「あんた、いつまで寝てんの!」



ドンドンドンドンドンって、朝起こしに来た親っていうよりヤクザみたいな借金取りがしそうな叩き方。ドアって思っている何倍も薄くて脆いものなんだけどな。そう実感させられる音だった。

「ちょっと、ねえ聞いてるの?お母さん仕事行くから。ちゃんと起きて学校行きなさいよ。お金払ってるんだから」
「……はーい」
「はあ、もう。しっかりしなさいよ本当。じゃあ行ってくるから、戸締りよろしくね」

それから数秒後、階段を降りる足音が聞こえ、バタンッと扉が閉められたのがわかった。布団に潜ったままでも聞こえる。どれだけ乱暴に閉めたんだ。物は大事にした方がいいのに。心の中でそう思っても、もう仕事に出た母にそんな声は届くはずもなかった。

騒がしい朝が終わる。枕元に置いてあるスマホに手を伸ばし時刻を確認すると、8時2分を示していた。

まだ8時だよ。何時までって、あと1時間くらい許容してくれたっていいでしょう。
昨日は深夜までバイトがあったから、寝たのは3時前だった。人間は6時間の睡眠が求められているって何かのテレビで言っていたような気がする。定かではないけれど、6時間必要なのが本当ならばそれは確かにそうだと思うのだ。5時間と6時間じゃ目覚め方がまるで違う。


(…ああもう、朝からうるさいな)

私の日々のサイクルに口を出す母への苛立ちが募る。もう春休みに入ったとつい一週間前に言ったばかりだ。もうすぐ50になろうとしている母は、なんとなく少し忘れっぽくなったような気がする。食卓を囲んでいても同じ話ばかりするし、口を開けば「就活はどうなの」だ。きっとこの家の子供が私じゃなくたってうんざりすると思う。




センター試験に落ち滑り止めだった私立大学に通って3年、春休みが明けたら4年生になる。高いお金と片道1時間半をかけて行く大学にはあまり価値を見い出せないまま、時間だけが過ぎていった。
21歳の春休み。きっと周りは自分の将来に向けて就職活動を進めているのだろう。望んで入った大学だったら楽だったのか、1、2年の頃から将来を見据えて 何かしらの資格取得をめざして講義を取るべきだったのか。考えたところで、毎日バイトに明け暮れ、読書をし、寝るだけの日々を繰り返す私にとってはそのどれもが手遅れである。もうすぐ4年になる学生の正しい春休みを送っているとは思えない、もちろんその自覚もあった。

しかしながら、やりたいことは相変わらず何も無い。公務員も営業も接客も専門職も、何もかもピンと来ない。私がそこで仕事をしているところが、全くもって想像できないのである。インターンには何も参加せず、説明会にも行かなかった。スーツは入学式の時以来着ていないので、今はもうサイズが合わないかもしれない。入学したての頃より体重が5キロほど減った。痩せたといえば聞こえは悪くないが、私の場合は不健康な生活を続けてきた故の痩せなので、全く喜ばしいことではなかった。

SNSはもう2週間近く開いていない。「これから合同説明会」「本格的に就活はじまったつらい」「内定勝ち取るぞ!」とか、3月に入った途端そんな言葉であふれるようになったから。そんな安っぽい言葉を並べて何になるのだ、と思ってしまった。うるせえよ、こっちは今日もバイトしかしてねえよ、とも思った。一応こんな私でも3社ほど『就活』とやらをしているのだが、エントリーシートで当たり前かのように問われる「学生時代に力を入れたこと」と「自己PR」が、驚くほど何も書くことがない。締切まではまだ余裕があるから、と諦めたのが一週間前。そうしているうちに時間は容赦なくすぎている、そんな日々である。

(……履歴書、薬用のリップ、ワセリン、)

