キーボードから指を離し、みづほは大きく息をついた。たまっていた仕事がようやく一段落したのである。
年度替わりから1ヶ月が経っても、社員の異動はまだ落ち着かない。辞める人間や、代わりに入る派遣の人員などが、入れ替わり立ち替わりといった調子で発生するのだ。
そのたびに社員IDやパスワード、個人フォルダの作成などに追われて、なかなか本来のシステム保守に関われずにいた。せっかく主任になったというのに、やっていることは以前と変わらないのはどうしたものか、と思わないでもなかった。
まあ、社員情報の管理も重要な仕事には違いないから、ある意味しかたない。それに今日のその手の作業は終わったのだし、午後からは本来の業務に携われるだろうとみづほは思った。
だがイレギュラーな事態は、いつやって来るかわからないもの。今日も例外ではなかった。
「須田さん、これ。来週から来る中途の人だから、ID作成よろしく」
昼休み明けに営業部の課長がやって来て、一言二言の説明のみで書類をひと揃え置いていったのだ。いつものことなので、またか、と内心では若干うんざりしつつも、表面上は穏やかに「承知しました」と返して受け取った。
さっさと終わらせてしまおう、とクリアファイルに挟まれた書類を手早く繰り、履歴書を見つける。記された名前を見て仰天し、思わず声に出してつぶやいた。
「……広野くん?」
ひろの、なおたか。
名前だけなら、同姓同名の別人の場合もある。しかし。
白黒コピーされた履歴書は顔写真がやや不鮮明だけど、記憶の顔の面影がある。そして今でも覚えている生年月日、さらに大学名と学部。これだけ一致していたら、別人と考えるのはむしろ無理な話だ。
7年前の、彼との特別な記憶がよみがえる。
彼はまだ覚えているだろうか──それとも、たった一晩の相手のことなんか、忘れてしまっただろうか。けれど自分は覚えている。大学を卒業してからでも、一日たりとも忘れた時はないくらいに。
だからこそあれからの7年、顔を合わせることはおろか、会うことすら極力避けてきたのに。
「……なんで、今さら」
周りに聞こえないように、みづほは一人ごちた。
ゴールデンウィークが明けてしばらく日数が経った、5月中旬。そんな時期に中途で、しかもそれなりに大きなグループ企業の1社に採用が決まったのは、ラッキーだったと言うしかない。尚隆はあらためて思った。
「今日から、よろしくお願いします」
決まり文句で挨拶した後の、お決まりの拍手。それでも、自分はここの一員になったのだという思いが新たになって、気が引き締まる。
株式会社クロウヂングプロダクト。尚隆が今日から働く会社だ。アパレル業界では大手の、オールクロウヂンググループの中の1社で、ボタンやジッパーなどの部品製作・販売が主な業務だ。ここは地方支社とはいえ、ビルの2フロアを借り切って自社オフィスとしているのだから、業績の好調ぶりが伺える。
尚隆が半年前までいた会社も、業績の面では悪くはなく、給料もそれなりに出ていた。だが残業代は2年前から、形ばかりのノー残業規則を盾に全く出ず、パワハラを始めとする各種ハラスメントも横行していた。いわゆるブラック企業と化した会社を、意を決して見限る社員も少なからずおり、尚隆が尊敬していた上司や先輩もそうだった。度重なるパワハラによる、仕事の理不尽さに疲れ切っていた尚隆も、彼らに付き従う形で退職を決めた。
しかし新しい会社を立ち上げるという上司たちの志には、迷った挙句に付いてはいかなかった。自分は次男であるものの、趣味が高じて陶芸家の道へと進んだ兄よりは親の期待が大きく、今のご時世だからこそ安定を求められていると知っていた。それゆえに再就職先も、できるならそこそこ名の知れた企業にすべきだと思ったのだ。前職での営業成績は課内でトップクラスだったし、自信もあった。
