼくにある物を見せてくれた。
「これで、写真は全部撮ってるんだよね」
それは、カメラだった。それは、最近の最新機種よりかは古い見た目である程度年季が入っているようにも見えたが、それ以上に、なにか圧倒するものを感じた。
「父親も写真撮るのが好きでさ、ずっと使ってたものをくれたんだよね」
「それはちょっと前のカメラだよね?」
そう尋ねると、陽太は微笑みながらカメラを優しくなでた。その仕草から、どれだけ他のカメラより古かろうと、陽太にとってはかけがえのない大事な宝物なのだということが伝わってきた。
「うん、父親が若い頃使ってたカメラを引き継いだから、もう15年くらい前のやつかな」
「15年て…すごいね」
「すごいよね。だけどやっぱカメラの性能はあんま関係ないと思うんだよね。どんな良いカメラを使っても撮る人によって写真の美しさなんて変わるからね」
そういってカメラを眺めてる陽太がすごくかっこよく見えた。
「てか、今日の本題はカメラじゃなかったね、リビングいこうか」
「カメラの話も面白いけどね、今度またゆっくり聞かせてよ」
「うん、もちろんだよ、語りつくしてあげるよ」
そう言って陽太はカメラを大事そうにしまった。
リビングに戻ると、テーブルにはコップに注がれた麦茶が置かれていた。
「かいくん、すわってすわって」
「ありがとうございます、失礼します」
すこし頭を下げてから椅子に腰を掛けた。
「外、暑かったでしょう?」
「そうですね、嫌になっちゃいますね」
母親はすごく優しげな方でぼくの言うことにアハハと笑って応えてくれる。
「暑いのにわざわざ来てもらってごめんなさいねっ」
「いえいえ、こちらこそ、突然お邪魔してごめんなさい」
母親はそれに対して、顔の前で手をぶんぶんと振って否定した。
「陽太ね、今まで友達を家に連れてきたことなかったからほんとにうれしいの!」
母親はソファに座ってる陽太にわざとらしく聞こえるように言う。
「別に、ただ家に呼ぶ必要がなかっただけだよ」
陽太が、母親と話しているところを見るとすごく不思議な感じがして新鮮だ。
「かいくん、ほんと陽太と仲良くしてくれてありがとうねぇ」
そう言われたが、それはこちらのセリフだと思った。孤独でいたぼくに話しかけてくれたのは陽太で、本当に感謝している。
「いえいえ、こちらこそ本当になんとお礼を言ったらいいか」
ソファの陽太が笑いながらそれに反応する。
「大袈裟だよ」
「それでも本当にありがとう」
母親に頭を下げられたので、ぼくもそれに応えるように頭を下げた。
「てか、あれだよ、かいを今日呼んだのはお母さんに合わせるためじゃなくて、お姉ちゃんだからね」
こちらに首を伸ばして陽太が言う。
「あ、そうだったのね、それじゃ私は失礼しようかね」
「あ、いえ、お母さんとも話しててすごく楽しいのでいたままでも全然大丈夫ですよ」
「あら、うれしいこと言ってくれるねっ、じゃあ月菜呼んでくるわね」
そう言って陽太の母親は奥の部屋へと入っていった。
しばらくして月菜さんが部屋から出てきた。
「ごめんなさいね、お待たせしました」
そうしてぼくに向かい合うようにして席に着いた。
「初めまして、陽太の姉の月菜です。暑い中わざわざ来てくれてありがとうね」
月菜さんはすごく優しい声をしていて、おっとりとしたそんな印象だった。
「初めまして、大野海です。こんな初対面で申し訳ないんですけど、今日は月菜さんに伝えたいこと…用があって」
詳しい事情は陽太から聞いていないのか、月菜さんは何のことか分かっていないようできょとんとしていた。それも無理はない。突然、弟が初対面の友達を連れてきて伝えたいことがあるなんて言われたら、ぼくが月菜さんだったら理解が追い付かないだろう。
「私に伝えたいこと?」
「はい…その…なんと伝えたらいいのか…」
なんとか、そらちゃんの事を伝えようかと思っていた時‟思い出の海”のことが頭に浮かんだ。
そして、おもむろにバックに手を入れてそれを取り出した。
「月菜さんに、これを」
ぼくがゆっくりと月菜さんの前にそれを置くと、月菜さんは口に手をあて、目を見開いた。