バイトの影響か、手が乾燥し赤切れを起こしていた。唇も、冬の乾燥にはなかなか勝てない。ワセリンって意外と高いけど必需品だ。買わないと、後から困る。履歴書は、本屋に売っていると聞いたのに全然置いていないから、世の就活生が皆同じようにその紙切れを求めているのかと思ったなんだか気持ちが沈んでしまい、まだ買えていないものだった。今日こそ買わなければと脳内で呟きながら、重い身体を起こし、ぐーっと伸びをする。日々、特に打ち込むことは無いのに、一丁前に疲労感があった。


こんな私でも、こんな毎日でも、半年後には何処ぞの会社から内定を貰い、さらにまた半年後にはちゃんと仕事をしているのだろうか。つまらない顔してつまらない人生を送っているのかと思ったら、なんだか泣けた。




ワセリンと薬用リップは買ったものの、履歴書はバイト先の近くの本屋では売り切れだったから買わなかった。履歴書とエントリーシートを郵送しなければならないと指示があったけれど、まあ、まだ間に合うでしょ。そんな気持ちで本屋を出たのが17時すぎのこと。18時にシフトを組まれていたので、コンビニで夜ご飯のおにぎりと飲み物を買った。履歴書を買う分のお金を食費に当てただけ。悪いことじゃないのに、コンビニを出たあとはいつも少しだけ罪悪感がある。

「トモちゃんおはよー」
「店長。はよざいまーす」

カランカラン、と控えめに鳴ったベル。レトロで落ち着いた雰囲気の店内に入ると、店長の西野さんが挨拶をしてきたので、私も同じように軽く返した。今のバイト先は、昼間はカフェ、夜はバーを開いている小洒落た店だった。西野さんは30代前半の比較的若い雰囲気のおじさん。八敷知(やしきとも)というのが私の名前なので、このバイト先の人は大抵みんなトモちゃん、と親しい呼び方をしてくれる。

「ノーゲスですか」
「16時くらいから。でもまあ、今日20時に予約3件入ってっからよ、その準備で忙しいからありがてーよ」
「あれ。今日のバイトは……」
「早川は今休憩中。あいつ今日ロングなんだわ」
「なるほど」
「灰崎は19時半から入ってんよ」
「了解です」

お客さんがいない店内を通り、突き当たりにある[staff only]のプレートがかけられたドアを開ける。入ってすぐ、真ん中に置かれたテーブルに突っ伏して眠る男の姿を捉えた。



「……ん、あ。八敷さん、はよざいます」


ドアを開けた音に反応したのだろう。むくりと体を起こした早川くんが、眠そうに目を擦りながら言った。

早川 光(はやかわひかり)くん。一つ年下の男の子で、私と同じバイト三昧勢。ふわふわの黒髪は一度も染めたことがないと、前に休憩室で聞いたことがある。年下だからなのか、私のことをトモちゃんではなく『八敷さん』と呼ぶ数少ない人。

「ごめん、起こしちゃって」
「いえ、全然」
「休憩何時まで?」
「18時までです。八敷さんの入りと同じ」
「そっか。私着替えるし、寝てていいよ」
「や、もういっすよ」

ハハ、と軽く笑った八敷くん。八重歯が覗いていて可愛らしい笑い方だなといつも思う。一つ違うと言うだけでこんなにも変わるものだろうか。20歳の彼がどうしようもなく初々しく見える。同じくバイト三昧な生活をしているはずなのにな。

「客居ました?」
「いや、ノーゲスだった」
「マジか。休憩終わりも誰も客来ないで欲しいな、仕込み結構あるし」
「20時に予約3件だってね」
「そうなんすよね。まあでも、八敷さんいるなら安心です。回しやすいんで」
「いやいや、こっちの台詞だよ」
「いやいや。今日のシフトが灰崎と二人だったらマジしんどかったんで」


その言葉に、思わず動きが止まる。早川くんは、今ここに居ない人の顔を思い出してか、ハッと笑っていた。






「八敷さん灰崎と二人で回したことないんでしたっけ?あいつやばいっすよ、俺と同じくらいに入ってんのに、全然仕事ができない。顔と元気でミスしてもなんとか客の機嫌は取ってますけど、愛嬌だけじゃこっちは回んねえよって感じなんすよねー」
「……へえ」
「あ、もちろん本人の前では「さん」付けてますよ。一応センパイなんで、灰崎サン」

