◇
言うまでもなく、お昼休み以降は最悪の気分で、五、六時間目の授業中には何度も保健室に行こうと思った。
でも保健室に行くと、わたしのメンタルは地面に落ちて燃え尽きた線香花火のようになってしまうと思ったので、なんとか堪えた。
ようやく授業が終わると、誰とも話すわけでもなく、わたしは逃げるように学校を後にした。
「おい、お前!もしかして今から飛び降りるのか?」
歩道橋の真ん中でぼーっと車を眺めていたら、大学生くらいのお兄さんに声をかけられた。
癖毛が強いのか、ところどころ髪がぴょんとはねている。切長な目と整った鼻でいかにも美形と言った顔をしている。全身を真っ黒のマントで覆うあたりが残念な感じがするけれど。
「飛び降りると言ったらどうするんですか?」
「ちょうど良い!協力してくれ」
「……協力?」
「そうだ。心配すんな。俺の名前はハイデ。まあ悪いようにはしねえよ」
歩道橋下にあるチェーン店のカフェに入ると、店員さんに「お一人様ですね」って言われてカウンター席を案内された。
マントに覆われたどう見ても痛いコスプレをしているハイデさんに一切視線を向けていないのが不思議だ。痛すぎて眼中に入れないようにしているのだろうか。だったらその店員さんはなかなかの肝っ玉だ。
この人は異世界から来て時間を巻き戻せる力をもつ種族だと言っている。異世界では大人になるための通過儀礼で、一生に一度に限り人間界に送られる。
そして、死が身近に迫っている人間を一人見つけ、”巻き戻し”と呼ばれるタイムリープをさせる。その人間の人生が好転すれば儀礼の成功で、”大人”として認められる。
反対に、その人間が不幸になったり、タイプリープ前と状態が変わらなければ失敗とみなされ、一生”子供”として生きていくことになる。
もちろん人間にもペナルティはあるらしく、巻き戻しをした人間はハイデさんのいる異世界に送られ、一生あっちの世界で暮らすことになるんだとか。恐すぎ。
テレビとかで特集される神隠しにあった人は、儀礼に失敗して異世界に送られたからだということも教えてくれた。
ハイデさんの種族は古くからこの儀礼を行っていたらしく、歴史の授業で聞いたことがある偉人の名前も出てきて驚いた。有名人や偉人も人生をやり直していたんだね。
人間にとっては何とも理不尽極まりない儀礼だと思うけれど、人生をやり直せるチャンスがあるのなら、それに賭けたくなるのかもしれない。
「異世界の生活も大変なんだね」
「まあな。”巻き戻し”の能力を身に付けるには専門の施設で修行しなければならないしな」
「山籠りってこと?」
「まあそんなところだ」
「じゃあ時間もかかるんだね」
「”巻き戻し”の能力自体は、才能ある奴だと数年で身に付けられる。でも才能がない奴だと倍以上の時間がかかると言われている」
「ハイデさんはどれくらいかかったの?」
「俺は二年。師範には過去最短だと言われた」
「うげ……才能お化けじゃん……」
「ちょっと待て。俺はその分誰よりも訓練したし、暇さえあれば師範からもやり方を盗もうとしたし自分なりのやり方もずっと研究した。才能だけで片付けんな」
「……ごめんなさい」
ズシリと響いた。どうしてこんなことを言ってしまったのだろう。誰よりも努力の必要性がわかっていたつもりだったのに。
「そりゃ訓練はしんどいし習得には時間もかかるから、途中で投げ出す奴もたくさんいる。でもな、巻き戻しの能力自体は諦めなければ全員が習得できるんだ」
諦めなければ必ず習得できるんだ。なんて羨ましいんだろう。
「ただ、巻き戻しを習得できるのと大人になれるかは別問題だ」
「儀礼って、そんなに難しいものなの?」
「ああ。如何せん対象の人間が同じ過ちをしないように導かなければいけないからな」
失敗した人間の大体はプライドが邪魔をして上手く行かないことの方が多いらしい。
「せっかく戻ったのに、また同じ失敗をしてしまうってこと?」
「そうだ。人間ほど考え方が凝り固まっている生き物はいないからな。それを俺たちがどう導けるかどうかが、この儀礼の難しいところなんだ」
「大変だね……」
「だろ?だから最近は儀礼を拒否する奴や巻き戻し自体を習得しない奴が増えてきたんだ」
