「須田さん、ちょっといいかな」
 「はい。何でしょうか」
 パーテーションの向こうから顔を出したのは、システム課のボスである課長だった。2・3の確認事項の後、来週開催のセミナーについて尋ねられる。
 「配布する資料の原稿はできてます。もう一度確認なさいますか?」
 「そうだな、念のためよろしく」
 「わかりました、後でメール送付します」
 課長がうなずいて去り、再び一人になったみづほは、いったん自分の席へ戻った。ウインドウをメールソフトに切り替え、課長のアドレスに資料のデータを添付して送信する。ついでに届いていた数通のメールを読み、急ぎの件とそうでもない件に振り分ける。ひと通り終えて、ふうと息をついて、ディスプレイにうっすら映る自分の顔をぼんやりと見た。
 そうしてまた、思考が数日前に戻っていく。あれからの何日かずっと、事あるごとにそうであるように。

 あの日、尚隆がシステム課を出ていく音を背中で聞いて、ジャスト10秒ののち。みづほは椅子の背にもたれかかり、天井を仰いで思い切り息を吐いた。
 覚悟はしていたにもかかわらず、めちゃくちゃ緊張してしまった。
 彼には気づかれなかっただろうか──なんとか、予定していた通りの態度で接したつもりだけど、うまくいっていたかどうかは正直自信がない。
 課内に誰もいなくてよかった、と心底思った。注文ソフト不調の個別対応やお手洗い休憩、タバコを吸う社員の自主休憩がたまたま重なり、一人になっていたのである。
 やれやれ、と思うと同時に、お手洗いに行っていたとおぼしき、後輩の女子社員が一人戻ってきた。
 「田村(たむら)さんごめん、チェックの続きやりたいから、電話番お願いできる?」
 「わかりました」
 後輩の返答に「よろしくね」と手を挙げて応じ、システム保守用のハードが置いてある奥のパーテーション、尚隆が訪室する前まで居た席に戻った。
 そこでもう一度、今度は漏れ聞こえないように気をつけながら、ふうと息を吐いた。
 ──広野くん、なんかちょっと変わった……?
 大学時代の印象とは違う彼に、少なからず驚かされた。顔には出さなかった、と思うけれど。
 7年前、というか大学を卒業するまでの尚隆は、どちらかといえば「遊んでいる」イメージの強い男子学生であった。サークルの後輩と付き合っているかと思えば、数ヶ月後には見覚えのない女子と仲良く腕を組んでいるのを見かける、そんな感じで。
 対して自分は、自慢にも何にもならないが、男性に全く免疫のない女子。学生時代は付き合ったことすらなかった。ことさらに男子を苦手に思っていたわけではなく、だから同級生やサークルの仲間うちではごく普通に会話もできたけど、それ以外の関わりは一度も持ったことがない。尚隆よりも前に、男子を好きになったことは2回くらいあるものの、地味な自分が告白してうまくいくとは思わなかったからアプローチをしたこともなかった。
 そんな自分があの時、なぜ誘われたのか。
 ……たぶんあの日、尚隆は、付き合っていた子と別れたか喧嘩でもしたかで、くさっていたのだと思う。ずっと見ていたから、なんとなく、彼のそういう雰囲気がみづほはわかるようになっていた。
 だからきっと、手近にいたみづほに、あんな提案をしてきたのだ。特定の相手はいないだろうし普段付き合う女子とは違うタイプで珍しいし、とかいうふうに思われたかもしれない。
 そうだとしても、あの時はかまわなかった。どんなきっかけであれ、彼がみづほに興味を持つなんて機会は今後絶対に無いだろうから──初めての相手が彼になるならこんな形でもいい、と思ったのだ。
 けれど一度きりのつもりでいた。本気で好きだと思われていないのに、体だけの関係が続いたりするのは嫌だった。いくら相性が良かったからといっても。
 だから、尚隆と2人きりになることを、あれ以後はずっと避けたのだ──彼と向き合ったらきっと、自分の動揺が隠せそうにはなかったから。
 彼のタイプの女ではないことは充分にわかっている。それでも、好きだった。サークルに入って知り合った頃からずっと。自己紹介で見せた屈託のない笑顔に、柄にもなく一目惚れしたのだ。そんなことは初めてだった。中学での初恋の時でさえ、一瞬で恋に落ちたりはしなかったのに。
 自分は尚隆のタイプではない。ましてや、自分にとっても本来、彼みたいな「遊んでいる男子」はタイプではなかったはずだった──それなのに、日が経つごとにどんどん、尚隆を好きになっていった。
 落として散らばった書類を誰より早く拾ってまとめてくれる、そういう優しさだったろうか。その行為をまったく恩着せがましく感じさせない、さりげなさだったろうか。それとも。
 理由が何かなんて、今ではよくわからない。はっきりしているのは、誰にも感じたことがないほど強く、尚隆に惹かれたという事実。
 だから、彼の気まぐれな誘いに応えた。
 ……だからこそ、バカなことをしてしまった、という思いに後から強く襲われた。ただのサークル仲間にはもう戻れない──少なくとも、みづほの気持ちにおいてはそうだったから、二度とあのような「間違い」を起こさないためにも、尚隆と2人きりになることは徹底的に避け続けた。大学を卒業するまで。
 それは、上手くいったと思った。卒業後も、尚隆が来そうなサークルOBOGの集まりには極力顔を出さなかったし、そこさえ気をつけていればもう、彼との接点などないに等しい、そう確信していた。

