表向きは疑問形、こちらの意思を確認している形だが、実質的には勧告に違いない。もしこの場で騒げば、公式に懲戒退職という事態にもなりかねないだろう。部長の表情を見てみづほはそう察した。
 とても、不本意ではある。熱を入れてきた仕事を、こんな形で辞めねばならないなど──だが、証拠を突きつけられた上に、おそらくは半井専務の意向が働いているのであれば、どうしようもなかった。
 絞り出すように、みづほは懸命に言った。
 「…………承知しました」
 「そうか。聞き分けが良くて助かるよ。ああ、もちろんだが自己都合退職扱いになるから、そのつもりで頼むよ」
 「はい」
 「それで、いつ辞められるかな。できれば2週間ぐらいでどうだろうか」
 「──後任への引き継ぎの都合もありますから、せめて1ヶ月は頂きたいのですが」
 「長いな。3週間程度にならないかね」
 「……わかりました、では3週間で準備します」
 「よろしく頼むよ」
 部長との話を終え、小会議室を出て数歩進んだところで、みづほは立ち止まってしまった。システム課へ早く戻らなければいけないのに、足が動かない。
 ──心が、ひどく打ちひしがれていた。
 上の意思であっさりと会社に切り捨てられたから、だけではない。自分の仕事が、しょせん2・3週間程度で人に任せられること、つまりは誰にでもできることに過ぎないと判断された。それが想像以上に辛かった。
 客観的には、事実なのかもしれない。そうでなければ後任に引き継ぐこともできない。……だが、主任になって1年足らずとはいえ、精一杯の仕事をしてきた。目立つ立場ではないけれど重要な仕事、そう思って頑張ってきたのだ。
 なのに──
 「よう、どうした」
 神経に障る声がして、顔をそちらに向けると、本庄が立っていた。……ああそうか、ここは9階、営業フロアなんだっけ。だったらなおさら、早く立ち去らなくては。
 実行に移そうとした瞬間、本庄が「なんかあったか?」と先ほどと同じ口調で問うてくる。あなたには関係ない、と言い置いて去ろうと思った。だが、できなかった。
 再び見た本庄の顔に、無視できない意味ありげな笑みが、貼り付いていたからだ。その表情で直感した。
 「────まさか、あなたが?」
 ぷっ、と本庄が息を吐き出して笑う。
 「なんのことだよ」
 その表情と目つき、声音から、相手がとぼけていることは明らかだった。本庄ならこちらの家を知っているし、これまでの経緯上、ああいうことをする動機もある。みづほを陥れる絶好の機会だと思ったに違いない。
 その執念に基づいた行動を想像し、また寒気を感じる。
 だが、本庄がやったという確実な証拠がない以上、この場で問いつめることはできなかった──それに、そんなことをしてもこの男は認めないだろうし、仮に認めたところで何も変わりはしないだろう。みづほは諦めるしかなかった。
 「──いいえ、なんでも。私の勘違いです」
 「だろうな」
 くくっ、と喉を鳴らして本庄は再度笑う。しつこく続く声をそれ以上聞かないよう、みづほは足早にその場を去った。
 ……あまり長くこのフロアにいると、今度は尚隆に出くわすかもしれない。それだけは、どうしても避けたかった。
 今、彼に会ったら、何か声を掛けられたら、平静を保てるとは思えない。せめて、みっともない言動は、最後までしたくなかった。誰の前であろうと。


 「辞めた?」
 室内であるにもかかわらず、否、わかっていながら、大声を出さずにはいられなかった。
 「どういうことですか、それは」
 システム課の部屋に入ってすぐの受付スペース、応対した同じ年頃の男性社員を、尚隆は問いつめる。
