セミナー会場である、8階の大会議室に入ると、開始5分前の時点ですでに多くの社員が集まっていた。半年に1回の開催だそうだから、今年の新入社員は参加しているだろう。中途入社も意外と多いのだろうか。そんなふうに思うくらい、席が埋まっている。
 眺め回した室内の顔ぶれの中に、別の課の顔見知りを見つけ、尚隆はちょっと驚いた。彼は半年以内の中途入社でも、もちろん新入社員でもないはず、と思っていたが……もしくは、前回以前のセミナーに何らかの理由で参加できなかったのだろうか、と推測する。
 直後、昼休み終了のチャイムが鳴った。鳴り終わる前に、ファイルを抱えたみづほが会議室に入ってくる。学生時代と同じく、時間にはきっちりしているようだ。ホワイトボードを背に、教師然として立つ姿が、よく似合っている。
 「皆さん、お集まりいただきましてありがとうございます。システム管理課の須田と申します。本日はよろしくお願いいたします」
 ざわついていた室内が、すっと静かになる。みづほのよく通る声には不思議と、皆の耳を傾けさせる効果があるようだった。
 「お配りした資料は6枚です。足りていますでしょうか?
 ……では、セミナーを始めます。1枚目をご覧ください」
 と言われて見た資料の1枚目には、セミナーの大見出しとともに、小見出しがいくつか並んでいる。現代のネット社会の状況、メリットとデメリット、SNSにおける功罪、その中での社会人として適切な姿勢、など。
 「インターネットが一般に活用されるようになってまだ30年ほどですが、今や私たちの生活には欠かせないほどに根付いています。そこには様々なメリットがあり、反面デメリットもあります。皆さんも利用する中でお感じになる時があると思いますが──」
 早すぎず遅すぎず、程良いスピードで語られるみづほの声によるセミナーは、確かにわかりやすい。昔から思っていたが、彼女は資料の作成や説明が上手だ。大学でサークルの会計を務めていた時に作っていた、部員に配る会計報告書が綺麗で見やすかったことを思い出す。
 あの頃、こんなふうに考えながらみづほの話に耳を傾けたことは、たぶんなかった。ミーティングの時はいつも、近くの席の仲間とだべっていたから、幹部の話はたいてい流し聞きの状態だったから。
 この会社に就職してから、戸惑いの連続だった。
 理由はもちろん、みづほとの再会にある。彼女と同じ会社になるなどとは予想しなかったし、再会した時の彼女のけろりとした態度も想定外だった。そして自分の感情の動きも。
 卒業してからもみづほを思い出すのは、彼女との夜を忘れきれないからだと思っていた。実際、体の相性があれほど良い相手にはその後も出会えなくて、幾度となくみづほを思い出してはその時付き合っていた相手とうまくいかなくなる、そんな繰り返しだったのだ。
 または、罪悪感から生まれる未練なのだと。みづほが納得の上で抱かれたと思っていた頃でも、彼女の気持ちを利用したことには変わりないから、後ろめたさはいくらか感じていたのである。
 ……事あるごとにみづほが気になるのは、男としての欲望から来る感情だと、なけなしの良心が引き起こす後悔なのだと、ずっとそう思ってきた。けれど……
 「私からの話は以上です。何か質問がありましたらどうぞ」
 はっと気づくと、すでにセミナー開始から40分以上が経っていた。資料に書かれていた項目の解説と例示は全て終わったようで、質問タイムに入っている。
 数人の社員の手が上がった。いかにも初心者が聞きそうな当たり障りのない質問と、回答が3人ほどと交わされる。
 「他に質問はありませんか?」
 みづほのその声に、すっと手を挙げる人物が一人。その前には全く挙手していなかったにもかかわらず。
 気づいたみづほが、眉を寄せたように見えた。一瞬のことで定かではないが、その後の平坦な口調と固まった表情は、あきらかに先ほどまでの彼女の、親しみやすい雰囲気とは違っている。
 「……はい、どうぞ」
 促された相手は、わざわざ椅子から立ち上がる。セミナー開始前に尚隆が気に留めた、別の課の営業部員──名前は、確か本庄(ほんじょう)といったか。
 「もし、ネットで知り合った人を異性として好きになったらどうすべきなんでしょうか?」
 今度ははっきりと、みづほの眉間にしわが刻まれる。あからさまな不快を示した講師の姿に、周囲の空気がざわりと揺れた。質問はさらに続く。
 「オンラインだけでなく、オフラインでも会いたくなってしまったら? どうでしょう」
 すう、と深呼吸する仕草を見せてから「それは、個人の判断によるのではないでしょうか」とみづほは答えた。
 「未成年ならおすすめしません、このご時世ですから。成人の皆さんでも、相手がどういう人なのか、会っても大丈夫かは、よくよく考えて」
 「あなたはどう思いますか、須田さん」
 講師を名指しした社員──本庄のふるまいに、他の社員がはっきりとざわつく。その分、みづほと本庄の間に下りた沈黙が際だつ。見つめ合う、というよりはにらみ合っているかのように見える二人の視線が、場にふさわしくない不自然さを醸し出していた。
 「……私なら、会わないと思います」
 「それは何故ですか。嫌な経験でも?」
 「プライベートな質問はお控えください、本庄さん。
 他に、ご質問はありませんか? では本日はこれで終了とさせていただきます」
 講師の宣言に、参加していた社員は皆ほっと息をつき、仕事に戻る支度を始めた。講師役のみづほは、ノートパソコンを操作してホワイトボードに映し出していた画面を消し、機器類を片づけにかかっている。
 尚隆も、資料の束や筆記用具をまとめて席を立ち、顔を上げた。と、片づけを終え帰りかけていたらしいみづほと、彼女を足止めしている人物の姿がちょうど視界に入る。
 「……だから、そういうことはもう」
 「いいじゃないか食事ぐらい。何でダメなんだよ」
 いかにも迷惑そうな様子のみづほと、それを気に留めずくだけた口調で腕をつかまんばかりに接近している本庄。二人が目に入った瞬間、尚隆の足は反射的に動いていた。私物を机に置いたまま。
 「すみません、聞きそびれてた質問があるんですけど、聞いていいでしょうか」
 「、あ、かまいませんよ。ではそういうことなので、お話はここまでにしてください」
 「…………」
 あからさまに不満げに表情をゆがめ、それでも話を続けるのは今は難しいと思ったのか、本庄は離れていった。去り際に、何か言う代わりに聞こえよがしな舌打ちを残して。
 「ごめんなさい、何でしょうか」
 「ええと、この項目のここ──」
 考えていなかったので若干焦りつつ、尚隆は質問の演技を続ける。振り返りながら去っていく本庄が、こちらの声が聞こえない距離に歩いていくまで。
 「ここは──で、こちらのパターンになるので──なんです。わかりましたか?」
 「はい。……悪い、もしかして迷惑だったかな」
 「……ううん、助かった。ありがとう」
 演技をやめた後はお互い小声で、本音を言い合う。もっともすでに、会議室には誰もいなかったのだが。
 「じゃあ、仕事あるから。ほんとにありがとう」
 尚隆の返答を待たず、資料とノートパソコンを抱え、早足でみづほは出て行く。その背中を、尚隆は自分でもよくわからない、複雑な気持ちで見送った。