「あ、そうなの?じゃあ別にやんなくて良いじゃん」
「おいおい。儀礼を成功させなきゃ俺は一生子供のままだぞ」
「……成長できないってこと?」
「いや、正確には子供扱いされることになる」
「別に子供扱いされるくらいなら良いじゃん」
「いやいやいやいや!お前は全然わかってない!子供のままだと一生大人の言いなりなんだぞ!大人が間違っていても発言権がないから相手にされないし、おまけに結婚もできねえ!」
「結婚したいんだね……」
「そいつが子供のままで良いって思ってるんだったら別にそれで構わない。ただ生きていく分には困らないからな。でもな、子供のままじゃできないことだってたくさんあるんだ。俺は自分の好きなように生きるために大人になる」
「で、本題だ。俺が死にたがっているお前の時間を戻してやる」
「わたし、別に死にたいなんて思ってないよ」
「嘘つけ。俺は死が迫っている人間にしか見えないんだぞ」
やっぱりハイデさんの姿は他の人には見えていないんだ。それにしても、死が迫っている人間にしか見えないなんて、まるで死神みたいだ。
「え、でも失敗したらどうするの」
「説明したろ。俺は子供のままで、お前は俺たちの世界に送られるだけだ」
「ダメじゃん!わたし一生向こうの世界で奴隷なんてやだよ」
「おいおい、誰が奴隷扱いするって言った?」
「え……?」
向こうにはこの理不尽な儀礼に協力してくれた人間たちが暮らすもう一つの世界があって、人間界と何一つ変わらず生活ができるらしい。
しかも人間界にいた頃より少しお金持ちになったり、モテるようになったり、性格も良くなったり。境遇が良くなるようになっているんだとか。性格が良くなるって一体どういうこと?
ただし、儀礼に失敗してしまった人間は死神から恨まれることも少なくないから、会うことは許されない。
別にわたしは人生を後悔しているつもりはない。今までやってきたことが間違っていたとも思わない。
でも、失敗してしまった。周りの期待を裏切ってしまった。京介にあんなことを言ってしまった。もしやり直せるのならーー
「じゃ……じゃあさ。三日前に戻せたりする?」
「お、乗り気になったか。たった三日前で良いのか?」
「わたし、小さい頃からフィギュアスケートをしているんだけど、大事な大会前に転倒しちゃったんだ。だからその大会をもう一度やり直したい……」
「そうか。だから杖をついていたんだな」
「松葉杖ね……」
わたしはこれまでの経緯を説明した。
小さい頃からスケートをしていたこと。
お母さんがフィギュアスケートでオリンピックを目指していたこと。
才能もないしコーチを付けることもできなかったけど、京介とオリンピックを目指して一緒に頑張ってきたこと。
いつの間にかプレッシャーを感じ、滑るのが楽しくなくなってきたこと。
大会で頭が真っ白になって転倒してケガをしてしまったこと。
自分はもう限界だと思いはじめてきたこと。
「なるほど、それで死にたがってたんだな」
「だから死にたがってないって!ちょっと落ち込んでただけ」
「別に人間なんだから死にたくなることだってあるだろ。恥ずかしいことじゃねーよ」
「す……すごい偏見……」
「俺の世界ではそう習ったぞ。人間なんてのは弱っちいから、失敗したり思い詰められたりすると、すぐに死にたがるって」
「う……言い方雑だけど、わからなくもない……」
「ったく。俺たちはなんでそんな弱っちい人間を助けなければいけないのか理解できねえ」
ハイデさんは吐き捨てるように言った。
「お前は本当に三日で良いのか?人によっては何十年も前に戻して欲しいなんて言う奴もいるが」
「何十年も?︎」
「ああ、まあでもそんなこと言うのは大体良い年した人間で、若かりし頃に戻って全部やり直したいってのが多い」
「そ、そうなんだ……何十年も時間を戻すのはやっぱり大変なの?」
「そりゃな。でも何十年戻そうが三日だけ戻そうが、人生が好転するかどうかは別問題だ」
「どういうこと?」
「長い時間を巻き戻したからと言って状況をガラリと変えられるわけではない。逆にガッツリ時間を巻き戻したいと思っている人間ほど、考え方は凝り固まっているから失敗しやすい。おまけに好転したかどうかを見極めるのにも年単位の時間がかかるから効率も悪い」