 対する社員は、困惑したように首を傾げるばかり。
 「どうと言われても……こっちも急な話で、よくわからないんですよ。一身上の都合としか」
 「一身上の都合?」
 おうむ返しについ言ったが、信じられなかった。あれほど一生懸命に仕事に取り組んでいた彼女が、そんな、ありきたりすぎる上に詳細の不明な理由なんかで辞めるはずがない。
 年が改まって、今は1月上旬。
 先月、正確には3週間ほど前、尚隆は突然、課長の海外出張への同行を命じられた。日程は半月と、初めてなのに長丁場なのが気になったし、海外経験がほとんどないため不安でもあったが、良い機会だから行った方がいいと課長や同僚に励まされ、どうにか準備を整えた。
 支社があるタイへの出張は、確かに貴重な体験の連続で勉強になったし、得意とは言えない英語も多少は鍛えられたような気がするから、行ってよかったと思う。そして帰国後は「疲れているだろうから」と、3日間の特別休暇を与えられた。続く週末も換算して、合計5日、仕事を休んだ。
 そして久しぶりに会社に出てきて、システム課を訪ねた顛末がこれである。始業時間はとうに過ぎているのにみづほの姿が見えないので、近くの男性社員に尋ねたところ、主任は先週で退職しましたと言われたのだ。
 「都合ってなんですか。まさか仕事でミスでもしたとか?」
 「いや、それは……」
 さらに詰め寄ると、男性社員(野間口、とネームカードが見えた)はカウンターから2歩、後ずさった。困らせている自覚はあったが、聞かずにはいられない。これ以上何もわからないなど、納得できない。
 みづほが座っているはずの空席の向こう、責任者位置の席で、咳払いが聞こえた。見ると、その席の主、システム課の課長が立ち上がるところだった。
 「広野くん、別室で話そう。君は席に戻っていいよ」
 と言われた野間口氏は、会釈しながらそそくさと自分の席へ戻る。その姿に、先ほどよりは強く、申し訳ない思いが湧いてくる。他の社員の刺すような視線にも今さらながら気づいた。
 こっちへ、と促されて、同じ8階の小会議室へと向かう。おそらく総務やシステム課が会議の際に使う部屋だろう。
 「さてと」
 システム課課長──ネームカードに「前坂」と書いてある相手は先に手近な椅子に腰掛け、立ったままの尚隆に「座りなさい」と自分の隣を示した。
 言われた通り、小会議室仕様のパイプ椅子に腰を下ろす。
 「君は、先週出張から戻ってきたんだったかな」
 「そうです」
 「で、須田くんに何の用だったんだい」
 「個人的な話です。帰国してから何度か電話したんですが、つながらなかったので。それで伺いました」
 ──あの日、彼女の家で一晩過ごした、翌朝。
 月曜日だったから、始発の時間を見計らい、一度自宅に戻ることにした。そろそろ服を着ようかと考えた頃に、みづほも目を覚ました。
 二人そろってシャワーを浴び、身支度を整えた。彼女が用意してくれた朝食を取り、コーヒーを飲み、30分ほどを過ごした。その間、必要最低限の事柄以外はほとんど喋らずにいた。自分は考えていることがあったし、みづほはずっとうつむきがちで、頬を染めたままでいた。シャワーの際、抱き合いながらキスを繰り返したことが、後になって恥ずかしくなったのかもしれない。
 『じゃあ、帰るな』
 『……気をつけて』
 『ちゃんとしてから、話すから。待ってて』
 不安げな表情のみづほにそう言い、約束の証として、もう一度キスした。彼女は答えなかったが、涙目でまっすぐにこちらを見つめる様子から、理解してくれたのだと判断し、疑わなかった。
 ──それが本当は、自分の勘違いだったというのか?