 ──なのに今さら、接点ができるなんて。しかも職場という、簡単には逃れようのない場所で。
 みづほのシステム課と、尚隆の営業部は、工場への注文ソフトを頻繁に使う業務上、関わりが多い。いずれ、彼からのトラブル報告、呼び出しに対応しなくてはいけない時が来るかもしれない。
 そのたびにまた、再会した日みたいな緊張を抱えなければいけないのだろうか。それを思うと憂鬱だった。

 「セミナーですか?」
 「急で悪いんだが、出席しておいてくれ」
 朝、出社した途端に営業一課の課長に呼ばれて、告げられた指示は、翌日の午後に行われる社内セミナーへの出席だった。
 「詳細はメールで送ってあるから。いちおう、社員全員に義務化されているからな」
 「……わかりました」
 だったらもっと前にわかっていた事なんじゃないのか、早く連絡してくれればいいものを、と内心で少し毒づきつつ、席に着く。
 届いていたメールを読むと、セミナーは昼休み明けで所要時間は1時間ほどで予定されている。今週は毎日、午前も午後も先輩に付いての得意先回りの予定なのだが、明日は途中で切り上げさせてもらうしかない。
 まだ来ていない件の先輩に、ひとまずLINEで連絡を入れてから、もう一度先ほどのメールに目を通した。
 タイトルは「《重要》ネットリテラシーセミナーへの参加ご案内」とある。社員は最低1回受講しておくべきものと決められているので必ずご参加を、との但し書きがあった。今の世の中、SNSの発達で気軽にネットでの意見発信ができるようになった反面、小さくない様々な問題も起こっている。一社会人としてのマナーを含めたリテラシーをきちんと見直し、正しい知識に即した振る舞いが必要だ──との、趣旨はもっともである。
 問題は主催、というよりは講師役だった。
 「主催:システム課/担当講師:須田みづほ(システム課主任)」
 セミナーの趣旨と内容上、システム課が主催になるのは当然だ。そして主任のみづほが講師役として講義するのも。彼女は学生時代から真面目だし、会計役として皆の集金をまとめるのも収支報告を作るのも上手かったから、良い講義をするだろう。だが。
 「おっ、来たんだなセミナーのお誘い」
 背後から前触れなく頭を突き出したのは、先ほどLINEを送った先輩、同じ部署の森宮(もりみや)だった。比喩でなく心臓が跳ね上がった心地になり、尚隆が二の句が継げずにいるうちに、森宮は勝手にメールを読み進める。
 「ふんふん。講師は新しい主任さんか、いいなー」
 「い、いいって何がですか」
 やっと鼓動と息が整い、尚隆が尋ねると、「1コしか違わないんだからタメ口でいいっての」と言ってから、森宮は説明する。
 「去年まではさ、他の支社に異動したおっさんの主任が担当講師で。それが、しつっこいぐらいに同じ話繰り返す癖がある奴で、毎回とんでもなく時間がかかってたんだよ。だから超不評でさ。
 その点、新しい主任さんのセミナーは的確でわかりやすいって評判だし、何より美人。会っただろ」
 「え、は、まあ」
 立て板に水、といった調子の喋りからいきなり水を向けられて、慌てて防御、ではなく返答をする。
 「ちょうど俺が受けた後から彼女に変わったんだよなあ。運がなかったよなーちくしょう」
 言いながら森宮はやけに悔しがっている。もしかしてみづほに気でもあるのか、と尚隆が思ったのとほぼ同時に、森宮がこう言った。
 「あ。けどな、彼女に手え出すのはやめといた方がいいぞ」
 「はい?」
 「あれだけの美人だから、男ができない方がおかしいだろ? けどできないんだよ。正確に言えば、できても長続きしないんだってさ」
 突然潜められた声に、何か不穏なものを感じ取って、尚隆はまた黙ることを余儀なくされた。森宮はその先を続ける。
 「聞いた話じゃ彼女、できないんだってさ」
 「……できないって」
 「決まってんじゃないか、アレだよ。しようとしても体が拒否るんだと。そんなんばっかりだから男が耐えらんなくなってアウト、その繰り返しだって。
 そりゃなあ、いくら美人でも、アッチを満たしてもらえないんじゃ萎えるよな。だから彼女も懲りたのかね、近づく男がいないわけじゃないけど、もう誰とも付き合わないって決めてるんだとよ」
 「──なんでそんなこと、知ってるんすか」
 「同期の奴で、ちょこっとだけ彼女と付き合ったのがいんだよ。そいつからまあ、いろいろとな」
 森宮がにやりと、下卑ているとも見えなくもない笑いを見せて言った直後。
 「そこの二人、いつまで無駄口叩いてんだ。早く外行ってこい」
 課長の檄が飛び、尚隆は森宮とふたり、そそくさと営業のフロアから出る。エレベーター待ちの間も森宮は、みづほの噂についてまだ話をしていたが、半ば以上聞き流していた。尚隆には思うところがあったのだ。
 みづほが、付き合った男と「できない」と言われる、拒否してしまうという原因。それはまさか、自分との出来事ではないのか。あの時のことが、彼女の中で何らかのトラウマになっている、とか?
 あの時彼女は、承知して来たものだと、納得の上で抱かれたものだと思っていた。だが実はそうではなくて、場の雰囲気で断れなかったから仕方なかったのか。抱かれることが嫌な気持ちが、少しはあった──?

