「須田さん、ちょっといいかな」
 「はい。何でしょうか」
 パーテーションの向こうから顔を出したのは、システム課のボスである課長だった。2・3の確認事項の後、来週開催のセミナーについて尋ねられる。
 「配布する資料の原稿はできてます。もう一度確認なさいますか?」
 「そうだな、念のためよろしく」
 「わかりました、後でメール送付します」
 課長がうなずいて去り、再び一人になったみづほは、いったん自分の席へ戻った。ウインドウをメールソフトに切り替え、課長のアドレスに資料のデータを添付して送信する。ついでに届いていた数通のメールを読み、急ぎの件とそうでもない件に振り分ける。ひと通り終えて、ふうと息をついて、ディスプレイにうっすら映る自分の顔をぼんやりと見た。
 そうしてまた、思考が数日前に戻っていく。あれからの何日かずっと、事あるごとにそうであるように。

 あの日、尚隆がシステム課を出ていく音を背中で聞いて、ジャスト10秒ののち。みづほは椅子の背にもたれかかり、天井を仰いで思い切り息を吐いた。
 覚悟はしていたにもかかわらず、めちゃくちゃ緊張してしまった。
 彼には気づかれなかっただろうか──なんとか、予定していた通りの態度で接したつもりだけど、うまくいっていたかどうかは正直自信がない。
 課内に誰もいなくてよかった、と心底思った。注文ソフト不調の個別対応やお手洗い休憩、タバコを吸う社員の自主休憩がたまたま重なり、一人になっていたのである。
 やれやれ、と思うと同時に、お手洗いに行っていたとおぼしき、後輩の女子社員が一人戻ってきた。
 「田村(たむら)さんごめん、チェックの続きやりたいから、電話番お願いできる?」
 「わかりました」
 後輩の返答に「よろしくね」と手を挙げて応じ、システム保守用のハードが置いてある奥のパーテーション、尚隆が訪室する前まで居た席に戻った。
 そこでもう一度、今度は漏れ聞こえないように気をつけながら、ふうと息を吐いた。
 ──広野くん、なんかちょっと変わった……?
 大学時代の印象とは違う彼に、少なからず驚かされた。顔には出さなかった、と思うけれど。
 7年前、というか大学を卒業するまでの尚隆は、どちらかといえば「遊んでいる」イメージの強い男子学生であった。サークルの後輩と付き合っているかと思えば、数ヶ月後には見覚えのない女子と仲良く腕を組んでいるのを見かける、そんな感じで。
 対して自分は、自慢にも何にもならないが、男性に全く免疫のない女子。学生時代は付き合ったことすらなかった。ことさらに男子を苦手に思っていたわけではなく、だから同級生やサークルの仲間うちではごく普通に会話もできたけど、それ以外の関わりは一度も持ったことがない。尚隆よりも前に、男子を好きになったことは2回くらいあるものの、地味な自分が告白してうまくいくとは思わなかったからアプローチをしたこともなかった。
 そんな自分があの時、なぜ誘われたのか。
 ……たぶんあの日、尚隆は、付き合っていた子と別れたか喧嘩でもしたかで、くさっていたのだと思う。ずっと見ていたから、なんとなく、彼のそういう雰囲気がみづほはわかるようになっていた。
 だからきっと、手近にいたみづほに、あんな提案をしてきたのだ。特定の相手はいないだろうし普段付き合う女子とは違うタイプで珍しいし、とかいうふうに思われたかもしれない。
 そうだとしても、あの時はかまわなかった。どんなきっかけであれ、彼がみづほに興味を持つなんて機会は今後絶対に無いだろうから──初めての相手が彼になるならこんな形でもいい、と思ったのだ。
 けれど一度きりのつもりでいた。本気で好きだと思われていないのに、体だけの関係が続いたりするのは嫌だった。いくら相性が良かったからといっても。
 だから、尚隆と2人きりになることを、あれ以後はずっと避けたのだ──彼と向き合ったらきっと、自分の動揺が隠せそうにはなかったから。
 彼のタイプの女ではないことは充分にわかっている。それでも、好きだった。サークルに入って知り合った頃からずっと。自己紹介で見せた屈託のない笑顔に、柄にもなく一目惚れしたのだ。そんなことは初めてだった。中学での初恋の時でさえ、一瞬で恋に落ちたりはしなかったのに。
 自分は尚隆のタイプではない。ましてや、自分にとっても本来、彼みたいな「遊んでいる男子」はタイプではなかったはずだった──それなのに、日が経つごとにどんどん、尚隆を好きになっていった。
 落として散らばった書類を誰より早く拾ってまとめてくれる、そういう優しさだったろうか。その行為をまったく恩着せがましく感じさせない、さりげなさだったろうか。それとも。
 理由が何かなんて、今ではよくわからない。はっきりしているのは、誰にも感じたことがないほど強く、尚隆に惹かれたという事実。
 だから、彼の気まぐれな誘いに応えた。
 ……だからこそ、バカなことをしてしまった、という思いに後から強く襲われた。ただのサークル仲間にはもう戻れない──少なくとも、みづほの気持ちにおいてはそうだったから、二度とあのような「間違い」を起こさないためにも、尚隆と2人きりになることは徹底的に避け続けた。大学を卒業するまで。
 それは、上手くいったと思った。卒業後も、尚隆が来そうなサークルOBOGの集まりには極力顔を出さなかったし、そこさえ気をつけていればもう、彼との接点などないに等しい、そう確信していた。

 ──なのに今さら、接点ができるなんて。しかも職場という、簡単には逃れようのない場所で。
 みづほのシステム課と、尚隆の営業部は、工場への注文ソフトを頻繁に使う業務上、関わりが多い。いずれ、彼からのトラブル報告、呼び出しに対応しなくてはいけない時が来るかもしれない。
 そのたびにまた、再会した日みたいな緊張を抱えなければいけないのだろうか。それを思うと憂鬱だった。