数日後の夜。
「じゃ、お先に。早く帰れよ」
「はい。お疲れさまでした」
営業2課の課長が退社して、尚隆はフロアに一人になる。得意先へ週明けに持って行かねばならない、提案書と在庫一覧表がまだできていなかったのだ。昼間に急な注文が立て込み、発注と梱包の作業に時間を取られたためだった。
……ようやく、書類を作り終えた時には、9時を回っていた。深く息をつき、座ったままで背伸びをする。今週は8時より前に終われない日が続いたので、明らかに疲労がたまっている感覚があった。明日が休みだからまだ、多少の解放感はあるのだが。
ともあれ、早く帰ろう。パソコンの電源を落とし、書類をまとめて決裁が必要なものは課長のデスクに置き、一部点けていた照明を消してエレベーターホールへ向かう。
その時、エレベーターではなく階段を使って下りよう、と思ったのは単なる気まぐれだったのか。そして、8階の非常扉の前で立ち止まり、フロアの様子を見てみようと思ったのは、虫の知らせのようなものだろうか。
自分でもわからないまま、尚隆は鉄製の重い扉を開いて、システム課の部屋から光が漏れているのに気づいた。
誘われるように廊下を歩いて、その部屋のドアを開ける。うかつにもノックをせずに。
当然ながら、中にいた人物──みづほは、非常に驚いた顔で顔を上げた。驚きすぎてすぐには言葉も出ない様子に、たちまち後悔が湧き上がる。
「…………びっくりした。どうしたの、こんな時間に」
「──そう言う須田こそ、こんな時間まで何してんの」
「何って、もちろん仕事よ。月次の報告書とか、いろいろあるから」
「だからって……まさか毎日、こんな時間まで?」
「毎日じゃないけど。主任って意外と雑務があって忙しいから」
笑いにまぎらせてみづほは言うが、声には疲れがにじんでいる。無意識なのか、速いまばたきを繰り返す様子は、眠気をこらえているようにも受け取れる。
相当疲れているんじゃないか、という心配とともに、そういえばこんなふうに話をするのは久々だな、と思って自然と喜びが湧いてくる。先ほどの後悔も押しのける、その喜びの大きさに、尚隆はいくぶん戸惑った。
「……とにかく、今日はもう帰った方がいいんじゃないか。俺も帰るとこだし、駅まで送るから」
提案に、みづほは戸惑ったように目を見開いた。わずかに眉を寄せているようにも見えるが、顔には照明で陰ができていてよくわからない。
「──ありがとう、でも明日休みだから、区切りつけてからにする」
と、再び笑って言うみづほだったが、どことなく笑みが引きつっている……気がする。無理をしているのか、あるいは尚隆に早く去ってほしいのか──またはその両方か。
急激に、居心地が悪くなってきた。焦りで言葉がほとばしる。
「じ、じゃあなんか飯、買ってくる。夕飯まだだろ」
「えっ、そんなの別に気にしなくて」
「いやいいから。コンビニ近いから」
早口で言って、部屋を早足で出る。ドアが閉まるか閉まらないかの状態で階段まで駆け、閉まる音がした瞬間、ふうっと息を吐いた。そのまま勢いで1階まで駆け下り、通用口からビルの外へ出る。
……やはり、彼女は自分を避けたがっているのか。もはや間違いないように思われてしまう。そう考えると、これから会社へ戻るのもためらわれるが、言ってしまったことだし、何かのはずみでか、携帯を落としてきてしまったようだ。戻らないわけにはいかない。
それでも、さっさと引き返す気にはなれなくて、周辺のコンビニを3軒ハシゴしてしまい、再び通用口をくぐったのは30分以上過ぎてからだった。エレベーターで8階に向かう。
システム課の扉からは変わらず光が漏れているが、妙に静かだ。みづほ一人しかいないのだからそれでむしろ当然ではあるが、直感的に、何かが先ほどと違う気がした。
足音を忍ばせて、そっと扉を開ける。
──みづほが、電源の切れたディスプレイを前に、机に頭を伏せた状態で眠っていた。