 その日、外回りから戻ってきた午後。
 「……あれ?」
 転職して1ヶ月。仕事もひと通り覚えて順調だ、と思っているとトラブルに見舞われる。大げさな言い方かもしれないがこの時はそんな気分になった。顧客からの急ぎの注文があるというのに、注文ソフトが動かなくなったのだ。
 マウスポインタは動くから、パソコン本体の不具合ではないはず。だがどこをクリックしても反応しない。近くの席の営業課員は皆、外回りに出かけていて誰もおらず、尋ねようがなかった。
 これはシステム課に相談するしかなさそうだ。内線番号を押して、相手が出るのを待つ。2コール目で「はい、システムの須田です」と声が聞こえた。
 その瞬間、尚隆の心臓は少しばかり跳ねた。
 用件がさっと声に出ない。「もしもし?」と問われてやっと、自分が名乗るのも失念していたことに気づいて焦る。
 「あ、ごめ、すみません、営業の広野ですが」
 「……なんだ、広野くんか。どうしたの」
 「えと、注文ソフトが動かなくなって」
 一瞬、みづほの声が堅くなったように感じたが、気のせいだったろうか? と思うくらいに短い違和感だったから、尚隆はすぐにそのことを忘れた。
 「ああ、よくあるのよね。ちょっと待って……動く?」
 「──いや、全然」
 「そう、 ……じゃそっちに誰か行かせるから」
 内線が切れ、数分後にフロアにやってきたのは、みづほ自身だった。主任の彼女がこんな用件までこなすのだろうか。
 「普段は他の人に任せるんだけど、手が空いてたのが今、私しかいなくて」
 尋ねると、みづほはそう説明した。言うと早々に、尚隆のPCの具合をチェックし始める。デスクに上半身を乗り出す姿勢で、約1分。
 「ああ、工場からの回答出るのに時間かかってるんだ……たぶん、納期問い合わせが重なってサーバの調子が悪いんだと思う。しばらくしたら直ると思うから」
 と、みづほが解説する声は聞こえていたが、内容は半ば、右耳から左耳へと流れていた。わずかの間、密着する寸前まで接近した彼女から、ふわっと漂った香りに気を取られて。花の香り、香水だろうか。学生時代はつけてなかったよな、とぼんやり思う。
 「広野くん、聞いてる?」
 訝しげな声にはっと我に返り、慌てて、聞こえていたはずの話を脳内で反芻する。
 「──あ、ん、聞いてた。わかった、待ってみる」
 慌てた、それゆえにあやふやな口調にみづほは首を傾げたが、いちおうは納得したのか「それじゃ、何かあったらまた内線して」と言い置いて去ってゆく。
 みづほの後ろ姿を見送りながら、尚隆は戸惑わずにはいられなかった。いや、正確に言うなら、彼女と再会してからこちら、ずっと戸惑っていた。
 みづほに対して、初めて会う女性を見るような、そんな不可思議な感覚がまとわりついて離れない。
 実際、7年ぶりに会ったみづほは、一見するとほぼ別人であった。地味の代名詞のようだった見た目が一変、ごく普通の小綺麗な、いっぱしの美人OLになっていた。
 というかそもそも、顔立ち自体はそれなりに整っていたのだ、昔から。あの日、初めて彼女を「意外と可愛い」と思った時に、気づいていたはずじゃなかったか。
 「……まいったな」
 ひとりごちた言葉が実際に声になっていたことにも、外から戻ってきた向かいの同僚が眉を寄せてこちらを見ていたことにも、尚隆は気づかなかった。

 セミナー会場である、8階の大会議室に入ると、開始5分前の時点ですでに多くの社員が集まっていた。半年に1回の開催だそうだから、今年の新入社員は参加しているだろう。中途入社も意外と多いのだろうか。そんなふうに思うくらい、席が埋まっている。
 眺め回した室内の顔ぶれの中に、別の課の顔見知りを見つけ、尚隆はちょっと驚いた。彼は半年以内の中途入社でも、もちろん新入社員でもないはず、と思っていたが……もしくは、前回以前のセミナーに何らかの理由で参加できなかったのだろうか、と推測する。
 直後、昼休み終了のチャイムが鳴った。鳴り終わる前に、ファイルを抱えたみづほが会議室に入ってくる。学生時代と同じく、時間にはきっちりしているようだ。ホワイトボードを背に、教師然として立つ姿が、よく似合っている。
 「皆さん、お集まりいただきましてありがとうございます。システム管理課の須田と申します。本日はよろしくお願いいたします」
 ざわついていた室内が、すっと静かになる。みづほのよく通る声には不思議と、皆の耳を傾けさせる効果があるようだった。
 「お配りした資料は6枚です。足りていますでしょうか?
 ……では、セミナーを始めます。1枚目をご覧ください」
 と言われて見た資料の1枚目には、セミナーの大見出しとともに、小見出しがいくつか並んでいる。現代のネット社会の状況、メリットとデメリット、SNSにおける功罪、その中での社会人として適切な姿勢、など。
 「インターネットが一般に活用されるようになってまだ30年ほどですが、今や私たちの生活には欠かせないほどに根付いています。そこには様々なメリットがあり、反面デメリットもあります。皆さんも利用する中でお感じになる時があると思いますが──」
 早すぎず遅すぎず、程良いスピードで語られるみづほの声によるセミナーは、確かにわかりやすい。昔から思っていたが、彼女は資料の作成や説明が上手だ。大学でサークルの会計を務めていた時に作っていた、部員に配る会計報告書が綺麗で見やすかったことを思い出す。
 あの頃、こんなふうに考えながらみづほの話に耳を傾けたことは、たぶんなかった。ミーティングの時はいつも、近くの席の仲間とだべっていたから、幹部の話はたいてい流し聞きの状態だったから。
 この会社に就職してから、戸惑いの連続だった。
 理由はもちろん、みづほとの再会にある。彼女と同じ会社になるなどとは予想しなかったし、再会した時の彼女のけろりとした態度も想定外だった。そして自分の感情の動きも。
 卒業してからもみづほを思い出すのは、彼女との夜を忘れきれないからだと思っていた。実際、体の相性があれほど良い相手にはその後も出会えなくて、幾度となくみづほを思い出してはその時付き合っていた相手とうまくいかなくなる、そんな繰り返しだったのだ。
 または、罪悪感から生まれる未練なのだと。みづほが納得の上で抱かれたと思っていた頃でも、彼女の気持ちを利用したことには変わりないから、後ろめたさはいくらか感じていたのである。
