次いで、はっとして周りを見回した。みづほの常にない慌てた様子に、全員が目を丸くしている。……しまった。
今さらながら平静を装い直し、深呼吸をひとつ。
「それで、いるって言ったの」
「たぶんいるとは言ったけど……何、やばい奴だったら追い返そうか」
「ううん、いい。会うから」
「ついでに休憩行っておいで。こっちは大丈夫だから」
後方の席から叔母がそう言ってくれ、30分の休憩許可を取り、意を決して事務所の社員通用口へと向かう。
扉を出てすぐの、営業車や配送車の駐車スペース。そこに身の置き所がないような風情で立っているのは、およそ3ヶ月ぶりに見る姿。みづほを見た途端、心底ほっとしたような笑みを浮かべた。
胸の奥に、錐の先でつつかれたような痛みを感じる。
「よかった」と開口一番、尚隆は言った。
「久しぶり」
「……ひさしぶり」
「実家のお母さんに聞いたら、ここだって言われたから」
「どうして、私の実家がわかったの」
「村松さんに教えてもらった」
その一言で、どうやって探し当てたか、経緯の推測はできた。おそらくサークルの元部長あたりのツテで、当時一番親しかった村松佐和子にたどりつき、彼女が状況から判断して教えたのだろう。
「──佐和ちゃんてば……」
正直、うかつだった。大学時代の友人でも、実家を知っているのは中学からの友人だった佐和子ぐらいなのだから、口止めをお願いしておくべきであった。彼女は今、日本を遠く離れているからと思って油断していた。だが今さら気づいてもしかたない。
「話、したいんだけど。今はまずい?」
「30分休憩もらったから、それでよければ」
「わかった。じゃあ、えっと」
「こっち。行きつけの喫茶店あるから」
歩いて2分、みづほが子供の頃から続いている、昔ながらの純喫茶。毎日、社員の誰かが必ず利用していることもあって、マスターとは顔なじみである。
店に入ると、いつものこの時間帯はけっこう客が多いのだが、今日は何の偶然か、空席の方が多かった。
「おや、見ない人を連れてるね。お客さん?」
「はい、前の会社の知り合いで。向こうの席使いますね」
「どうぞ、どこでも」
他の客からは距離のある、店の奥の二人席を選んで座る。
向かい合うと、何か感心したようなまなざしで、尚隆がこちらを見ていた。
「なに?」
「いや、ここ、ほんとに地元なんだなあって思って」
「それはまあ、高校出るまで住んでたから」
注文を取りに来た、これまた顔なじみのウェイトレスに、みづほはミックスジュース、尚隆はブレンドを頼んだ。
「で、話って?」
ウェイトレスが離れていってから尋ねると、尚隆は怪訝な表情になった。少しむっとしたようにも見える。
それがなぜなのかわかっていながら、みづほはわざと「どうかしたの」とさらに尋ねた。
「…………、もしかして、忘れたとか言う?」
「何を?」
「っ、言っただろ、ちゃんとしてから話すって」
もちろん覚えている。あの日のこと──一緒に過ごした夜から朝にかけてのことは、全部。今でも思い出すと、じんわりと頬が熱くなる。それを見られないように若干うつむきながら、みづほは応じた。半分は本心、残り半分は牽制で。
「聞いたけど。でも、本当になるとは思わなかったから」
「──信じてなかったってこと?」
「だって、無理でしょそんなこと」
普通の男性なら、専務から娘を(それもハイスペックな美人を)紹介されて、何度も会っておきながら断ったりはしないだろう。自分の意志と、可能か不可能か、両方の意味で。
だが、尚隆は首を振った。ものすごく真剣な顔つきで。
「無理じゃない。だから来たんだ」
「……断ったの?」
「ああ」
「そう」
みづほは複雑な気持ちだった。彼がそこまですると最初からわかっていたなら、辞めずに済んだだろうか。……いや、もしもを考えても詮無いことだ。それに。
「彼女にも、専務にも会って、ちゃんとお断りした。ちょっと揉めはしたけど許してもらえたし、仕事にも差し障りないから安心して。