「このことは本人には内緒でお願いしますね」そう言って早川くんは口元に手を当てた。笑って誤魔化すことも出来ず、「ああ、うん」とぎこちなく返事をする。早川くんがそんな私に気付いていたかどうかは分からないけれど、気づいてくれていた方が楽に距離を取れるのにな、とそんなことも思った。

「顔だけって、灰崎のための言葉って感じしません?ヘラヘラ笑って許される奴が居るからこっちが損するっつうか。女は顔がよけりゃなんでもいいんすかね?大学もまともに行ってない…ってか辞めた?みたいな噂だし。あと来る者拒まず去るもの追わず!よくラブホ街で見かけるんですよ」
「…そうなんだ?」
「だから八敷さん、もし声掛けられても断った方がいいっすよ。つーか断って欲しいっす、なんとなく。俺のワガママ、ですけど」

人の悪口というのはどうしてこうも饒舌に放たれるのだろう。早川くんの人懐っこい笑顔も、ちらりと覗く八重歯も、「灰崎」の悪口を聞いただけでどうにもくすんで見えた。




「美味しかったよーありがとう」
「良かったです。またいらしてくださいね」
「もちろん。トモちゃんに会うのが楽しみなんだから」
「もう、お上手ですね」
「まーたかわされちゃった。手強いなぁ。また来るよ、またねトモちゃん」
「ありがとうございましたー」


カランカラン、ベルが鳴る。スーツ姿の男の姿を数人見送ったあと、ようやく店内には静けさが訪れた。

予約3件。個人経営で細々とやっている西野さんのお店にはけっこうハードだった。予約をお断りすれば良かったんじゃないかと思うけれど、どれもこの店の常連の方々だったので、日頃の感謝もあり、せっかくの予約を承らないわけにはいかなかったとのことだった。

「3人ともお疲れ様。いやホント、よく頑張ったわ」

深夜1時半を回った頃。西野さんはそう言って、今日シフトが入っていた3人の前に缶ビールを差し出した。バーは2時まで営業しているのだが、ラストオーダーは1時半で つい先程その時刻を回ったので 本日の営業は終了。大変だったけれど、予約客のみの来店だったので、ラストオーダー前に帰ってくれたこともあり いつもより早くお店を閉めることが出来た。これから片付け諸々はあるものの、あまりにもハードだったので片付ける前に一度乾杯しようぜ、ということらしい。

「ありがとうございます」
「あざーす」

西野さんからビールを受け取った私と早川くんがそれぞれお礼を言う。灰崎くんは「あ、俺今禁酒中でー」と、西野さんに缶ビールを戻していて、西野さんも無理強いはせず、「そうなん?んじゃー代わりに何飲む?」と、グラスを取り出して灰崎くんに問うていた。

「オレンジでもいっすか?」
「いーよ。好きね、おまえ」
「オレンジジュースはいつまでも俺の味方なんで」

へらり、彼が浮かべたのは愛嬌のある笑顔だった。此処の常連の女性の方々や、大人の男性の方々に「灰崎くんはなつっこくて可愛い」と好評の屈託のないキラキラした笑顔。早川くんが裏で毛嫌いしている笑顔。隣にいた彼が、本人に聞こえないように「……顔だけが」と呟いていた声には聞こえないふりをした。

普段とは比べ物にならない忙しさだったこともあり、仕事終わりのビールは体にグッと染みた。

つまらなそうな顔をして働いている未来の私は、毎日こうしてお酒の力に頼って生きていくのだろうか。そうしているうちにアルコールじゃ足りなくなって、ニコチンにも手を出してしまいそうだ。煙草は体に害だと言うけれど、自ら害を求めてしまうほど、社会からの圧や常識に押し潰されそうになるのだとしたら、一概に煙草を良くないとは言えないなと、おもむろにポケットから一本取り出して吸い始めた西野さんを見ながら思った。

