◇
気分の悪い目覚めと共に、トラバーチン模様の天井と、カーテンレールに掛けられた白いカーテンが視界に入ってくる。
暖かくも寒くもなく、いかにも適切に管理されたであろう環境である匂いや音。すぐにここが病院だとわかった。
ーーそっか、たしか公式練習で転けたんだっけ。
頭を打つと、その時の記憶がなくなるなんて話はよく聞くけれど、わたしは打ち方が良かったのか、着地した瞬間にぐらりと視界が傾いたところまで鮮明に覚えている。
まだ頭がぼーっとしているから、ダメージはちゃんと残っていると思うけれど。
「彩叶。大丈夫か」
耳元から聞き慣れた声がする。
「京介……」
「よかった。お前、転倒してそのまま救急車で運ばれたんだぞ」
京介はよほど安心したのか、部屋中に聞こえる声ではーっと大きな溜息をついた。
「……ごめん」
「謝らなくて良いって。まずはゆっくり休まないとな」
休むったって、大袈裟な。
「もう大丈夫だよ。……っ!」
身体を起こそうとすると、右足首からズキッという感覚がした。
恐る恐る目をやると、右足首は包帯のようなものでぐるぐる巻きにされ、その上からは黒いサポーターのようなもので覆われている。
「え、うそ……もしかして……折れてる?」
血の気が引いた。折れていたら当分練習を再開できないどころか、当分スケートができない。全てが終わってしまう。
「いや、折れてはないよ。でも靭帯を伸ばしてしまってるみたいだからサポーターで固定してるんだってさ。病院の先生は二、三週間くらいで外れるって言ってた」
ーー終わった。
オリンピックを目指す私たちは、全日本選手権に出場することを目標にやっていた。その全日本選手権に出場するためには、東日本選手権で上位の成績を納めなければいけない。
わたしたちは高校二年生になって、やっとの思いで出場権を得た。
もちろん実力者がひしめく東日本選手権で上位になるのは簡単なことではない。けれど全日本選手権、そしてオリンピックを目指すわたしたちにとっては絶対に乗り越えなければいけない大会だった。
そんな大事な大会だったのに、本番を迎える前に病院に運ばれるって……
わたしは黙り込んでいると、京介もどんな声をかければ良いのかわからないのか。わたし達はしばらく黙り込んでしまった。
「彩叶!」
いきなりカーテンが勢いよく開いてびっくりしたら、お父さんとお母さんが血相を変えて入ってきた。
京介は椅子から立ち上がると、お母さん達に軽く会釈をしてから静かに病室を出ていった。
お父さんが「大丈夫か」と言っていたけれど、その声はお母さんの声にかき消されてしまった。
「もう……!なにやってんのよ!京介くんから救急車で運ばれたって連絡があって……お母さん達心配したんだからね!」
「ごめんなさい……」
「彩叶、もうわかったでしょ」
「わかったって……なにが?」
「もうこれ以上は限界なのよ。スケートはこれでもうおしまいにしなさい。あんたもう高二でしょ」
「……わたしまだまだやれるよ」
お母さんと考えが合わなくて反発するのが日課になっていたわたしの精一杯の強がりだった。
「またこうやってみんなに心配をかけるつもりなの?」
「それは……もちろん申し訳ないと思ってるよ」
膨れるわたしをよそに。お母さんは呆れたように大きな溜息を吐いてから、わたしにも理解できるようにと、ゆっくりした口調で話し始めた。
「大きな目標を持つのは悪いことじゃない。でも、いつまでも叶わない目標にしがみついていたら、何もかもが手遅れになるのよ。あんた来年受験生でしょ。そろそろ将来のことを考えなさい」
お母さんほど説得力のある人はいないと思う。だってお母さんはフィギュアスケートの日本代表候補にも選ばれるほどの実力の持ち主だったから。
でも、お母さんはスケートを続ける大変さを身に染みて感じているからか、わたしがスケートを続けることを快く思っていないみたい。