「え…それ…なんで…なんで…」
月菜さんは、そんなことは有り得ないと言いたげな表情を浮かべている。
「ごめんなさい。ぼくみたいな部外者がこんな大切なものをを持っていること自体、理解できないかもしれないと思います」
月菜さんは首を横に振っている。
「だけど…だけどこれだけは月菜さんに見せておかないと…伝えておかないとダメだと思ったんです」
「…これ…これ…」
月菜さんは震える手を‟思い出の海”に伸ばして手に取った。月菜さんの声は震えていて、もうすでに目には涙が浮かんでいる。
「中…見ても大丈夫…?」
「もちろんです」
震える手のまま、月菜さんは表紙をめくった。
「これ…これ…そらの…そらの字だ…」
月菜さんの口は軽く開いたままになっていて、今にも信じられないというような表情をしている。もしぼくが月菜さんの立場だったらこんな状況になったら頭が真っ白になってなってなにも考えられなくなる。そんなことを考えながら月菜さんの目を見つめる。月菜さんはそれでも、一ページ、また一ページと丁寧に震える手を抑えながらめくっていく。
「本物だ…ほんとにそらのだ…」
そうしてページをめくっていくと、とあるページにたどり着いた。そのページを見たとたん、月菜さんの涙がブワッと溢れ始めた。そう、そのページにはぼくが探し求めた海が写っている。ぼくの人生を変えてくれた海であり、そらちゃんの人生を終わらせた海。太陽を美しく反射させ、空とつながる水平線が写る神栖の海に月菜さんはページをめくる手を止めた。
「あ…あぁ…やだ…やだ…そらぁ…」
今にも消えてしまいそうな声で月菜さんは泣き崩れた。声をあげて泣いた。月菜さんがこうなってしまうのも仕方ない。自分と仲の良かった友人が自ら命を絶った場所を突き付けられているのだから。
「そら…そらぁぁ…」
嗚咽交じりに涙を流す月菜さんに陽太の母親が優しくハンカチを手渡した。陽太は会話を邪魔しないよう、いつの間にか自分の部屋に戻っているようだった。ぼくは母親に軽く頭を下げた。ここから、すこし月菜さんが落ち着きを取り戻したところで、月菜さんはゆっくりと顔を上げ、ぼくの目を見つめた。
「かいくん…ありがとう…本当にありがとう…」
ぼくは、コクっと頷いて、月菜さんからの感謝を受け取った。そして、月菜さんがこう続けた。
「やっと…やっと会えた…会いに来てくれた…かいくん…あの時の子はかいくんだったんだね…」
「え…?」
ぼくは月菜さんの言っていることが理解できなかった。ぼくと月菜さんの間にそらちゃんという存在がいるのは間違いないが、ぼくと月菜さんには今までなんの関係もないのだ。
「月菜さん…ぼくのこと…知っているんですか…?」
月菜さんは震える口を抑えながら、何度も頷く。
「そらからよく聞いてたの…弟みたいに可愛がっている男の子がいるって…」
そらは、月菜さんに対してもぼくの存在を知らせていた。そらちゃんからの愛情を感じた。
「私…そらが自分で命を絶ってから…もうその頃のことは考えないようにして生きてきたの…たぶん…逃げてたんだと思う」
月菜さんは、責任を感じていた。自分がそらを見捨てたと、自分がそらを見殺しにしたと。
「だから、陽太からかいくんの名前を聞いた時も何も思わなかった…年齢も名前も同じだからもしかするのにね…」
月菜さんは息を整えて、しっかりとぼくの方へ向き合った。そこには、覚悟のような強い意志を感じた。
「かいくんには、しっかり話さないとね。そらのこと。そらのお母さんから聞いたこともあるかもしれないけれど、私からも。私の中のそらを」
ゆっくりと月菜さんは静かに言葉を発して、そらちゃんのことを語っていく。
「そらは本当に笑顔が素敵で、明るい女の子だったの」
月菜さんは赤い目をしているが、少し笑顔を浮かべながらそらの話をする。
「私はこんな感じで、根暗というかあまり人と話すのが得意じゃないから友達が少なかったの。だけど、そんな私に声をかけてくれて仲良くしてくれたのがそらだったの。それからはずっとくうって呼んでた。私がふと、空をくうって読み替えたのを気に入ってくれて、それからはくうって呼ぶことになった」