「にしてもトモちゃん人気だよねホント。さっきレジしてた村岡さん、冗談抜きでトモちゃんのこと狙ってんじゃない」
「えー、まさか」
「あ、それ俺も思いました。八敷さん心配っすよ、連絡先とか交換しちゃダメですよ?」
「早川はトモちゃんにガチなん?」
「それ本人の前で言うのどうなんすか、デリカシーやばいっすよ西野さん」
「オジサンだから空気が読めねーのよ俺は。悪いね」
「絶対思ってないっすよねそれ…」


西野さんと早川くんのやり取りに、ハハ…と愛想笑いを返す。この手の話は苦手だ。ニタニタ笑う西野さんにも、若干顔をあからめる早川くんにもさして興味が無い。

「実際どうなん、あんくらい年上って。村岡さん大手に務めてるし金は持ってると思うぜ。まあ、多分若干ロリ入ってるかもだけど、根本は悪い人じゃねえな」
「ロリとかマジで無理!八敷さんまじで気をつけてください」
「トモちゃんが好みだったらどうにも出来ないだろ?早川が決めることじゃねーの」
「ええ……八敷さん……」

まだ続くのかこの話。はあ……と溜息をつきながらちらりと灰崎くんに目を向けると、バチッと目が合ってしまった。タイヘンソーダネ、多分そんな感じの意味のアイコンタクト。ソーデスヨ、その意味を含め、灰崎くんにも愛想笑いを返しておいた。



片付けを終えたのは2時を過ぎようとしていた時のこと。「お疲れ様でーす」と一番最初にタイムカードを切ったのは早川くんだった。私も続いてタイムカードを切ったものの、休憩室にギュッと人が濃縮されるのも嫌だったので、バーカウンターの椅子を引いて腰掛ける。すると、「あ、」と西野さんが声を上げた。


「ちょちょ、一瞬で戻るから向かいのコンビニ行ってきてもい?俺今日店残ってちょっと事務作業あんだわ、煙草が足んねえ」
「いいですよ」
「助かるわー。鍵がね、一回一回かけんの面倒なんだよねー。すぐ戻るから。早川のことは帰らせて大丈夫だから、おつかれって言っといてー」
「分かりました」


慌ただしく店内を出た西野さん。一気に静まり返った店内にぎこちなさを覚える。ふたつ離れたバーカウンターに座っていた灰崎くんは、頬杖を付きながらスマホを見ていた。


「……灰崎くん」

私の声に反応した灰崎くんがスマホを閉じ、少しだけ体の向きを変える。目が合って、ふっ、と笑われた。

「んー、トモちゃん」
「お疲れ様」
「だねえ。俺全然使えなかったよね、ごめんね」
「いや……」
「今日は皿1つとグラス2つ」
「え?」
「俺が割った数。全部厨房で割ったからセーフ?だったけど。なーんかな、俺の手、ゆるゆるなんだよ」


灰崎くん───灰崎在真(はいざきあるま)くん。金髪が印象的な男の子。可愛らしい、柔らかい、中性的な顔立ち。歳は私と同じで、大学は早川くんと同じ。辞めたという噂だけれど、真相は聞いたことがない。女の子を取っかえ引っ変えしているという噂もあるけれど、それもまた、謎に包まれたまま。何一つ、灰崎くんの口から正解は聞いたことがなかった。

掴めない人。不思議な人。



「あのさ、灰崎く……」
「あー、ほんっと今日は疲れましたねー八敷さん」


──早川くんが嫌う、"顔だけ"の人。

言葉を遮って、バタンッ、と乱暴に休憩室の扉が開けられた。はあぁー……という大きなため息と共に、私服姿の早川くんが出てくる。「ほんと、俺と八敷さんだけじゃないっすか?こんなに疲れてんの」とわざとらしく言われ、空気がピシャリと締まる。