だけど今までわたしなりに頑張ってきたから意地だってある。
「お、お母さん達に迷惑かけてないんだから別にいいじゃん。スケートに必要なお金も自分でバイトして貯めたお金でやってるんだし」
「あんたまだオリンピック選手になるつもりでいるの?だったらそのやり方じゃ駄目なのよ」
オリンピックに出られる人は選ばれた才能ある人間だけだということは、耳にタコができるくらい聞かされてきた。
小さい頃からコーチに才能を見出された子は、毎日厳しい練習に励み、中学生くらいから全日本選手権の舞台に姿を現す。
しかも才能だけではだめだ。お金がいる。
リンクの使用量やコーチへの謝礼。衣装、遠征費……これら全てを自分達で賄わなければならないため、金銭的にも恵まれていなければいけない。
お父さんは小さな美容院を経営していて、お母さんは病院で事務の仕事をしている。妹の郁音(あやね)は今年から小学校になったばかりでまだ小さい。
でも、わたしはコーチもいなければ、毎日練習できるほどのお金もなかった。それに、うちはわたしが好きなだけスケートをするだけの金銭的余裕はなかった。
お母さんはスケートに関しては厳しく「自分でなんとかしなさい。でないとオリンピックはおろか、全日本選手権にも出られないわよ」
だからわたしは小さい頃はお小遣いやお年玉をためて近所の市営のスケートリンクに通っていた。
スケートをするためのお金は、学校の近くのカフェでバイトをして賄っている。練習メニューや演技の構成などは全部京介と一緒に考えながら作っている。
本気でやっている人からすればただのごっこ遊びのように見えるかもしれない。でもわたしたちは小さい頃から本気でオリンピックを目指してやってきた。
高校二年生にもなって地方の選手権からなかなか上に進めなかった。でも諦めずに続けて、今年ようやく東日本選手権に出場できるようになった。
「お母さん、彩叶が今まで頑張ってきたことはわかる。でも、これ以上は現実的に考えて無理なのよ。どこかで諦めないといけないの」
「でも、京介とも約束したし……」
「いつまでも京介くんが一緒にやってくれるとは限らないのよ」
いつものわたしならここで「なんでもお母さんと一緒にしないで!」って言い返すところなんだけど、完全に気力を使い果たしているのか、言い返す気になれなかった。
お母さんは久しぶりに見るわたしのシュンとした表情を見て少し驚いていたけど、納得していると思ったのか、下の売店に買い物に行くと言って部屋を出て行ってしまった。
「彩叶、お母さんはあんなこと言っているけど、毎日彩叶のことをすごく気に掛けているんだよ」
わたしが膨れていると、お父さんが慰めてくれた。
昔からわたしとお母さんが言い合いをしていると、必ず後からお父さんがフォローしてくれる。
正直なところお母さんとわたしは仲が悪いとは言えないかもしれない。
けれど、お父さんのおかげで家庭崩壊せずなんとか一緒に暮らしていけているんだと、たまに思う。
「わかってるよ……」
ベッドサイドからか細い声が聞こえてくる。
「……お姉ちゃん、転けちゃったの?」
郁音が泣きそうな顔をしてこっちを見ている。
「郁音。心配かけてごめんね。お姉ちゃん失敗しちゃった」
これ以上郁音を心配させたくなかったから、精一杯えへへと笑っておく。
一応郁音の前ではかっこいいお姉ちゃんとして振る舞っていたから、こんな姿のお姉ちゃんを見て相当大きなショックを受けているだろう。本当にごめんね。郁音。
そう。わたしは大事なところで失敗してしまった。ただそれだけ。
今まで大会本番では大きな転倒をしたことがなかった。というか、ありえなかった。もちろん今まで練習中には何度も転けていたし、競技中に細かいミスをしてしまうことはたくさんあった。
けど、本番になると持ち前の負けん気のおかげなのか、本番で失敗するなんてありえなかった。でも、今回は違った。
できることなら、もう一度やり直したい。
