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百貨店での買い物を負えワンルームの部屋に帰ると、空っぽの財布を眺めて、深い息を吐いた。
まさか口紅が五千円もするなんて。
それでなくても、佐久間さんに盗られたお金の返金で、懐は寒くてしかたがない。
「バイト増やそ……」
仕送り含めてもきつきつだ。
ブランド物だっていうし、俺のせいで無くしちゃったんだし仕方が無いが、凜のお姉さんはここぞとばかりにアイ…なんだっけ? とにかく瞼に色塗るやつとか、香水とか色々と薦めてきた。
凜が落とした口紅は限定ものだったらしく、もう売り切れてなかったのが残念だったが、他に新色だという、凜によく似合うものが買えて良かったと思う。
2人はよく似ていた。
姉の澪ははつらつとし妹を支え、凜は安心して甘えきっていた。
美人姉妹っていうのがしっくりくる2人だが、目の障害のせいか、凜のほうがより色白で儚い感じがした。
見えもしないのに、鏡の前で澪に化粧を試して貰っている姿は、なんともうれしそうで、健気で。
何であの時、あんな事を言ってしまってのかとひどく後悔をした。
凜は許してはくれたが、それはほとんど諦めに近かった。
どうせわかって貰えない。そんな気持ちが根本にあるのだと思う。
帰り際に、やっと教えてもらえた連絡先を眺める。
握りしめたスマホには、高垣凜《たかがきりん》と表示されていた。
メールはアプリで読み上げてもらうのだそうだ。
これからどうやって連絡をとろうかと、考えるだけでそわそわとする。
笑った顔にどきりとした。
決して合わない視線に、なんとも表現し難い気持ちになって胸をかき乱された。
もっと、知りたい。
なぜだろう。
ぶつかったあの日から、気がつけば凜のことばかり考えていた。
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午前中の講義が終わり食堂でお昼を食べていると、哲弥《てつや》が数量限定の日替わりランチをトレーに乗せて近づいてきた。
隣の椅子を引いて座る。
付き合いは大学からとそう長くはないが、とても気が合って、授業もサークルも殆ど一緒にいる親友だ。
「奏多、また300円の具なしラーメン食べてんの」
「金欠なんだって」
カツサンドにポテトにサラダにアイスコーヒーのセットは羨ましくて仕方が無い。
横目に見ながら味の薄い麺をずるっとすすった。
「ああ、お金盗まれちゃったやつ。
解決した? 毎日駅前で待ってるとか、よくやるよなぁ」
「俺は義理人情に熱い男なの。謝んなくちゃだし、ちゃんと返さなくちゃだろ。
先週末、やっと会えてさ」
「え、マジ?」
「うん。なんか、月1回しか駅には来ないんだって。前回合ったときも通院だったらしくて。
謝って、お金も返してとりあえず解決した。んで、連絡先交換してもらってさ」
「おー、よかったじゃん。どんなこ? 写真とかないの?」
「ないよ。いきなり写真撮らせてとか、ふつーいわねーだろ」
「だって、奏多が夢中だから、もしかして好みの子だったのかなって」
「…………」
下心がゼロなわけではない。
図星なのを誤魔化すように、残りの麺を掻き込むとスープをぐびっと飲んだ。
それだけでは満腹にならなくて、哲弥のポテトを数本盗む。
「あ、やっぱりそうなんだ」
哲弥は俺の手を叩きながら言った。
「それだけじゃないからな! 俺はちゃんとお詫びをしたくて……」
「あーはいはい。わかったわかった。何歳? 今度合わせてよ。奏多が好きな子なら会ってみたい」
「同い年だった。まだ好きとか決まったわけじゃ……」
「はいはい」
なんでもわかってるようなハイハイに口を尖らせるが、すぐに気分を切り替えた。
「今度、遊びに誘ってみようと思うんだけど、どういうところが楽しいかな」
哲弥が来るまでに調べていた、視覚障害者とのデート方法をスマホに表示して見せた。
気を遣いすぎるのもどうかと思うが、何せ基礎知識が無いに等しい。
「え、もうそんなに仲良しなの?」
「なんか、家に帰ってからお金をちゃんと確かめたらしくて。貰いすぎだから返したいって連絡きてさ。真面目で良い子なんだよね」
「ふうん」
