フィジビリティスタディ

 博士課程前期課程のとき、土岐が狂おしいほど好きだった女性と別れた理由もそれにあったような気がする。彼女は大手不動産会社に就職し、土岐から見れば高い給料を得ていた。博士課程前期課程修了であれば、二浪扱いで多少の就職口もあった。彼女との結婚を選択するならば就職しなければならなかった。彼女と結婚し、きちんとした家庭を築き、社会人としての責任を果たす生き方はそれなりに意味のある生き方であろうとは考えた。しかし、そういう生き方は自分にとっては意味のある生き方であるようには思えなかった。その後、
「彼女は外資系の高給取りの外国人と結婚した」
とゼミのOB会で同級生から土岐は聞いた。

 遠くからサイレンの音が途切れ途切れに聞こえてきた。玄関の門灯をつけ、サンダルを引っ掛けて狭いバス通りにでた。サイレンの音は次第に大きくなり、心臓の鼓動のように点滅する赤色灯が見えた。あたりはすっかり暗くなっていたので、片側一車線の道路の中央に出て両手を大きく振った。救急車はヘッドライトを煌々とつけ、土岐を認めると速度を落とし、二メートルほど手前で停車した。その後ろから、後続のライトバンの運転手が、迷惑そうな面持ちで追い越していった。
 土岐は担架を手にした小柄な救急隊員二名を自宅に誘導した。救急隊員は玄関で靴を脱ぐと狭い台所に上がり、倒れている母の脇に担架を置き、母にメリハリのきいた声を掛けた。
「どうされましたか?」
 母はかすかに唸っているだけで、言葉が出てこない。しゃがみ込んだ一人の隊員が母の手首で脈をとっている。もう一人の隊員が振り返って玄関に茫然と立っている土岐に聞いてきた。
「どうされたんですか?」
「外から帰宅してきたら、そこに倒れていたんです」
「そうですか。ひとまず、救急病院に搬送します」
と言いながら、二人がかりで母をうつぶせのまま担架に乗せた。
「付き添いをお願いします」
と言われるまでもなく、土岐は先刻用意した買い物袋を持ち、門灯をつけたまま玄関の鍵を閉めて、救急隊員に続いた。杉の枯れ枝を踏みしめながら歩くと隣家の主婦が洗い髪のまま詮索したげな面持ちで玄関から首を出していた。普段から会話をすることがほとんどなかったので、土岐は小さく会釈だけした。