とはいえ、失業保険が切れる前に希望先への中途採用が決まったのは、やはり幸運だったと思う。半年の間、実際に面接へと進める企業は稀だったし、これ以上長引くなら家賃と生活費の補助にアルバイトも必要になるかもしれない、と案じていたから。思った通りに両親を安心させることもできたし、親戚や知り合いにもどうにか格好はついただろう。
この会社が常識的良心的であることを願いつつ、尚隆は教育係だという男性社員の説明、営業部内の配置とか一日のおおまかなタイムテーブル、製品の発注の仕方などを聞いていた。
「これが注文ソフトな。起動させたらIDとパスワード入力してログイン。そしたら発注画面が出てくるから」
「えっと並木さん、IDとパスワードって?」
「ああ、後で下のシステム課行ってさ、もらってきて。主任の須田さんに言えばわかるはずだから」
「須田さんですね」
復唱しながら、一瞬、その名前が記憶に引っかかった。……けれど、違うだろうとすぐに隅へ押しやる。まさかそんな偶然はないだろう、と。
並木の一通りの説明が終わり、一息ついた尚隆は隣席の同僚にシステム課の場所を訪ね、礼を言って席を立った。
ビルの2フロアを占めるオフィスのうち、営業部や会議室などは上階にあたる9階で、システム課は総務や経理などと一緒に、下の8階に横並びにあると教えられた。3台のエレベーターがどれもなかなか来そうにないので、向かいの非常階段を使って下へと向かう。そういう時はそっちの方が早いぞ、という補足説明を並木から聞いたのだ。
1フロアをほぼ全面ぶち抜いている9階と違い、8階は、1本の廊下に沿って小部屋が5・6つ並んでいた。右から3つ目、ちょうど目の前の扉に「システム課」とプレートが貼られている。
ノックを2回。「はい、どうぞ」と女性の声がした。ドアを開けると、こちらに向かって縦に平行で2列に机が4つずつ並び、少し離れた奥にもうひとつ机がある。そして反対側の奥には壁で区切られたパーテーション。そこから、ネームカードを首から下げた女子社員が一人出てきた。
セミロングの髪を濃い茶色に染め、ゆるくパーマをかけている。一見して目鼻立ちの整った、なかなかの美人だ。年は尚隆と同じくらいか、少し上に見える。2列のうちの奥、右端の机に座り直した彼女が下げたカードには「須田」と書いてある。
その顔立ちと名前が、先ほど脳内で引っかかった記憶を、今度は引っぱり出そうとしていた。
「お待たせしました、何か?」
「あの、中途採用でその、IDとパスワードを」
ああ聞いてます、と応じる彼女の声にも、確かに聞き覚えがある。引き出されつつある記憶に照らされる、小さな光。確か──下の名前、は。
「……須田、みづほ?」
頭の中で、記憶のピースがかちりと音を立てて、型にはまった気がした。ぱっと見の印象はかなり違う。だが、少し横を向いた時の、視線のまっすぐさと目の輝きは。
「やっぱり、わかった?」
キーボードから指を離し、脇に置いていた眼鏡をかけてから、見上げるやわらかい笑みの主は。
「久しぶりだね、広野くん」
……ああ、この笑顔。何年も前の、長らく蓋をしてきた思い出が、記憶の底から吹き上がってくる。
大学で同期だった、須田みづほ。学部は違うが、運動系のサークルで一緒になって知り合った。
面倒見が良く真面目なみづほは、幹部だった3年生の頃にはサークルの会計を任されていて、だから会費を払う時などに挨拶程度で話す機会はあった。逆に言えば、それ以外ではほとんど関わりのない女子でもあった。