「ハハ、早川くんオツカレー」
「どーも」
「西野さんが帰ってていいよって言ってたよ」
「言われなくても帰りますよ」
「八敷さん」
「っえ」
「あんまり相手してたら食われますよ?気をつけてくださいね」


感じ悪い、これ以外の言葉が見つからなかった。「ハハ、嫌われてるわ」と苦笑いを浮かべる灰崎くんと、「じゃあ、俺はこれで」と、灰崎くんとは目も合わせず出口に向かう早川くん。休憩室で、灰崎さんには内緒でお願いしますね なんて言っていたくせに、自ら内緒にするつもりなんてないようだ。

「おつかれさまでしたー」


カランカラン、バタン。ベルが鳴り扉が閉まった。


「…ククッ」

二人きりの店内。静寂の中、二つ隣の席で肩を揺らす灰崎くん。何がおかしかったのだろう。私はむしろ気まずさでどんな顔をしているか分からない。


「はぁ……、ごめんね。あんなに露骨に人を嫌えるの凄いなって。笑い事じゃないか、ごめん」
「……いや」
「早川くん、仕事できるもんなぁ。同じくらいに入ったのに俺とはまるで出来が違うからね。早川くん、多分皿割ったことないし。俺、西野さんにわりと好かれてる方だから、それも気に食わないんじゃないかなー」

「なんか申し訳ないわ」灰崎くんが笑う。これは皮肉……だと思う。同じ時期に入ったのに、仕事が出来る早川くんより、皿とグラスを毎度のように割る俺ばっかり贔屓されてるんだよね、と、そういうことだ。

灰崎くんとこれまであまり2人きりになる機会がなかったからイメージがなかったけれど、彼もしかしたら早川くんと同じタイプなのかもしれない。悪口は苦手だ。言うのも聞くのも、だれもいい気がしないから。とはいえ、あれだけあからさまな態度を取られたらムカついてしまう気持ちもわかる。


「早川くん、結構アレだよね、うーんと、……自分の感情に素直っていうか。かっけーよなぁ、羨ましい」


けれど、その予想は違ったらしい。「え?」と声を漏らせば、「ん?」と首を傾げられた。


「何か変なこと言った?」
「え、いや…」
「そう?んでさ、トモちゃんは感情を隠すのが上手いよね。隠すっつうか、あれか。普段から感情を一定に保ってるのか」

凄いなー、みんな。そう言って灰崎くんはカウンターに上半身を倒す。首から上だけを私の方に向けると、彼はへにゃりと笑った。よく笑う人だ。愛嬌がある。可愛い顔立ちをしているから余計に、だ。こんな表情を向けられたら、お客さんだって和むに決まっている。「顔だけ」じゃない。灰崎くんは そういう雰囲気やオーラを作り出すのが上手いのだ、きっと。


「つーかトモちゃん、あんま笑わないよね」
「面白いことは別にないから…」
「ははっ、たしかに、そりゃ笑うことねーや。早川くんは、トモちゃんの前だと可愛く笑うよね。俺あんなん見たことねーや、別に、いいんだけど。八重歯、可愛いよね、早川くん」
「……まあ、そうかも」
「可愛い男キライ?トモちゃんってどんな男がタイプなんだろ。あ、これセクハラかな、大丈夫?」
「大丈夫」

他愛もない話。誰のことも悪く言わない、柔らかい話し方。さっきのも皮肉じゃなかったのかもしれない。灰崎くんは自分が抱えている事実を言っただけなんだ。彼の言った事実を皮肉だと勝手にとらえたのは私。私がひねくれていただけ。そう思ったら、また、自分のことを嫌いになった。


