小さい頃、保育園生だった私はなかなか周りと馴染むことができなかった。と言うのも、私は人と話すことがあまり得意ではなかったのだ。初めこそ、話しかけてくれる子は沢山いたものの半年くらい経つともう私に話しかけてくれる子は一人もいなかった。だから、春から冬の寒くなるまでは保育園の砂場で一人で遊び、室内では折り紙や塗り絵をして過ごすことが大半だった。そんな私の日常に転機が訪れたのは、やはりあの瞬間だろう。
「今日からみなさんに新しい仲間が増えます!」
そう機嫌の良い女の先生が紹介した少女こそが、空川悠花という子供だった。
「空川悠花です!よろしくね。」
保育園生にも関わらず、自己紹介どころか一発ギャグまで披露してしまって他の子も唖然としていた。悠花への第一印象はうるさい、だった。でも、馴染み方がめちゃくちゃ上手くてすぐにクラスの人気者になったのだ。いつも元気溌溂とした彼女に魅力を感じていたのだと思う。
「悠花ちゃん!あそぼ!」
自由時間には彼女の周りに、人集りができる。彼女は持ち前のコミュ力でその周りの子供達を笑わせるのだった。私は、ただその空間をのんびりと見つめているだけだった。
「ねえねえ、あの女の子はなんて言う名前なの?」
ある日、彼女は私を指さしていった。私は気恥ずかしくて目を逸らし、俯く。誰かが答える。
「あの子は、広森芽依ちゃん。全然喋らなくてつまらない子だからこっちで遊ぼ!」
まだ幼い子供たちはオブラートに包むと言う事を知らない。ズバズバとあまりにも強く言われ、目が潤んだ。
「ふーん。」
彼女はただ冷たくそう言っただけだった。私は落胆した。どこかで、声をかけてくれてくれるのを期待していたのかもしれない。そんな自分が嫌いだった。
彼女は、人だかりを嗅ぎ分けてこちらへ歩いてきた。なんだよ、あんたまで私のことを馬鹿にするんだろう?と思いながらも、心臓がどくどくとなるのを感じていた。
「私、悠花。芽依ちゃんよろしくね!」
目の前で立ち止まると、彼女はそんなことを言った。この瞬間だと思う、私の転機は。屈託のない笑顔を見せてそう言う彼女に周りの奴らも私も、唖然とした。
「うん。」
なんとか声を絞り出したがその声はあまりにも、格好が悪いか弱い声で自分の体からこんな声が出るのかと、どこか冷静に実感していた。
翌日も、彼女は私の元へとやってきて「遊ぼ」と言った。特にやることもなく、砂遊びにも飽きていたので従うことにした。フラフープや縄跳びを使って遊ぶのは初めてではなかったけれど、久々だった。私は知らないうちに笑顔になって明日が来るのを心待ちにしていた。心配していた母も先生も安心したようだった。
ある朝、るんるんで保育園に行くと自分の机の中に虫の死骸が何匹か入っていた。驚いって小さく悲鳴をあげると、後ろの方で戯れていた男女の集いがこちらを向いて笑った。あいつらがやったのは明らかだった。するとすぐ隣から声が聞こえたのである。
「誰?芽依ちゃんにこんなことしたの。最低!」
悠花だった。自分の心の叫びを代弁してくれたようだった。悠花が言うと周りも静かになって、男女の集いもどこかへ逃げていった。この時、私は悠花といれば絶対安心だと言うことに気がついた。私への嫌がらせは無くなったし、それどころか少人数の女子が私に話しかけてくれるようになった。ずっと同じ年の子と話していなくて会話が弾まないたびに、申し訳なかったけれど悠花がフォローしてくれていたからか段々と話すことに違和感がなくなってきていた。
「芽依ちゃんのお母さんとお父さんはなんの仕事をしてるの?」
ある日そんなことを尋ねられたことがあり、お母さんは専業主婦でお父さんは会社員と答えた。
「私のお父さんは会社の社長をしてるんだよ!だから私も社長になるの!」
悠花の父親がどのくらいの会社の社長を務めているのかは全く分からなかったけれど、なんとなく悠花の家はお金持ちだと言うことはわかった。今の私だったらそう言われたことに怒りを覚えるのだろう。自慢としか解釈できないからだ。でも当時はあの歳で夢を胸張って言える悠花のことがすごいと思って、勢いで私も社長になってみたいと言った。ただの真似事に過ぎなかった。
「芽依ちゃんは無理だよ。だってお父さんが会社員なんでしょ?うちはお父さんの会社をついで社長になれるけど、芽依ちゃんとこはものすごい努力をしないとダメだって言ってたもん。」
お互い幼くて、分からないことが多かったから二人ともムキになって喧嘩した。悠花と喧嘩したのは初めてだった。
「無理じゃないもん。私も社長になれるもん!」
「なれないの!私の方が上なんだから!」
“私の方が上なんだから”そう言われて気がついた。彼女だけは私を馬鹿になんてしないと思っていたのに、結局みんな私のことを見下していたのだ。
「もう…悠花ちゃんなんて大っ嫌い!」
泣きながらトイレに駆け込んだ。私は嗚咽に耐えられず嘔吐した。そのことは誰にも気付かれることはなかった。
些細な一度きりの喧嘩で、私たちの友情は終わりを告げた。
次の日は、保育園を休んだ。次の日も、次の日も。休む度に行く気が失せて、小学校に上がるまで全く保育園に行かなかった。悠花は何度か謝りにうちへ来たみたいだったけど、私が出ることはなかった。
小学校に上がって、運よく私たちは違うクラスになった。新しい小学校生活は少なからず胸が躍った。その中で、私は染井夕と言う女の子と仲良くなった。歳の関係もあるかもしれないが、夕は私を全く馬鹿にしなかった。いつも私と対等でいてくれた。テストで私よりも高い点数を取った時も「あと少しだったじゃん、惜しい!」って慰めてくれたし、次は二人でいい点数取ろう、と言ってくれたこともあった。それが私に取ってはすごく大切な一言になって、悠花との出来事は過去になった。
「芽依〜、私の家の近くにめちゃめちゃ景色がいい丘があるんだって!今日の放課後行ってみない?」
そう言われてもちろん承諾の返事をした。
放課後、互いに赤色と紫色のランドセルを揺らしながら坂を登った。小学二年生の時だった。
息を切らしながら辿り着いた丘は、想像以上に高所にあって街全体が見渡せた。
「すごい綺麗!」
二人とも感激した。空は夕日で橙色に染まり、グラデーションができていた。
「あっあれ私の家だ。」
自分の家の屋根を見つけた時、心底嬉しさに満たされたのを覚えている。ずっとこの場所で夕と一緒にいたいと思った。暗くなるまで、その景色を眺めていた。以来、この場所は私と夕に取ってかけがえのない大切な空間になった。二人の秘密だよと約束して小指を繋いだ時の高揚感は忘れられない。