 ……事あるごとにみづほが気になるのは、男としての欲望から来る感情だと、なけなしの良心が引き起こす後悔なのだと、ずっとそう思ってきた。けれど……
 「私からの話は以上です。何か質問がありましたらどうぞ」
 はっと気づくと、すでにセミナー開始から40分以上が経っていた。資料に書かれていた項目の解説と例示は全て終わったようで、質問タイムに入っている。
 数人の社員の手が上がった。いかにも初心者が聞きそうな当たり障りのない質問と、回答が3人ほどと交わされる。
 「他に質問はありませんか?」
 みづほのその声に、すっと手を挙げる人物が一人。その前には全く挙手していなかったにもかかわらず。
 気づいたみづほが、眉を寄せたように見えた。一瞬のことで定かではないが、その後の平坦な口調と固まった表情は、あきらかに先ほどまでの彼女の、親しみやすい雰囲気とは違っている。
 「……はい、どうぞ」
 促された相手は、わざわざ椅子から立ち上がる。セミナー開始前に尚隆が気に留めた、別の課の営業部員──名前は、確か本庄(ほんじょう)といったか。
 「もし、ネットで知り合った人を異性として好きになったらどうすべきなんでしょうか?」
 今度ははっきりと、みづほの眉間にしわが刻まれる。あからさまな不快を示した講師の姿に、周囲の空気がざわりと揺れた。質問はさらに続く。
 「オンラインだけでなく、オフラインでも会いたくなってしまったら? どうでしょう」
 すう、と深呼吸する仕草を見せてから「それは、個人の判断によるのではないでしょうか」とみづほは答えた。
 「未成年ならおすすめしません、このご時世ですから。成人の皆さんでも、相手がどういう人なのか、会っても大丈夫かは、よくよく考えて」
 「あなたはどう思いますか、須田さん」
 講師を名指しした社員──本庄のふるまいに、他の社員がはっきりとざわつく。その分、みづほと本庄の間に下りた沈黙が際だつ。見つめ合う、というよりはにらみ合っているかのように見える二人の視線が、場にふさわしくない不自然さを醸し出していた。
 「……私なら、会わないと思います」
 「それは何故ですか。嫌な経験でも?」
 「プライベートな質問はお控えください、本庄さん。
 他に、ご質問はありませんか? では本日はこれで終了とさせていただきます」
 講師の宣言に、参加していた社員は皆ほっと息をつき、仕事に戻る支度を始めた。講師役のみづほは、ノートパソコンを操作してホワイトボードに映し出していた画面を消し、機器類を片づけにかかっている。
 尚隆も、資料の束や筆記用具をまとめて席を立ち、顔を上げた。と、片づけを終え帰りかけていたらしいみづほと、彼女を足止めしている人物の姿がちょうど視界に入る。
 「……だから、そういうことはもう」
 「いいじゃないか食事ぐらい。何でダメなんだよ」
 いかにも迷惑そうな様子のみづほと、それを気に留めずくだけた口調で腕をつかまんばかりに接近している本庄。二人が目に入った瞬間、尚隆の足は反射的に動いていた。私物を机に置いたまま。
 「すみません、聞きそびれてた質問があるんですけど、聞いていいでしょうか」
 「、あ、かまいませんよ。ではそういうことなので、お話はここまでにしてください」
 「…………」
 あからさまに不満げに表情をゆがめ、それでも話を続けるのは今は難しいと思ったのか、本庄は離れていった。去り際に、何か言う代わりに聞こえよがしな舌打ちを残して。
 「ごめんなさい、何でしょうか」
 「ええと、この項目のここ──」
 考えていなかったので若干焦りつつ、尚隆は質問の演技を続ける。振り返りながら去っていく本庄が、こちらの声が聞こえない距離に歩いていくまで。
 「ここは──で、こちらのパターンになるので──なんです。わかりましたか?」
 「はい。……悪い、もしかして迷惑だったかな」
 「……ううん、助かった。ありがとう」
 演技をやめた後はお互い小声で、本音を言い合う。もっともすでに、会議室には誰もいなかったのだが。
 「じゃあ、仕事あるから。ほんとにありがとう」
 尚隆の返答を待たず、資料とノートパソコンを抱え、早足でみづほは出て行く。その背中を、尚隆は自分でもよくわからない、複雑な気持ちで見送った。

 その日、尚隆の全ての仕事が終わったのは夜8時過ぎだった。転職してからの残業最長記録更新である。セミナーに出ていた時間にたまっていた作業はさほど手間取らなかったのだが、終業時間直前に顧客からの急ぎの見積もりが入ってきてしまい、結果こんな時間までかかってしまった。
 タイムカードを専用レコーダーに差し込んで打刻し、1階まで降りると、当然ながら正面玄関は閉まっている。通用口に回り、守衛の男性に挨拶をして扉を開けようとした時、後ろから小走りに駆けてくる足音に気づいた。
 「……あ」
 「──、ああ。お疲れさま」
 みづほだった。同じく守衛に挨拶をし、尚隆の脇をすっと抜けて出入口のドアを開ける。閉まる前にと、慌てて後を追った。
 外へ出ると、昼間のじわりとした暑さは去ったようで、風が涼しい。できれば一年中、こんな感じの気候であればいいのになと、人一倍暑さが苦手な尚隆は思う。
 「なに?」
 と歩きながら振り返ったみづほに言われ、自分が、単純に同じ方向へ行くと言うには近づきすぎていたことに気づく。
 「え、ああごめん」
 体半分ぐらいの距離を余分に取ってから、尋ねる。
 「毎日こんな遅いのか」 
 「最近はそうでもない、けど。今日はシステムチェックの当番だった──」
 と、続けかけた言葉を突然途切れさせ、何かに気づいたようにみづほは横を、正確にはやや斜め後ろに視線をやった。
 「?」
 尚隆が首を傾げるのとほぼ同時に、いきなり、みづほが身を寄せてきた。何事かと仰天していると、なにやらささやき声がする。悪いけど、と聞こえた。耳をすました。
 「……このまま、駅まで一緒に行ってくれる?」
 「──かまわないけど、なんで」
 「後で話すから」
 みづほはそう言ったが、やはり気になる。彼女が見ていた方向に、不自然でない程度に顔を振り向けると、街路樹の陰にさっと隠れる人影があった。かろうじて届く街灯の光で、うっすらと見えた顔には覚えがある。あれは。
 ──本庄さん?
 訝しく思った。8階の営業エリアは、席こそ課ごとに分かれているが、全体は壁のないひとつの区画だから、別の課でも人がいればわかる。尚隆が仕事を終えた時には、たしかに誰もいなかった。
 ということは、退社してからずっと、あそこにいたのだろうか……みづほを待って?
