「ーーーーーも、俺が見えてるかな」
彼は泣きそうな顔で言った。
空は真っ青だった。
白い雲と、芝の新緑。
いつもより木々の香りを感じた。
互いの涙は風で散って、シャボン玉のように飛んだ。光を反射して、七色の雫となった。
初めまして。
「見えているよ」と返すと、彼はくしゃっと顔を歪めた。
瞳の奥が、喜んでいた。
コスメフロアは、独特の化粧品の匂いでむせかえる。床はつるつるで、白杖をふっても目印になる物がない。
いつも通り、お姉ちゃんに百貨店の出入り口まで送ってもらうと、先ほど買った商品の紙袋を受け取った。
「大丈夫? この後もう予定ないんでしょ? ゆっくり気をつけて帰ってね」
「うん。ありがとう」
お姉ちゃんの手が肩を撫でた。
細くて、綺麗な指だ。
接客業で邪魔にならない程度の、シトラスの香水がふわっと香る。
「うん。今までピンク系が多かったけど、顔もシャープになってちょっと大人っぽくなってきたから、オレンジ系統もにあうね」
お姉ちゃんは、ラメ入りのグロスを乗せた唇の横をちょんと指で触った。新商品だと試してくれたアイテムだ。
「そうかな」
「うん。最近、ぐっと大人っぽくなったよ。次の休み、新しい服買いにいこっか。めちゃくちゃ似合うの選んであげる」
「え、いいよ。休みなんだからお姉ちゃんは陽生さんとデートしなよ」
「陽生とは結婚したら嫌でも毎日一緒なんだから。わたしは凜と遊びたいの。
あー、すっかり遅くなって、暗くなってきちゃったね。あと1時間でシフト上がれるから、待っていてくれたら一緒に帰れるんだけど……」
「駄目だよ。今日は陽生さんのアパートに行くって言ってたじゃない。もう、過保護なんだから」
わたしが眉をしかめると、お姉ちゃんの仕方ないなぁという溜息が聞こえた。
「お姉ちゃんはもうすぐ家をでるんだよ?
嬉しいけど、そろそろ自分の為に時間をつかってよ。わたしも心配かけないようにしっかりするからさ」
わかったよ、と寂しそうな声をきいて別れた。
大きな駅のロータリーは、歩道が整備され歩きやすい。古いところだと、インターロッキングのブロックが浮いてたり欠けてたりして、転びそうになることがしばしばあった。
白杖を振り、靴底の薄い平らなバレエシューズでゆっくりと点字ブロックをなぞりながら歩く。
『目が見えなくとも、お洒落を楽しもう』
6個年の離れた姉、澪は百貨店に店舗を構えるブランドコスメショップの店員で、美容部員を務める。
お姉ちゃんはずっと、わたしが病気で10歳の時に失明してから、出掛けるときは服を選び髪を結い、化粧を施して全身をコーディネートしてくれる。
わたしは自分がどんな顔をして、どんな服を着ているかもわからないけれど、着飾っては可愛いと褒めてくれるお姉ちゃんのおかげで、外も気持ちよく歩けている。
でも、もうあれから10年だ。
わたしも20歳になった。
いい加減に甘えるのも止めなくてはならないし、お姉ちゃんは26歳で、半年後には3年付き合った彼と結婚を控えている。
わたしのことを気にして、ギリギリまで実家にいるのだと言ってくれるが、わたしの事など気にせずに、彼と過ごして欲しいと思っている。
16歳。高校生だった頃の顔までしか知らないが、あの頃も美人で気さくで、友達の多い自慢の姉だった。今はもっともっと、大人の魅力のある女性になっているのだろう。
検診のため、月1回、電車で大きな駅まで出てくると、お姉ちゃんのショップにより、新しいコスメを買うのがルーティンだった。
車通りの激しい道路。信号の無い交差点。
歩道の狭い道。
駅のホーム、階段、電車。
移動は緊張しとても大変だ。耳と足と周りの空気すべてに注意を払いながら進む。
ひたすら忍びのように意識を集中するのは疲れてしまい、頭が痛くなることもあった。
百貨店から駅までを、ゆっくりと噛みしめるように歩く。途中にある階段は、すぐ脇のスロープを使うようにしていた。
いつも通りの、いつものルート。
必ず同じ場所を通れば、そうそう怖くない。
しかし、いつも使うスロープからは、いつもは聞こえない音がした。
ガッ カッ シャー ゴロゴロ
たくさんの音が聞こえた。
スロープについているはずの、手摺りがカンッと鳴る。
楽しそうな男の人達の声。
おそらく集団だ。
(工事……じゃないよね)
怖い人達だったらどうしよう。
姿が見えないため、何人いるのか、どんな人達なのかさっぱりわからない。
仕方ないから階段で行こうと切り替える。
(ここの階段、何段だったっけ……)
真横のスロープから聞こえる騒がしい声がちょっと怖く感じた。どうも、がらが良く無さそうなのだ。
10年も目が見えなければ、第一印象は声になる。
声と話し方でなんとなく、その人の人となりを判断出来るものだ。
ガーとタイヤが転がる音から推測すると、スケボー集団がいるのではないか。
お姉ちゃんが、夜の駅前はダンス、スケボー、バイクの練習場所になってるよと言っていたことを思いだした。
手摺りに恐る恐る指を伸ばす。
カンカンガーガー聞こえるけれど、これは何をやっているんだろう。
なんとなくいやだなぁと思いながら、一つ目の階段に足をかけたとき、ガーっという手摺りを擦るような音と、若い男の悲鳴が聞こえた。
「うわあああ!! 危ないっ!!」
周囲から悲鳴が聞こえたと思ったら、急に体に衝撃が来て、後ろに飛んだ。
すこしだけ体がふわっとし、すぐに地面に背中を打つ。
手にしていた白杖も、バッグも飛んでいった。
「い、いたた……」
背中を打って擦りむいたみたいだ。
ゆっくりと起き上がると、すぐ近くから「うー……いってええ」とうめき声が聞こえた。
「おい奏多。大丈夫かよ派手に落ちたな」
ギャハハハとお世辞にも品がいいとは言えない笑い声がちかづいてくる。
人を小ばかにしたような、いやらしい話し方だ。
「おねーさんは、だいじょーぶぅ? 怪我はー?」
この人はさっきの人ほどではないが、形式的に聞いてるだけで、いかにも面倒くさそうだ。
「え、あ、ごめんなさいっ。あーやべえ。痛いとこない? 頭打たなかった?! マジでごめんなさい!!」
ぶつかった相手のようだ。
腕を支えて立たせてくれて、服が汚れてしまったのか軽く叩いてくれた。
初めての相手は間合いとか、空気がわからないからすごく嫌だ。
「あ、あの。大丈夫です。
ちょっと擦ったぐらいで……あの、それよりも、白杖とバッグを拾って貰えませんか」
白杖がないと不安でたまらない。
持っていないと、目のことを気がついて貰えないことが殆どだ。
バッグはどこに行ってしまったのだろう。見えもしないのにきょろきょろと首を動かした。
「え? はくじょーって、なに?」
きょとんとした声が返ってくる。
「白い、杖です……」
そう呟いたとき、「おい、この女……」と囁きが聞こえた。目が見えない分、耳が鍛えられているんだ。
こういうときは、大概、体のことを言われてる。いつになっても慣れないものだ。