それと、専務が『申し訳なかった』って。本人さえよければ復職の手続きも取るって、伝えてくれって」
「復職?」
「会社に戻れるって話だよ。あの仕事、好きだったんだろ」
ますます、複雑な気持ちを感じる。……確かに、システム管理の仕事は好きだったし、未練がまったく消えたかと問われれば、たぶん嘘になる。今この時、心の揺らぎがゼロかと言えば、そうではない──だけど、無理だ。
今度はみづほが首を振った。尚隆が目を見張る。
「好きだったけど、今さら戻れないわよ。新しく主任になった人に悪いし、わざわざ噂の種になりに行くのも気が進まない。それに」
そこで口をつぐんだみづほに、尚隆は首を傾げる。
「それに?」
「──なんでもない。とにかく、私が戻ったりしたら、絶対騒がれちゃうに決まってるから無理よ。これ以上、仕事以外のことでなんやかや言われるのは嫌だから。専務にはそう伝えておいてくれる?」
「……わかった」
残念そうに応じた尚隆だったが、よけいなことは言わなかった。おそらく彼も、専務のお嬢さんとの件ではきっと、いろいろ言われているだろう。似たような状況をみづほにまで経験させるのは忍びない、と考えたかもしれない。
「じゃあそれについては終わりにする。で、最初の話に戻るけど」
最初の話って、と混ぜっ返したくなった気持ちを抑えた。さすがにこれ以上知らぬふりをするのは大人げないだろう。
「さっきも言った通り、見合いの話は断ったから。だから」
「私と付き合いたいって言うの?」
「──、そう」
勢い込んだのに機先を制されて、鼻白んだようだ。尚隆は軽く眉を寄せた。
「言ったでしょ、付き合う気はないって」
「だから、そう言う意味がわかんないんだけど」
だったらまた聞くけど、と半ば怒ったような口調になって続ける。
「なんであの時拒否らなかったんだ? みづほが、──求められたら誰とでも寝る女だとは思えない、俺」
後半を潜めた声で言い、そうだろ、と言いたげな表情で、尚隆はこちらをじっと見る。その視線をまともに受け止めるのがつらくて、みづほは目を伏せた。
彼は、どこまで本気なのだろうか。この期に及んでもみづほは測りかねていた。彼が、体の相性の良さで目が曇っているんじゃないかという思いが消えない。
「……だったら、私を買いかぶっていただけかもね」
「みづほ?」
「私には本当に、そんな気はないの。もう誰も好きにならない、付き合わないって決めてるから」
「なんでだよ」
正直、迷った。言うべきなのかどうか。逡巡の後、みづほは選んだ。
「──面倒だから。付き合おうとしても、ろくなことにならなかったから、もう嫌なの」
ある程度は本心だったから、力を込めて言う。尚隆は押し黙った。視線を上げると、傷ついたような顔をしている。
その表情に、みづほの心にもちくりと、良心の呵責による痛みが生じた。自分の巡り合わせが悪いのは別に、彼のせいではないのに。だがあえて、痛みを無視して続ける。
「そういうことだから。もう話、ないわよね」
「え、ちょっと」
「ここのお勘定、会社のツケにできるから。そう言っとく」
「待てって!」
立ち上がり去りかけたみづほを、大声と椅子の倒れる音が制した。みづほを止めようと声を上げた尚隆が、反射的に立ち上がった勢いで椅子を後ろに倒したのだ。
当然ながら、店内の客の視線が、一斉に集中する。ああ、これは明日、会社総出で来ないとマスターに申し訳ないな。そんなことを考えながら。
「わざわざこんなとこまで来てくれて、ありがとう。でも、私の気持ちは変わらないから──さよなら」
最後の一言は、こちらの予測以上に打撃を与えたらしい。完全に言葉を失った、愕然とした表情で、尚隆はみづほを見た。なんだよそれ、と訴えかけているような目だった。
「元気でね」
まとわりつく思いを振り払い、みづほは付け加えた。これで本当に最後だと告げるように。
今度こそ、みづほはその場を離れた。心配顔のマスターに謝罪と、勘定の件を伝えて、店を出る。一度も、振り返らなかった。