「げ……」
「まあ俺達は人間の三倍は長生きするからな。その辺は心配すんな」
ビシッと親指を立てているけど、別にそんなに長生きしたいと思わないから羨ましくもなんともない。
「話を戻すぞ。お前は三日前の大会にもう一度チャレンジするつもりなんだな」
「うん」
「じゃあ成功条件は”大会で転倒せず演技を成功させる”になるな」
「優勝することじゃなくて?」
「優勝することは転倒せず演技を続けた先の結果だから関係ない。三日前に戻るくらいならそこまで高いハードルは設定されてないだろ。てか、転けなかったら優勝できるとか、随分自信があるんだな」
「う……」
「優勝を目指すのは悪くない。でも、その前にまず転倒せず最後まで自分の演技をやり切ることだけを考えるんだ。それだけで状況は大きく好転する」
「でも……それじゃ駄目……」
「欲張りすぎんな。お前はそれで失敗したんだろ」
「ご、ごもっともです……」
「それと、一つ忠告しておくことがある」
「な……なに?」
「時間は巻き戻るがお前の記憶は巻き戻らない。失敗した今の記憶もしっかり頭の中に残るわけだ。これがどういうことかわかるか」
「転け癖が付いているかもしれないってこと?」
「そうだ。失敗から上手く学んでやり直せば好転させることは難しいことじゃない。だがお前のパターンは、おそらく原因の大半がその豆腐メンタルのせいだから対策は相当難しいぞ」
豆腐メンタルで悪かったね。
「そんなに難しいの?」
「二回目だから単純に場慣れして成功できるかもしれない。だが、失敗した感覚を引きずって入れば、同じようなシチュエーションで再び転倒することもありえる。メンタルの問題は意外と馬鹿にできねえから今回の挑戦は意外と難しいぞ」
「そ、そんなに難しいんだったら、今からでも他の人に変わった方がーー」
「アホか。俺は一度決めたことは曲げねえ。それに、これくらい難しい案件の方が燃えるだろう。お前だって本気でスケートをしてきたんだったらこの気持ちが少しはわかるだろ」
ハイデさんはもともと細い吊り目をさらに細めてにやりとした。
ーーああ。その目は自分は絶対に成功すると確信している目だ。日本を代表するトップスケーターも同じような目をしていた。
「でも、意外だな」
「何が?」
「大抵の人間は巻き戻しの際に失敗する出来事自体を避けようとするらしい」
「無かったことにしてしまうの?」
「そのほうが楽だからな。でもお前は失敗したことにもう一度挑もうとしている。なかなかガッツあると思うぜ。豆腐メンタルでバカだけど」
「バカは余計……」
「お前、名前は?」
「緒環 彩叶」
「サイカ?ずいぶん才能に溢れた名前だな」
ーー才華じゃない。
「さ・い・か!漢字で書くとこう!」
わたしは指で空中に漢字を書いて訂正する。
「よくわかんねーけど、なかなか格好良い名前じゃん。よろしくな、彩叶」
ムカつくけど、ストレートに名前を褒められるとちょっと嬉しい。
「巻き戻しには一週間かかるから、その間にできることはやっておけ。俺は一旦元の世界に戻って儀礼開始の申請をしてくる」
「申請って……手続きがあるんだ」
「おう。向こうで誓約書を書かないといけないし、巻き戻しの計画書も提出しないといけない。お前に書いてもらう書類もあるからな」
「うえ……わたしも書類を書くの?」
「簡単なエントリーシートみたいなもんだ。それと、一応お前があっちの世界に行くためのチケットも予約しておくからな」
「ちょ……わたしはもう失敗しないって!」
「儀礼をするにはチケットの予約も必要なんだ。てか、俺が大人になれるかどうかがかかってんだぞ!失敗したら承知しねーからな!」
「わ、わかってるって!」
カフェを出るなりハイデさんはすぐに半透明になって消えてしまった。これはただの夢だったのではないか。でも仮に夢だとしたら、ここまで鮮明に覚えてはいないだろう。
正直勢いで言っちゃったのもある。そもそもあのプレッシャーの中でもう一度演技をすることなんてできるのだろうか。
しかも今回はハイデさんの人生も背負っていることになるんじゃ……ちょっと吐きそうになってきた。
でも約束したし、時間もそんなになさそう。迷っている場合ではない。