なにせその頃の彼女といえば、中身の生真面目さがそのまま表に出たような風貌で、地味の代名詞と言ってよかった。パーマやカラーをまったく施したことがなさそうな長い黒髪を、いつも後ろで一つにまとめて、分厚い眼鏡をかけて。
服装も、周囲の女子が追いかける流行のファッションの真逆を行くタイプで、学校か会社の制服みたいなブラウスとスカートをしょっちゅう身に着けていた。そんなみづほは誰が見ても地味女子で、それゆえ自分にとって積極的に話しかける対象ではなかった、のが正直なところだ。
あの頃の自分は、見た目こそ特別派手にしてはいなかったものの、女子からよく声をかけられるのをいいことに、数ヶ月単位で付き合う女子を変える行いを繰り返していたのである。
高校の頃からそんな調子でいたし、二股をかけたりはしていなかったから、自分では格別「遊んでいる」と思ってはいなかった。しかし第三者から見れば、そう言われても仕方ないレベルではあったかもしれない。みづほみたいなお堅い女子学生には、たぶん、いや間違いなくそう認識されていただろう。
そんなふうに対照的な自分とみづほだったから、本当に、サークル内で必要な会話を交わす以外での付き合いは、全くと言っていいほどなかったのだ。
──大学3年の後期、秋の深まってきたあの日までは。
その日、尚隆は少し苛ついていた。半年ほど付き合っていた相手と前日に別れたところで、しかも浮気を疑われた挙句に相手の方に浮気されたという、どうにも格好のつかない顛末であったため、気分がくさくさしていた。
講義に行く気にはなれず、かと言って、サークルの部屋に顔を出して好奇心の種にされるのも気が進まず、サボって中庭のベンチに座っていた時だった。
「広野くん、どうしたの?」
名指しで掛けられた声に顔を上げると彼女、須田みづほが立っていた。いつもと同じ分厚い眼鏡、ひとまとめの黒髪に制服風ファッションで。
思わず、苦虫を噛みつぶしたような表情になったかもしれない。誰であろうとサークルの人間にはあまり会いたくなかったから。厳密に言えば、みづほなら何か察したとしてもそれを言いふらすとは思わなかったけれど、それでも気は晴れなかった。
「別に」
我ながらぶっきらぼうに発した一言に、みづほは肩を揺らした。あまりの無愛想さに怖じ気付いたのかもしれない。それならそれでもいい、早く向こうへ行ってくれないか。視線を逸らしながら思った希望は、叶えられなかった。
みづほがベンチの空きスペース、つまり隣に座ったのだ。少なからず驚いて、反射的に彼女を見た。
同時に、みづほもこちらを見た。真面目な顔つきで、まっすぐな視線で。
「……何だよ」
「話したいことがあるなら、聞こうか?」
なんでも聞くよ、と言うみづほの声が心なしか硬いことに気づく。じっと見返すと、彼女のまばたきが速くなった、ような気がした。
「別に、何もない」
普段でもほとんど話すことのないみづほに、付き合っていた女と別れた顛末など、話す気にはなれない。だからそう答えた。だが彼女は、口をつぐんで目をそらしたものの、ベンチから離れようとはしなかった。
そこで自分が、さっさと立ち上がって去っていたら、あの時の邂逅はそれで終わりだったであろう。だが尚隆は去らなかった。ふと目をやったみづほの横顔に、見入っていたのだった。
それまで意識したことは正直なかったし、眼鏡の印象が強くて気に留めもしなかったのだが、よくよく見るとみづほは綺麗な目をしている。鼻筋がすっと通っているし、唇はほど良くふっくらとしていて形も良い。今みたいな地味なメイクじゃなく、明るい色合いに変えればもっと可愛らしくなるんじゃないか、なんてことを思った。