事務所に戻ると、叔母と営業部員二人はおらず、販売部長の従兄のみが席で仕事をしていた。みづほを見て「あれ」という表情になる。
「お帰り。早かったね」
「ごめんなさい手間かけて。春代さんと長田さんたちは?」
「母さんは休憩、後の二人は外回り。用事もう済んだの」
「うん、終わった」
「……みいちゃん」
ためらうような間をおいて、販売部長が呼ばわる。非常に気になることがある、そういった雰囲気で。
聞かれるだろうとは思っていたから、みづほは普通に応じた。
「なに?」
「さっきの人、もしかして、前に言っていた人?」
「──うん、そう」
「何の話だったの」
「前の会社から、復職しないかって声かけられたんだけど、断ってきたわ。戻っても居心地悪いだけだし、こっちの仕事もあるし」
「それは、うちは有難いけど……そうじゃなくて、他にも話はあっただろ」
数秒の沈黙の後、みづほは首を振った。部長が驚きでいっぱいの表情になる。
「まさか、言わなかったの」
「うん」
「…………、なんで」
部長の言葉が途切れる。歯を食いしばっているみづほを見てだろう。いったい今、自分はどんな表情をしているのだろう。
「────それでいいのか、ほんとに」
抑えた声。気遣いと心配と、その他諸々の感情が含まれているのがわかるから、申し訳なく思う。心が揺れなかった、今でも揺れていないわけではない。けれど。
「ん、いいの。ごめんね心配かけて」
みづほのきっぱりとした言葉に、部長は沈黙する。自分が頑固であるのは親戚中の一致した認識で、当然、従兄である部長も子供の頃からそれを知っている。今はこれ以上言ってもだめだ、と思ったのだろう。いや、と短く応じて、仕事に戻った。
みづほも自分の席に戻り、新しく来たメールがないかの確認をする。ほどなく休憩から戻ってきた叔母が、部長と潜めた声で話しているのを横目に、仕事を続けた。間違いなく、さっきのやりとりについて話しているのだろう。後で叔母にも何か言われるかもしれないが、みづほとしては同じ答えを繰り返すのみである。
彼には、言わない。さんざん悩んだ後で、そう決めたのだから。
「……あ」
「──ああ」
妙なところで、半井専務に会ってしまった。
全国的にまだ梅雨真っ最中ながら、季節は夏の色を強めてきた、6月の終わり。外回りが一段落つき、すぐ会社に戻るか否かを同行の森宮と話しながら歩いていた時に、なぜだか専務に遭遇した。ここは会社に近い駅前商店街だから、社内の誰がいようと不思議ではないと言えばそうなのだが、仕事は専用車で、通勤は自分の車で行き来する半井専務にとっては、珍しいことのような気がする。
「ご苦労様です。どうなさったんですか、こんな所で」
正直、話しかけにくい気持ちはあったが、立場上なにも言わずに通り過ぎるわけにもいかない。隣の森宮の、好奇心でいっぱいの視線を感じつつ、尚隆は疑問をそのまま尋ねた。
「車が車検中でね、今日は電車移動なんだよ。
……ちょっと時間、もらってもいいかな」
ためらいがちに言われ、不意をつかれた気持ちだったが、「はい、大丈夫です」と二つ返事で応じた。
「すみません森宮さん、先に戻っててください」
「わかった。課長には伝えとく」
専務の手前、好奇心をあからさまに出すわけにもいかないと思ったのだろう、森宮は短く言って離れていく。十数メートル行ったあたりで、一度振り返ることは忘れなかったが。
「さてと、……すまない、話をするのに適当な店はあるだろうか。最近はカフェだとかが多くてよくわからないんだ」
「では、そこのコーヒー屋でもよろしいですか」
かまわないよ、との専務の言質を取り、コーヒーとワッフルが売り物のチェーン店に入った。ここなら他のカフェよりも喫茶店に近い雰囲気だから、専務もそれほど居心地が悪くはないだろう。
セルフのオーダーカウンターで、尚隆はカフェオレ、専務はアイスブレンドを注文し、それぞれ受け取る。手近な空席に座り、しばし喉を潤した。
先に話を始めたのは半井専務だった。