とある日、私と夕は放課後にあの丘へ来ていた。ここで、他愛ない話をして夕日を見てから帰るのが日課になっていた。
「芽依、私の今までのこと聞いてくれる?」
突然夕がそんなことを言い出した。その時には小学校高学年になっていた。
「うん、何かあったの?」
「私保育園の時から周りに馴染むのが苦手でいつもひとりぼっちだった。虐められることは無かったけど日に日に孤独感に蝕まれていきそうで保育園に通うのが、辛くて行きたくなかったの。でも、小学校に上がってクラスで活躍することは無くても芽依とこうして、一緒にいられるのが本当に嬉しい。過去の自分に言ってあげたい。小学生のなればきっと先は明るいよって。」
私はずっと相槌を打ちながらその話を聞いた。私たちは同じ境遇だった。運命じゃないかと思ったくらいだ。それでも同時に悠花の存在が甦った。今頃何をしているのだろう。社長になるための勉強?それとも友達と遊んでいるのか。以前、同じクラスの女子達が噂しているのを聞いたがクラスの中心的な存在である悠花は、味方を数人つけてクラスごと支配しているらしい。何かの真似事からしれないのだが、指図や命令で気に入る人とそうでない人を区別して一緒にいるという。あの時謝りに来たという悠花がそんなことをしているのならばきっと反省なんでこれっぽっちもしてないはず。そう考えると無性に腹が立って仕方が無かった。
「…私のことも聞いてくれる?」
夕はこくんと頷いた。
「私も保育園の時から馴染めなくていつもひとりで、時々嫌がらせを受けることもあった。その時に転入してきた女の子で悠花っていう子がいたんだけど、その子はすぐに周りの子を味方につけて私を虐めた。いじめはエスカレートして保育園に行けなくなった。」
「悠花ってとなりのクラスの?」
頷いて返事をした。
「どんないじめを受けてたの?」
私は必死に脳を動かして答えを探す。
「机に虫の死骸を入れられたりとか、水を頭からかけられたりとか」
ふと夕の顔に視線を移すと、夕は泣いていた。いつも元気で強い夕の泣いた所を見たのは初めてだった。嗚咽を漏らして号泣していた。その時に一気に罪悪感が襲ってきた。悠花は私を虐めてない。むしろ助けてくれた。いつも遊ぼって声をかけてくれた。それを私は愛と友情の塊だと感じた。
なのに、なんで私こんなことを言ったのだろう。
「夕、泣かないで。」
「芽依、辛かったね。ごめんね。私はずっと芽依が大好きだからね。」
やっぱり夕は素直でいい子だ。その夕の表情を見たら。わたしはもう、先程の話を「ごめん、嘘なんだ」と訂正することなんて出来なかった。
その日も日が暮れるまで二人で抱きしめ合って別れた。家に帰ると、母と父が言い争っている。最近になって私の両親は、喧嘩を繰り返している。
「ちょっとくらい手伝ってくれてもいいじゃない!」
「俺は朝から仕事で疲れてんだよ!日中だらけてるお前に言われる筋合いはねぇよ!」
もう少しで父の手が上がりそうで、怖気付く。両親の怖いところは、喧嘩が始まると私が帰ってきてもまるでいなかったもののように無視して、喧嘩を続けるところだ。横では、まだ幼い妹が寝ているというのに。子供ながらにこんな大人にはなりたくないと感じている自分がいた。
両親の声が嫌でも耳に入ってくるのが嫌で、寝室の布団を頭から被って一晩中泣いていた。父は、家を出ていったようだった。母は、食事の準備もしないでただ、ぼうっと机に向かっていた。無気力で光のない母の瞳は今でも忘れられない。
この日からだった。最悪の事態の始まりは。
小学生生活も終わりを告げようとしていた二月の下旬。私はいつも通りに登校する。すると、席が近いクラスの女子から悠花のことを噂された。
「隣のクラスの悠花ちゃんが桜ちゃんに虐められてるらしいよ」
「え?そうなの?」
桜は、この学校の頂点で中心的人物と言っても過言ではない程、大きな存在だ。私が悠花と喧嘩して、夕と仲良くするようになってから夕を通じて仲良くする時が増えていた。もともと桜をよく思っていない人も多くて、一概に彼女を肯定することも出来ない。大胆で元気な彼女は人を虐めていたという噂をどう感じているのだろうか。悠花が初めてではない。その前もその前もこのような噂があったことは覚えている。
「桜ちゃんって自己中だよね。」
一人の少女が言った。
「うん、自分が一番偉いみたいな雰囲気が苦手かも」
もうひとりが続けた。この子達に彼女の何がわかるというのだろう。ろくに関わりもしないあんた達に。桜は気が強いと思われがちだし、実際そんな時もあるかもしれないけど友達を大切にして心から愛してくれている。それを知っている者が彼女と本当の友達として、関わっていけると私は思う。彼女たちは、陰でそんなことを言っておきながら実際に悠花を助けたりはしない。ただ愚痴るだけの人間だ。すごく弱い生き物なんだ。そう彼女らを軽く罵っておきながらも、悠花が桜に虐めれていることについて多少の安心感を抱く自分がいた。「私の方が上なの!」と叫んだ彼女は、今どんな気持ちでいるのだろう。後悔していればいい。
そんなことを思っていると、いつの間にか彼女らは席を離れていた。チャイムがなって各々席に着いた。
休み時間。夕に悠花のことを話していた。
「桜に虐められてるって本当?」
「うん、そうらしいよ」
不自然な程に彼女が軽い返事をしたので拍子抜けしてしまう。
「大丈夫なのかな。」
「そんなに酷くないらしいよ。桜もそう言ってた、奈菜も。」
「そっか…」
それだけで会話が途切れる。私がもっと嫌なことに関わってしまうのは、その放課後の事だった。
「芽依〜!」
桜がこちらに来る。後ろには奈菜もついていた。
「あのさ、お願いがあるんだけど。」
彼女は自分が悠花を虐めていることを黙っていて欲しいと懇願した。
「それか、芽依も一緒にするか。」
一緒にというのは、いじめのことだろう。悠花と私が以前に友達であったことは知らないはずだった。
「いいよ、黙っておくよ。だからいじめをするのは私は辞めておこうかな。」
桜に嫌な顔をされそうで不安が過ったが、桜はOK!と笑っただけだった。心から安堵した。桜と話すのは、今でも緊張する。一言間違えるだけで私はカーストが下がる。下がれば下がるほど、酷い扱いを受けるようになり人間のしての価値を失ってしまう。奴隷、パシリと言うやつだ。今までに何度もその目にあった人を見てきた私は、絶対に自分がそうなる訳にはいかなかった。
それから数日後のことだった。
「芽依〜」
桜と奈菜がニヤニヤしながらこちらへ来る。何かしたかと一気に緊張が走った。