「……灰崎くん、」
「んー」
「灰崎くんは……いつも、凄い」


さっき言いかけた言葉。早川くんが出てきたことによって遮られてしまったけれど、私はそう言いたかったのだ。

「俺が凄い?いやー、皿割るけど」
「そっ、そうじゃなくて…、」

私が灰崎くんだったら。あんなあからさまな態度耐えられない。この人私のこと嫌いなんだって気付いたら、相手のことが好きじゃなくても怖くなってしまう。人に嫌われるのがこわい。そのくせ、誰のことも信用してもいない。早川くんに「悪口言うのは良くないよ」と言わないのは、彼が私にある程度好意をもってくれているから。何か余計なことを言って、灰崎くんにしているみたいな態度をとられるのが嫌だ。笑わないくせに、つまらない人だと思われたくもない。理不尽でどうしようもないわがままを全部飲みこんで生きているから、家族である母にだけ、唯一反抗のつもりで無視してしまう。


「……私は、嘘ばっかりだから。灰崎くんが羨ましい」


灰崎くんは凄い。そうやって笑ってなんでも許せる広い心を持っている。凄い、凄いよ。素直な気持ち。人を貶さない温かい心。全部、私には無い力。二人きりになって、こうして言葉を紡いで気付いたこと。灰崎くんの柔らかい雰囲気と何にも臆さない度胸に、私はずっと憧れていたみたいだ。


「ハハ、トモちゃん悪趣味だ」

そんな声に ばっと顔を上げると目が合った。違う、間違えた、口が滑った。そんなことをいうつもりはなかった。大体灰崎くんとはそんなにちゃんと話したこともないのに、こんなふうに急に 凄いだなんだと言われても困るに決まっている。

「ご、ごめん、今の忘れて…、」
「えー、いやいや。そりゃ無理だ」
「…、深い意味はなくて、……ごめんなさい」
「なんで謝んのー。嬉しいよ、そうやって言ってくれたの、トモちゃんが初めてだからさ」


ドキ、心臓が音を立てた。にひっと笑う灰崎くんは本当に嬉しそうにしていて、それもまた心臓をきゅううっと鳴らす。灰崎くんは普段から明るくて可愛らしい人柄だからギャップと言うほどでも無いけれど、私が知っている印象とはまた少し違う、無邪気な雰囲気も出せるのか…と関心もした。

「トモちゃん、早川くんからなんか俺の話聞いたことある?」
「…え」
「あー、あれね?悪い方の話ね、早川くん俺のこと影で褒めるとか死んでもないって知ってるし」


仕事が出来ない、大学を辞めた、来る者拒まず、ラブホ街でよく見かける。どれが本当で、どれが早川くんの妬み?気になる、気になるけれど、本人に聞いていいものだろうか。


「えっと……、」



───カランカラン、

すると、私の言葉を遮るように扉が開いた。



西野さんからコンビニから戻ってきたのだろう。まだ着替えてなかったのかよーって笑われる気がする。私も灰崎くんも着替えることを忘れていた訳ではなくて、ただ何となく会話が続いてしまっただけではあるけれど。何にせよ、良いとも悪いとも言えないタイミングだったので、私たちはどちらともなく視線を逸らした。


「……あ、あれ、もしかして、お店もう閉まってますか」


入ってきたのは、西野さんではなく、スーツ姿の男の人だった。20代前半……だろうか。メガネを掛けたその人が、バーカウンターに座っていた私たちにか細い声で言う。スーツはヨレヨレでネクタイも曲がっていた。川の鞄を大事そうに抱えている。猫背で、縦に長い、いかにも仕事に追われているサラリーマンという感じがした。

「す、すみません、明かりがついていたのでまだやっているのかと思ってしまいまして」
「あー、すみません。うちはラストオーダーが1時半までで」
「そうだったんですね……、すみません、看板を見落としていました」


椅子から立ち上がった灰崎くんが接客する時のやわらかい話し方で謝ると、スーツの男は心底申し訳なさそうにヘコヘコと頭を下げて謝った。可哀想だけど、店長は未だ煙草を買いに行ったまま戻ってこないし、お店も閉店時間だからどうにも出来ない。「いえ、こちらこそすみません」と謝ると、隣にいた灰崎くんは小さな声で「トモちゃん優しー」と呟いていた。