「澄美子がね、来月、アメリカに行くことになったよ」
「あ、そうなんですか……急ですね」
「もともと声はかけられていたようなんだ、向こうの本社で人が足りないからってね。ただ、本人が渋っていて。今の上役との仕事が楽しかったようだし、君との件もあったから」
「──その節は、お嬢さんにも専務にも、大変失礼をいたしました。あらためてお詫び申し上げます」
尚隆が膝をそろえて頭を下げると、専務は「いや」と応じる。
「それはもういいんだ。こちらもちょっと、強引だったかもしれないと思っているし──結果的に、君だけでない人にも迷惑をかけてしまった」
「とんでもないです。俺、いえ私が、元はといえばちゃんと自分の意志をはっきりさせていなかったからで」
「まあそうかもしれないが、若いからね。いろいろあるだろう」
何やらしみじみとした口調で、専務はそう言った。たぶん50代半ばと思われる今でもなかなかの容貌だから、若い頃はさぞモテたであろうし、実際、きっと「いろいろ」あったのだろう。
そう思うと不思議と、半井専務から感じていた無言の圧力やこちらの少なからぬ反発心が、消えるとまではいかなくてもかなり減っていくような気がする。特に後者に関しては。
半井専務は「自分が指示したことではない」とみづほの退職について述べたが、頭の隅にはずっと疑いが残っていたのだ。だが今では、専務は嘘をついていないだろうと思える。
おそらくは、営業畑出身という総務部長が、専務の顔色を勝手にうかがって、独断で決めたのだ。この件で専務に良い顔をしておけばいずれ営業に戻れるかもしれない、といった思惑もあったかもしれない。
「こちらこそ、若い二人を引き裂くような真似をして、本当に申し訳ない。そう伝えておいてほしいと、澄美子も」
「いいえ」
「彼女は、元気なのかい」
「3月の終わりに会った時は。今は、会ってないので」
「どうして」
「……ちょっと、考えていることがありまして」
それ以上は述べなかった尚隆を、専務は追及してこなかった。口調から、他人が口を出すべきではないと判断してくれたのか。
さよなら、とみづほは最後に言ったが、彼女の言葉通りにしてやる気はこれっぽちもなかった。何を思ってあれほどに尚隆を拒絶するのか、正直に言うならわからない。だがあの頑なさには、何らかの理由があるはずだ──そして理由の中には、尚隆の気持ちが本気だと受け取られていない、という問題がかなりの割合で入っているような気がしていた。
みづほはいまだに、尚隆が、体の相性だけで彼女を求めていると思っているふしがある。始まりがそうだったから完全否定をできないところであるのがつらい話だが、今は断じてそれだけではない。
そうだとわかってもらうためには、思い切った手段に出る必要がある。今は、その準備をしている段階だった。
「足を止めてしまってすまなかったね、そろそろ戻ろうか」
「あ、はい」
専務に促され、使っていたテーブルを片づけて店を出る。
……あと半月もすれば、準備はどうにか完了する。それからはなるべく早く、みづほに会いに行くのだ。今度こそ自分の本気を知らしめるために。
その人の前で、不本意にも尚隆は固まっていた。
7月下旬が目の前に迫った、土曜日の午後。
みづほの実家を訪ねる、2度目。
1度目の時も思ったが、みづほの実家、須田家の建物は、非常に立派な日本家屋である。必然的に敷地も、庭も広い。だが前回も今回も、インターホンを押して出迎えてくれたのは、みづほの母である初老の女性だった。父親はみづほの大学卒業後に亡くなった、と友人の村松嬢経由で聞いている。兄弟もいないらしいので、今この家に住んでいるのは、みづほと母親の二人だけのようだ。こんな広い家に女二人というのは、ずいぶん不用心に思えてしまう。
さておき、尚隆を出迎えたみづほの母親は、ひどく怪訝な表情をしていた。1度目に訪ねた時も、格別に友好的だったわけではないのだが、もう少し普通というか、ここまであからさまに「何この人」と言いたげな顔ではなかったと思う。