 じめっとした何かを感じて、少し不快な気持ちになる。
 だがあえてその場では口に出さず、触れんばかりの距離に近づいたみづほとともに、駅への道を歩きだした。
 5分も歩くと、商店や飲食店の建ち並んだ通りに出る。そこに入ってようやく、尚隆はみづほに尋ねた。
 「さっき見てたの、もしかして本庄さん?」
 「……そう」
 「なんかあったのか?」
 セミナーの時の態度といい、さっきの様子といい、気にせざるを得ない。みづほの受け答えからしても、何かしらの迷惑行為が、他にもあったのではないか。
 みづほは言いづらそうにしていたが、後で話すと言った以上は黙っていられないと判断したのだろう、やがて話し始めた。
 「……ちょっと、つきまとわれてて、最近」
 「最近って」
 「半年ぐらい、かな」
 「半年?」
 それは「ちょっと」と言えるような期間なのだろうか。少なくとも尚隆にはそう思えなかった。
 「もしかして今日みたいに誘ってくるとか?」
 「……最初にちゃんと断ったんだけど、しつこくて。私が担当になってからセミナーにも毎回出てきて、あんなふうに答えにくい質問をしたりするし。なんか、私が困ってるのを見るのが楽しいんじゃないかって、そんな気もするくらい」
 目当ての相手を困らせて楽しむ、そういう性癖の奴も確かにいるだろう。もう少し目的がずれるとストーカーになりかねないタイプではなかろうか。
 「上に、言った方がいいんじゃないか」
 「大ごとにはしたくないの。……それに、うちは社内恋愛いい顔されないし、お偉いさんに男性至上主義みたいな人もいるから、下手に伝わると私が誘ってるって言われかねない」
 「……なんだそれ」
 21世紀になって久しいというのに、今時まだそんな考えの輩がいるのか。というか、そんな考えが社内でまかり通るのか。
 後ろを振り返り、人の波の中に目をこらす。見る限り、その中に本庄の姿はなかった。
 「どっかの店で、時間つぶしてくか?」
 提案に、みづほは首を横に振った。
 「ううん、もう遅いし、明日も早いから」
 「なら送ってくよ」
 「──え」
 「もしかしたら、家まで付いてこられるかもしれないだろ。その方が危ないし気になる」
 みづほは戸惑ったようにこちらを見上げ、再度首を振る。
 「いいよ、そんなこと」
 「よくない」
 自分で思ったよりも強い調子が、口から飛び出した。みづほが心配なのはもちろんだった。……だが、自分の中に本当に、やましい気持ちはないだろうかと自問する。
 全く無い、とは言いきれないかもしれない。しかし今は、みづほが本庄に危ない目に遭わされないことの方が重要だ。
 押し問答をしているうちに、会社の最寄り駅に着いた。みづほに聞くと、彼女の家は同じ方向で、尚隆が降りる駅よりも4つ先だという。
 今日だけでも送ってく、と譲らない様子に観念したのか、迷う態度を消しきらないまでもみづほは「じゃあ、今日だけなら」と答えた。ほっとする。
 念のため、もう一度周囲を見回した。思う人物の姿は見当たらない。立ち止まったみづほを促し、ホームへと続く連絡橋の階段を上った。

 翌日、尚隆は少し寝坊し、いつもより1本遅い電車での通勤になった。出社すると、いや正確には会社にたどり着く前から、自分を見てはこそこそと話す人がちらほらいることに気づいた。会社のあるビルに入るとそれは顕著になり、エレベーターを待っている時からそういう連中に囲まれて、自分だけが浮き上がっている感覚にとらわれる。
 訳のわからない居心地の悪さとともに8階で下り、自分の席に向かう。と、営業エリアに入ろうとしたところで森宮が駆け寄ってきた。からかいとも失笑ともつかない、妙な笑みを浮かべて「おいおいおい」と言う。正直不気味である。
 「…………おはようございます、何かあったんですか」
 「何かあったのはおまえだろ。タメ口にしろってのに」
 「それは、じゃなくて、俺がなにか」
 「なにかじゃねーよ。昨日、例の彼女と一緒に帰ったって?」
 「例の彼女、って」
 「主任さんだよ、決まってんだろ。どういうことだよ」


 「何なんですか朝から。どいてください」
 システム課の扉の前から去ろうとしない本庄に、みづほは脇をすり抜けようとしながら言うが、相手は押し戻して譲らなかった。
 「話を聞かないうちは駄目だよ、いったいどういうつもりなのか聞かせてくれないと」
 「どういうって」
 「なんで僕とは付き合えなくて、あいつならいいのさ。理由言ってくんないかな」
 「──だから、言ったじゃないですか。広野くんは大学の同期で、昨日はたまたま退社が同じ時間になったって。それで駅まで一緒に行っただけって」
 「嘘つくなよ、家まで一緒に行っただろ」
 「────どうして知ってるんです」
 「家に入れたの? 朝まであいつと仲良くやってたのか」
 「そんなことしてません!」
 「じゃあなんで家までついてこさせたんだよ、理由言ってみろよ」
 「それは…………」
 あなたがつきまとうから、と本人に言ってしまっていいものか。昨夜みづほを家までつけてきたことは間違いないが、それをあえて指摘しては逆上するのではないか。相手の言葉尻の変化にみづほは、危うい空気を感じ取っていた。
 言いよどむみづほを前に、本庄はもはや苛立つ様子を隠していない。なおも答えないみづほの手首をやおらつかみ、低い声で言った。
 「ふざけるなよ」
 その力と目の色に、みづほの背筋に冷たい汗がつたった。不穏すぎる空気に、周りの誰も声をかけられずにいる。と、離れた場所でざわつく様子があった。その気配がだんだん近づいてきて、周囲にまで届く。
 その源が、走り寄ってきてみづほと本庄の間に割って入った。
 「やめてください、迷惑じゃないですか」
 「広野くん」
 「引っ込んでろ、今話してるのはこっちだ」
 押しのけようとする本庄の手を押しとどめ、尚隆は言う。
 「昨夜のことでしょう、あれは俺が言って送っていったんです。つきまとう人がいるからって」
 最後の部分で尚隆が指さすと、本庄はにらみつけた。だが事実には違いない。みづほに手を上げようとしたのも周りが見ている。
 「ここは社内恋愛まずいんでしょ、それに彼女はとっくに断ってるって聞きましたよ。なのにしつこくするの、本庄さんにとっても良いこととは思えませんけど。上に伝わったら面倒なんじゃないですか」