気分の悪い目覚めと共に、トラバーチン模様の天井と、カーテンレールに掛けられた白いカーテンが視界に入ってくる。
暖かくも寒くもなく、いかにも適切に管理されたであろう環境である匂いや音。すぐにここが病院だとわかった。
ーーそっか、たしか公式練習で転けたんだっけ。
頭を打つと、その時の記憶がなくなるなんて話はよく聞くけれど、わたしは打ち方が良かったのか、着地した瞬間にぐらりと視界が傾いたところまで鮮明に覚えている。
まだ頭がぼーっとしているから、ダメージはちゃんと残っていると思うけれど。
「彩叶。大丈夫か」
耳元から聞き慣れた声がする。
「京介……」
「よかった。お前、転倒してそのまま救急車で運ばれたんだぞ」
京介はよほど安心したのか、部屋中に聞こえる声ではーっと大きな溜息をついた。
「……ごめん」
「謝らなくて良いって。まずはゆっくり休まないとな」
休むったって、大袈裟な。
「もう大丈夫だよ。……っ!」
身体を起こそうとすると、右足首からズキッという感覚がした。
恐る恐る目をやると、右足首は包帯のようなものでぐるぐる巻きにされ、その上からは黒いサポーターのようなもので覆われている。
「え、うそ……もしかして……折れてる?」
血の気が引いた。折れていたら当分練習を再開できないどころか、当分スケートができない。全てが終わってしまう。
「いや、折れてはないよ。でも靭帯を伸ばしてしまってるみたいだからサポーターで固定してるんだってさ。病院の先生は二、三週間くらいで外れるって言ってた」
ーー終わった。
オリンピックを目指す私たちは、全日本選手権に出場することを目標にやっていた。その全日本選手権に出場するためには、東日本選手権で上位の成績を納めなければいけない。
わたしたちは高校二年生になって、やっとの思いで出場権を得た。
もちろん実力者がひしめく東日本選手権で上位になるのは簡単なことではない。けれど全日本選手権、そしてオリンピックを目指すわたしたちにとっては絶対に乗り越えなければいけない大会だった。
そんな大事な大会だったのに、本番を迎える前に病院に運ばれるって……
わたしは黙り込んでいると、京介もどんな声をかければ良いのかわからないのか。わたし達はしばらく黙り込んでしまった。
「彩叶!」
いきなりカーテンが勢いよく開いてびっくりしたら、お父さんとお母さんが血相を変えて入ってきた。
京介は椅子から立ち上がると、お母さん達に軽く会釈をしてから静かに病室を出ていった。
お父さんが「大丈夫か」と言っていたけれど、その声はお母さんの声にかき消されてしまった。
「もう……!なにやってんのよ!京介くんから救急車で運ばれたって連絡があって……お母さん達心配したんだからね!」
「ごめんなさい……」
「彩叶、もうわかったでしょ」
「わかったって……なにが?」
「もうこれ以上は限界なのよ。スケートはこれでもうおしまいにしなさい。あんたもう高二でしょ」
「……わたしまだまだやれるよ」
お母さんと考えが合わなくて反発するのが日課になっていたわたしの精一杯の強がりだった。
「またこうやってみんなに心配をかけるつもりなの?」
「それは……もちろん申し訳ないと思ってるよ」
膨れるわたしをよそに。お母さんは呆れたように大きな溜息を吐いてから、わたしにも理解できるようにと、ゆっくりした口調で話し始めた。
「大きな目標を持つのは悪いことじゃない。でも、いつまでも叶わない目標にしがみついていたら、何もかもが手遅れになるのよ。あんた来年受験生でしょ。そろそろ将来のことを考えなさい」
お母さんほど説得力のある人はいないと思う。だってお母さんはフィギュアスケートの日本代表候補にも選ばれるほどの実力の持ち主だったから。
でも、お母さんはスケートを続ける大変さを身に染みて感じているからか、わたしがスケートを続けることを快く思っていないみたい。