「あ、あの、また日を改めて来ます。すみませんでした」
「ええ。またお待ちしていま」
「煙草〜っ煙草〜っ俺の主食~っニコチン〜───……あれぇ?」


再びドアが開く。変な歌が不自然に途切れた。

「新規おひとり様?いーよいーよ、座んな」
「え、あの」
「2時だもんなあ。空いてるとこ意外とねえよなー。俺の作る酒は美味いよお兄サン、何が飲みたい?」


コンビニから戻ってきた西野さん。入口付近に突っ立っていたスーツの男を捉えると、嫌な顔ひとつせず彼をカウンターに促し、自分は徐ろにエプロンを付けてカウンターに立った。私と灰崎くんは西野さんの行動についていけないまま呆然と立ち尽くすしか出来ない。西野さんのサービス精神が素晴らしいことは知っていたけれど、閉店後のお客さんにこうして接客しているところを見ると、余計に暖かな人柄を感じた。


そんな私たちに視線を移した西野さんが、「ちょちょ、二人〜」と間延びした声で呼び、手招きをする。「はい」と返事をすれば、西野さんはニッと口角を上げた。



「ほら、二人もカウンター座んな。せっかくだしお前らにも作ってやっから」
「え、西野さん、」
「つーかまだ着替えてなかったの。お前ら好きね、この店」
「いや、えっと……」
「灰崎。おまえも、な」
「や、西野さん俺はっ」
「まあまあ。ほら座った座ったー」


流されるままに、再びカウンターに座る。先程は二つ隣に座っていた灰崎くんが隣にいる。肩と肩の間には何センチ距離があるのだろう。思えば、仕事中も休憩中も灰崎くんとこんなに近い距離になったことは無いかもしれない。




「さてさて お客様方よ、何が飲みたい?」


"店長"の西野さんだ。黒いエプロンが良く似合う。バイトしている時はちゃんと見る機会が無く気づかなかったけれど、西野さんを目当てにこのバーにくる女性客の気持ちが何となくわかった。


「あの……、本当に良いんでしょうか」


スーツの男が控えめに言う。人間の雰囲気は姿勢に影響されるというのは本当らしい。現に、このスーツの男は小さな声と遠慮がちな性格に加えて猫背なので、頑張っても明るいイメージは連想できそうにない。

根暗、引っ込み思案、大人しそう、弱そう、嘗められていそう、オタク気質。見た目から想像できるのはそんな情報ばかりだ。


「遠慮すんなよお兄サン。俺が何のために店開いたと思ってんだ?酒つくんのが好きだからでしかねえだろ。お客様は神ってな、俺は本当にそう思ってんのよー」
「は、はぁ」

そう言われては何も言えまい。スーツの男はグッと口を噤み、「あ、ありがとうございます……」と萎みそうな声で言った。


「あの、西野さん。俺は禁酒中で、」
「あーあー灰崎。お前の禁酒は俺は信用してねえ」
「はい?」
「おまえの禁酒、ろくでもない理由だろ。俺ぁ知ってんだ」
「ろくでもないって……」
「うるせえうるせえ。俺のカクテルは最強なんだよ。飲んでから言えや」
「俺がアルコール摂取で死んじゃう病気とかだったらどうするんです……」
「そうだな、それはそれだな。その時は訴えてくれてもいい」


灰崎くんは反論するエネルギーを使い果たしたらしい。はあぁ……と大きくため息を付き、「分かりましたよ。西野さんのおまかせで」と言った。

禁酒ってこうも呆気なく終わるものなのか。本当に病気だったら灰崎くんは西野さんのことを訴えるのかな……とそんなことを考えた。





「今日のお客様はグダグダうっせえのばっかだからな。西野セレクトで提供してやっから待ってろ御三方」
「……それは西野さんが強引だからでしょ」
「ああん?灰崎おめーまだ何か言うか」
「はいはいさーせんでした」


呆れたように話す灰崎くんは、何だか私が見たことの無い雰囲気を持っている。西野さんが灰崎くんを気に入っているのはもちろんあるかもしれないけれど、それよりも、灰崎くん自信が西野さんに心を開いているようにも思えた。