『くうって呼んでたのは本当に仲が良かった一部の同級生だけだったの』
『わたしは…くうって呼んでっ』
そらちゃんは、くうというあだ名をすごく気に入っていた。もちろん、名前の響きがかわいいというのも一つの理由だろうが、それ以上に大切な友達である月菜さんが月菜さんが付けてくれた名前だからこそ、大事にしていたのだろう。
「今は、私はそらのことをくうって呼ぶ資格がないんだけどね。」
月菜さんの表情は軽く笑ってはいるが、ぼくにも伝わってくるくらいの悲しみを含んでいた。月菜さんは、罪悪感からかそらちゃんとの関係性の深さを表している呼び名さえ自分が口にすることを遠慮しているのだ。
「それから、私はそらとたくさんの海に遊びに行ったの。初めは海には特に興味がなかったけど、そらに連れられて行った海の美しさは今でも忘れない」
ぼくは、月菜さんの目をみて、そらちゃんとの話を胸に刻むようにして聞く。
「しっかりと覚えてる。まぶしく照らす太陽、キラキラ光る水面、真白に輝く砂浜、美しく伸びる水平線…そこが神栖の海だったの」
「神栖…ですか…」
この時初めて知った。神栖の海は、ぼくとそらちゃんだけの思い出の場所じゃなかったということ。月菜さんがそらちゃんに連れられて、海の魅力を覚えた場所であるということ。月菜さんはその場所に、大切な友達の命を奪われたということ。
「そうなの。だから、そらが神栖の海で亡くなったことを聞いたときは本当に頭が真っ白になって当分学校に行けなかったの。なんで、なんでって」
「ぼく、そらちゃんのお母さんともたくさん話したんです、それでそらちゃん…いじめられていたって…」
それを聞いて、月菜さんの目にはまた涙が浮かんできた。少しうつむいて涙をこらえている。
「私…そらがいじめを受けてる現場…みたの…」
話を聞いているだけでもこれほどに胸が痛むのに、その現場を目撃してしまった月菜さんの心の傷は計り知れないだろう。
「女子トイレで、複数人に囲まれてひどいことをされてたの…そら、本当に素敵な子で誰からも好かれていたからそれを良く思わない人がいたの…。私…それを見ても助けてあげられなかった…何もしてあげられなかったの…何も…」
月菜さんは自分を戒めるように自分の言葉で、自分を追い詰めていく。
「私があの時、そらを助けていれば…そらはいまでも…」
「月菜さん」
ぼくの呼びかけに、ハッとした顔で月菜さんは顔を上げた。
「そんなに自分を責めないでください」
「でも…でも…」
「そらちゃんに会ったんです」
「え…」
そらちゃんに会えたからこそ、自分だけが会えたからこそ、月菜さんにしっかりと伝えなければならない。
「信じられないかもしれません。馬鹿げているかもしれません。それでもぼくはそらちゃんと会いました」
月菜さんはどう思うだろう。7年前に亡くなった友人に会ったという人物がいたら。受け入れてくれるだろうか。
「そらに…会った…」
「はい、自分のことをくうと名乗って会いに来てくれたんです。たくさん話をしました。本当にたくさん」
「そらは…そらはなんて…?」
月菜さんは、そらちゃんの存在を疑うことはなかった。大事な友達の魂がいまだにしっかりと残っていることがうれしいのかもしれない。
『もっと一緒にいたかった。お母さんも。お姉ちゃんも。かいくんも。大好きな友達も、みんなと』
「大好きな友達と、もっと一緒にいたかったって」
「あぁ…あぁぁ…そらぁぁ…そらぁぁ…、ごめんね…ごめんね…」
ぼくは、そらちゃんの意思をしっかりと伝えるように強く、真っすぐ月菜さんを見つめる。
「月菜さん、だからそらちゃんのためにも自分をあまり責めないでください。月菜さんはそらちゃんの大切な友達なんですから」
月菜さんは声をあげて泣いた。
しばらく泣き続けていた。
目を真っ赤にした月菜さんがハンカチを当てたまま顔をあげる。
「ごめんね…こんなに泣いてばかりで…」
ぼくはふんわりと微笑んで首を横に振る。
「いいんですよ」