だけど今までわたしなりに頑張ってきたから意地だってある。
「お、お母さん達に迷惑かけてないんだから別にいいじゃん。スケートに必要なお金も自分でバイトして貯めたお金でやってるんだし」
「あんたまだオリンピック選手になるつもりでいるの?だったらそのやり方じゃ駄目なのよ」
オリンピックに出られる人は選ばれた才能ある人間だけだということは、耳にタコができるくらい聞かされてきた。
小さい頃からコーチに才能を見出された子は、毎日厳しい練習に励み、中学生くらいから全日本選手権の舞台に姿を現す。
しかも才能だけではだめだ。お金がいる。
リンクの使用量やコーチへの謝礼。衣装、遠征費……これら全てを自分達で賄わなければならないため、金銭的にも恵まれていなければいけない。
お父さんは小さな美容院を経営していて、お母さんは病院で事務の仕事をしている。妹の郁音(あやね)は今年から小学校になったばかりでまだ小さい。
でも、わたしはコーチもいなければ、毎日練習できるほどのお金もなかった。それに、うちはわたしが好きなだけスケートをするだけの金銭的余裕はなかった。
お母さんはスケートに関しては厳しく「自分でなんとかしなさい。でないとオリンピックはおろか、全日本選手権にも出られないわよ」
だからわたしは小さい頃はお小遣いやお年玉をためて近所の市営のスケートリンクに通っていた。
スケートをするためのお金は、学校の近くのカフェでバイトをして賄っている。練習メニューや演技の構成などは全部京介と一緒に考えながら作っている。
本気でやっている人からすればただのごっこ遊びのように見えるかもしれない。でもわたしたちは小さい頃から本気でオリンピックを目指してやってきた。
高校二年生にもなって地方の選手権からなかなか上に進めなかった。でも諦めずに続けて、今年ようやく東日本選手権に出場できるようになった。
「お母さん、彩叶が今まで頑張ってきたことはわかる。でも、これ以上は現実的に考えて無理なのよ。どこかで諦めないといけないの」
「でも、京介とも約束したし……」
「いつまでも京介くんが一緒にやってくれるとは限らないのよ」
いつものわたしならここで「なんでもお母さんと一緒にしないで!」って言い返すところなんだけど、完全に気力を使い果たしているのか、言い返す気になれなかった。
お母さんは久しぶりに見るわたしのシュンとした表情を見て少し驚いていたけど、納得していると思ったのか、下の売店に買い物に行くと言って部屋を出て行ってしまった。
「彩叶、お母さんはあんなこと言っているけど、毎日彩叶のことをすごく気に掛けているんだよ」
わたしが膨れていると、お父さんが慰めてくれた。
昔からわたしとお母さんが言い合いをしていると、必ず後からお父さんがフォローしてくれる。
正直なところお母さんとわたしは仲が悪いとは言えないかもしれない。
けれど、お父さんのおかげで家庭崩壊せずなんとか一緒に暮らしていけているんだと、たまに思う。
「わかってるよ……」
ベッドサイドからか細い声が聞こえてくる。
「……お姉ちゃん、転けちゃったの?」
郁音が泣きそうな顔をしてこっちを見ている。
「郁音。心配かけてごめんね。お姉ちゃん失敗しちゃった」
これ以上郁音を心配させたくなかったから、精一杯えへへと笑っておく。
一応郁音の前ではかっこいいお姉ちゃんとして振る舞っていたから、こんな姿のお姉ちゃんを見て相当大きなショックを受けているだろう。本当にごめんね。郁音。
そう。わたしは大事なところで失敗してしまった。ただそれだけ。
今まで大会本番では大きな転倒をしたことがなかった。というか、ありえなかった。もちろん今まで練習中には何度も転けていたし、競技中に細かいミスをしてしまうことはたくさんあった。
けど、本番になると持ち前の負けん気のおかげなのか、本番で失敗するなんてありえなかった。でも、今回は違った。
できることなら、もう一度やり直したい。