「ねえ、私たちが悠花のこと虐めてるの誰かに言った?」
全力で首を横に振る。
「本当?じゃあ何であの陰キャグループがその事知ってんの?」
桜曰く、静かめのグループが悠花について話しているのを聞いてしまったらしい。自分は芽依以外に言ってないのに、と嫌味らしく言ってくる。私は本当にバラしていなかった。
「本当に私じゃないよ」
「うん、私も芽依のことは信じたいけどさ。私、あんた以外に言ってないわけ。もう信じるしかないのよ」
そう言いながら私を睨んで、軽く胸ぐらを掴まれた。瞬間の出来事に驚いて反射的に避けてしまう。
「じゃ、明日の放課後体育館倉庫の前で」
「え?」
今まで口を開かなかった奈菜が「いじめに加担するってこと」と言った。膝に力が入らなくて、その場に座り込んだ。
どうして、学校というのはこうなってしまうのだろう。奴隷だよ、このままじゃあ。桜や奈菜みたいな中心人物に皆が頭を下げる。ペコペコしてゴマをすって自分のカーストを上げていく。この世界が、私は嫌い。きっと、性にあわないんだと思う。
明日、学校に行くのが苦痛で仕方ないが休んだら桜に何をされるかわからなくて、登校するしか無かった。
朝、学校に行くと桜が言っていたあの静かめなグループが悠花のことを話しているのを耳にした。
「ねえ、悠花のこと知ってるの?」
私が声をかけたのが不思議でたまらないと言ったように、ポカーンとしていたが「たまたま見てしまって」と答えた。
「どこで?」
「体育館の倉庫です。大体毎日悠花ちゃんをそこに呼び出して虐めてるそうです。桜さんと奈菜ちゃんと夕ちゃんが」
えっ、夕も。と思った。私には一度もそんなことを言ってくれなかったから、悔しかった。話している子が桜だけをさん付けしているのも癇に障る。
「そう。」
黙って席に着く。私が悠花を虐めたら、彼女はどう思うだろう。きっと一生私を許してくれることは無い。というか、桜も奈菜もいじめている自覚は十分あるのにやるというのは、相当な恨みがあるのだろうか。
授業もうわの空で聞き流していると、放課後になっていた。このまま逃げられる気もしたけど、桜が一緒に遊ぶようなノリで私を体育館の倉庫に行くように言ってきて、行くしか無かった。
倉庫の中には跳び箱、バスケットボール、バレーボール、マットなどいつも体育で使っているものから小学校以来の懐かしい道具もある。古くなった道具の誇りの匂いが鼻腔をくすぐる。床はひんやりと冷たくて静かだった。そして、目の前には桜と奈菜に加えて悠花が立っている。指先を体の前で結ぶようにして足を閉じて立っている。俯いていて表情は読めない。
「あんた、ウザイんだよね」
桜がそう言って彼女の胸ぐらを掴む。彼女の制服は一瞬にして乱れ、桜の力に身を委ねていた。顔をずっと俯いて見えないままだった。
「どこがウザイの」
一瞬誰の声か分からなかったが悠花が喋ったか細い声が倉庫に響いた。
「あ?全部だよ全部。親が金持ちだからって調子乗りあがって。」
桜が悠花を思い切り殴った。桜の拳は彼女のみぞおちを直撃した。彼女は後ろに突き飛ばされて倒れ込む。
ダメだよ、悠花を助けないと。もう一人の自分が問い掛けてくる。助けなくていいの?悠花はあなたの為に話しかけてくれたんだよ、そのお陰で今のあなたがいるんだよ。
「…ちょっと、やり過ぎじゃない?」
気づいたら声が出ていた。桜と奈菜が振り返る。私の影が薄すぎたのか、私がいることに気付いていなさそうだった悠花も顔を上げる。彼女の顔が強ばったのがわかった。
「は?まだこんなの序の口じゃん。ねえ奈菜」
「そ、そうだよ。こいつに自分がどんな態度をとってきたか分からせてやらないと。」
何か言わなきゃと、脳が必死に考えている気がするがもう一度口を開くことは出来なかった。怖くて仕方が無かった。一番怖いのは悠花のはずなのに。
「ま、いいや。今日は私も早く帰りたいし」
そう言って桜は一人、足を外へ向けた。奈菜が急いでその後を追った。
これで倉庫の中で私と悠花は二人きりになったら。気まずい雰囲気が充満している。バツが悪くて私も帰ろうとする。今日は私が手をあげなくて済んだのだから。
「ねえ、芽依?待ってよ」
後ろへ動かした足が止まった。反射的に振り向くと悠花も顔を上げていた。目は赤く腫れ、白い陶器肌にその涙を含んだ大きな目が映えている。こんなに綺麗な顔だったっけ、と思うと私と悠花との思い出がもう昔のことになっていることを感じた。
「ごめんね」
私はそう言って、彼女に背を向けて歩いた。絶対に振り向かないと決めた。この私の弱い心で。でないと私は罪悪感に押しつぶされて息が出来なくなると思った。体育館を出ても尚、悠花の視線がずっと私の背中を見ている気がしてならなかった。それは夜まで続いた。
私が初めて、いじめの現場を見た日だった。
次の日もまた次の日も、週が開けてもいじめは続いた。私もその度に体育館倉庫に行かなければならなかった。日に日に目から光が消えうせていく悠花を見ているのが本当に辛かった。桜が中心になって暴言を吐く。ウザイんだよ、消えろ。いつしか悠花に言われていたその言葉は私自身を蝕んでいった。私はこれを望んだわけではなかった。ただ、悠花ともう一度やり直したかっただけだったことに気付いた。
私はいつから間違えてしまったのだろうか。
「おーい、芽依」
びくりと体を震わせ、現実に戻ってきていた。目の前には桜も奈菜も夕もいる。そして、悠花も。
私が思考をめぐらせているうちに、何発も殴られていたみたいだった。もう既に、彼女は手足を震わせて倒れているし、左目の辺りには大きな青あざがあった。その痣を見た時は流石に驚いた。目が腫れていた。
「ねえ、次芽依だよ?」
次?順番に彼女を殴っていたのか。だから、体のあちらこちらに痣が見えるのだ。流石に、私は彼女に手を挙げることは出来なかった。
「ねえ、早く」
三人の視線が痛い。でもここで手を挙げたら私は加害者になる。手が震えて、命令通りに動けなかった。
「…ごめん。できない。」
自分から出たとは思えないくらい小さな声が広い倉庫に響いた。奈菜と夕が「桜の命令は絶対なのに」という目で見てくるのがまた、鬱陶しい。
「はぁ?奈菜も夕もやったよ?」
「…でも、私にはできない。」
悠花が今、どんな表情をしているのか読むことは出来ない。痛さでそれどころでは無いかもしれない。
「じゃあ、今日は芽依が悠花に手を上げるまで帰らないから」
奈菜と夕が有り得ない、早く殴れよ。そう言っている気がして胸が痛い。心臓が今にも爆発しそうなくらい音を立てて鳴っている。