 「広野くん」
 前坂課長が、柔和に見える外見とは裏腹な、重々しい声で呼ばわった。
 「君の話は社内に広まっているよ、半井専務に見初められ、娘さんとの縁談が進行中だとね。……須田くんも、それは承知のはずだ。だから辞めることになったんだろう」
 「──え?」
 「これ以上、彼女の件で騒ぐのは、君のためにならないということだよ。せっかくの輝かしい将来をふいにするのは、望ましいことではないだろう。須田くんもそう思っているはずだ、噂が本当なら」
 課長が遠回しに言おうとしていることがなんなのか、おぼろげながらもわかってきた。自分とみづほの仲が、またもや噂になっていたのだと──おそらくは、みづほの家を訪ねていった日のことが知られたのだ。誰かが偶然見ていたのか、それとも付けていたのか。
 真っ先に本庄の顔が浮かんだ。……だが、証拠はない。
 「ともあれ、須田くんは納得して退職した。急な話で準備期間も短かったが、きちんと引き継ぎもおこなっていったよ。彼女の能力や人柄は買っていたから、こんなことになったのは私も残念だと思うが、仕方ない。
 君も、彼女を気遣うなら気持ちを理解して、自分の仕事を精一杯やりなさい」
 そういうことだ、と前坂課長は話の終わりを告げた。戸締まりは必要ないからと言い残し、先に小会議室を出ていく。
 ひとりになり、相手の足音が消えるのを待ってから、尚隆はテーブルが震えるほどに拳を打ちつけた。事態のあまりの唐突さ、理不尽さに、なにより自分の迂闊さに憤った。
 二人で会ったことを責められるなら、それは自分であるべきだった。だがそうはならなかった。生け贄にされたのはみづほの方──彼女は尚隆の身代わりになったのだ。しかも、「納得」の上で。
 すぐにでも本庄を問いつめたい気持ちだった。だが、繰り返すようだが証拠は何もない。そんな状態で問うたところで奴はとぼけるだろうし、何も認めはしないだろう。それに、たとえ奴が密告を認めたとしても、内容が事実である以上、みづほの退職が取り消されるとも思えない。
 だとすれば、自分がしなければならないことは何か。
 営業2課に急ぎ戻り、課長に外回りと直帰の許可を取り付け、尚隆は外へ飛び出した。とにかくみづほに会って話をしなければいけない。駅までの道も、電車に乗っている間も、たまらなくもどかしかった。
 ……そうしてたどり着いた彼女の家、否、住んでいたマンションにはすでに、彼女の姿はなかった。空っぽの部屋を、不動産会社の社員と入居希望の女性が内見している場に行き会った。
 不動産屋の男性に聞くと、部屋が空いたのは土曜日のことだという。前の入居者はとても優良で、綺麗に部屋を使っていたからクリーニングの必要もなかったと、嬉しそうな口振りで話した。念のために連絡先を訪ねたが、それは個人情報だからと当然ながら教えてもらえなかった。礼を言い、場を足早に立ち去る。
 エントランスを出て数歩進んだところで、尚隆は振り返った。3階の、彼女が住んでいた部屋のあたりを。
 あの部屋で過ごしたのは、まだ1ヶ月も前の話ではない。それなのに──最後に見た彼女の不安げな表情、涙をためた目を思い返した。
 冗談じゃない、あれを最後にしてたまるか。
 尚隆は心底から決意し、今度こそマンションを後にした。

 その電話は、金曜の夜にかかってきた。
 「広野さん、私やっぱり、納得いかなくて……お会いして話をしたいんですが、いいですか」
 「もちろんです」
 いいですかも何も、こちらは最初から、会ってきちんと話をしたいと申し出ていたはずだ。用件はすでに電話で伝えたとはいえ。それを、なんやかやと理由をつけて会う機会を作ってくれなかったのは、澄美子の方である。
 自分が出張の間は致し方なかったにせよ、帰国してからすでに、1ヶ月以上が経っていた──澄美子はその間、何を考えていたのだろう。
 おそらく、いや絶対に、すさまじい勢いで責められるに違いない。当然、覚悟の上だ。
 明日の午後に会う約束をして、通話を終えた。

 尚隆が待ち望んでいた連絡が来たのは、澄美子からの電話が来る、ほんの1時間ほど前だった。
 「いま電話大丈夫か? 連絡、取れたぞ」
 「ほんとか?」
 「おう、海外のしかも奥地だから、時間かかっちまったけどな。やっとメール見られる環境に戻ってきて、こっちが送ったのを読んだって」