そしてもう一つぼくが月菜さんに伝えたかったことがある。これはぼくの為でもあり、月菜さんの為でもある。
「あの、月菜さん」
「はい…」
「つらいとは思うんですが…ものすごく。あの、海に…海に行きませんか?」
「海に…?」
「はい、神栖の…神栖の海に」
それを聞いたとき、月菜さんの体が一瞬こわばったのが分かった。しばらくの沈黙が続いて月菜さんが口を開いた。
「ううん…ごめんなさい…私はあそこには行けない…」
月菜さんがそう思ってしまうのも仕方がない。ぼくもそらちゃんを追いかけたあの日以来あそこの海には行っていない。それでも、だからこそもう一度行かなければと思った。
「月菜さん、もちろん辛いのは分かります…ぼくには計り知れないほど辛いと思います…だけど…もう一度…もう一度そらちゃんに会って欲しいんです…」
「それでも…」
ぼくは必死にお願いした。おせっかいかもしれない。邪魔と思われるかもしれない。それでも、これがぼくの責任だと思った。そらちゃんに会えたぼくの責任だと。
「お願いします…」
深く、頭を下げた。
「え…かいくん…そんな…」
「どうか…どうか…」
すこし間があいて、月菜さんに声をかけられた。
「わかったわ」
顔を上げると、月菜さんが優しく微笑んでこちらを見つめていた。
「いいんですか…!?」
その微笑みのまま、月菜さんはゆっくりと首を縦に振った。
「ええ、かいくんの想い…伝わったわ。私、もう逃げないから」
そう言う月菜さんの顔は強い真っすぐな目をしていた。
「ありがとうございます…ほんとうにありがとうございます…」
何度も何度も頭を下げた。
この日は、時間のことなんて忘れており、ふと時計を見たときにはとっくに夕方になっていた。
「こんなに長く居座ってしまってごめんなさい」
玄関で陽太の母親にお礼をした。
「うんうん!かいくん来てくれて本当にありがとうね!またいらっしゃいね!」
横には陽太と月菜さんも並んでいる。
「かいくん、本当にありがとう。本当に救われました」
「いえいえ、こちらこそ本当にありがとうございました」
月菜さんとお互いに頭を下げあう。
「かい、また学校でね。また来てな」
「うん、ありがとう。でも次は陽太を家に呼ぶよ」
「え、それは楽しみ。期待しておく」
そうして三人とは別れを告げて、駅へ向かい電車に乗った。
自分の最寄り駅に到着した時にはもう空は暗くなっていた。
広い空を見つめてぼくはひとことそっと呟く。
「そらちゃん…もう一度会いに行くからね。月菜さんも一緒だよ」
「あ、来た」
約束ちょうどの時間に、ぼくの家の目の前に軽自動車が止まった。神栖の海までは、月菜さんが車で送ってくれるらしく、陽太も海の写真を撮るために同行するようだ。
「それじゃ、いってきます」
「気をつけていってらっしゃいねぇ」
母親の言葉を背中に受けて家を出た。軽自動車は黄色の可愛らしい色をしていて助手席に陽太が乗っていた。
「かいくんっ、乗って乗ってっ」
助手席側の窓がウィーンと空くと同時に、月菜さんが運転席から声をかけてくれた。陽太もそれと同時にこちらにと手招きをしている。
「ありがとうございます、おじゃまします」
ぼくは後ろの座席にゆっくりと乗り込んだ。車の中は何かの芳香剤のような匂いがした。
「今日も暑いよねぇ」
運転席から振り返って月菜さんがこちらを見る。
「それなのにわざわざ迎えに来てもらっちゃって、ほんとにありがとうございます」
「気にしなくて大丈夫なんだからねっ」
カメラの調整をしている陽太は顔の向きはそのままに口を開いた。
「遠慮しなくていいんだからね」
「うん、ありがとう」
「それじゃ、行きましょうか」
月菜さんの声を合図に、車はゆっくりと動き始めた。
住宅街を抜けると、大通りに出る。大通りをある程度走ると、高速道路の入り口が見えてくる。
「あ、月菜さん。高速代くらいはあとで払わせてください」
ぼくから海に行こうと提案したのにも関わらず、なにもしないというのはさすがに気が引けてしまう。ぼくの言葉に対して、月菜さんはフフフと笑った。