まあ、大事な一人娘を、事前の連絡なしに(電話番号までは教わらなかったので致し方ないのだが)2度も訪ねて来る男は、いくぶん胡散臭く思われても仕方ないかもしれない。いちおう最初の時に「前の会社の同僚です」と伝えてはあるし、身分証明として名刺や免許証も見せているのだけれど。
それとも、前回の来訪から間が空いたことを、訝しく思われているのだろうか。できればもっと早く来たかったのは、尚隆自身も思っていたことなのだが、計画の準備の都合上、日にちがかかってしまった。
どうしても、まとまった資金が必要だったのだ。先日出たボーナスでどうにか目標が達成できたから、準備を済ませてここにまた来ることができた。今日こそはみづほに、自分の本心をわかってもらうのだ。
そう意気込んで来たのであったが、みづほの母親の予期せぬ表情に、少しばかり気分が後退してしまった。……何だか相当に迷惑がられているというか、招かれざる客扱いされている雰囲気が漂っている。
しかしこんな所で引くわけにはいかない。みづほ本人だけでなく、家族に良い顔をされないことも覚悟の上だ。
「──あの、みづほさんは」
「あの子なら出かけていますよ」
ようやく尚隆が発した問いに、みづほの母親はにべもない口調で答える。やっぱり、かなり胡散臭く思われているらしい。
「いつ頃、戻られますか」
「もうすぐ帰ってくると思いますけど」
「待たせていただいてもよろしいですか」
その質問に、みづほの母親は答えない。執拗なほどにじろじろと、尚隆の顔を見ている。何か隠し事がないか、嘘をついていないかどうかを見極めるかのように。不躾とも言える視線に、尚隆は耐えた。必要な試練だと思って。
よくよく見れば、みづほの母親には言いたいことがあるようだった。ずっと口元に手を当てて、何かを言うタイミングを測っているように思える。
何分経ったかわからない頃、みづほの母親は、我慢できなくなったふうに口を開いた。
「あなた、いったいどういうつもりで、うちの娘と」
ほとばしった言葉が、そこで途切れた。尚隆の背後に何かを見て。
振り返って、みづほの姿を認め、仰天する。
みづほも、おそらくはこちらと同じぐらいに、驚愕していた。持っていたケーキ屋の箱を地面に落とすぐらいに。
大学時代のように眼鏡をかけ、長かった髪は頬のあたりまで短くされている。おかっぱ、いやショートボブというのだろうか。それも似合っていて可愛らしい、と思ったのは後からのことで、今この時はそんな余裕はなかった。
……ゆったりしたワンピースの下、明らかに普通よりもふくらんだお腹。それを見て、全ての合点がいった気がした。
彼女が何も言わずに消えたのは、会社を辞めた理由のせいだけではなかったのだ。
実家の応接間で、みづほは尚隆と向かい合って座った。
とにかく話をしなさい、と至極もっともなことを言った母が、半ば強引に尚隆を家に上げ、躊躇するみづほを引っ張るようにして、セッティングを済ませてしまった。
──怒ったかな、母さん。怒っただろうな。
なにせ母には、相手とは話がついている、自分一人で産んで育てることにしたから、と言ってあったのだ。その時も、当然ながら母は困惑して憤慨したが、みづほに対してというよりはやはり、子供の父親──尚隆に対して怒っている比率が高かっただろう。彼を悪者にしてしまっていることに罪悪感を少なからず感じはしたが、もう会う気はなかったし、母にも会わせるつもりはなかった。
それなのに彼は、わざわざ実家を調べてやって来て、別れをはっきり告げたにもかかわらず、懲りずにまた訪れた。
たぶん母は、最初はやはり、尚隆に対して怒りを向けていただろう。それが、みづほが実はきちんと話をしていなかったのだと知って、感情の何割かはこちらへ移行したに違いない。当たり前の、しかたないことではあるけれど。
母が置いていったお茶は、まだ湯気を立てている。長い時間が経ったように思うけどさほどでもないらしい。そんなことを考えていると。
「切ったんだな」