 立て板に水、といった勢いで尚隆がまくしたてると、本庄は返す言葉に詰まったようだった。上に伝わったら、の部分が効いたのだろうか。
 頃合いだと思い、みづほは、尚隆がかばうようにしていた位置からすっと踏みだし、息を吸い込んで言った。
 「本庄さん、申し訳ないですけど、私はあなたと付き合う気はないんです。もうこれきりにしてください」
 きっぱりとした言葉に、周囲にいる誰かが「おお」と聞こえる声でつぶやいた。本庄がそちらを向いた途端に静まったので、誰だかはわからないが。
 こちらに向き直り、みづほを、そして尚隆を睨みつける。非常に何か言いたげではあったが、周囲の雰囲気と増えてくる人数に、争うのは得策ではないと判断したのか実際には何も言わなかった。しつこいほどに睨んできた後、ぼそぼそとなにごとか、悪態にも聞こえるようなことをつぶやきつつ、いまいましげな視線を最後に投げて去っていった。
 充満していた緊張の空気が、ふうっとほどける。
 ざわめきも、先ほどよりは開放感と明るさをともなっていて、何人かはみづほに近づいてきた。
 「大丈夫だった?」
 「何なんだろうな、あいつ」
 「よくはっきり言ったね」
 それぞれに適当な声をかけては「じゃ」と離れていく。決して広くはない廊下に残ったのは、みづほと尚隆だけになった。
 どちらからともなく顔を見合わせる。視線がまともにぶつかって、どきりとした。
 「──ごめんなさい」
 気づくと、謝っていた。
 「なんで?」
 「私が、余計なこと頼んだから」
 迷惑をかけるつもりはなかった。しかし、昨夜あの時に遭遇したのが尚隆ではなかったら、駅までついて来てとは頼まなかっただろう。当然、家まで送られることにもならなかったはずだ。
 尚隆は首を横に振った。
 「余計なことなんて思ってない、あの時は必要だっただろ。それに送ってったのは俺が言い出したことだし」
 「でも、それだって私が言ったから、広野くんにまで迷惑」
 「だから、迷惑なんて思ってないから」
 たまりかねたような調子で尚隆が言う。その、予想を超えた強い口調に、みづほは目を見張った。
 こちらの反応に、尚隆は一転、気まずそうに目をそらす。自分でも今の言葉、というか言い方は予想外だったのだろうか。なんだか、耳が赤くなってきている気までする。
 「広野くん?」
 「……とにかく、俺は迷惑とか思ってないから。もしあいつがまたなんかしてきたら、すぐ知らせて」
 そう繰り返し、付け加えて、踵を返した。かなりの早足でエレベーターホールへと去っていく。
 その背中が消えるまで、つい、見送ってしまった。はっと気づいた時には始業のチャイムが鳴る直前だった。まずい。今日の朝礼で訓辞を述べるのはみづほの役目なのに。
 慌てて扉を開けてシステム課に入ると、中にいた全員の目が一斉に集まった。それで当然ではあるし──見に出てくる人がいなかったことがむしろ不思議だ──居心地悪さは半端なかったが、あえて何でもない顔をして、少なくともみづほ自身は精一杯そのつもりで、自分の席に着く。
 「遅くなってすみません。おはようございます」
 毅然としたみづほの態度に、誰もが呆気にとられた顔をした。挨拶を返すことも忘れるほどに。
 「昨夜、ある本を読んだんですが──」
 みづほは気にならなかったふりを貫き、訓辞を述べるための前振り話を始めた。

 昼休み。これまた当然ではあるが、食事に一緒に行かないかと同僚や後輩から誘いを受けた。今朝のことについて詳しく聞き出そうという魂胆に違いない。
 しかし説明する気にはなれなかった。みづほ自身が辟易しているのだ。今日のシステムチェックが終わっていないからと半分は本当の理由を盾に、誘いを断る。
 同僚の一人が担当だった電話番を代わり、部屋に一人きりになってから、おそらく今朝出社してから初めて、大きく深呼吸できた。ずっと、息を詰めて仕事している心地だった。周りの無言の視線をやり過ごすために。
 ……まったく、これまでなるべく控えめに振る舞ってきたのに、今朝の一件でそのささやかな願いにはかなりヒビが入った気がする。仕事以外ではあまり目立たないようにと、社内の男性と関わることも極力避けてきたのに。
 学生時代と髪型を変えたりコンタクトにしたのだって、単に就職を機会とした、心機一転のつもりだった。それがどうしたことか、入社したとたんに、同期や先輩社員から声をかけられることが立て続けにあった。大学時代までとのあまりの違いに、異性の目なんていいかげんなものだなと思いつつも、まったく浮き足立たなかったとは言わない。
 だから、声をかけてきた中でも比較的良い感じだった人とは、付き合ってみることもした。それが新たな面倒ごとの始まりだとは想像もせずに。
 ──尚隆との一件があってから、少なくとも大学を卒業するまでは、他の誰かと付き合うことなど考えもしなかった。毎日ではないにせよ、尚隆の姿を見たり声を聞いたりするとどうしても、あの夜のことを思い出してしまって落ち着かなかった。だからなるべく彼とは遭遇しないように、間違っても二人きりにはならないように注意することで精一杯で、他に目をやる余裕などはなかったのだ。そもそも声をかけられることが皆無に近かったから、当時はさほど悩む必要もなかった。
 だが就職してからは、見た目を変えたのが大きな理由なのかは正直よくわからないのだが、学生時代に比してずいぶんと、声をかけてくる男性が増えた。
 いわゆる「モテる」状態になると意外と面倒くさいのだなと考えつつも、当初は、心の底から嫌だったわけではない。そのあたりは自分も平均的女性と同じ程度には自尊心や虚栄心があったようで、断る行為には一定の面倒さを感じたものの、ある程度の嬉しさや誇らしさも感じていた。男性たちの中で、とりわけ真面目そうで誠実そうな人とは、告白されてしばらくしてから個人的な付き合いに発展させた。いつまでも大学時代の恋にとらわれていてはいけない、前に進んでいかなければ、そう思って。
 その時の相手とはそこそこうまくいっていた、と思う。
 最後のステップへ踏み出せなかったことを除けば。
 相手を、好きでなかったわけではない。こんな人と結婚したら穏やかに暮らせるだろうな、なんてことを考えもした。
 けれどどうしても、いくら迫られても、相手に抱かれる気にはなれなかった。
 自分が、男性と付き合っても一線を越えられない──「できない女」だなんて、思いもしなかった。