「かいくん、ほんとに遠慮しなくて大丈夫なのよ、それに感謝してるのは私の方なんだから」
ぼくは、月菜さんに感謝されるようなことをした覚えは無いのだが。それでもどうにか少しでもなにかしようと考えていると
「かい、ほんとに気にしなくて大丈夫だからね」
窓の外をぼうっと眺めてる陽太もそう言ってくれた。
「ありがとう。月菜さんもありがとうございます」
ルームミラー越しにみる月菜さんの顔は優しく微笑んでいた。
反対車線の車も早い速度で通り過ぎていく。
周りに広がっていたビルなどはどんどんと減っていき、低い建物が増えてくる。
「そろそろつきそうかな」
一時半間ほどして、高速道路をおりた。電車の中でみた景色とどこか似ているような気もする。同じ場所だから当然のことなのだが。
有料の駐車場に車を駐車し、車をおりた。ここでも駐車代は受け取って貰えなかった。
「向こうの方だね」
月菜さんの案内で海へと向かっていく。海の姿は見えていないが、もうすでに潮の香りが鼻をついている気がする。
「たしか、こっちの方だったような」
話を聞くと、月菜さんは昔来た時の記憶がうっすらとだが残っているらしい。ぼくはあの時は、海に向かうことで頭がいっぱいになっていて、道を気にするなんてことは無かった。月菜さんについていくと、だんだんと道が開けてきた気がすると思うと、潮の香りがより一層強くなった。
「絶対近づいてるね」
横を歩く陽太も、しっかりとカメラを手に携えていつでも撮影ができるようになっている。舗装されてた道にどんどん砂が増えていき、だんだんと完全な砂に変わる。
「ついた」
僕達三人は呆気に取られた。
「すっご…すごいきれい…」
陽太も、あまりの美しさに写真を撮ることを忘れて目を奪われている。
ぼくも、月菜さんもこの海にくるのは2度目だった。それでも、二度目でも、本当に美しいと感じた。眩しいくらいに照らす太陽に手をかざして月菜さんを見る。月菜さんは、水平線の方をじっとみている。
「月菜さん、そらちゃんも嬉しいと思います。」
月菜さんはゆっくりとぼくの方を見つめる。
「仲の良かった月菜さんが、会いに来てくれて、ほんとうに」
それを聞いた月菜さんは、ゆっくりと頷く。
「ほんとうに。ほんとうにきれい。あの時、そらが言ったの。私が知ってる中で一番の海だって。いちばん綺麗な」
月菜さんは少し、涙を流しているが、それは悲しみの涙では無いことがものすごく伝わってくる。すごく清々しく、明るい顔をしている。
「かいくん、ほんとにありがとう」
「ぼくはなにもしてないですよ、月菜さん自身が選んだことですから」
月菜さんはもう一度海の方へ顔を向け、水平線を見つめる。陽太は、少し離れたところで色んな角度から写真を撮影している。
月菜さんが少しづつ海に向かって歩いて近づいていく。ぼくもその背中を追うように、少し後ろを歩いていく。そして、月菜さんがある程度進んだところで止まった。
「かいくん」
名前を呼ばれて、ぼくは立ち止まった。
「はい」
「空と海が繋がってる…あそこの水平線に」
月菜さんはゆっくりと、ゆっくりと腕を上げていく。
「あそこの水平線に、そらはいるんだよ」
そらちゃんの言葉が蘇る。
『水平線を歩けば、空に行けるのかなって』
そらちゃんは、水平線を歩いて空へと向かった。大好きな海から、空へと。
『水平線まで行けば…空を歩ければ…』
そらちゃんの言葉が頭に湧いて出てくる。
なぜだろう。
ぼくの大切な人を奪った海なのに、不思議な程に輝いていて、美しく、愛おしい。
月菜さんは水平線を指さしている。
月菜さんの黒髪が風になびく。
月菜さんの姿が、そらちゃんと重なる。
『きみと水平線をあるけたらな』
ぼくは泣いていた。
そらを想って泣いていた。
ぼくの耳には、ただひたすらに波のうちつける音が響き続ける。
あれから五カ月が経った。
もうすっかり冬になり、年越しも終えていた。
大学は冬休みに入っており、家でのんびりと過ごすことが多くなっていた。
今日もいつもと同じように、リビングでテレビを見ていた。
「かいー」
母がぼくのことを呼んだ。
「んー」