「早く帰りたいから、早く殴れよ」
桜が言った。その目が怖くて思わず後ずさる。
「早くしてよ」
三人が一斉に声の主の方を見る。私もそれに倣ってその方を向く。「早くしてよ」と言ったのは悠花だった。
「私はウザイ奴なんだよ。虐められて当然なんだよ。早く殴れよ芽依」
私達が友達だったことは夕にしか話していなかった。だから今、目に手を添えながら懸命に声を出す彼女を見て桜と奈菜は、信じられないと言った表情で彼女を見ていた。
「私のことはもういいんだよ。芽依、あんただって私のことが憎いでしょう?」
「そんなことない。私は今でも、悠花とやり直せられればどれほどいいかって思ってるよ。」
「じゃあ、どうしてここにいるの?この子にお願いされたの?自分できたの?」
それに答えることは出来なかった。桜の前で桜に命令されたと言われれば私も標的にされてしまうこと間違いなかった。
「私にはできない。」
いつしか、二人とも泣いていた。泣きながら訴えていた。悠花は極限まで自分が追い詰められても、私を守ろうとしている。そのことに気付くと涙をこられることは出来なかった。
「さっさと殴れよ!」
ついに悠花が怒鳴った。私のためだと分かった。
「無理だよ!出来ない!」
顔をぐちゃぐちゃにしながら返した。悠花の優しさに甘えたくなかった。
桜は溜息をついて出ていった。私が最後まで手を上げないことに苛立ったのだろう。その溜息には相当の嫌味が込められていた。
「覚えとけよ」
そう言われた気がして、また怖気付く。桜がいなくなれば奈菜も夕も出ていった。夕まで行ってしまったことが、少し残念だった。
私は悠花に駆け寄る。近くで見たら、痣がもっと痛々しく見えた。
「ありがとう」
「ごめんね」
互いにそう言い合った。私たちの間には何か暖かいものが纏っていた。
その日、彼女と私は一緒に帰った。足が痛くて上手く歩けない彼女に肩を貸して。私は悠花と和解できたと思って安堵した。これからは今まで通りに話せるかもしれない。あの時悪かったのは私。助けてもらったのに自ら彼女を突き放し、拒絶した。でも、これからならまた、彼女と一緒にいられるかもしれないという期待が過ぎった。
「悠花のお母さんにはいじめのこと話したの?」
「話してない。でも、こんな痣つけて帰ったら即バレだよね。」
参ったな、と痣の付近に手を当てる。彼女の母はとても悠花のことを愛していて、且つ友達の私のことも大切に思ってくれていた。愛している自分の子供が他所の子供に痣を付けられて帰ってきたら、そう考えると胸が痛む。
「悠花、あの時は本当にごめんね。私が悪かった。もし良ければこれからも友達でいて欲しい。」
立ち止まって頭を下げた。今の悠花がどう思っているのかを知りたかった。
「私も友達でいたいよ。」
そう言って涙ながらに抱きしめ合った。
しかし、翌日から悠花は学校に来なくなった。そして、私たちのグループには新しい子が加わった。鈴木紗香という女子だ。
「奈菜!お行儀よく食べなさい。」
幼い頃からうちは躾が厳しかった。食事中は正座で背筋を伸ばして食べないと背中を叩かれ、万が一残飯が出た場合には次の食事は半分の量だった。
運動はしなくていい、勉強だけしていればいいのだと教わってきたのは、やはり家計を継ぐためだ。私の家は代々日本古来の貴重遺産の展示や一部販売をする大手企業の社長だった。だから、一人娘の私は会社を継ぐ道しか選択肢になかったのだ。正直なところ、私は社長として会社を継ぐよりモデルやインフルエンサーとして活躍したかった。そんな夢を持っていたが、両親に逆らうことは許されず気付くとそんなことは出来ないと自分で自分を一蹴していた。
私が小学校にあがった頃、桜に出会った。私が初めて学校で言葉を交わしたのが桜だった。桜は内気な私と正反対で社交的な上にスタイル抜群で美人だった。髪はボブに切り揃えていて当時ロングヘアをひと結びにしていた私は彼女の髪型に憧れた。ボブはまさに彼女の為にあるのだと言っても過言ではないくらいの勢いで似合っていた。
ある日の校外学習で、桜を見ていた私は異変に気がついた。顔から色を失い、唇が真っ青な桜がいた。
周りは気づいていないようだった。
「桜ちゃん大丈夫?」
思わず声をかけると彼女は辛そうに顔を上げた。私は彼女の返事を待つ前に先生に報告した。彼女は救急で保健室に連れていかれた。私はそれを遠く見届けた。変態のようだが、顔が真っ青で体調不良の彼女も綺麗だった。もう彼女と言葉を交わすことがないと思うと少し寂しかった。
「この間はありがとう。」
席について本を開いていると、目の前には彼女が居てそういった。突然の事でなんのことか分からなかったけれど、この間の保健室の件を思い出した。
「だ、大丈夫だった?」
「あの後少し休んだら良くなった。軽い貧血だったのかも。奈菜ちゃんが気付いてくれなかったら私倒れてたかもしれないって保健室の先生に言われたの。だからありがとう。」
「うん。」
彼女はニコッと笑って席に戻って言った。彼女の綺麗な目元をあんなに間近で見たのは初めてで心臓が波打つ感覚を覚えた。今度は、自分から話しかけようと思った。彼女とたった数言交わしただけでも今日はいい一日だと言えた。彼女は私にとっての高嶺の花のような存在だった。
それから彼女が一人の隙を見て話すようになった。何色が好きかとか、どんな食べ物が好きかとかそんな他愛ない話をして休み時間をすごした。彼女は人気があって一緒にいられない時もあったが、彼女は彼女なりに私のそばにいてくれるようになって気が付いたら互いに親友になっていた。
ある日、桜を置いて一人でトイレに向かった。中から声が聞こえてきて足を止めた。
「桜ちゃんめっちゃ可愛いよね」
「うん!モデルさんみたいに目が大きくて手足も長いし、私もあんな風になりたいな。」
桜が周りからいい印象を持たれてどんどん人気になっていく姿が美しかった。それが私の嬉しさでもあったから。その高嶺の桜と私は親友なんだと思うと一気に自分のくらいが上がったようで胸を張りたくなった。
「でも、奈菜ちゃんは…ね。」
「うん、こんなこと言ったら失礼だけど桜ちゃんの隣歩くんだったら鏡見てって感じ。」
「まあ、桜ちゃんの親友だから私達が言ってもどうもならないけどね。」
そこまで聞いて、トイレに入ることはもちろん出来ずとぼとぼと、教室へ戻った。教室では桜が待っている。私の気持ちが下がったのに気が付いたのか、「どうした?」と顔を覗き込んだ。
「なんでもない」そう言おうとしたのに、桜の優しすぎる表情を見て、本当の事しか話しては行けないような気がした。