 みづほの状態をそんなふうに表現したのは、当時付き合っていた、件の相手だった。何ヶ月経っても「それ」に関しては遠ざけようとする、迫っても拒み続けたみづほに対して、言ってみれば逆ギレしたのだろう。侮蔑混じりの視線と声でそう評したのだ。そして去っていった。
 思ってもみなかったショックの強さで、しばらくは仕事に行くのも憂鬱だった。相手に会社で会ったらどんな顔をしていいのかわからなくて。勤務フロアが違ったから実際はめったに遭遇することはなかったけれど、エレベーターや仕事上で顔を合わせるとやはり気まずかった。
 それ以来、社内の男性とは一定の距離を置くことにした。どれだけ誘われても個人的な付き合いには踏み込まずにいようと。
 そう心に決めた頃、大学でわりと仲の良かった友人から、合コンの誘いを受けた。正直あまり気は進まなかったが、外の人で付き合える人が見つかれば変わるかもしれないと思って参加してみた。
 初めての合コンは思ったより楽しく過ごせて、その後も何度か、時には幹事役の友人に頼んで参加した。気の合いそうな男性と毎回出会えるわけではなかったが、合コンから遠ざかるまでに合計3人と、数ヶ月から半年ほどの交際をした。
 ……しかし、結果的には誰とも、親密な関係にはなり得なかった。実際に付き合ってみるとどの相手に対しても、一緒にいて楽しいと心からは思えなかったり、学生時代に経験したようなときめきを感じるには至らないままだった。
 それでもある程度付き合いが続くと迫られる時は当然あって、そのたび努力はしたものの、どう勇気を出そうとしても体がついていかなかった。業を煮やした相手が強引なやり方に訴えて、結局は触れられるのすら拒むようになったこともあった。
 そんな女にいつまでも付き合える男性がいるはずもなく、皆、愛想を尽かして自ら去っていった。申し訳ないとは思ったが、未練や後悔は不思議なほどに感じなかった。
 結局のところ自分は、とうに終わった恋の記憶に捕らわれ続けているのだ。そう思ったのは、最後に付き合った相手と別れた時だった。過去のことが、言ってみればトラウマになって、自分を縛っている。
 もう自分はまともな恋などできない、誰かと付き合おうとするべきではないのかもしれない。そんなふうにも考えた。
 ──そこに来た、尚隆との再会。

 まさか職場が一緒になるなどとは思っていなかったから、知った時はかなり動揺した。トラウマの原因とまた、毎日ではないにしてもどこかで顔を合わせなければならない日々が来るなんて……いったいどんな顔をしていればいいのか。
 考えて考えて出した結論は、いたって普通にしていることだった。昔のことは昔のこと、気にしていないし半分忘れているようなもの、そんなふうに表面上は振る舞うこと。
 そう決めると意外と気が楽になった。いざ本人を前にすると全く緊張しないわけではなかったけれど、顔を合わせるのはあくまで仕事上でなのだから、と割り切ればどうにかやり過ごせたのだった。
 動揺するのはあくまで、過去のことがあるから。あの夜のことが恥ずかしくていたたまれなくて、それで落ち着かない気持ちになるだけだ。そう思っていたし、今も思っている。
 ……だが先日、退社時にばったり会ってしまった時には、予想外に困った。仕事の仮面をかぶっていられない時のことまで想定していなかったから戸惑いを覚えた。その上に本庄のつきまといにまで遭遇して、内心すっかり動転した。他に頼れる人がいなかったとはいえ、尚隆に付き添いを頼んでしまった。不安があったからとはいえ、自宅まで送らせた。
 それを誰かに見られていたのは仕方ないにせよ、そのことがこんなに噂になるなんて──自分がそんなふうに、噂の対象として認識されるだなんて、考えてもいなかった。仕事は真面目にやるけれど、プライベートで目立つことはしない。その信条で入社以来、特に最初に付き合った人と別れて以降はやってきたつもりなのに。
 仕事中の今も、何かにつけて、ちらちらとこちらを伺う視線を感じる。とっくに昼は過ぎて、もう午後も遅い時間だというのに。これから数日はこんな視線に耐えなければならないのだろうか。
 主任チェックお願いします、と書類を回してきた男性社員など、目が合った一瞬に、やけに意味ありげな目つきをして口の端で笑った。……そういえば彼も、一時はけっこう頻繁に声をかけてきた一人だった。同期であるだけに扱いに困って、最終的には、おなじく同期の友人に頼んで断る場に同席してもらったほどだ。
 そういえば主任になった頃、何かにつけてずいぶんと嫌味を言われた。彼が主任を目指していたのは察してたからある程度妬まれるのは仕方ないと思っていたが、単なる妬みだけではなかったのかもしれない。昨夜のことを見たのも噂を広めたのも、もしかしたら彼なのかもしれない。
 チェックの書類を持つ手に、知らず力が入った。いけないいけない、これは上にも回す重要な書類だ。ペーパーレス化が進んでいるのは社員への通達事項ぐらいで、伝票や決裁の書類はいまだ紙ベースである。
 そういうところも将来的に改革していければいいけど、と考えながら少しついてしまった書類のしわを伸ばす。それから、社内システムの定期チェックをしようと立ち上がった。
 途端にざっと、示し合わせたように視線が集まるのを感じる。やりにくい、とブースに入ってからため息をついた。
 ……そもそも私は、今どういう気持ちでいるのだろう、と自問する。本庄や同期の件はあれど、問題の発端はそこだ。少なくともみづほにとっては。
 尚隆とは必要以上に接触しない、関わらないと決めていたはずだ。それなのに成り行き上とはいえど、自分の厄介事に巻き込んでしまった。結果的にではあるけれど、2回も尚隆に助けられる事態になった。
 その上に、自分とともに噂の的にしてしまった。みづほはもちろんだが、尚隆だって、そんな対象になることは望んでいなかったはず。みづほ自身はまだ、自分の失敗が原因であるのだから仕方ないと言えるが、尚隆は違う。本来、大学の同期生、サークルのかつての仲間であるだけで、みづほとそれ以上の関係はないのだ。
 なのに、急な頼みに応じてくれたり、わざわざ様子を見に来て割って入ってくれたりしたのは、彼のもともとの親切さもあるのだろうが、おそらくは過去を忘れていないからに違いなかった。あの夜のことを尚隆なりに気にしていて(再会した時のぎこちなさを考えれば、そう思える)、みづほに対する申し訳なさや後ろめたさがあるから──それゆえの行動に過ぎない、きっと。