テレビに顔を向けたまま返事をする。
「未来ちゃん、子供産まれて家に戻ってきてるみたいよっ」
「え、ほんと!」
突然のことに、勢い良く体を起こした。
未来さんとの約束は今でもしっかりと覚えている。
五カ月前に、未来さんがお腹をさすっていた光景が頭に浮かぶ。
「お祝いしに行かなきゃね」
「そうだね」
自室に戻って準備をする。
リビングに戻ると、母はすでに外出の準備を終えていた。
「準備できたの?」
「うん、もういけるよ」
「それじゃ行こうか」
母と共に外に出ると、すこし冷えた空気が肌に触れたが、太陽が優しく暖めてくれていたため、さほど寒くはなかった。
青井さんの家に向かう途中で、母と話す。
「赤ちゃん、女の子だそうよ。未来ちゃんに似てるかな」
「どうだろうね」
「はやく会いたいねぇ」
そんな会話をしていると、青井さんの家にはすぐに到着した。
母が、インターホンを押す。
すぐに、スピーカーがついた。
『はーい』
「青井さん、大野です」
『大野さんねっ!今開けますねっ」
扉があくと、満面の笑みの青井さんが顔を出した。
「大野さんいらっしゃいっ、かいくんもいらっしゃいね!さ、あがってあがって」
「すいませんね、お邪魔しますっ」
母に続きぼくも中に入っていく。
「お邪魔します」
先に廊下を抜けて、リビングに入った母が声をあげた。
「あらぁ、かわいいねぇ」
ぼくも続けてリビングに入ると、未来さんが小さな赤ちゃんを抱いて待っていた。
「かいくん、いらっしゃいっ」
ぼくは笑顔で頭を下げる。
「大野さんも、かいくんもゆっくりしていってねっ」
青井さんがそう言ってくれた。
「抱っこしますか?」
未来さんが母に言っている。
「じゃあ、お願いしちゃおっかな」
母は満面の笑みで返した。
「さぁ、どうぞ」
ゆっくりと、赤ちゃんが未来さんから母の腕の中に抱かれた。
「まだ小っちゃくてかわいいねぇ」
赤ちゃんは未来さんから離れても泣いたりせずに静かに母の目を見つめている。
「すごくおとなしいんだねぇ」
「そうなんですよ、ほとんど泣かなくてっ」
「良い子だねぇ、小さい頃のかいはこんな大人しくなかったんだからぁ」
そう言ってぼくを見てふふふと笑っている。
ぼくが赤ちゃんを抱く母を見ていると、未来さんがぼくに言った。
「かいくんも、抱っこしてくれる?」
正直戸惑った。
初めての経験だった。
今まで、赤ちゃんを抱っこしたことが無かった。
だけど、目の前にいる赤ちゃんはほんとうに愛らしく、かわいかった。
「はい、お願いします」
「ふふっ」
母がゆっくりと未来さんの腕の中に赤ちゃんを返した。
未来さんが優しく抱っこして、ぼくの方へ来た。
その時に、母が尋ねた。
「この子、お名前はなんていうの?」
そう聞かれると、未来さんはとても柔らかい優しい笑顔でいった。
「そらです。青井空。」
その瞬間、ぼくの目から熱いものを感じた。
そら。
この子の名前は、そら。
こらえようとしても、涙はもうこぼれていた。
未来さんは、ぼくを優しく見つめている。
「ごめんなさい…涙が…どうしても…」
「大丈夫。ゆっくりで大丈夫よ」
涙を流しながら、赤ちゃんを腕に抱いた。
赤ちゃんは、とても小さくて、温かい。
涙は止まらなかった。
「あったかい…」
赤ちゃんはぼくの顔を見つめていたが、だんだんと目を閉じていく。
「ふふ、寝ちゃったねっ。かいくんの抱っこが安心したのかなっ」
ぼくは眠ってしまった赤ちゃんを優しく抱きながら、静かにずっと泣いていた。
赤ちゃんの温かさが、ぼくに伝わってくる。
心臓をたたく音も、音は小さくてもしっかりと感じる。一定のリズムで、しっかりと生きている。
呼吸をするたびに、体が浮き沈みする。
ぼくの腕の中には、美しい命がある。
それは、何よりも温かくて、大切で、尊い。
この子はこれからどんな人生を歩むのだろう。
この子が困難に陥った時はぼくが助けよう。
ぼくも、この子にとって大事な存在になろう。
かけがえのない命を慈しんでいこう。
そらちゃんがぼくにしてくれたように。
「もう、忘れたりなんてしないからね」
終