 電話の相手は、大学のサークルで同期、かつ自分たちの代で部長を務めていた、竹口(たけぐち)という男である。みづほが姿を消して、行方を調べる中で思い出したのが、彼だった。
 不動産屋はもちろんのこと、会社の総務にも、個人情報は明かせませんと連絡先は教えてもらえなかった。携帯も、いつの間にか着信拒否登録されたようで、呼び出し音すら鳴らせなくなってしまった。
 途方に暮れかけた時、年賀状の存在を思い出した。さほど多くはない枚数のハガキの中に、律儀に毎年送ってきていた竹口のものがあり、彼ならば、もしくは彼のツテで誰かをたどれば、みづほの実家の住所を知ることができるのではないかと思った。
 果たして、竹口自身はみづほの実家も現在の居場所も知らなかったが(手元にある年賀状は元のマンションの住所で来ていた)、彼女と仲の良かった女子部員の何人かには覚えがあると言った。尚隆が事情を包み隠さず話すと、しばしつるし上げのようにからかわれた後、元女子部員の誰かなら知っているかもしれない、連絡を試みてやるよ、と請け負ってくれた。
 竹口は、若干冗談の過ぎるところはあるが、幹部が指名で決まるサークルの中で部長をやっていたぐらいだから、頼りがいは間違いなくある。だから、彼に任せておけばきっと何とかなる、そう思えた。
 頼んでから半月ほど経った頃、竹口の方から経過報告の電話があった。4人に連絡を取ったところ、残念ながら3人からは「知らない」との回答が返ってきた。残る一人がみづほと一番親しかった女子だが、彼女は現在NGO団体に所属、理系卒の経歴を生かして発展途上国の生活向上に尽力する活動を行っているため、日本にはいない。だが中学からの友人だった彼女、村松(むらまつ)佐和子(さわこ)なら知っている可能性は高いから、連絡が付くまでメールを送り続けてみる──と。
 そしてさらに半月以上が過ぎた今日、村松嬢からの連絡が竹口のもとに届いたらしい。内容が急を要しているようだったからと、メールではなく国際電話で。
 『みいちゃんの実家ね、古い年賀状かアドレス帳見ればわかるはずなんだけど、どっちも手元になくて。実家の親に頼んで、年賀状探してもらってるから、もうしばらく待ってて』
 みづほを「みいちゃん」と呼び、一言も残さずに会社を辞め姿を消したみづほのことを、村松嬢は非常に心配していたという。
 『誰が探してるって、広野くん? ふうん、本気で?』
 と、尚隆に対しての、ある種辛辣な物言いもしっかり付け加えられていたと、竹口づてで聞かされた。それだけ親しい間柄であるならば、大学時代の件もとうの昔に、みづほから聞いているのかもしれなかった。
 「てなわけだから、もうちょっとしたらわかると思う。悪いな、時間かかっちまって」
 「いや、そっちのせいじゃないし、仕方ないだろ。こっちこそややこしいこと頼んじまってすまない」
 「住所わかったらどうすんだ、会いに行くのか」
 「当たり前だろ」
 そのために今、探しているのだ。このまま関係がフェードアウトすることなど、到底認められなかった。
 ようやく、みづほへの想いが真剣な、掛け替えのないものであると確信したのだ。そしてみづほも、自分の錯覚でなければ、憎からず想ってくれているはず。曖昧な関係ではなく正式なものにするために、どうあっても彼女にもう一度会わねばならない。
 遠回りをして余計なことを背負い込んでしまったが、それについては明日、きちんと片を付ける。
 みづほが何も言わずにいなくなったのは、少なくとも彼女の方は、何も話すことはないという結論だったに違いない。最初に電話した時、竹口は推測をそう口にした。尚隆も同じように思う。本心でどんなことを思っていたにせよ、みづほは尚隆に何も言わず、静かに去る道を選んだのだ。
 彼女はそれで納得したかもしれない。だが自分は、絶対に納得がいかない。
 「そうか、……須田さん、ああ見えてかなり頑固だからな。口説くの大変かもしれないけど頑張れよ」
 心配そうな口調で竹口は言った。同期の幹部仲間、部長と会計として、彼はみづほと多少の交流があった。だから彼女の性格を、他の奴らよりは的確に分析しているだろう。
 「ん、わかってる。ありがとな」
 そう返して、通話を終えた。