 だからこれ以上は、必要以上に関わるべきではないのだ、やはり。どれだけ彼のことが気になろうと、いや気になるからこそ、近づくべきではない──たとえ、送ると言ってくれた優しさを、争いに割って入ってくれた勇気を、すごく嬉しく感じたのだとしても。


 「……では、この件に関してはそのように」
 「お願いいたします。ありがとうございました」
 取引先の担当者と頭を下げ合い、次の約束を交わしてから事務所の建物を出る。入る前には降っていた雨が止んで、今は秋らしい青空が広がっていた。
 今の会社に転職して、半年が経つ。当初は先輩社員と共に顧客先を回っていたが、3ヶ月目からは一人で担当するようになった。ここ2ヶ月ほどは空いた時間に飛び込みの営業も行うようにしており、運良く話を聞いてもらえた何件かの中には、契約の運びとなった所もある。
 ついさっき出てきた事務所もそのひとつで、大手メーカーにも商品を卸す機械部品の工場だ。制服を一新するということで、デザインと製作をまとめて請け負ったのである。
 既存の顧客も含めて売り上げは、時勢を考えれば好調で、
課の中での成績も徐々に上がっている。先月はついに、同僚とトップを争うほどになった。この調子ならボーナスも期待できるかもしれない、などと妬み混じりに言われたりもするが、入社して最初のボーナスでさすがにそれはないだろう。まあ、夏は普通に出た様子だし、冬も出るのであれば、この不景気下では御の字であろうと思う。
 さて、今日の外回りの予定は先ほどの事務所で終わった。4時までに戻れと言われているが、まだ30分ほどの余裕がある。このあたりは住宅街で、店はコンビニぐらいしかない。駅前のカフェででも時間をつぶしていこうか、とぼんやり考えながら駅の方向へ歩いていると、反対側から歩いてくる人物に目が止まった。
 「あ」
 驚きが思わず口に出る。
 本庄だった。
 なぜここにいるのだろう、という疑問が湧く。それは当然で、尚隆の営業2課と本庄の営業1課は、基本的に担当エリアが違う。そしてこちらの方向には、先ほど尚隆が訪問した事務所しか会社はないはずだ。1課に報告は行っていないのだろうか。
 向こうもこちらに気づいているようで、機嫌が良くなさそうである。声をかけるのは躊躇を覚えたが、仕事上ややこしい話になってもいけない。呼び止めると、案の定、不愉快そうに振り返られた。
 「なんだよ」
 「あの、この先の工場でしたら、うちの課がもう行ってますよ」
 本庄はふんと鼻を鳴らす。
 「わかってるよ、おまえの担当だろ。ちょっと時間つぶしにうろついてるだけだ」
 「……そうですか」
 返す言葉が他になく、つぶやくように尚隆は言った。
 そういえば先月と先々月、1課の成績は2課より低く、月初のミーティングで課長にずいぶん絞られたと聞いた。相当ノルマが厳しくなったのだろう、声に疲れがにじんでいる。
 気まずい雰囲気を作ってしまった。それじゃ、と一言置いて去ろうとすると、今度は本庄が「おい」と呼び止める。
 「おまえ、あの女とまだ付き合ってんのか」
 「あの?」
 「システムの主任だよ、とぼけやがって」
 「別にとぼけては」
 真実である。自分とみづほは現状、付き合っているわけではない。それどころか──
 「物好きだな。苦労すんぞ」
 尚隆の返答を聞いていなかったかのように、本庄は言葉を続けた。以前の、みづほに対する柔和な物言いの片鱗は全くなく、ただこちらへの、そしてみづほへの蔑みに満ちた声音である
 「……何がですか」
 「知ってんだろ、あの女の噂。できないっての」
 「────」
 「いい女だから試してみたいと思ったけど、ああ堅物じゃ、そもそも付き合いにくいよな? ま、いつまでも面倒な女に付き合うほど俺も暇じゃないから、あとは好きにやれよ。噂がほんとなら苦労するだろうけどな。もったいないよなあ」
 声に含まれる棘で喚起された苛立ちに、考えるより先に口から言葉が出た。
 「そういうこと、あまり外では話さない方がいいと思いますけど」
 尚隆の抑えた声に、意表を突かれたような顔で本庄は黙り込む。しばし後、けっ、と言いたげに口をゆがめた。
 「おまえもカタい奴だな、つまんねえ。ま、お似合いってとこじゃないのか。じゃあな」
 ふい、とそれきり顔をそむけ、本庄は去っていった。駅の方向に引き返す形で。
 一緒に歩いていく気にはなれなかったので、尚隆はしばらくその場にとどまっていた。少なくとも普通に歩いて追いつかない程度には離れよう、そう思って。
 ──本庄に言いかけた通り、みづほとは現状、付き合ってはいない。それどころかあの一件以来、彼女の方から連絡どころか、声をかけてきたこともない。
 会社が入っているビルのロビーや、エレベーターで遭遇した時でもそうだ。以前は普通に挨拶ぐらいはしていたのに、あれ以来、遠目ではもちろん位置が近い時でも、すっと手を挙げるか軽くお辞儀をするかのみで、口は閉ざしている。まるで、こちらと話すことを徹底的に避けるかのように……いや実際、徹底的に避けられているのかもしれなかった。
 何か、しただろうか? 考える限り、尚隆に覚えはない。少なくとも彼女と再会してからのこの半年においては。
 あえて言うならば、昔の一件かもしれないが──やはり、みづほにとっては、あのことはトラウマになっているのだろうか。いまだに口にされる、彼女が「できない女」だという噂。どうしたって引っかかってしまう。
 それが事実であるのならば、あれが原因となっているのならば、自分は彼女に近づくべきではないのかもしれない。尚隆が中途入社すると知った時、みづほはどう思っただろう。厄介の種、トラウマの原因が身近に来るなんて、と拒絶反応を感じたのではないか。
 それを押し隠して接していたものの、どこかの時点から耐えられなくなって──本庄とのいざこざを知られたあたりから、みづほの中では落ち着かない思いがあったのではないだろうか。
 あくまでも想像だが、想像だけでは済まないような気がする。尚隆はあらためて後ろめたさを感じた。
 ……だが、それと同時に、別の思いも頭をもたげる。
 みづほに近づきたい、という感情。
 思慕なのか──あるいは、欲望なのか。
 どちらか一方か、どちらの比率が多いのか、自分でも正直わからない。確かなのは、みづほとの距離を縮めたい、触れ合いたい、抱きしめたいという思いが、日に日に強まっているという事実だった。