哲弥はニヤついた。
***
奏多と会うのに、なんでこんなにドキドキとしているのかわからなかった。
家族以外と出掛けるのは緊張する。
わたしは奏多のことをまだよく知らないし、つまらないと思われたらどうしようって不安になる。
きっと、だからだと言い聞かせた。
なぜ奏多と出掛けることになったかと言うと、電話をしたときに、お金を返す返さないで押し問答になり、折れた奏多が提案したのは、「じゃあ、そのお金で遊びに行こう!」だったからだ。
てっきり、どっかのカフェでちょっと話をするとかだと思ったのに。なんでもテーマパークに連れて行ってくれるらしい。
哲弥さんという友達とその彼女さんも一緒に行くことになり、それをお姉ちゃんに相談すると、「ダブルデートじゃない!」と喜んでいた。
わたしはそれを聞いてさらに緊張が増してしまった。
指定されたのは、動きやすい格好。
わたしより張り切ったお姉ちゃんに準備して貰った、ズボンと薄手のセーターに着替える。
奏多に買って貰った口紅を塗り、髪の毛はゆるく1つにまとめて貰った。
スニーカーを履き、ショルダーバッグを肩から斜めにかけ、白杖を持つと玄関を出る。
車で迎えに来てくれるという奏多を待った。
テーマパークは家族と五年前に行ったきりで、戸惑いつつも、ちょっと楽しみにしていた。
まさか、同年代の友達と一緒に出掛けられるなんて。
親友だと紹介された哲弥さんは、物腰の柔らかいひとだった。
奏多が明るくて屈託がないので、落ち着いている哲弥さんとはよいペアだと感じた。
哲弥さんの彼女である奈子さんも同い年で、大学で福祉の勉強をしているらしく、わたしのことを“わかっているひと”でありがたかった。
正面からちゃんと話しかけ「握手をお願いしてもいい?」と手を包んでくれた。
ちょっとカサついて、ふっくらとした女性らしい手。それを知るだけで、彼女の情報が増える。
声も落ち着いている。
働き者で優しいといった第一印象だった。
運転手は哲弥さん。
四人で車に乗り込み、テーマパークへと出発した。
テーマパークはたくさんの音がした。
陽気な音楽に乗り物の機械音。興奮気味の悲鳴にたくさんの笑い声。
外って、こんなんだったっけ。
ずっと、こんな世界に触れていなかった気がする。
「凜って絶叫系大丈夫?」
「久しぶりだけど、たぶん大丈夫」
「よし、じゃあ行こう。俺に捕まって」
奏多が手を握って、腕へと導いた。
初めて出会った日、改札まで送ってくれた時とは大違いだ。
あの時は手を引っ張るわ急に肩をつかむわで、ビクビクし通しだったから。
思いだしてクスリと笑う。
もしかして、また、調べてくれたのかな。
歩み寄ってもらえるのは素直に嬉しかった。
「あ、何笑ってんの」
「なんでもない」
奏多はシャツの袖を捲っていた。
肘の位置がちょっと高い。
そういえば、お姉ちゃんが背が高いと言っていたし声も上から届く。
お父さんと全然ちがう。
(筋肉質だ……)
腕に直接触れるのはドキドキとした。
***
景色は見えなくても、空気や音を感じるだけでとても楽しかった。
奏多は介助者として気を張ってくれているのか、となりにピタッとくっつくので、それがなんとも擽ったい気持ちになる。
それを見守る哲弥《てつや》さんと奈子《なこ》さんが、生暖かい雰囲気を醸し出すのですごく恥ずかしい。
さらに奏多は、興奮すると色んな事を忘れて肩を抱いたり飛びついてきたりする。
その度にやっぱりびっくりしてしまうのだが、いつもみたいに嫌な気持ちにならなかった。
色んな乗り物に乗って、メインのジェットコースターへ来た。
腰にベルトをし、肩に安全バーを落とす。
後ろの席には哲弥さんと奈子さんがいた。
わたしは前の手摺りにしっかりと掴まった。
隣に座った奏多は体を寄せると、手をくっつけてバーを掴み小指を少し絡めた。
「大丈夫?」
耳元に、ふっと落ちてくる低い声。
息づかいを、顔の真横に感じた。
声はすっかり聞き慣れて、もう最初に名乗ってもらわなくても奏多だってわかるようになった。
「どうかな。すごくドキドキしてる。たくさん落ちたり曲がったりするんだっけ」
「うん」
奏多はひひっと笑う。
「安心してよ。俺が完璧な道案内するから!」
(道案内?)