 その後30分ほど、大学時代のこと、再会してからのことをぐるぐると考えていたところに、澄美子からの電話がかかってきたのである。

 待ち合わせた喫茶店で、先に来ていた澄美子は最初から、いつもの落ち着きと聡明さを失っているように見えた。容貌に似合わぬ張りつめた表情で、尚隆が向かいに座ると即座に問いつめてきた。
 「広野さんのお話、よく考えましたけどどうしても理解できませんでした。どういうことなのか、この場でもう一度おっしゃってほしいんですが」
 「どういうも何も、申し訳ないがこれ以上、あなたとのお付き合いはできないということですよ。僕には、好きな人がいますから」
 電話で伝え済みの内容を繰り返すと、澄美子は形の良い眉をきっ、と上げた。
 「それが理解できないんです。そんな相手がいらしたのならなぜ、私とお見合いしたりしたんです」
 「──それは確かに、僕の不徳の致すところであったと反省しています。彼女にはふられたと思っていましたから、傷心を引きずってもおりましたし。そこに専務、お父上からお話を頂いて、澄美子さんに『会ってみたい』と思ってしまったんです。僕も男ですから、美人で魅力的な方には会ってみたいと思うのは自然なことで」
 「そんな一般論はどうでもいいです。問題は、私とお見合いしておきながら、どうして他の女性に目移りするのかということで」
 澄美子は半ば叫ぶようにそう言った。自身の優位を、自身の方が優れていることをかけらも疑っていない表情。
 なるほどな、と尚隆は醒めた頭で思う。澄美子は、自分の都合が良いように事が運んでいる時には上品に聡明に振る舞えるが、そうでなくなると態度を一転させて、子供のように「なぜ」を繰り返すのだ。それもわがままな子供のように、ヒステリックに。
 「ですから、僕はもともと彼女が好きだったんですよ。それについては本当に、澄美子さんには失礼なことをしたと」
 こちらの言葉が終わる前に、澄美子はつり上げた眉を目をさらに鋭くした。もとが美しいだけに、怒った顔は恐ろしげで、般若面のような表情だと思った。
 「失礼すぎますわ。どうして私が、あんな普通の女性なんかに」
 「あんな?」
 聞き咎め、尚隆はおうむ返しに尋ねる。澄美子は一瞬きょとんとしたが、遅れて何を言ったか気づいたようで、はっと口を押さえた。
 「彼女を、みづほを知っているんですか。どうして」
 知る限り澄美子は、みづほに会うどころか、見たこともないはずである。それなのになぜ。
 ふいに、頭にひらめくものがあった。
 「……もしかして、彼女と会うところを見ていたのは」
 本庄ではなく、澄美子だったというのか?

 喉に何かが詰まったような表情で、澄美子は沈黙する。その反応で、澄美子があの日の、あの夜の一幕を見ていたのは間違いないと思われた。
 尚隆は辛抱強く待った。澄美子が自分から話してくれる時を。──そして数分後、澄美子は折れた。
 「……会うのを見ていたのは、確かです。あなたの様子が気になったので、タクシーは途中で降りて、どこに行くつもりなのか後を付けました」
 では、電車に乗ってみづほの家まで行く道中、ずっと付いてきていたのか。まったく気づかなかった自分が愚かしく、また、澄美子のその行動に若干怖さを覚えた。だが、納得はいった。
 「それで、見たことを専務に話したというわけですか」
 「違います!」
 「え?」
 「違うんです、見てはいましたけど、誰にも言ってません。言いたくありませんでした。私にだって、プライドがありますから──今思えば、私がいた道の反対側に、ずっと立ってる男の人がいたような気はしますけど」
 「そう、ですか。……けどなぜ、僕の後を付けたり」
 追及に、澄美子はまた沈黙する。怒りは影を潜め、今は、なにやら張りつめた表情になっていた。
 澄美子が「いたような気がする」と言った人物はまず間違いなく、本庄だろう。数ヶ月前、みづほに関わることを止めるふうな捨て台詞を吐いておきながら、内心は、彼女を陥れる機会をしぶとく狙っていたのだ。あの場に行き合ってさぞかし、喜んだに違いない。
 「………………なかったから」
 「え、何て」
 「離れていってほしく、なかったから」
 今や泣き出しそうにゆがんだ顔の澄美子の、美しい切れ長の目からぽろりと、本当に涙が落ちる。