そんなふうに彼女を観察していると、細い首筋から耳にかけての肌が、じわじわと赤くなった。表情は変わりないが、頬にも、チークとは違う赤みが差しているように見えた。
直感が働いた。
「──須田って、もしかして」
「えっ?」
と振り向いた瞬間のみづほは、ものすごく驚いた表情をしていた。一拍のち、途中までしか言葉を聞いていなかったことに気づいてか、慌ててまた顔ごと目をそらした。見る間に横顔は首まで真っ赤に染まった。
彼女が予想しただろう「『もしかして』の後に続く言葉」と、自分が「言おうと思った言葉」は、おそらく一致している。そしてその内容は、この反応からするとたぶん間違っていない。
「話、聞いてくれんの?」
「……え、あ。う、うん、話でも愚痴でも聞くよ。他に、私にできることがあるなら何でもするし」
いつもの真面目顔、澄まし顔とはまったく違う、みづほの様子が興味深かった。有り体に言えば面白かった。……だからつい、からかいたくなったのかもしれない。
「何でも?」
まだ赤い顔で、それでも力を込めて頷いたみづほに、自分は言ったのだ。
「じゃ、俺と寝てみる?」と。
冗談、と言うには我ながらふざけすぎていた。
言った直後の、みづほの凍り付いた表情を見て、後悔しなかったわけではない。
けどその時の自分は、発言を引っ込めなかった。その気があるなら5限の後に正門前で、なんて指定まで口にした。みづほが何も答えず、反応を示さないのを機にやっとその場を離れたが──何故あんなことを言ったりしたのだろう、と頭の中では困惑が続いていた。
真面目な彼女が、あんな言葉に従って来るはずがない。さっきの直感通りに尚隆を好きなのだとしても。そう思っていた。
だが、みづほは来たのだ。尚隆が言った通り5限の後、傾きかけた陽に照らされた正門前に。
はいこれね、とIDとパスワードが書かれたメモ用紙を尚隆に渡すと、みづほはにこりと微笑んだ。
「大学卒業してからだから、6……7年ぶりぐらいだね」
「あ、ああ、そんなに経つかな」
「私、サークルの同期会にもほとんど顔出してないから、会ってないと思う」
微笑んで答える彼女に「そっか」と応じた声の調子は、我ながら硬いと感じた。
「……余計なこと聞くようだけど、確か卒業してすぐ就職したでしょ。ここのグループ会社じゃなかったわよね?」
「あ──そう、入ったのは前の会社。まあいろいろあって、半年前に辞めたんだよ。先輩とかと一緒に」
少なからず緊張している自分とは違って、みづほに動揺や困惑の空気は感じられない。愛想の良い微笑みも、部屋に他の社員はいないにもかかわらずプライベートな質問には声を潜める、その手の気遣いも昔と変わりなかった。正確に言うなら、あの出来事が起こる前のみづほと。
「そうなんだ。それでここに入ったって、すごい偶然。よろしくね」
と、みづほが差し出した手を、若干のためらいを覚えながらも「あ、……うん」と反射的に握った。
ほっそりした、柔らかい手。じわじわと呼び覚まされる記憶が鮮やかになる前に、こちらから手を離した。
「PC使っててトラブルがあったら、いつでも言って。じゃあ、急ぎのメールチェックとかあるから、今日はこれで」
穏やかな微笑みのままそう言い、みづほはくるりと背中を向ける。用件は終わったし、そう言われるともう何も言えない気持ちで、去るしかなかった。
「──失礼しました」
呼び出されて怒られた後に職員室を去る生徒のような気分で、システム課の部屋を出る。
来た時と同じく非常階段で、上のフロアに戻る道すがら、尚隆は首をひねり続けていた。
──彼女は、もう何も感じていないのか?
