まさか職場が一緒になるなどとは思っていなかったから、知った時はかなり動揺した。トラウマの原因とまた、毎日ではないにしてもどこかで顔を合わせなければならない日々が来るなんて……いったいどんな顔をしていればいいのか。
 考えて考えて出した結論は、いたって普通にしていることだった。昔のことは昔のこと、気にしていないし半分忘れているようなもの、そんなふうに表面上は振る舞うこと。
 そう決めると意外と気が楽になった。いざ本人を前にすると全く緊張しないわけではなかったけれど、顔を合わせるのはあくまで仕事上でなのだから、と割り切ればどうにかやり過ごせたのだった。
 動揺するのはあくまで、過去のことがあるから。あの夜のことが恥ずかしくていたたまれなくて、それで落ち着かない気持ちになるだけだ。そう思っていたし、今も思っている。
 ……だが先日、退社時にばったり会ってしまった時には、予想外に困った。仕事の仮面をかぶっていられない時のことまで想定していなかったから戸惑いを覚えた。その上に本庄のつきまといにまで遭遇して、内心すっかり動転した。他に頼れる人がいなかったとはいえ、尚隆に付き添いを頼んでしまった。不安があったからとはいえ、自宅まで送らせた。
 それを誰かに見られていたのは仕方ないにせよ、そのことがこんなに噂になるなんて──自分がそんなふうに、噂の対象として認識されるだなんて、考えてもいなかった。仕事は真面目にやるけれど、プライベートで目立つことはしない。その信条で入社以来、特に最初に付き合った人と別れて以降はやってきたつもりなのに。
 仕事中の今も、何かにつけて、ちらちらとこちらを伺う視線を感じる。とっくに昼は過ぎて、もう午後も遅い時間だというのに。これから数日はこんな視線に耐えなければならないのだろうか。
 主任チェックお願いします、と書類を回してきた男性社員など、目が合った一瞬に、やけに意味ありげな目つきをして口の端で笑った。……そういえば彼も、一時はけっこう頻繁に声をかけてきた一人だった。同期であるだけに扱いに困って、最終的には、おなじく同期の友人に頼んで断る場に同席してもらったほどだ。
 そういえば主任になった頃、何かにつけてずいぶんと嫌味を言われた。彼が主任を目指していたのは察してたからある程度妬まれるのは仕方ないと思っていたが、単なる妬みだけではなかったのかもしれない。昨夜のことを見たのも噂を広めたのも、もしかしたら彼なのかもしれない。
 チェックの書類を持つ手に、知らず力が入った。いけないいけない、これは上にも回す重要な書類だ。ペーパーレス化が進んでいるのは社員への通達事項ぐらいで、伝票や決裁の書類はいまだ紙ベースである。
 そういうところも将来的に改革していければいいけど、と考えながら少しついてしまった書類のしわを伸ばす。それから、社内システムの定期チェックをしようと立ち上がった。
 途端にざっと、示し合わせたように視線が集まるのを感じる。やりにくい、とブースに入ってからため息をついた。
 ……そもそも私は、今どういう気持ちでいるのだろう、と自問する。本庄や同期の件はあれど、問題の発端はそこだ。少なくともみづほにとっては。
 尚隆とは必要以上に接触しない、関わらないと決めていたはずだ。それなのに成り行き上とはいえど、自分の厄介事に巻き込んでしまった。結果的にではあるけれど、2回も尚隆に助けられる事態になった。
 その上に、自分とともに噂の的にしてしまった。みづほはもちろんだが、尚隆だって、そんな対象になることは望んでいなかったはず。みづほ自身はまだ、自分の失敗が原因であるのだから仕方ないと言えるが、尚隆は違う。本来、大学の同期生、サークルのかつての仲間であるだけで、みづほとそれ以上の関係はないのだ。
 なのに、急な頼みに応じてくれたり、わざわざ様子を見に来て割って入ってくれたりしたのは、彼のもともとの親切さもあるのだろうが、おそらくは過去を忘れていないからに違いなかった。あの夜のことを尚隆なりに気にしていて(再会した時のぎこちなさを考えれば、そう思える)、みづほに対する申し訳なさや後ろめたさがあるから──それゆえの行動に過ぎない、きっと。
 だからこれ以上は、必要以上に関わるべきではないのだ、やはり。どれだけ彼のことが気になろうと、いや気になるからこそ、近づくべきではない──たとえ、送ると言ってくれた優しさを、争いに割って入ってくれた勇気を、すごく嬉しく感じたのだとしても。