 「いつもそうなんです。私が、本当に気を許せると思った人は、何も言わずに私から離れてしまう。友達も、男の人も。
 ……だから、久しぶりにそういう人だと思えた、あなたには離れていってほしくなかった。なのに、会社の女の人と噂があったって聞いて……あの時、早く帰りたそうにしていたのは、その人に会うためかもって思ったら、いてもたってもいられなくなって」
 美人がぽろぽろと涙を流し、声を震わせて泣く様子は想像以上に目立つものらしい。気づくと周囲の視線がこちらに集中しており、店員もあからさまに顔を振り向けて見ている。しかも、致し方ないが軒並み、尚隆を責めるような視線だ。居心地悪いなんて言葉では足りないレベルの居たたまれなさだが、立ち上がって去るわけにもいかない。
 「そしたら、本当に女の人と会ってて、どうしようって──
 わかってるんです、私。自分がわがままな女だってこと。どんなにもてはやされても褒められても、自分は欲しいものがなくならない、執着してしまう子供から成長していないんだって」
 だめですね、と澄美子はようやく取り出したハンカチで、涙を拭った。マスカラが少し、ハンカチに付いたように見えた。
 「父や母には、一人っ子だからって甘やかしはしない、って言われながら育てられたんですけど……でも、どこかでやっぱり甘やかされていたんでしょうね。周りが言う『よくできた子』でいるのは楽だったし気分も良かったけど、両親にまでそう言われるのは、窮屈でもありました」
 なまじ容姿が良く、何でも器用にこなす能力を持っていたからこそ、誰もが澄美子を「よくできた子」として扱った。一人娘には甘い両親も、周りの評価の高さ、それが与える心地よさに、娘の本質や悩みには気づかなかったのか──もしくは、気づいていたが知らないふりをしたのかもしれない。本人が言わないのをいいことに。
 「本当にすみません。……私のこと、初めからご迷惑だったんですよね、父に言われたから会っただけで」
 「いや、最終的に決めたのは僕ですから」
 申し訳なさそうに言う澄美子の言葉を、即座に否定した。
 半井専務との話に圧を感じていたのは確かだが、決して強制されたわけではなかった。澄美子に会うことを決めて専務に話をしたのは、他の誰でもない、尚隆自身だ。その点について謝らなければいけないのは、こちらの方である。
 「僕の方こそこんな、澄美子さんを代わりにしたような形にしてしまって、申し訳ありません」
 「いえ、……まあ確かに、それについては文句のひとつも言いたいとは思いますけど」
 でもやめておきます、と澄美子はまだ涙目のまま、笑う。
 「何か言っても私の株が下がるだけで、広野さんの気持ちは変わりませんものね?」
 「え。あ、その」
 「好きな方って、可愛らしい方ですか」
 「可愛い──というか、綺麗ですね彼女は」
 「私よりも?」
 「ええと、澄美子さんとはちょっとタイプが違ってまして。彼女も美人ではあるんですけど……見た目よりも、生きる姿勢が綺麗だなって、ずっと思ってたんです」
 そう、みづほに惹かれたのは、気づいていなかった可愛さに気づいたからだけではない。いつだって背筋を伸ばして、まっすぐに凛とした眼差しで見つめる、そんなふうに彼女が保つ姿勢、生き方を美しいと思ったのだ。
 そうですか、と澄美子がため息をつくように応じた。
 「これから、どうするんですか。その方、会社辞めてしまったんですよね」
 「ええ」
 「私は何も言ってませんし、聞いてませんけど……もしかしたら、父が知って何か圧力をかけたかもしれませんね。だとしたらごめんなさい」
 「それは澄美子さんのせいじゃありません。原因は僕です」
 「……差し出がましいですけど、協力いたしましょうか。父に頼めば連絡先ぐらいは」
 「いや、そんなこと頼める立場じゃありませんから。それにたぶん、じきにわかると思います。昔の知り合いから彼女の友達に、調べるよう頼んでもらってるので」
 それよりも、今やらなければいけないのは。
 「専務、いやお父上、今日はお宅にいらっしゃいますか」
 「ええ、はい」
 「今から訪ねてもいいでしょうか。きちんと、会ってお詫びを申し上げたいんです」


 4月が近づいても今年は気候がしつこく冬から変わらなかったが、ここ数日やっと春めいてきた。風に混じる冷たさが暖かさに取って代わり、道に残っていた雪もすっかり溶けている。昼休みが終わる5分前に、みづほは職場に戻った。