「あのさ、」
私はトイレでの出来事を話した。言っていて自分でも性格悪いなと思う。桜のことを褒めておいて自分は被害者面。慰めを心待ちにしているようで気持ちが悪い。でも、桜がずっと相槌を打って聞いてくれているから、その瞳が私を溶け込むようで話は止めなかった。
「そっか。」
全て話し終えると、話した私を慰めるようにそっとそういった。あまりにも自然で内心驚く。次の瞬間には私の体を優しいものが包み込んでいた。桜だと気づいたのはその数秒後で、しばらく固まっているしか無かった。
「周りがどんなことを言おうと、私は奈菜の親友だから。忘れないで。」
「うん、ありがとう。」
桜の体に顔をうずめた。柔軟剤のいい香りがして心地よかった。周りの視線など気にならなかった。私は、ずっと桜について行くと決心した。
その日は気分がいいまま帰宅した。家に入った途端、体に力が入る。行儀よく、いい子で勉強に努める。それが我が家のルールだった。
「ただいま帰りました。」
「おかえりなさい。奈菜」
母親が出迎える。私は手を洗うと、通りに置かれた高級な壺や陶芸品を割らないように自室へ向かった。襖を開けると畳で布団が敷いてある八畳程の部屋がある。広さには感謝しているが、床畳の点が気に入っていなかった。うちは全て和風で統一されているから私の部屋だけ洋風に帰ることは不可能なのだ。以前桜の家に行った時、フローリングで可愛らしいベッドを見た時は驚いた。みんなああいう部屋を持っていると思うと悔しくなった。うちは金持ちなのになんで満足出来ないんだと苦しくなった。いずれ、もう考えることは無駄と化し無意識で過ごすようにした。何かと不満な出来事を考えるよりはだいぶ良かった。
家は常にしんと静まり返っている。私に挨拶をしたら、お母さんは私と話さない。これもいつだかにお父さんが決めたルールなのかもしれない。こう、時々考えると胸がしぼんでいくように寂しくなる。家族ってもっと賑やかで楽しいものじゃないの?今日学校どうだった?とか話すものじゃないの?
よくクラスの男子が母親の愚痴を言っているの聞くがそれは私にとってとても羨ましい事だった。親が子供を気にかけてくれている。どんなに鬱陶しくってもそう言ってくれる親が欲しかった。そうならないことはわかっているはずなのに、ずっと淡い期待を持ち続ける私は要するに馬鹿なのか。桜が羨ましかった。桜のお母さんは桜と一緒でとても綺麗でスタイルもよくて、とっても優しい。家に友達を入れることは無論禁止だから、桜をの家にしか行ったことが無いけど桜のお母さんは美味しい洋菓子とジュースを出してくれた。うちは殆ど和食で洋食、しかも洋菓子なんて食べる機会が無かったからラングドシャのサクッとした食感と甘さは今でも覚えている。
「…っと、」
ダメダメ。想像したらどんどん被害妄想が酷くなっていく。私は恵まれているんだ。社長の家に生まれ、お金に困ることはなく、美味しい和食が出てくる。そう、私は幸せ。表面上は。
「奈菜は良いよね。お金持ちで」
久々に学校でそんなことを言われた。桜が仲良くしている子達のグループと仕方なく話しているときだった。
「え」
なんと返せばいいのか迷う。「そんなことないよ」というのが典型的だが、うちは控えめに言っても金持ち。だから否定したら厄介なことになりそうだ。じゃあ、何?「ありがとう」も違うし、「○○ちゃんもじゃん。」というわけにもいかない。
「あゆみ、そういうこと言うならあんただって大人になって大企業にでも就職したら?そうすればあんたが望む金持ちに近付くんじゃない?」
あゆみという子はバツが悪そうに連れの子達を連れて行ってしまった。
「はぁー、あういう子ってめんどい。」
「ありがと」
いいよーと、力が全く入っていない声で言った。その声が妙に好きだった。
「ああ言って困らせる子って結局は自分の理想を嫌味たらしく見せつけてるだけなんだよ。奈菜が気にする必要は全くない。」
「うん。」
私も桜のようにはっきり物事を口にすることが出来たらどれだけ良いのだろう。嫌なことは嫌って、好きなことは大好きって思いっきり楽しめる時が私に来るのだろうか。
その勇気を乗せた風は、まだ吹きそうにない。
数日後の放課後に桜が私を体育館倉庫に呼び出した。
「どうしたの?こんなとこ…」
私が言葉を止めたのは、目の前に空川という女の子が立っているのが見えたからだ。下を向いて立っている。下の名前は確か、悠花だったかな。
「奈菜、この子芽衣を虐めたんだってー。」
芽衣は、最近私達と仲良くしている子の一人だった。空川さんが少し顔を上げた。
「…虐めてないけど。」
「うるさい」
桜が空川さんの胸ぐらを掴んで上に引き上げる。彼女は全く抵抗しないで体を委ねているように見えた。この子が芽衣をいじめたと思うとよく分からない気持ちになった。きっと非日常的だったからだ。
「っ」
息を思い切り吸ったら変な声が出た。いつもあんなに優しくて可愛いのに今桜は全然違う。
「いつもの桜じゃないの」
「さあ、分からないの、私も。」
空川さんが、逸らしていた目を戻した。
「だから、私は芽衣を虐めて…」
ゴンッと鈍い音がして反射的に目をつぶる。恐る恐る目を開けると息を切らした桜と、床に尻もちをついた空川さんがいた。
「うるせー、口答えすんなよ」
桜が今までに見た事がないような鋭い目付きで空川さんを睨んでいた。空川さんはそれに睨み返しているけど、クラスの中心という良いレッテルを貼られた桜にやり返すつもりはなさそうだった。
「うざ」
そうセリフを残して、桜が立ち去ろうとしたから私も仕方なくついて行った。空川さんの視線が痛かった。
体育館からでると、桜が謝った。
「ごめんね、奈菜まで巻き込んじゃって。」
そんなこと、まるで気にしていないよ。と言わんばかりの笑顔で期限を損ねないように
「どうして空川さんに手をあげたの?」
という。芽衣を虐めていたからだけど、それだけでいじめを働くかと疑問だったからだ。桜は自分がスクールカーストの頂点に立っていることを自覚しているはずなのに、今まで好き勝手やることは無かった。多少嫌なことがあっても愚痴を言わなかったのに。
なにか理由がありそうだった。
「なんか、芽衣をいじめていたって聞いた時私の大切な友達をいじめるなんて最低、って思うだけじゃ済まなくて、手が出てた。行けないことだって分かってるつもりだけど。」
「そうなんだ。」
私の時もそうしてくれるかな。勿論だよね。私はずっと前から、芽衣の前から桜の親友だもんね。私を虐めた相手には手を上げるくらい怒ってくれるよね。