言うまでもなく、お昼休み以降は最悪の気分で、五、六時間目の授業中には何度も保健室に行こうと思った。
でも保健室に行くと、わたしのメンタルは地面に落ちて燃え尽きた線香花火のようになってしまうと思ったので、なんとか堪えた。
ようやく授業が終わると、誰とも話すわけでもなく、わたしは逃げるように学校を後にした。
「おい、お前!もしかして今から飛び降りるのか?」
歩道橋の真ん中でぼーっと車を眺めていたら、大学生くらいのお兄さんに声をかけられた。
癖毛が強いのか、ところどころ髪がぴょんとはねている。切長な目と整った鼻でいかにも美形と言った顔をしている。全身を真っ黒のマントで覆うあたりが残念な感じがするけれど。
「飛び降りると言ったらどうするんですか?」
「ちょうど良い!協力してくれ」
「……協力?」
「そうだ。心配すんな。俺の名前はハイデ。まあ悪いようにはしねえよ」
歩道橋下にあるチェーン店のカフェに入ると、店員さんに「お一人様ですね」って言われてカウンター席を案内された。
マントに覆われたどう見ても痛いコスプレをしているハイデさんに一切視線を向けていないのが不思議だ。痛すぎて眼中に入れないようにしているのだろうか。だったらその店員さんはなかなかの肝っ玉だ。
この人は異世界から来て時間を巻き戻せる力をもつ種族だと言っている。異世界では大人になるための通過儀礼で、一生に一度に限り人間界に送られる。
そして、死が身近に迫っている人間を一人見つけ、”巻き戻し”と呼ばれるタイムリープをさせる。その人間の人生が好転すれば儀礼の成功で、”大人”として認められる。
反対に、その人間が不幸になったり、タイプリープ前と状態が変わらなければ失敗とみなされ、一生”子供”として生きていくことになる。
もちろん人間にもペナルティはあるらしく、巻き戻しをした人間はハイデさんのいる異世界に送られ、一生あっちの世界で暮らすことになるんだとか。恐すぎ。
テレビとかで特集される神隠しにあった人は、儀礼に失敗して異世界に送られたからだということも教えてくれた。
ハイデさんの種族は古くからこの儀礼を行っていたらしく、歴史の授業で聞いたことがある偉人の名前も出てきて驚いた。有名人や偉人も人生をやり直していたんだね。
人間にとっては何とも理不尽極まりない儀礼だと思うけれど、人生をやり直せるチャンスがあるのなら、それに賭けたくなるのかもしれない。
「異世界の生活も大変なんだね」
「まあな。”巻き戻し”の能力を身に付けるには専門の施設で修行しなければならないしな」
「山籠りってこと?」
「まあそんなところだ」
「じゃあ時間もかかるんだね」
「”巻き戻し”の能力自体は、才能ある奴だと数年で身に付けられる。でも才能がない奴だと倍以上の時間がかかると言われている」
「ハイデさんはどれくらいかかったの?」
「俺は二年。師範には過去最短だと言われた」
「うげ……才能お化けじゃん……」
「ちょっと待て。俺はその分誰よりも訓練したし、暇さえあれば師範からもやり方を盗もうとしたし自分なりのやり方もずっと研究した。才能だけで片付けんな」
「……ごめんなさい」
ズシリと響いた。どうしてこんなことを言ってしまったのだろう。誰よりも努力の必要性がわかっていたつもりだったのに。
「そりゃ訓練はしんどいし習得には時間もかかるから、途中で投げ出す奴もたくさんいる。でもな、巻き戻しの能力自体は諦めなければ全員が習得できるんだ」
諦めなければ必ず習得できるんだ。なんて羨ましいんだろう。
「ただ、巻き戻しを習得できるのと大人になれるかは別問題だ」
「儀礼って、そんなに難しいものなの?」
「ああ。如何せん対象の人間が同じ過ちをしないように導かなければいけないからな」
失敗した人間の大体はプライドが邪魔をして上手く行かないことの方が多いらしい。
「せっかく戻ったのに、また同じ失敗をしてしまうってこと?」
「そうだ。人間ほど考え方が凝り固まっている生き物はいないからな。それを俺たちがどう導けるかどうかが、この儀礼の難しいところなんだ」
「大変だね……」
「だろ?だから最近は儀礼を拒否する奴や巻き戻し自体を習得しない奴が増えてきたんだ」
