ゴールデンウィークが明けてしばらく日数が経った、5月中旬。そんな時期に中途で、しかもそれなりに大きなグループ企業の1社に採用が決まったのは、ラッキーだったと言うしかない。尚隆(なおたか)はあらためて思った。
 「今日から、よろしくお願いします」
 決まり文句で挨拶した後の、お決まりの拍手。それでも、自分はここの一員になったのだという思いが新たになって、気が引き締まる。
 株式会社クロウヂングプロダクト。尚隆が今日から働く会社だ。アパレル業界では大手の、オールクロウヂンググループの中の1社で、ボタンやジッパーなどの部品製作・販売が主な業務だ。ここは地方支社とはいえ、ビルの2フロアを借り切って自社オフィスとしているのだから、業績の好調ぶりが伺える。
 尚隆が半年前までいた会社も、業績の面では悪くはなく、給料もそれなりに出ていた。だが残業代は2年前から、形ばかりのノー残業規則を盾に全く出ず、パワハラを始めとする各種ハラスメントも横行していた。いわゆるブラック企業と化した会社を、意を決して見限る社員も少なからずおり、尚隆が尊敬していた上司や先輩もそうだった。度重なるパワハラによる、仕事の理不尽さに疲れ切っていた尚隆も、彼らに付き従う形で退職を決めた。
 しかし新しい会社を立ち上げるという上司たちの志には、迷った挙句に付いてはいかなかった。自分は次男であるものの、趣味が高じて陶芸家の道へと進んだ兄よりは親の期待が大きく、今のご時世だからこそ安定を求められていると知っていた。それゆえに再就職先も、できるならそこそこ名の知れた企業にすべきだと思ったのだ。前職での営業成績は課内でトップクラスだったし、自信もあった。
 とはいえ、失業保険が切れる前に希望先への中途採用が決まったのは、やはり幸運だったと思う。半年の間、実際に面接へと進める企業は稀だったし、これ以上長引くなら家賃と生活費の補助にアルバイトも必要になるかもしれない、と案じていたから。思った通りに両親を安心させることもできたし、親戚や知り合いにもどうにか格好はついただろう。
 この会社が常識的良心的であることを願いつつ、尚隆は教育係だという男性社員の説明、営業部内の配置とか一日のおおまかなタイムテーブル、製品の発注の仕方などを聞いていた。
 「これが注文ソフトな。起動させたらIDとパスワード入力してログイン。そしたら発注画面が出てくるから」
 「えっと並木(なみき)さん、IDとパスワードって?」
 「ああ、後で下のシステム課行ってさ、もらってきて。主任の須田(すだ)さんに言えばわかるはずだから」
 「須田さんですね」
 復唱しながら、一瞬、その名前が記憶に引っかかった。……けれど、違うだろうとすぐに隅へ押しやる。まさかそんな偶然はないだろう、と。
 並木の一通りの説明が終わり、一息ついた尚隆は隣席の同僚にシステム課の場所を訪ね、礼を言って席を立った。
 ビルの2フロアを占めるオフィスのうち、営業部や会議室などは上階にあたる9階で、システム課は総務や経理などと一緒に、下の8階に横並びにあると教えられた。3台のエレベーターがどれもなかなか来そうにないので、向かいの非常階段を使って下へと向かう。そういう時はそっちの方が早いぞ、という補足説明を並木から聞いたのだ。
 1フロアをほぼ全面ぶち抜いている9階と違い、8階は、1本の廊下に沿って小部屋が5・6つ並んでいた。右から3つ目、ちょうど目の前の扉に「システム課」とプレートが貼られている。
 ノックを2回。「はい、どうぞ」と女性の声がした。ドアを開けると、こちらに向かって縦に平行で2列に机が4つずつ並び、少し離れた奥にもうひとつ机がある。そして反対側の奥には壁で区切られたパーテーション。そこから、ネームカードを首から下げた女子社員が一人出てきた。
 セミロングの髪を濃い茶色に染め、ゆるくパーマをかけている。一見して目鼻立ちの整った、なかなかの美人だ。年は尚隆と同じくらいか、少し上に見える。2列のうちの奥、右端の机に座り直した彼女が下げたカードには「須田」と書いてある。
 その顔立ちと名前が、先ほど脳内で引っかかった記憶を、今度は引っぱり出そうとしていた。
 「お待たせしました、何か?」
 「あの、中途採用でその、IDとパスワードを」
 ああ聞いてます、と応じる彼女の声にも、確かに聞き覚えがある。引き出されつつある記憶に照らされる、小さな光。確か──下の名前、は。
 「……須田、みづほ?」
 頭の中で、記憶のピースがかちりと音を立てて、型にはまった気がした。ぱっと見の印象はかなり違う。だが、少し横を向いた時の、視線のまっすぐさと目の輝きは。
 「やっぱり、わかった?」
 キーボードから指を離し、脇に置いていた眼鏡をかけてから、見上げるやわらかい笑みの主は。
 「久しぶりだね、広野くん」
 ……ああ、この笑顔。何年も前の、長らく蓋をしてきた思い出が、記憶の底から吹き上がってくる。