「え?」
「髪」
「……あ、長いと、洗うのも乾かすのも時間かかるから」
お腹が大きくなってきて感じたのは、想像以上に、日常のいろんなことが億劫になる上、やりづらくなることだった。今後は入院も必須だし、髪が長いままでは産後の生活が面倒だろうと思ったので、切ってしまった。学生時代から伸ばしていた髪を短くするのは、愛着があっただけに、少し寂しさも感じたけど。
こくりと、尚隆はうなずきで応じた。予測よりも静かな表情に、かえって不安がつのる。彼が本当に聞きたいのは髪のことではないはずだ。
「お母さんが機嫌悪い理由、わかったよ」
「…………」
「大事な娘を妊娠させた奴が、なんにもわかってない顔で訪ねてきたら、そりゃ気分良くないよな」
母を「お母さん」と尚隆が呼ぶと、非常に変な気がする。広野くんのお母さんじゃないから、と言いたくはなったが、さりとて他にどんな呼ばせ方があるかというと、思いつかない。名前で呼ばせるのはそれこそ妙な話だし。だから黙っていた。
尚隆はひとつため息をつき、ようやく核心を突いてきた。
「なんで、言ってくれなかったの」
「…………」
「こないだ会った時には、もうわかってたんだろ」
もちろん、わかっていた。それどころか、実家に戻る前にもう気づいていた。引っ越しの準備が一段落ついた頃、急に吐き気に襲われることが続いて、ふと生理が遅れていることにも気づき、病院に行った。6週目だと言われた。
当然ながら、どうしようと最初は途方に暮れた。可能性はあるかもしれないと思う時はあったが、考えないようにしていたのだ。できれば何事もなく日が過ぎてほしいと思って。それなのに──実家に帰るまでの日にちは、悩みに悩んだ。
そうして、結論を出した。尚隆には言わない。母に協力を頼むことにはなるけれど、実家で産んで育てようと。中絶の選択肢は、頭をよぎりはしたけど、すぐに打ち消していた。産むのは怖いけど、芽生えた命を殺すのはもっと嫌だ。アクシデントに近い形とはいえ、好きな人の間に授かった子供。最初の逡巡の後は産むことしか考えなかった。
実家は、友達の中でも限られた人しか知らないし、会社や不動産屋が明かすはずはないから大丈夫、そう高をくくっていた。だが甘かった。知っている友達には、残らず口止めをお願いしておくべきだったのだ……本気で、二度と彼に会う気がないのなら。
そうしなかったのは、心のどこかで、探し当てて来てほしいという思いがあったということなのか。自分でもよくわからない。
「今、何ヶ月?」
「…………8ヶ月。もうすぐ9ヶ月」
問いに答えると、尚隆はうなずき、何かを指折り数えた。
「あと2ヶ月か、じゃあ何とかなるかな、いろいろ」
その言葉に、神経が引っかかった。……やっぱり、言われるのか。みづほはすかさず機先を制する。
「言わないでよ」
「え?」
「結婚しよう、なんて言わないで」
持って来た袋をいじっていた、尚隆の手が止まる。
「……なんで?」
「そういうこと、言われたくなかったから、話さなかったのに」
「どういう意味だよ」
「子供ができたから責任を取るなんて、そんなふうに言われたくないの。そんな結婚したくない。子供にも悪いし。
……産むって決めたのは私だから、私がひとりで育てる。広野くんに世話をかけるつもりはないから」
「────、ちょっと待てよ」
絶句した後、尚隆は半分叫ぶように、詰め寄ってきた。
「そんなのおかしい、俺が全然関係ないみたいな言い方。責任感じるのは当たり前じゃないか、だって」
俺の子なんだろ、と辛いものを吐き出すように聞かれて。
「……そうよ」
答えないわけにはいかなかった。
「けど、私の子でもあるから。私がちゃんと育てるから。そのために仕事、産んでも続けられる所を選んだし」
「みづほ、そういう意味じゃ」
「とにかく」
言い募ろうとした尚隆の言葉を、無理矢理さえぎった。
「私は、あなたに頼らないって決めたから。だからこのことは忘れて。……もう、ここには来ないで。本当に」
早く、早くあきらめて帰って。