「あ、そうなの?じゃあ別にやんなくて良いじゃん」
「おいおい。儀礼を成功させなきゃ俺は一生子供のままだぞ」
「……成長できないってこと?」
「いや、正確には子供扱いされることになる」
「別に子供扱いされるくらいなら良いじゃん」
「いやいやいやいや!お前は全然わかってない!子供のままだと一生大人の言いなりなんだぞ!大人が間違っていても発言権がないから相手にされないし、おまけに結婚もできねえ!」
「結婚したいんだね……」
「そいつが子供のままで良いって思ってるんだったら別にそれで構わない。ただ生きていく分には困らないからな。でもな、子供のままじゃできないことだってたくさんあるんだ。俺は自分の好きなように生きるために大人になる」
「で、本題だ。俺が死にたがっているお前の時間を戻してやる」
「わたし、別に死にたいなんて思ってないよ」
「嘘つけ。俺は死が迫っている人間にしか見えないんだぞ」
やっぱりハイデさんの姿は他の人には見えていないんだ。それにしても、死が迫っている人間にしか見えないなんて、まるで死神みたいだ。
「え、でも失敗したらどうするの」
「説明したろ。俺は子供のままで、お前は俺たちの世界に送られるだけだ」
「ダメじゃん!わたし一生向こうの世界で奴隷なんてやだよ」
「おいおい、誰が奴隷扱いするって言った?」
「え……?」
向こうにはこの理不尽な儀礼に協力してくれた人間たちが暮らすもう一つの世界があって、人間界と何一つ変わらず生活ができるらしい。
しかも人間界にいた頃より少しお金持ちになったり、モテるようになったり、性格も良くなったり。境遇が良くなるようになっているんだとか。性格が良くなるって一体どういうこと?
ただし、儀礼に失敗してしまった人間は死神から恨まれることも少なくないから、会うことは許されない。
別にわたしは人生を後悔しているつもりはない。今までやってきたことが間違っていたとも思わない。
でも、失敗してしまった。周りの期待を裏切ってしまった。京介にあんなことを言ってしまった。もしやり直せるのならーー
「じゃ……じゃあさ。三日前に戻せたりする?」
「お、乗り気になったか。たった三日前で良いのか?」
「わたし、小さい頃からフィギュアスケートをしているんだけど、大事な大会前に転倒しちゃったんだ。だからその大会をもう一度やり直したい……」
「そうか。だから杖をついていたんだな」
「松葉杖ね……」
わたしはこれまでの経緯を説明した。
小さい頃からスケートをしていたこと。
お母さんがフィギュアスケートでオリンピックを目指していたこと。
才能もないしコーチを付けることもできなかったけど、京介とオリンピックを目指して一緒に頑張ってきたこと。
いつの間にかプレッシャーを感じ、滑るのが楽しくなくなってきたこと。
大会で頭が真っ白になって転倒してケガをしてしまったこと。
自分はもう限界だと思いはじめてきたこと。
「なるほど、それで死にたがってたんだな」
「だから死にたがってないって!ちょっと落ち込んでただけ」
「別に人間なんだから死にたくなることだってあるだろ。恥ずかしいことじゃねーよ」
「す……すごい偏見……」
「俺の世界ではそう習ったぞ。人間なんてのは弱っちいから、失敗したり思い詰められたりすると、すぐに死にたがるって」
「う……言い方雑だけど、わからなくもない……」
「ったく。俺たちはなんでそんな弱っちい人間を助けなければいけないのか理解できねえ」
ハイデさんは吐き捨てるように言った。
「お前は本当に三日で良いのか?人によっては何十年も前に戻して欲しいなんて言う奴もいるが」
「何十年も?︎」
「ああ、まあでもそんなこと言うのは大体良い年した人間で、若かりし頃に戻って全部やり直したいってのが多い」
「そ、そうなんだ……何十年も時間を戻すのはやっぱり大変なの?」
「そりゃな。でも何十年戻そうが三日だけ戻そうが、人生が好転するかどうかは別問題だ」
「どういうこと?」
「長い時間を巻き戻したからと言って状況をガラリと変えられるわけではない。逆にガッツリ時間を巻き戻したいと思っている人間ほど、考え方は凝り固まっているから失敗しやすい。おまけに好転したかどうかを見極めるのにも年単位の時間がかかるから効率も悪い」