首を傾げたところで、ジェットコースターは出発した。
『それでは、いってらっしゃぁーい!』
マイクを通した女の人の声。
「凜! 凜、係員がハイタッチしてる! 左手バンザイして!」
慌てて手をあげると、パチン!と軽快なタッチをされた。
ピリッとした手のひらが高揚感を高める。
レールが軋み、体が徐々に斜めになる。
ゴトゴトという音とともに、自分が空へとのぼっているのがわかった。
「登ってる!」
「奏多の声うるせぇー」
哲弥さんが呆れた声を出す。
暫く登ると、奏多が手をぎゅっと握った。
「落ちるうぅぅぅぅぅ!!」
奏多が叫んだ次の瞬間。
内蔵がふわっと浮く気持ち悪さを感じたと思ったら、あっという間に落ちていった。
「きゃーーーー!!」
怖いのより楽しいのが勝って、歓喜の悲鳴を上げた。顔に風がぶつかる。
髪が後ろに飛んでいった。
なんだこれ。
そうだ。
世界ってこんなだった。
淡々と過ごす味気ない毎日で、こんなにも色鮮やかなことをすっかり忘れていた。
「み、ぎに曲がるぅーーーー!! うおっ。左! ぎゃーー! また落ち……!!」
奏多は悲鳴を交えながら何を言っているのかと思ったら、次に進む方向を示してくれていたのだ。
「左に急カーブうううう!」
体が右に振られて、奏多の肩とぶつかった。
なんだかわたしより奏多のほうが怖がってないかな。
必死に道案内してくれるのが、おかしくて仕方が無い。
わたしはお腹が痛くなるほど大笑いしながら、ジェットコースターを乗り終えた。
ジェットコースターでの出来事は、哲弥さんも奈子さんもツボだったらしく、わたしたち三人は暫くの間ひーひー笑っていた。
「なー、みんな笑いすぎだって!」
「だって……なぁ?」
ぶくくくと笑いを堪えながら言ったのは哲弥さんだ。
「ジェットコースターのルート叫びながら乗るとかほんとうける! 笑わずにはいられないよ。思いだしただけでもう……!」
奈子さんは、ぶふー! と何度も噴き出してしまっている。わたしは腹筋が痛い。
「凜まで笑いすぎだよ! そんなにおかしかった? 俺めちゃ頑張ったんだけど」
「すごく、嬉しかった」
あまり笑いすぎると、奏多も拗ねてしまいそうだし申し訳ない。
(あと、すごく可愛かった)
これは内緒だ。
「こんなに笑ったの久しぶり。奏多のおかげだよ」
すぐにでも筋肉痛になりそうなお腹を擦りながら言うと、奏多は「そーお?」とちょっと不服そうだ。
「あ、ほら。写真できてるよ!」
アトラクションの出口まで来ると、奈子さんが言った。
「わ、ほんとだ。やべぇ俺の顔だせぇ」
哲弥さんが残念そうにする。
「ぎゃはは! 何あの顔! 哲弥めっちゃ怖がってんじゃん!」
奏多がここぞとばかりに逆襲にはいった。
(そうだ。たしか、ジェットコースターって途中で写真撮ってくれるんだ)
三人はとても盛り上がっていた。
いいな、と内心羨ましく思う。
仲間に入れたら、今よりももっと楽しめるだろう。
「なーなー! 凜も見ろよこれ……」
奏多が言いかけてはっと口をとじる。
すぐに「ばか」と哲弥さんが小さく叱った。
三人は、一瞬にしてすごく気まずげな雰囲気になった。