そんな不安がよぎったのは何故だろう。私は彼女を信じている。信じている。
だから、ついて行くことに決めた。桜がやっている事に一生ついて行く。その善悪は今の私には無関係である。
「桜、大好き」
「うん、私も」
大好きと笑う彼女にずっとついていく。
それから、いじめは続いた。
放課後、桜は空川さんを連れて体育館倉庫に行く。私は黙ってついていく。時々友達の夕を連れていくこともあった。しかし、今日は芽衣もいた。桜が呼んだのだという。
「あんたを虐めた相手なんでしょ、仕返しに一回やったら?」
芽衣の手は震えていた。立っていることすらもままならないようで支えが必要だと思ったくらいだ。
「あんたが一発殴るまで帰らないから。」
嫌だ。早く帰らないとお母さんに怒られるのに。そう思ったが何も言えず、ただ早く殴れって無言の圧力をかけることしか出来ない。我ながら自分が最低だと感じた。私が同じ立場だったらその場にたっていることも出来ないだろう。
早く早く早く。私も嫌だよ。
「奈菜もやったら」
は?なんで。頭に血が上る感覚を覚える。
「はーやーく。私も帰りたいんだよ。」
でも、自分が言った手前辞めるとは言えないのか。私はこの子を殴ることは出来ない。桜が私を見る。その視線に押されて空川さんの方へ歩む。自分が殴ることで完全に加害者になってしまうことが頭に浮かぶ。このいじめがバレた時、「私は見ていただけでした」と言い訳出来ない。それをお母さんに知られたら、うちは大きな損害を受けるかもしれない。『いじめをしていた子の親がやっている会社』とレッテルを貼られれば、この先大きく変わってくる。
いじめはやっていけない、やりたくない思いと桜に一生ついて行くと決めた自分の決意とが葛藤を繰り返している。鼓動が高鳴る。
空川さんの前に来る。空川さんの表情が一気に鮮明に見えるようになる。くっきりとした潤潤しい目が一瞬交わる。私に手を上げられることを怖がる様子は無かった。どうぞと言っているようだ。そう見えるだけなのかもしれないけれど。
その場の雰囲気に私は飲まれている。その空気に身を委ねるように手を上げた。
バンッと重苦しい音が倉庫に響く。気付けば私の拳は、空川さんの丁度肩関節の部分に入っていた。
「痛っ」
「あ、ごめん。」
思わず謝ってしまうと罰が悪くなる。今すぐにでもこの場所から抜け出したかった。
手のひらには、まだ空川さんを殴ったあとの感覚が残っていてそれに苛立った。あぁ私はやってしまった。もう引き返せない、私はいじめの加害者だ。
その次、桜は夕に言った。夕はなんの抵抗も見せることなく鋭く強く体を傷つけた。空川さんはもう限界に近づいている気がした。体も、心も。
芽衣も同じように命令された。芽衣は、私と同じように立ちすくんだまま、動き出そうとしなかった。
「早くしろよ、奈菜も夕もやったよ?」
桜に言われても彼女は手足を震わせたままだ。
「…私には、出来ない。」
悔しい、と思った。私だってやったよ。やりたくないけど、空川さんが可哀想で助けてあげたかったけど自分が可愛くて守りたくて仕方がないから手を上げた。あんたもやりなよ。桜の怒号が響く。
ずるい、という感情が湧き上がってきた。私は断る勇気が無くて言いなりになったのに、彼女はちゃんと自分の意見を言った。「出来ない」と、はっきり伝えた。途端に悔しさが蘇った。なんで手を上げてしまったのだろう。行き場の無い怒りにどうしようもなく嫌になる。
桜が倉庫から出ていくのを視界の端で捉えて仕方なく、私もついていった。金魚の糞のような存在の私を周りはどうみているのだろうか。
きっと私は、一生誰かに依存しないと生きていけないんだ。
小学生の頃初めてできた友達が芽依だった。ちょっと静かめで口数が少ない子だったけど、芽依と一緒にいるといつも謎の安心感に包まれているようだった。だから芽依が悠花って子にひどい事を言われて絶交した事を知って、どうしようもなく怒りが湧いてきたのだ。自然に涙が出ていた。あの時私は、とても重大な秘密を打ち明けてもらえたような気がして図に乗っていたのだと思う。私にしか話さない事なんだと思って鼻が高くて、芽依の友達は私しかいないんだと思い込んでいた。私が何かしなくちゃ、そう高ぶる感情のまま復讐計画を立てた。まず、クラスの中心的な立場にいる桜と仲良くなり、多くの人をこちらの味方につける。そして、悠花へのいじめを実行してもらう。我ながらいい案だと思った。絶対に、私の大好きな芽依をいじめた悠花と言う子を懲らしめてやりたいと意気込んだ。それが、あの夕焼けが見られる丘で芽依と話した後の出来事だった。
次の日から、私は行動し始めた。まず、桜と距離を縮めるところから。今までなんの接点もなかったため、話しかけるのには多少の勇気がいった。でも、桜と話すようになって次第に仲良くなると私自身純粋に楽しかった。桜は、天真爛漫な女の子で友達のことを一番に考えている。特に、幼い頃から親友だという奈菜ちゃんへの愛は誰にも負けない。桜の隣には常に奈菜ちゃんがいた。奈菜ちゃんは家がかなりのお金持ちらしくて、身につけている洋服はいつも高級そうな英語のロゴが刺繍されていたり、職人が作ったような和風のアイテムだったりした。そんな二人を見ているとこちらまでほっこりしてきて、ついには作戦を忘れて遊びに加わっていることもあった。
もう完全に私と芽依がスクールカーストの頂点に上り詰めた頃、私たちは高学年になっていた。ここで私は何年か積み上げてきた友情を盾に、悠花へのいじめの件を話す。
「桜、ちょっといい?」
休み時間に桜を人気のない廊下へ呼び出した。私の心臓は大きな音を立てて振動を繰り返している。
「何?」
「あのさ、隣のクラスの悠花って子知ってる?」
「うん、家の人が社長なんでしょ。美人だっていつも噂されてるよね。」
桜は彼女のことを特になんとも思っていないようだった。
「その悠花って子が芽依にひどい事を言ったんだって。それで芽依は傷ついて絶交したってことを芽依に聞いたの。最低でしょ?」
「それ本当なの?」
桜は疑うような視線を向けてきた。それで初めて、明確な根拠がないことに気がついた。でも、今からなかったことにはできない。私は芽依を信じる事にする。
「うん、この前芽依から直接聞いたの。だから、悠花って子を懲らしめたいの。」
「いいね、その子に分からせてあげよう。芽依がどれだけ傷ついたかってことを。」
それから、桜は悠花のことをいじめるようになり奈菜ちゃんも加わった時には悠花の心と体はボロボロになっている気がした。