あれ以後の様子を思い返すと、とてもそうは信じられないのだが。
みづほが正門前にやってきた、後。
それからの出来事はこの7年間、あまり思い返さないようにしてきた。そういうふうに努力しないと何かの拍子にすぐ思い出してしまって、考えてしまうからだった。だが努力しても過去を変えることはできないし、自分の言動を忘れることもできなかった。ふとした時に記憶が頭をよぎるたび、心に刺さったままのトゲが食い込む痛みを、罪悪感を新たに感じてきたのだった。
──みづほが応じたとはいえ、そもそも誘いを口にしたのは自分。だから彼女が来た時にすぐにでも、「悪い冗談だった。ごめん」と言って帰すべきだったのだ。
けれどそうはしなかった。無言で、硬い表情で、だがおとなしく付いて来るままのみづほを伴ってホテルに行き──彼女を抱いた。
あのひとときは、今でも鮮明に思い出せる。
みづほが未経験だったのは、予想した通りだからたいして驚かなかった。意外だったのは彼女の体の美しさだ。地味な服装の下に隠されていたのは、凹凸のはっきりしたバランスのいいスタイルと、綺麗でなめらかな肌。長い髪もほどくと手触りが良く、いい匂いがした。思いもしなかったギャップと抱き心地の良さに、気づけば行為に没頭していた。
さらに、初めてにもかかわらずみづほは、恥じらいながらも的確に反応して、自分から求めるように抱きついてくることもあった。高校2年で当時の彼女と最初にした時を含めても、みづほとのあの時ほど夢中にはならなかったと思う。
体の相性が良いというのはこういうことかと、文字通り肌で実感した。
みづほも、同じだと思った。だからその気があるのなら付き合ってもいい、なんてことまで考えていた。
しかし、みづほはその後、一度たりとも自分と、二人きりでは話そうとはしなかった──卒業する日まで。
以来、今日まで、互いの顔を見る機会さえまったくなかったのだ。
「須田さん、ちょっといいかな」
「はい。何でしょうか」
パーテーションの向こうから顔を出したのは、システム課のボスである課長だった。2・3の確認事項の後、来週開催のセミナーについて尋ねられる。
「配布する資料の原稿はできてます。もう一度確認なさいますか?」
「そうだな、念のためよろしく」
「わかりました、後でメール送付します」
課長がうなずいて去り、再び一人になったみづほは、いったん自分の席へ戻った。ウインドウをメールソフトに切り替え、課長のアドレスに資料のデータを添付して送信する。ついでに届いていた数通のメールを読み、急ぎの件とそうでもない件に振り分ける。ひと通り終えて、ふうと息をついて、ディスプレイにうっすら映る自分の顔をぼんやりと見た。
そうしてまた、思考が数日前に戻っていく。あれからの何日かずっと、事あるごとにそうであるように。
あの日、尚隆がシステム課を出ていく音を背中で聞いて、ジャスト10秒ののち。みづほは椅子の背にもたれかかり、天井を仰いで思い切り息を吐いた。
覚悟はしていたにもかかわらず、めちゃくちゃ緊張してしまった。
彼には気づかれなかっただろうか──なんとか、予定していた通りの態度で接したつもりだけど、うまくいっていたかどうかは正直自信がない。
課内に誰もいなくてよかった、と心底思った。注文ソフト不調の個別対応やお手洗い休憩、タバコを吸う社員の自主休憩がたまたま重なり、一人になっていたのである。
やれやれ、と思うと同時に、お手洗いに行っていたとおぼしき、後輩の女子社員が一人戻ってきた。
「田村さんごめん、チェックの続きやりたいから、電話番お願いできる?」
「わかりました」
後輩の返答に「よろしくね」と手を挙げて応じ、システム保守用のハードが置いてある奥のパーテーション、尚隆が訪室する前まで居た席に戻った。
そこでもう一度、今度は漏れ聞こえないように気をつけながら、ふうと息を吐いた。
──広野くん、なんかちょっと変わった……?
