「セミナーですか?」
 「急で悪いんだが、出席しておいてくれ」
 朝、出社した途端に営業一課の課長に呼ばれて、告げられた指示は、翌日の午後に行われる社内セミナーへの出席だった。
 「詳細はメールで送ってあるから。いちおう、社員全員に義務化されているからな」
 「……わかりました」
 だったらもっと前にわかっていた事なんじゃないのか、早く連絡してくれればいいものを、と内心で少し毒づきつつ、席に着く。
 届いていたメールを読むと、セミナーは昼休み明けで所要時間は1時間ほどで予定されている。今週は毎日、午前も午後も先輩に付いての得意先回りの予定なのだが、明日は途中で切り上げさせてもらうしかない。
 まだ来ていない件の先輩に、ひとまずLINEで連絡を入れてから、もう一度先ほどのメールに目を通した。
 タイトルは「《重要》ネットリテラシーセミナーへの参加ご案内」とある。社員は最低1回受講しておくべきものと決められているので必ずご参加を、との但し書きがあった。今の世の中、SNSの発達で気軽にネットでの意見発信ができるようになった反面、小さくない様々な問題も起こっている。一社会人としてのマナーを含めたリテラシーをきちんと見直し、正しい知識に即した振る舞いが必要だ──との、趣旨はもっともである。
 問題は主催、というよりは講師役だった。
 「主催:システム課/担当講師:須田みづほ(システム課主任)」
 セミナーの趣旨と内容上、システム課が主催になるのは当然だ。そして主任のみづほが講師役として講義するのも。彼女は学生時代から真面目だし、会計役として皆の集金をまとめるのも収支報告を作るのも上手かったから、良い講義をするだろう。だが。
 「おっ、来たんだなセミナーのお誘い」
 背後から前触れなく頭を突き出したのは、先ほどLINEを送った先輩、同じ部署の森宮(もりみや)だった。比喩でなく心臓が跳ね上がった心地になり、尚隆が二の句が継げずにいるうちに、森宮は勝手にメールを読み進める。
 「ふんふん。講師は新しい主任さんか、いいなー」
 「い、いいって何がですか」
 やっと鼓動と息が整い、尚隆が尋ねると、「1コしか違わないんだからタメ口でいいっての」と言ってから、森宮は説明する。
 「去年まではさ、他の支社に異動したおっさんの主任が担当講師で。それが、しつっこいぐらいに同じ話繰り返す癖がある奴で、毎回とんでもなく時間がかかってたんだよ。だから超不評でさ。
 その点、新しい主任さんのセミナーは的確でわかりやすいって評判だし、何より美人。会っただろ」
 「え、は、まあ」
 立て板に水、といった調子の喋りからいきなり水を向けられて、慌てて防御、ではなく返答をする。
 「ちょうど俺が受けた後から彼女に変わったんだよなあ。運がなかったよなーちくしょう」
 言いながら森宮はやけに悔しがっている。もしかしてみづほに気でもあるのか、と尚隆が思ったのとほぼ同時に、森宮がこう言った。
 「あ。けどな、彼女に手え出すのはやめといた方がいいぞ」
 「はい?」
 「あれだけの美人だから、男ができない方がおかしいだろ? けどできないんだよ。正確に言えば、できても長続きしないんだってさ」
 突然潜められた声に、何か不穏なものを感じ取って、尚隆はまた黙ることを余儀なくされた。森宮はその先を続ける。
 「聞いた話じゃ彼女、できないんだってさ」
 「……できないって」
 「決まってんじゃないか、アレだよ。しようとしても体が拒否るんだと。そんなんばっかりだから男が耐えらんなくなってアウト、その繰り返しだって。
 そりゃなあ、いくら美人でも、アッチを満たしてもらえないんじゃ萎えるよな。だから彼女も懲りたのかね、近づく男がいないわけじゃないけど、もう誰とも付き合わないって決めてるんだとよ」
 「──なんでそんなこと、知ってるんすか」
 「同期の奴で、ちょこっとだけ彼女と付き合ったのがいんだよ。そいつからまあ、いろいろとな」
 森宮がにやりと、下卑ているとも見えなくもない笑いを見せて言った直後。
 「そこの二人、いつまで無駄口叩いてんだ。早く外行ってこい」
 課長の檄が飛び、尚隆は森宮とふたり、そそくさと営業のフロアから出る。エレベーター待ちの間も森宮は、みづほの噂についてまだ話をしていたが、半ば以上聞き流していた。尚隆には思うところがあったのだ。
 みづほが、付き合った男と「できない」と言われる、拒否してしまうという原因。それはまさか、自分との出来事ではないのか。あの時のことが、彼女の中で何らかのトラウマになっている、とか?
 あの時彼女は、承知して来たものだと、納得の上で抱かれたものだと思っていた。だが実はそうではなくて、場の雰囲気で断れなかったから仕方なかったのか。抱かれることが嫌な気持ちが、少しはあった──?