長い間祈願していた芽依を助けるための策は成功したのだ。芽依をさぞ、喜んでいるだろう。そんな時ふと我に返った。私はなんのためにこんな事をしたのだろう。悠花は今、不登校になっている。かれこれ三ヶ月以上学校に来ていない。側から見れば、私は部外者なはず。元は悠花と芽依二人の喧嘩が原因で起こったことで、私が首を突っ込む必要はなかったのではと思うことが度々あった。その度に、その感情は無かった事にして自分はよくやったと強引に思考を変えた。今まで経験したことのないような後悔が押し寄せてきたのである。私はいじめの加害者だ。桜が主犯格だと思われているようだが、裏で指示したのは私自身だった。奈菜ちゃんや芽依、後々私たちのグループに加わった紗香という子もみんな桜が中心となって動いたと思っている。そう思うとなんとも居た堪れない気持ちになる。もう後戻りはできなかった。私は、悠花をボロボロになるまで痛めつけた挙句、その責任を桜に押し付けてしまった。一緒にいじめに加担していた子たちの人生を狂わせたのだ。それを認めてしまうのが、本当に怖くて仕方がなかった。
「もう、無理。」
私は、長く悩んだ挙句に真実を話す事にした。
今、目の前には桜、奈菜、芽依、紗香がいる。話があると言って呼び出したのだ。ここからどう切り出せばいいのか分からない。真実を知ったら、私はこのグループから外されることは目に見えていた。初めから悠花をいじめるために加わったこのグループは私にとってとても大切な空間になっていた。今ここに座っている四人はかけがえのない私の大切な友達になった。いつも、冷淡な私を遊びに誘ってくれる桜。初めは私が疎ましかったかもしれないけど私のことを受け止めてくれた奈菜ちゃん。そしてずっと大好きな芽依。その芽依が恨めしく思っていた紗香。みんな私の大切な友達だ。
「話って?」
紗香が尋ねる。彼女は直接いじめに関与しているわけではないが、出来事だけは知っているようだ。
「ごめんなさい。」
初めに、私は限界まで頭を下げた。
根拠のないことに首を突っ込んでこんなことをしてごめんなさい。
私が計画したことを優しい桜に責任を押し付けてごめんなさい。
そのせいで奈菜ちゃんと芽依の人生まで狂わせてごめんなさい。
ここまで計画してきたことなのに芽依の嬉しい顔を見ることができない結果になってしまってごめんなさい。
一人の女の子をボロボロになるまで痛めつけてしまってごめんなさい。
私は、ゆっくりと深呼吸をして真実を話した。芽依に打ち明けられたことをきっかけにいじめを計画したこと、それを桜に伝えたこと。桜はそのことを知っていたからただ相槌を打ちながら聞いていただけだったが、奈菜ちゃんや紗香は信じられないという不満の表情を見せ、芽依はずっと下を向いて手に力を込めていた。
「ごめんですまないことは分かってる。だから私は悠花の家に行ってちゃんと謝る。だからこのことをどうか、受け止めてください。」
「私もごめん。このことは知ってた。夕から聞いて許せないと思って手を上げた。だから奈菜にも迷惑かけた。この先を狂わせた。ごめん。」
桜はそういった。やはりこの子はとても純粋でいい子なのだと感じる。私がこんなにひどいことをしたのに、自分も自然に謝ることができているのだから。
「あのさ、」
今までずっと俯いていた芽依が頭を上げた。
「今までずっと後悔してたこと、話させてください。」
予想外の展開に、私は耳を疑った。
「夕がそんなふうに思っていたことは知らなかった。私が打ち明けたこと、素直に聞いてくれたから。私、最低な人間なんだ。あの、打ち明けた話は嘘なの。」
「え?」
「私は、悠花にいじめられてなんかいない。むしろ、保育園に通っていた時に変人扱いされていた私を救ってくれたのは悠花で、ただ、喧嘩して気まずくて話せなくなっていただけなの。悠花が言ってたことに無性にイライラして、その後仲良くしてくれた夕に甘えて被害者面して話してしまっただけなの。まさかここまでになるとなんて思っても見なかった。ごめんなさい。」
桜たちも驚いている。
「え?じゃあ、私たちが一方的に悠花をいじめてただけってこと?」
芽依は静かに頷いた。
「私たち最低じゃん。」
奈菜がいった。最悪だった。やはり、根拠がないのに他人の問題に関係してはいけない。
「ほんと、最低だよ。」
初めて、紗香が口を開いた。
「みんな、知らなかったと思うけど、私悠花の親友なの。ずっと家に引きこもったままで悠花のお母さんも相当心配してノイローゼになってる。なのに、何?芽依は勝手に悠花を悪人にして、根拠のない出来事に夕は勝手な正義感で立ち向かおうとして。最低だよ。」
いつしか紗香の目からは涙が溢れていた。紗香はきっと、芽依が悠花と気まずくて話さなくなった後の友達なのだろう。
「みんな、どうかしてる。」
それだけ小さくいって、彼女は教室を出て行った。もう下校の時刻でそろそろ先生が見回りに来る時刻だった。みんな、ぼうっと一点を見つめていた。まるで人じゃなくなってしまったかのように生きた心地がしなかった。
「…悠花の家に行こうか。」
桜がいった。
悠花の家は、学区の端に位置する。住宅街を進んでいくと、白色の屋根の家が見えた。家の場所は芽依が知っていた。
インターホンを押すと悠花の母親がドアを開けた。
「悠花の友達かしら?」
「いいえ、ただの同級生です。今日、悠花さんに話したいことがあってきました。」
いじめていた身で友達とは言えなかった。桜と奈菜、芽依と私は家の中にお邪魔させてもらう。紗香とはあれから全く話していなかった。申し訳なくて、こちらから声をかけることはできなかたのだ。
悠花の家のリビングは整理整頓がきっちりされていてフローリングの床には埃ひとつ落ちていなかった。急に訪ねたのだから、常にこんな綺麗な状態を保っているのだろう。家の中は静かだった。
「悠花は二階の部屋にいるの。」
母親について階段を上っていくと、悠花と幼い字で書かれた看板のようなものがドアにぶら下がってた。母親はノックをすると、悠花を呼んだ。
「悠花、学校の子が来てくれたわよ。」
母親は多分、悠花がいじめられて引きこもっていることを知らないのだと思う。悠花が学校のこと言うワードを聞いて出てきてくれるとは当然私たちの誰もが思っていなかった。
「ごめんね、出てこれないみたい。」
申し訳なさそうに言う母親の表情を見て目が潤んだ。我が子がいじめられていたことを知ったらこの人は泣き崩れるだろう。目を合わせることができなかった。