大学時代の印象とは違う彼に、少なからず驚かされた。顔には出さなかった、と思うけれど。
7年前、というか大学を卒業するまでの尚隆は、どちらかといえば「遊んでいる」イメージの強い男子学生であった。サークルの後輩と付き合っているかと思えば、数ヶ月後には見覚えのない女子と仲良く腕を組んでいるのを見かける、そんな感じで。
対して自分は、自慢にも何にもならないが、男性に全く免疫のない女子。学生時代は付き合ったことすらなかった。ことさらに男子を苦手に思っていたわけではなく、だから同級生やサークルの仲間うちではごく普通に会話もできたけど、それ以外の関わりは一度も持ったことがない。尚隆よりも前に、男子を好きになったことは2回くらいあるものの、地味な自分が告白してうまくいくとは思わなかったからアプローチをしたこともなかった。
そんな自分があの時、なぜ誘われたのか。
……たぶんあの日、尚隆は、付き合っていた子と別れたか喧嘩でもしたかで、くさっていたのだと思う。ずっと見ていたから、なんとなく、彼のそういう雰囲気がみづほはわかるようになっていた。
だからきっと、手近にいたみづほに、あんな提案をしてきたのだ。特定の相手はいないだろうし普段付き合う女子とは違うタイプで珍しいし、とかいうふうに思われたかもしれない。
そうだとしても、あの時はかまわなかった。どんなきっかけであれ、彼がみづほに興味を持つなんて機会は今後絶対に無いだろうから──初めての相手が彼になるならこんな形でもいい、と思ったのだ。
けれど一度きりのつもりでいた。本気で好きだと思われていないのに、体だけの関係が続いたりするのは嫌だった。いくら相性が良かったからといっても。
だから、尚隆と2人きりになることを、あれ以後はずっと避けたのだ──彼と向き合ったらきっと、自分の動揺が隠せそうにはなかったから。
彼のタイプの女ではないことは充分にわかっている。それでも、好きだった。サークルに入って知り合った頃からずっと。自己紹介で見せた屈託のない笑顔に、柄にもなく一目惚れしたのだ。そんなことは初めてだった。中学での初恋の時でさえ、一瞬で恋に落ちたりはしなかったのに。
自分は尚隆のタイプではない。ましてや、自分にとっても本来、彼みたいな「遊んでいる男子」はタイプではなかったはずだった──それなのに、日が経つごとにどんどん、尚隆を好きになっていった。
落として散らばった書類を誰より早く拾ってまとめてくれる、そういう優しさだったろうか。その行為をまったく恩着せがましく感じさせない、さりげなさだったろうか。それとも。
理由が何かなんて、今ではよくわからない。はっきりしているのは、誰にも感じたことがないほど強く、尚隆に惹かれたという事実。
だから、彼の気まぐれな誘いに応えた。
……だからこそ、バカなことをしてしまった、という思いに後から強く襲われた。ただのサークル仲間にはもう戻れない──少なくとも、みづほの気持ちにおいてはそうだったから、二度とあのような「間違い」を起こさないためにも、尚隆と2人きりになることは徹底的に避け続けた。大学を卒業するまで。
それは、上手くいったと思った。卒業後も、尚隆が来そうなサークルOBOGの集まりには極力顔を出さなかったし、そこさえ気をつけていればもう、彼との接点などないに等しい、そう確信していた。
──なのに今さら、接点ができるなんて。しかも職場という、簡単には逃れようのない場所で。
みづほのシステム課と、尚隆の営業部は、工場への注文ソフトを頻繁に使う業務上、関わりが多い。いずれ、彼からのトラブル報告、呼び出しに対応しなくてはいけない時が来るかもしれない。
そのたびにまた、再会した日みたいな緊張を抱えなければいけないのだろうか。それを思うと憂鬱だった。
「セミナーですか?」
「急で悪いんだが、出席しておいてくれ」
朝、出社した途端に営業一課の課長に呼ばれて、告げられた指示は、翌日の午後に行われる社内セミナーへの出席だった。
「詳細はメールで送ってあるから。いちおう、社員全員に義務化されているからな」
「……わかりました」