でないと、泣き出してしまいそうだ。みづほは深くうつむいた。
ややあって、大きく息をつく音が聞こえる。間が一拍。
「また来るから」
一言、言い置いて立ち上がった尚隆が、応接間の障子を開けて出ていく様子を、うつむいたままで聞いた。一歩一歩、遠ざかっていく足音が聞こえなくなった頃、涙が落ちた。
……何分か経った頃、母が入ってきた。手に、みづほが産院の定期検診帰りに買ってきたケーキの皿を持って。箱ごと落としてしまったが、見る限り、意外と無事だったらしい。
ことり、と一緒に持って来た紅茶とともに、テーブルに置かれる。
「食べなさい」
正直、今はそんな気分ではなかったが、一口分切り分けて口に入れた。気分が高ぶった時には甘いものとお茶、というのが母の昔からの信条だった。
商店街に子供の頃からある、老舗の洋菓子屋のケーキ。味は変わらず美味しいはずだが、今はあまり感じられない。
「あんた、あの人にちゃんと話してなかったのね」
「……ごめんなさい」
「それで、なんて言ったの」
「──もう来ないで、って」
「あの人は?」
「また来るから、って」
そりゃそうでしょうね、と母がつぶやくように言った。
「あの人、指輪持って来てたわよ」
「…………え?」
「ダイヤみたいに見えたから、婚約指輪じゃないかしら。渡してくれって言われたけど、それは自分で渡した方がいい、って返したわ」
「…………」
指輪?
さっき何か、持って来ていた紙袋をいじっていたのは、それを出そうと思って、だったのだろうか。
──私は、もしかして、勘違いをしていたの?
頭が混乱を極めて、ぐるぐるしてきた。大変な間違いをしでかしたのかもしれなかった、そんな気がして。
その日は朝から、尚隆は落ち着かなかった。正確に言うならば、落ち着けという方が無理な状況に陥っていた。
「おい、ここの計算、掛け算になってないか?」
「え、あっ……申し訳ありません」
「大丈夫か? 最近、残業多いだろう。疲れてるんじゃないのか」
「いえ、大丈夫です。すぐに直します」
見積書の金額間違いを指摘され、課長に返却された書類を破棄し、急いで金額計算の関数を入力し直す。ふう、と尚隆はため息をついた。こんな単純ミスを、今日は3度も繰り返している。さすがにこれ以上何かしでかすのはまずい。
スマートフォンを確認するが、まだ、新しい連絡は来ていない。朝早くの一報からこちら、落ち着こうと思いつつも、やはり難しかった。
──今日は、みづほの出産予定日なのだ。
みづほの実家を、2度目に訪ねていったあの日。
予想だにしなかった彼女の妊娠を知って、正直なところ、天地がひっくり返るとまではいかずとも、近いレベルで仰天した。
……だが、予想しておくべきだったのだと、後から考えて思った。みづほの家で過ごしたあの時、持ち合わせがなくて(当然ながら彼女の家に買い置きがあるはずもなく)、そのままで事に及んでしまったのだから。しかも3度も。
みづほの体の周期を気にすることもなく──彼女がなにも言わなかったのをいいことに。
だから最初の驚愕が引いた後は、ひとつの考えしか頭にはなかった。いや、もともと持って来た考えが、よけいに強固になったと言うべきか。
しかし、結婚の申し込みをしようとした尚隆に先んじて、みづほはその可能性を否定した。迷いなくきっぱりと。妊娠の驚きよりも、そちらの方が衝撃的だった。しかも、結婚は断るのに子供は産むという。自分だけで育てるからと。
あまりにも無茶苦茶だと思った。間違いなく二人の子供であるのに、こちらは関係がないような言い方をする彼女が。尚隆が責任を感じることがおかしいような発言までして。
みづほの固辞する姿勢の、あまりの堅牢ぶりに、せっかく持って行った指輪の箱を出しそびれてしまったほどである。4ヶ月近く、節約に節約を重ねて、ささやかな貯金とボーナスもほぼつぎ込んで買った、ダイヤモンドの指輪。
須田家を辞去する間際、送りに出てきたみづほの母に、それを託そうとした。が、それは自分で渡した方がいいから、と突き返された。当然といえば当然である。