 「ただいま戻りました」
 「あ、みづほちゃん。ちょうどいい所に。受注メール来たみたいなんだけど見られなくて」
 「わかりました社長、すぐチェックします」
 「叔父さんでいいって言ってるのに」
 「そういうわけにはいきません。仕事ですから」
 みづほはきっぱりと言う。相手は勤め先の社長に違いないのだから当然だ。当の社長は「みづほちゃんは真面目だなあ昔から」と、もはや決まり文句になった一言を今日も繰り返している。
 実家がある町中の、カトラリーやその他ステンレス製品を作る工場に併設された、事務所兼販売所。そこがみづほの、現在の職場である。叔父、みづほの父の弟が、妻(叔母)の実家を継ぐ形で今は社長を務めている。跡取り修行を兼ねて販売部長をやっている従兄弟の一人が、みづほの直接の上司だった。といっても2歳しか違わないし、昔から兄妹のように接していた相手である。
 実家に戻ってきてすぐ、叔父と従兄が訪ねてきて、もし仕事が決まっていないならうちで働かないか、と打診された。みづほが前職でシステム管理をしていたことを聞いていたらしい。外注に出している、会社のサイト作りやサーバ管理を任せたいということだった。実家とはいえタダ飯食いの立場では気が引ける、けど仕事はどうしよう、と思っていたところだったので、二つ返事で引き受けた。
 ちなみに、みづほの父親は隣接の市に支社がある大手機械メーカーで工場長の役職に就いていたが、みづほが大学を出た翌年、急な病で亡くなった。今、実家にいるのは母親と、みづほの二人だ。兄弟はいない。
 母親は、介護施設のケアマネージャーである程度の収入は得ているものの、生活するには精一杯の金銭状態であるのをみづほは知っていた。なにしろ実家の建物が、もとは一族の本家だった家屋敷であるため、メンテナンスやら税金やらにやたらとお金がかかる代物なのだ。
 だから、叔父たちが仕事を世話してくれたのは、向こうの都合が大きいとはいえ、本当に有り難かった。
 叔父に代わってメールをダブルクリックすると、ちゃんと表示された。どうやらまた、クリックとダブルクリックを間違えたらしい。叔父は仕事に関しては優秀で有能な人だが、パソコンやネットについては何度勉強しても苦手意識が抜けないという。そして実際、何度教えても初心者並のミスを繰り返してしまう。そういう人もいるってあきらめとくのが賢いよ、と上司の従兄に言われてからは、みづほもそう思うようにしている。
 メールに書かれた得意先名、受注品目と数量を確認して、販売部のフォルダに入っている受注一覧表に赤字で書き込むとともに、メールと一覧表を印刷して社長の叔父に渡した。それから、会社サイト宛に届いている問い合わせがないかをチェックして、更新作業を行う。トップページが冬仕様のままなので、春らしい写真と背景を選び、見栄えの良いように配置してPCとスマートフォンでの動作確認をする。問題はなさそうだ。
 そんなふうにいつもの仕事をこなしていた午後──時刻は3時過ぎ。いくつかの得意先へ納品に出かけていた販売部長が、戻ってくると同時にみづほに声をかけた。
 「みいちゃん、お客さん来てるよ」
 「部長、私は須田ですよ」
 そのやりとりに事務所内の人間全員、総務と経理を担当する義理の叔母と、営業担当の男性二人が吹き出した。ほぼ毎日1回は同じようなやりとりをしている、従兄妹同士なのだった。
 「だからさ、おれも母さんも親父も名字一緒なんだから、わかりにくいし呼びにくいだろって。それよりお客さん」
 「お客さんて、販売所に?」
 みづほは首を傾げた。隣の販売所にはちゃんと、応対する女子社員がいるはずだ。
 「違うよ、みいちゃんいますかって、男の人が来てる」
 「……誰?」
 「広野って言ってたよ」
 キーボードの関係ないキーを叩いた拍子に、なぜだか耳障りなアラート音が響いてしまった。慌てて止めた後も、動揺がおさまらない。

 次いで、はっとして周りを見回した。みづほの常にない慌てた様子に、全員が目を丸くしている。……しまった。
 今さらながら平静を装い直し、深呼吸をひとつ。
 「それで、いるって言ったの」
 「たぶんいるとは言ったけど……何、やばい奴だったら追い返そうか」