だったらもっと前にわかっていた事なんじゃないのか、早く連絡してくれればいいものを、と内心で少し毒づきつつ、席に着く。
届いていたメールを読むと、セミナーは昼休み明けで所要時間は1時間ほどで予定されている。今週は毎日、午前も午後も先輩に付いての得意先回りの予定なのだが、明日は途中で切り上げさせてもらうしかない。
まだ来ていない件の先輩に、ひとまずLINEで連絡を入れてから、もう一度先ほどのメールに目を通した。
タイトルは「《重要》ネットリテラシーセミナーへの参加ご案内」とある。社員は最低1回受講しておくべきものと決められているので必ずご参加を、との但し書きがあった。今の世の中、SNSの発達で気軽にネットでの意見発信ができるようになった反面、小さくない様々な問題も起こっている。一社会人としてのマナーを含めたリテラシーをきちんと見直し、正しい知識に即した振る舞いが必要だ──との、趣旨はもっともである。
問題は主催、というよりは講師役だった。
「主催:システム課/担当講師:須田みづほ(システム課主任)」
セミナーの趣旨と内容上、システム課が主催になるのは当然だ。そして主任のみづほが講師役として講義するのも。彼女は学生時代から真面目だし、会計役として皆の集金をまとめるのも収支報告を作るのも上手かったから、良い講義をするだろう。だが。
「おっ、来たんだなセミナーのお誘い」
背後から前触れなく頭を突き出したのは、先ほどLINEを送った先輩、同じ部署の森宮だった。比喩でなく心臓が跳ね上がった心地になり、尚隆が二の句が継げずにいるうちに、森宮は勝手にメールを読み進める。
「ふんふん。講師は新しい主任さんか、いいなー」
「い、いいって何がですか」
やっと鼓動と息が整い、尚隆が尋ねると、「1コしか違わないんだからタメ口でいいっての」と言ってから、森宮は説明する。
「去年まではさ、他の支社に異動したおっさんの主任が担当講師で。それが、しつっこいぐらいに同じ話繰り返す癖がある奴で、毎回とんでもなく時間がかかってたんだよ。だから超不評でさ。
その点、新しい主任さんのセミナーは的確でわかりやすいって評判だし、何より美人。会っただろ」
「え、は、まあ」
立て板に水、といった調子の喋りからいきなり水を向けられて、慌てて防御、ではなく返答をする。
「ちょうど俺が受けた後から彼女に変わったんだよなあ。運がなかったよなーちくしょう」
言いながら森宮はやけに悔しがっている。もしかしてみづほに気でもあるのか、と尚隆が思ったのとほぼ同時に、森宮がこう言った。
「あ。けどな、彼女に手え出すのはやめといた方がいいぞ」
「はい?」
「あれだけの美人だから、男ができない方がおかしいだろ? けどできないんだよ。正確に言えば、できても長続きしないんだってさ」
突然潜められた声に、何か不穏なものを感じ取って、尚隆はまた黙ることを余儀なくされた。森宮はその先を続ける。
「聞いた話じゃ彼女、できないんだってさ」
「……できないって」
「決まってんじゃないか、アレだよ。しようとしても体が拒否るんだと。そんなんばっかりだから男が耐えらんなくなってアウト、その繰り返しだって。
そりゃなあ、いくら美人でも、アッチを満たしてもらえないんじゃ萎えるよな。だから彼女も懲りたのかね、近づく男がいないわけじゃないけど、もう誰とも付き合わないって決めてるんだとよ」
「──なんでそんなこと、知ってるんすか」
「同期の奴で、ちょこっとだけ彼女と付き合ったのがいんだよ。そいつからまあ、いろいろとな」
森宮がにやりと、下卑ているとも見えなくもない笑いを見せて言った直後。
「そこの二人、いつまで無駄口叩いてんだ。早く外行ってこい」
課長の檄が飛び、尚隆は森宮とふたり、そそくさと営業のフロアから出る。エレベーター待ちの間も森宮は、みづほの噂についてまだ話をしていたが、半ば以上聞き流していた。尚隆には思うところがあったのだ。
みづほが、付き合った男と「できない」と言われる、拒否してしまうという原因。それはまさか、自分との出来事ではないのか。あの時のことが、彼女の中で何らかのトラウマになっている、とか?