「げ……」
「まあ俺達は人間の三倍は長生きするからな。その辺は心配すんな」
ビシッと親指を立てているけど、別にそんなに長生きしたいと思わないから羨ましくもなんともない。
「話を戻すぞ。お前は三日前の大会にもう一度チャレンジするつもりなんだな」
「うん」
「じゃあ成功条件は”大会で転倒せず演技を成功させる”になるな」
「優勝することじゃなくて?」
「優勝することは転倒せず演技を続けた先の結果だから関係ない。三日前に戻るくらいならそこまで高いハードルは設定されてないだろ。てか、転けなかったら優勝できるとか、随分自信があるんだな」
「う……」
「優勝を目指すのは悪くない。でも、その前にまず転倒せず最後まで自分の演技をやり切ることだけを考えるんだ。それだけで状況は大きく好転する」
「でも……それじゃ駄目……」
「欲張りすぎんな。お前はそれで失敗したんだろ」
「ご、ごもっともです……」
「それと、一つ忠告しておくことがある」
「な……なに?」
「時間は巻き戻るがお前の記憶は巻き戻らない。失敗した今の記憶もしっかり頭の中に残るわけだ。これがどういうことかわかるか」
「転け癖が付いているかもしれないってこと?」
「そうだ。失敗から上手く学んでやり直せば好転させることは難しいことじゃない。だがお前のパターンは、おそらく原因の大半がその豆腐メンタルのせいだから対策は相当難しいぞ」
豆腐メンタルで悪かったね。
「そんなに難しいの?」
「二回目だから単純に場慣れして成功できるかもしれない。だが、失敗した感覚を引きずって入れば、同じようなシチュエーションで再び転倒することもありえる。メンタルの問題は意外と馬鹿にできねえから今回の挑戦は意外と難しいぞ」
「そ、そんなに難しいんだったら、今からでも他の人に変わった方がーー」
「アホか。俺は一度決めたことは曲げねえ。それに、これくらい難しい案件の方が燃えるだろう。お前だって本気でスケートをしてきたんだったらこの気持ちが少しはわかるだろ」
ハイデさんはもともと細い吊り目をさらに細めてにやりとした。
ーーああ。その目は自分は絶対に成功すると確信している目だ。日本を代表するトップスケーターも同じような目をしていた。
「でも、意外だな」
「何が?」
「大抵の人間は巻き戻しの際に失敗する出来事自体を避けようとするらしい」
「無かったことにしてしまうの?」
「そのほうが楽だからな。でもお前は失敗したことにもう一度挑もうとしている。なかなかガッツあると思うぜ。豆腐メンタルでバカだけど」
「バカは余計……」
「お前、名前は?」
「緒環 彩叶」
「サイカ?ずいぶん才能に溢れた名前だな」
ーー才華じゃない。
「さ・い・か!漢字で書くとこう!」
わたしは指で空中に漢字を書いて訂正する。
「よくわかんねーけど、なかなか格好良い名前じゃん。よろしくな、彩叶」
ムカつくけど、ストレートに名前を褒められるとちょっと嬉しい。
「巻き戻しには一週間かかるから、その間にできることはやっておけ。俺は一旦元の世界に戻って儀礼開始の申請をしてくる」
「申請って……手続きがあるんだ」
「おう。向こうで誓約書を書かないといけないし、巻き戻しの計画書も提出しないといけない。お前に書いてもらう書類もあるからな」
「うえ……わたしも書類を書くの?」
「簡単なエントリーシートみたいなもんだ。それと、一応お前があっちの世界に行くためのチケットも予約しておくからな」
「ちょ……わたしはもう失敗しないって!」
「儀礼をするにはチケットの予約も必要なんだ。てか、俺が大人になれるかどうかがかかってんだぞ!失敗したら承知しねーからな!」
「わ、わかってるって!」
カフェを出るなりハイデさんはすぐに半透明になって消えてしまった。これはただの夢だったのではないか。でも仮に夢だとしたら、ここまで鮮明に覚えてはいないだろう。
正直勢いで言っちゃったのもある。そもそもあのプレッシャーの中でもう一度演技をすることなんてできるのだろうか。
しかも今回はハイデさんの人生も背負っていることになるんじゃ……ちょっと吐きそうになってきた。
でも約束したし、時間もそんなになさそう。迷っている場合ではない。