その代わりに、みづほの母は、自身の電話番号とLINEのIDを教えてくれた。何かあれば連絡するし、尚隆からもしてくれて良いからと。
だからこれまでの約2ヶ月、月に数回は連絡を取り合い、みづほの様子や、出産や産後に必要になるであろう金銭について伝えてもらっている。出産費用については保険が利くというが、これまでの検診でもそれなりに出費しているはずだと思い、先々月と先月の給料からはそれぞれ8万円を、みづほの母に渡していた。
多少の期待を込めて、実家まで手渡しに行ったのだが、彼女には会えなかった。先々月は不在、先月は、切迫早産と診断され入院しているとのことで。大したことはなく念のための安静処置ということではあったが、聞いた時には焦った。
そんなこんなで、迎えた出産予定日。その早朝に、陣痛が始まった、とみづほの母からのLINEメッセージが届いたのだった。落ち着け、という方が無理な話である。
今は午後3時過ぎ。メッセージが届いてから、すでに9時間を超えている。こんなにも時間がかかるものなのか。兄は妻子持ちだが、子供が生まれる時の話を詳細に聞いたことはないから、この状態が一般的なのかどうかはわからない。
だが出産にともなう痛みが尋常じゃないのはよく聞く話だし、その痛みと9時間以上もみづほが闘っているのかと思うと、気が気じゃなかった。午後の仕事をどうやってこなしていたのか、後から思い返してもよくは思い出せない、そんな精神状態で過ごしていた。
──そして、午後8時を過ぎた頃。
尚隆は今日も残業をしていた。さほど急ぎの仕事ではなかったのだが、何かしていないと気が紛れない、家に帰ってもじりじりしているだけで落ち着かないと思って。加えて、最近残業が多いのは、仕事自体がそこそこ忙しいからでもあるが、将来のため、貯金する金額を少しでも増やすためでもある。
先日の指輪購入で貯金のかなりの部分を消費したし、みづほにいくらか渡しつつも多少は金を貯める、となるとやはり意識的に残業を増やさないと追っ付かない。見積書数件を、計算や文章を間違えないように気をつけて作成し、ともすれば上の空になりがちな己を叱咤して作業していると。
ピコン、とスマートフォンの通知音が鳴った。この音は、LINEだ。作業を放り出してスマホに飛びつく。
みづほの母からのメッセージが入っていた。時間は今。
『生まれました。女の子です』
簡潔な文章に続いて、1枚の写真。汗だくのみづほの顔、そして隣には生まれたばかりの赤ん坊。
知らず、スマホを握りしめていた。
今ほど、どういう言葉で表現すべきかわからない気持ちを感じたことは、たぶんなかった。感動と、緊張が解けた脱力感と、喜びやら嬉しさやらが一緒くたになった感じ。
……ああそうだ、感謝、だ。
こんなに長い時間、いや長い日にちをかけて育んだ命を、この世に産み出してくれた彼女への、感謝の思い。汗で髪が貼りつき、疲れ切った表情にもかかわらず、写真の顔が尊く思えた。
震える手で握っているスマートフォンが、また新たに着信音を鳴らす。今日3つ目のメッセージだった。
『名前は、考えてくれましたか?』
そうだった。連絡を取る中で、子供がおそらく女の子であることも聞いていて、できれば尚隆も名前を考えていてほしい、と言われたのだった。みづほの母が考えたことにして、候補の一つとして提案するからと。
なので、非常に照れくさい思いをしながら『赤ちゃんの名付け・女の子編』といった本を買って、1週間ほど真面目に考えた。いくつか候補を書き出して再度悩み、みづほの娘にふさわしいと思うものを、ひとつ決めている。
深呼吸をしてから、返信を打ち込み、送信した。
みづほの母からは『わかりました』と短く返ってきた。
数日後、LINEで送られてきたのは、名前が決まったという報告メッセージ。
『みづほが、一番しっくり来ると言って決めました』
──凛。
それは、尚隆が考えて伝えた名前だった。