あの時彼女は、承知して来たものだと、納得の上で抱かれたものだと思っていた。だが実はそうではなくて、場の雰囲気で断れなかったから仕方なかったのか。抱かれることが嫌な気持ちが、少しはあった──?
その日、外回りから戻ってきた午後。
「……あれ?」
転職して1ヶ月。仕事もひと通り覚えて順調だ、と思っているとトラブルに見舞われる。大げさな言い方かもしれないがこの時はそんな気分になった。顧客からの急ぎの注文があるというのに、注文ソフトが動かなくなったのだ。
マウスポインタは動くから、パソコン本体の不具合ではないはず。だがどこをクリックしても反応しない。近くの席の営業課員は皆、外回りに出かけていて誰もおらず、尋ねようがなかった。
これはシステム課に相談するしかなさそうだ。内線番号を押して、相手が出るのを待つ。2コール目で「はい、システムの須田です」と声が聞こえた。
その瞬間、尚隆の心臓は少しばかり跳ねた。
用件がさっと声に出ない。「もしもし?」と問われてやっと、自分が名乗るのも失念していたことに気づいて焦る。
「あ、ごめ、すみません、営業の広野ですが」
「……なんだ、広野くんか。どうしたの」
「えと、注文ソフトが動かなくなって」
一瞬、みづほの声が堅くなったように感じたが、気のせいだったろうか? と思うくらいに短い違和感だったから、尚隆はすぐにそのことを忘れた。
「ああ、よくあるのよね。ちょっと待って……動く?」
「──いや、全然」
「そう、 ……じゃそっちに誰か行かせるから」
内線が切れ、数分後にフロアにやってきたのは、みづほ自身だった。主任の彼女がこんな用件までこなすのだろうか。
「普段は他の人に任せるんだけど、手が空いてたのが今、私しかいなくて」
尋ねると、みづほはそう説明した。言うと早々に、尚隆のPCの具合をチェックし始める。デスクに上半身を乗り出す姿勢で、約1分。
「ああ、工場からの回答出るのに時間かかってるんだ……たぶん、納期問い合わせが重なってサーバの調子が悪いんだと思う。しばらくしたら直ると思うから」
と、みづほが解説する声は聞こえていたが、内容は半ば、右耳から左耳へと流れていた。わずかの間、密着する寸前まで接近した彼女から、ふわっと漂った香りに気を取られて。花の香り、香水だろうか。学生時代はつけてなかったよな、とぼんやり思う。
「広野くん、聞いてる?」
訝しげな声にはっと我に返り、慌てて、聞こえていたはずの話を脳内で反芻する。
「──あ、ん、聞いてた。わかった、待ってみる」
慌てた、それゆえにあやふやな口調にみづほは首を傾げたが、いちおうは納得したのか「それじゃ、何かあったらまた内線して」と言い置いて去ってゆく。
みづほの後ろ姿を見送りながら、尚隆は戸惑わずにはいられなかった。いや、正確に言うなら、彼女と再会してからこちら、ずっと戸惑っていた。
みづほに対して、初めて会う女性を見るような、そんな不可思議な感覚がまとわりついて離れない。
実際、7年ぶりに会ったみづほは、一見するとほぼ別人であった。地味の代名詞のようだった見た目が一変、ごく普通の小綺麗な、いっぱしの美人OLになっていた。
というかそもそも、顔立ち自体はそれなりに整っていたのだ、昔から。あの日、初めて彼女を「意外と可愛い」と思った時に、気づいていたはずじゃなかったか。
「……まいったな」
ひとりごちた言葉が実際に声になっていたことにも、外から戻ってきた向かいの同僚が眉を寄せてこちらを見ていたことにも、尚隆は気づかなかった。