フィジビリティスタディ

(だから金井は東京政経大学の理事長に僕を合わせたくなかったのだ。海外出張のためのねぎらいで残業を免除したわけではなかったのだ)

 いつものように八王子駅前から路線バスに乗り、帰宅した。借家の周りには街路灯がないので、玄関は杉林の闇に覆われていた。唯一の灯りは隣家からもれてくる生活の照明だけだった。隣家の脇の細い路地を通って自宅玄関に立ったとき、家の中が真っ暗だった。帰宅時に母が家にいないことは滅多になかった。外出する場合は、かならず連絡をくれていた。 
 玄関の鍵を取り出して、手探りで鍵穴に鍵を差し込んで回してみた。開錠の感触がなかった。そのまま玄関の引き戸を開けると、寒々とした家の中は真っ暗だった。玄関の照明をつけると、台所に続く狭い廊下が闇の中にぼーっと浮かび上がった。その先で、エプロンをかけたまま、うつ伏せに倒れている母の足が見えた。これから夕食の準備に取り掛かろうとしていたのか、エプロンの紐が腰の後ろで結ばれていた。
 土岐は鞄を廊下に投げ出した。
 「どうしたの」
と玄関から靴を脱ぐのももどかしく、駆け寄った。母の背後から肩を揺すると、
「うーん」
と消え入りそうな声で唸っている。
「救急車を呼ぶよ」
と大声で言うと、かすれた声で、途切れ途切れに、
「大、丈、夫、・・・」
と聞き取れないほど小さな声で言う。
「救急車呼ぶよ」
と言い捨てて、固定電話で119に電話をかけた。すぐに出てきた。
「はい、119番です」
 住所を言い、バス停前の道路から駐車場を隔てて、一軒奥の平屋だと教えた。
「道路に出て、待っています」
と言うと、
「十分程度で到着します」
という返答があった。それから、母の状況を聞いてきた。土岐は見たままを言うと、
「とりあえず、動かさないで、そのままにしておいてください」
という指示があった。電話を切ってから母の寝巻きと着替えを探した。それほど多くの衣類があるわけではないが、箪笥のどこに母の下着があるのか分からない。居間にあったガウンを母の背中に掛け、まだ取り入れていない母の洗濯物を買い物袋に入れ、母の老眼鏡と保険証と厚手の靴下を同じ袋に詰めた。他に必要なものを考えてみたが思いつかなかった。