「……あ」
「──ああ」
妙なところで、半井専務に会ってしまった。
全国的にまだ梅雨真っ最中ながら、季節は夏の色を強めてきた、6月の終わり。外回りが一段落つき、すぐ会社に戻るか否かを同行の森宮と話しながら歩いていた時に、なぜだか専務に遭遇した。ここは会社に近い駅前商店街だから、社内の誰がいようと不思議ではないと言えばそうなのだが、仕事は専用車で、通勤は自分の車で行き来する半井専務にとっては、珍しいことのような気がする。
「ご苦労様です。どうなさったんですか、こんな所で」
正直、話しかけにくい気持ちはあったが、立場上なにも言わずに通り過ぎるわけにもいかない。隣の森宮の、好奇心でいっぱいの視線を感じつつ、尚隆は疑問をそのまま尋ねた。
「車が車検中でね、今日は電車移動なんだよ。
……ちょっと時間、もらってもいいかな」
ためらいがちに言われ、不意をつかれた気持ちだったが、「はい、大丈夫です」と二つ返事で応じた。
「すみません森宮さん、先に戻っててください」
「わかった。課長には伝えとく」
専務の手前、好奇心をあからさまに出すわけにもいかないと思ったのだろう、森宮は短く言って離れていく。十数メートル行ったあたりで、一度振り返ることは忘れなかったが。
「さてと、……すまない、話をするのに適当な店はあるだろうか。最近はカフェだとかが多くてよくわからないんだ」
「では、そこのコーヒー屋でもよろしいですか」
かまわないよ、との専務の言質を取り、コーヒーとワッフルが売り物のチェーン店に入った。ここなら他のカフェよりも喫茶店に近い雰囲気だから、専務もそれほど居心地が悪くはないだろう。
セルフのオーダーカウンターで、尚隆はカフェオレ、専務はアイスブレンドを注文し、それぞれ受け取る。手近な空席に座り、しばし喉を潤した。
先に話を始めたのは半井専務だった。
「澄美子がね、来月、アメリカに行くことになったよ」
「あ、そうなんですか……急ですね」
「もともと声はかけられていたようなんだ、向こうの本社で人が足りないからってね。ただ、本人が渋っていて。今の上役との仕事が楽しかったようだし、君との件もあったから」
「──その節は、お嬢さんにも専務にも、大変失礼をいたしました。あらためてお詫び申し上げます」
尚隆が膝をそろえて頭を下げると、専務は「いや」と応じる。
「それはもういいんだ。こちらもちょっと、強引だったかもしれないと思っているし──結果的に、君だけでない人にも迷惑をかけてしまった」
「とんでもないです。俺、いえ私が、元はといえばちゃんと自分の意志をはっきりさせていなかったからで」
「まあそうかもしれないが、若いからね。いろいろあるだろう」
何やらしみじみとした口調で、専務はそう言った。たぶん50代半ばと思われる今でもなかなかの容貌だから、若い頃はさぞモテたであろうし、実際、きっと「いろいろ」あったのだろう。
そう思うと不思議と、半井専務から感じていた無言の圧力やこちらの少なからぬ反発心が、消えるとまではいかなくてもかなり減っていくような気がする。特に後者に関しては。
半井専務は「自分が指示したことではない」とみづほの退職について述べたが、頭の隅にはずっと疑いが残っていたのだ。だが今では、専務は嘘をついていないだろうと思える。
おそらくは、営業畑出身という総務部長が、専務の顔色を勝手にうかがって、独断で決めたのだ。この件で専務に良い顔をしておけばいずれ営業に戻れるかもしれない、といった思惑もあったかもしれない。
「こちらこそ、若い二人を引き裂くような真似をして、本当に申し訳ない。そう伝えておいてほしいと、澄美子も」
「いいえ」
「彼女は、元気なのかい」
「3月の終わりに会った時は。今は、会ってないので」
「どうして」
「……ちょっと、考えていることがありまして」
それ以上は述べなかった尚隆を、専務は追及してこなかった。口調から、他人が口を出すべきではないと判断してくれたのか。
さよなら、とみづほは最後に言ったが、彼女の言葉通りにしてやる気はこれっぽちもなかった。何を思ってあれほどに尚隆を拒絶するのか、正直に言うならわからない。だがあの頑なさには、何らかの理由があるはずだ──そして理由の中には、尚隆の気持ちが本気だと受け取られていない、という問題がかなりの割合で入っているような気がしていた。