「大丈夫です。私たちがドア越しに話すので」
桜の対応を受けて、母親は一階のリビングへ降りていった。
私たちは互いに目を合わせ、私がもう一度扉をノックする。
「夕だけど、覚えてる?あなたにどうしても謝りたくてきました。桜も奈菜も…芽依もいます。」
「…入って。」
短い言葉に少しだけ安堵した。芽依はずっと不安そうだった。
扉を開けて中に入ると、悠花はベットにもたれて座っていた。片手に漫画本を持っていた。彼女は私たちを見ると、またすぐに漫画本に目を移した。
「ごめんなさい。本当に悠花にひどいことをしました。」
許してもらうつもりは全くなかった。まず、自分をいじめていた相手が自室にいるのだ。私なら怖くて逃げ出したくなるが、悠花はそうしなかった。体育館倉庫で時々口答えしてくるところと、何かを訴える目を見たいたら、納得した。悠花という女の子は強い。
「私も何度も悠花に手を上げて暴力的なことばかりして、本当に反省してる。それと、あなたが芽依をいじめてなかったこともはっきりしました。」
桜に続いて奈菜ちゃんも口を開く。
「私も、一度だけあなたの殴りました。私は誰かについていくことしかできなくて弱い人間です。ごめんなさい。」
悠花が芽依の方に視線を向ける。
「芽依、久しぶり。」
そのあまりにも優しい声に驚く。芽依は頷くだけだった。
「芽依が言ったんでしょう。私が芽依をいじめたんだって。私はそんなひどいことしないのになー。あの喧嘩の時のことは悪かったと思っているけど、私は芽依のことをこれから許せる気がしないよ。」
芽依は泣いていた。そのことは分かっていたのだろう。きっと芽依自身も嘘を言ってしまった後悔に耐え続けていたのかもしれない。
「ごめん、悠花」
「うん、許さないけどそれだけでいいよ。みんなも、私のことなんて忘れて自分で人生をまっすぐ歩いて行ったら?その方が気が楽だと思うよ。」
彼女は自分の左腕をさすった。きっとあの長袖のシャツを捲ったら、私たちがつけた痣が姿を表すのだろう。
「さ、帰って。」
「でも…」
まだ、私はあなたに罪を償いきれていない。あなたはこれから自分の人生をまっすぐ進んでいけるの?そう問いかけたかった。
「いいから。」
冷たく言い返されて、私たちは悠花の母親に礼を言って家を後にした。
「みんな、」
芽依が帰り道に言った。
「あそこの坂を登ると、夕焼け空が綺麗に見える丘があるの。行かない?」
みんな頷いて、坂を登った。急な坂を登っていくと丘にたどり着いた。その丘は、かつて私が芽依と毎日のように行っていた丘であり、今回の出来事のきっかけである打ち明け話しを聞いた場所でもあった。今の時刻は午後五時。丘からは綺麗に夕焼けが見えている。
思わず芽依の方を見ると、芽依もまた私の方を見ていた。ここにきたということは…芽依はあの時間を今も大切に思っているのだろう。
「綺麗ー!」
桜がヤッホーと叫んだ。もう一人の桜がヤッホーと返した。
「結局は、嘘が絡み合った勘違いだったんだね。」
「うん、絶対にいじめはしないってことを誓うよ。」
夕焼け空が過ぎるまで、私たちは感傷に浸かった。
芽依たちが帰った後、一人で泣いた。私がいじめられていたのは、嘘が絡み合った勘違いみたいなものだったって謝られた。そんなの許せるはずがなかった。シャツの腕を捲ってみると痛々しい痣が姿を現す。ふざけんな、勝手にいじめて勝手に謝って私がそこまで怒らなかったことに安堵して帰っていった。むしゃくしゃした。
階段を降りて、リビングへ行くと久々で懐かしく感じる。ずっと家の中にいたはずなのに自室にこもっていたからか、変な感じがした。
「えっ悠花?!」
私が出てきたことに驚いた母はつまずいて転びかけた。今まで直視しなかった母の顔はずっと老けてやつれていた。
「今までごめんね。でももう、引きこもるのはやめにするよ。迷惑かけてごめんね。」
母は、私を抱きしめた。
「あなたはあなたらしく進んでいけばいいのよ。」
母は、泣いているのを隠しているようだった。嗚咽混じりの声に私の目も潤んでいた。
さて、初めに何をしようか。
部屋の片付けを終えた私は、昼食を作った。一人では作り方がわからなくて母がそばについていたけど。味噌汁とハンバーグという比較的質素な料理だが、とても温かくいて美味しかった。私がいじめられていたこと、母には話さないままでいいと思う。私は、謝りにきた四人に死ぬほどムカついたけど、ここで私も立ち直らなければ一生悔しいままだと思った。だから一歩、前に踏み出そうを決心したのだ。
私が作ったハンバーグは好評で、仕事に出掛けている父に残しておこうと、母は笑顔でラップを取りに行った。
「少し外に行ってくるよ。」
「行ってらっしゃい。」
数ヶ月ぶりに外へ出た。太陽が眩しい。部屋の中ではほとんどカーテンを閉めていたから目がうまく開けられなかった。それでもいい。
近くを歩いていると、新しくオープンしたカフェが数軒あって新築の見たことの無い家も並んでいる。時間が過ぎていくのは私が感じているよりもはるかに早いのかもしれない。上を見ると青空が広がっている。真っ白い雲がところどころ出ていて、気持ちが良い。今までは日焼けを気にして好きだと思えなかった太陽もこうして体全体で光を感じると、元気をもらえる気がした。
「…悠花」
気持ちよく伸びをしていると後ろから私を呼ぶ声がした。反射的に身を縮めて振り返ると紗香が立っていた。
「久しぶり…外、出てるんだね」
「いいや、今数ヶ月ぶりに出たところだよ。いや、眩しいね。」
目を擦ると、涙が出ていることに気がつく。決まりが悪くて恥ずかしくて目を背ける。しかし、涙が止まってくれることはなかった。
「この近くに、景色がよく見える丘があるんだって。行ってみない?」
「行く。」
紗香はジーンズに白Tシャツというなんともラフな格好をしていたから彼女も散歩していたのかもしれない。
ここは住宅地なのに、坂を登ると本当に丘が見えた。街全体が見渡せて空気も美味しい。
「桜たちが、うちに来たんだ。」
「えっ。」
「いじめてたのを謝りにきた。許せなかったけど。あの人たちに負けたく無いと思って一歩部屋から出たら、部屋の片付けをするのも料理をするのも、簡単だった。」
「そっか。」
私、学校に行ってみようかな。そう言おうとしたけれど、まだいけないかもしれないからそれをいうのはやめておいた。私はまだ、夢に向かって走ることのできるエネルギーを持っていた。
「じゃあ、私も自分の人生を歩いていくことにする。悠花みたいにね。」
夕焼け空を見ながら、秋の風を二人で味わった。