 「ううん、いい。会うから」
 「ついでに休憩行っておいで。こっちは大丈夫だから」
 後方の席から叔母がそう言ってくれ、30分の休憩許可を取り、意を決して事務所の社員通用口へと向かう。
 扉を出てすぐの、営業車や配送車の駐車スペース。そこに身の置き所がないような風情で立っているのは、およそ3ヶ月ぶりに見る姿。みづほを見た途端、心底ほっとしたような笑みを浮かべた。
 胸の奥に、錐の先でつつかれたような痛みを感じる。
 「よかった」と開口一番、尚隆は言った。
 「久しぶり」
 「……ひさしぶり」
 「実家のお母さんに聞いたら、ここだって言われたから」
 「どうして、私の実家がわかったの」
 「村松さんに教えてもらった」
 その一言で、どうやって探し当てたか、経緯の推測はできた。おそらくサークルの元部長あたりのツテで、当時一番親しかった村松佐和子にたどりつき、彼女が状況から判断して教えたのだろう。
 「──佐和ちゃんてば……」
 正直、うかつだった。大学時代の友人でも、実家を知っているのは中学からの友人だった佐和子ぐらいなのだから、口止めをお願いしておくべきであった。彼女は今、日本を遠く離れているからと思って油断していた。だが今さら気づいてもしかたない。
 「話、したいんだけど。今はまずい?」
 「30分休憩もらったから、それでよければ」
 「わかった。じゃあ、えっと」
 「こっち。行きつけの喫茶店あるから」
 歩いて2分、みづほが子供の頃から続いている、昔ながらの純喫茶。毎日、社員の誰かが必ず利用していることもあって、マスターとは顔なじみである。
 店に入ると、いつものこの時間帯はけっこう客が多いのだが、今日は何の偶然か、空席の方が多かった。
 「おや、見ない人を連れてるね。お客さん?」
 「はい、前の会社の知り合いで。向こうの席使いますね」
 「どうぞ、どこでも」
 他の客からは距離のある、店の奥の二人席を選んで座る。
 向かい合うと、何か感心したようなまなざしで、尚隆がこちらを見ていた。
 「なに?」
 「いや、ここ、ほんとに地元なんだなあって思って」
 「それはまあ、高校出るまで住んでたから」
 注文を取りに来た、これまた顔なじみのウェイトレスに、みづほはミックスジュース、尚隆はブレンドを頼んだ。
 「で、話って?」
 ウェイトレスが離れていってから尋ねると、尚隆は怪訝な表情になった。少しむっとしたようにも見える。
 それがなぜなのかわかっていながら、みづほはわざと「どうかしたの」とさらに尋ねた。
 「…………、もしかして、忘れたとか言う?」
 「何を?」
 「っ、言っただろ、ちゃんとしてから話すって」
 もちろん覚えている。あの日のこと──一緒に過ごした夜から朝にかけてのことは、全部。今でも思い出すと、じんわりと頬が熱くなる。それを見られないように若干うつむきながら、みづほは応じた。半分は本心、残り半分は牽制で。
 「聞いたけど。でも、本当になるとは思わなかったから」
 「──信じてなかったってこと?」
 「だって、無理でしょそんなこと」
 普通の男性なら、専務から娘を(それもハイスペックな美人を)紹介されて、何度も会っておきながら断ったりはしないだろう。自分の意志と、可能か不可能か、両方の意味で。
 だが、尚隆は首を振った。ものすごく真剣な顔つきで。
 「無理じゃない。だから来たんだ」
 「……断ったの?」
 「ああ」
 「そう」
 みづほは複雑な気持ちだった。彼がそこまですると最初からわかっていたなら、辞めずに済んだだろうか。……いや、もしもを考えても詮無いことだ。それに。
 「彼女にも、専務にも会って、ちゃんとお断りした。ちょっと揉めはしたけど許してもらえたし、仕事にも差し障りないから安心して。
 それと、専務が『申し訳なかった』って。本人さえよければ復職の手続きも取るって、伝えてくれって」
 「復職?」
 「会社に戻れるって話だよ。あの仕事、好きだったんだろ」
 ますます、複雑な気持ちを感じる。……確かに、システム管理の仕事は好きだったし、未練がまったく消えたかと問われれば、たぶん嘘になる。今この時、心の揺らぎがゼロかと言えば、そうではない──だけど、無理だ。
 今度はみづほが首を振った。尚隆が目を見張る。