「お兄サン、名前は?」


スーツの男が小さな声で「ひ、日野《ひの》です」と答える。日野 悠斗《ゆうと》さんは23歳の、社会人1年目のサラリーマンだった。20代前半だろうなという予想は当たっていたけれど、いざ本人から歳を聞くと、1年目にしてはハリが無いなと思ってしまう。



「日野くん、レモンは食えるか」
「……え?あ、は、はい」

「トモちゃんと灰崎は文句なしな。きっちり飲んで酔っちまえ」
「なんすかそれ…」
「わ、わかりました」


はあぁ…と灰崎くんがため息をついている。日野さんも、何を話していいかわからずオロオロと目を泳がせていた。

西野さんの手元は、私たちが座っているカウンターからはよく見えなかった。

バーで働いているものの、お酒のことは詳しく知らない。どのお酒がオススメだとか、どれが甘いとかも全然分からないのだ。このお店でバイトを始めたのは単に立地が良かったことと給料が高かったことが理由なので、西野さんに正直に話したら怒られちゃうかな、とそんなことも思った。




数分して、私たち3人の前に3つのグラスが並べられた。バイト中に何度か見たことがあるものもあれば、初めて見るものもあった。これが、西野セレクト……とやらみたいだ。


「日野くんはニコラシカな。レモンと砂糖 先に食って、それをブランデーで流し込むように飲むんだ」

「ニコラシカ……、すごい、なんか……すごい」

「ハハ。普通の飲み屋じゃあんま見たことねえか」



グラスを塞ぐように輪切りになったレモンが乗っていて、その上に砂糖が乗せられている。私の記憶が正しければ、この店のメニュー表には無いメニューだったと思う。日野さんの前に出されたニコラシカをまじまじと見つめていると、西野さんに「今度作ってやっから」と言われてしまった。そんなに物欲しそうな顔をしていたのだと思うと少しだけ恥ずかしい。


「……これ、なんか、飲むの勇気入ります」

「勘がいいなー日野くん。ニコラシカのカクテル言葉は『覚悟を決めて』だ。今の日野くんに1番必要なもんじゃねえか」



日野さんがテーブルの上でギュッと手を結んだ。グラスを見つめるように俯いている。なにか、覚悟を決めるような出来事があるのだろうか。


「……ぼ、僕は……、会社を、辞めたくて…」


ぽつり、ぽつり、日野さんが震える声を繋いでいく。俯くと猫背が一層目立っている。見るからに自信が無さそうな、弱くてちっぽけな姿に見えた。






「じ、実は、少し前に同じ部署の先輩には相談してたんです……っ、僕、仕事本当出来なくて、迷惑かけてばかりで……向いてないのも分かってて…。だけど、1年目で辞めるなんて早すぎる、根性がないって、……怒られてしまいました。僕なりに頑張ってきたんですけど…っ、自分でもポンコツなことくらい分かっているのに周りからもお前はダメだ、お前は何も出来ないって、どこにいても言われるんじゃ、辛いです……っ、今日も失敗して、残業して……、それで、無性にお酒が飲みたくなって、ここに来ました……」



社会の怖さ。人間関係。ストレスの構築。私が就活をやりたくない理由がまさにそうだった。

やりたくない仕事をしたくない。けれど働かないと世間からは冷たい目を向けられる。失敗は許されず、それなのに弱音すらも許されない。


人間は酷く脆い。誰かのために身を削って生きるほど強くない。自分の機嫌と感情をコントロールするので精一杯。優しい人ほど壊れやすいというのは、誰かを傷付けないために自分を犠牲にする回数が多いから。


日野さんはもう、限界に近い無理をしてきたのだと思う。社会に出て何年目かは関係ない。世界は平等じゃないから、人は、簡単に壊れてしまうのだ。







「俺は日野くんがどんな仕事しててどんな失敗してどんな辛い思いしてきたかわかんねーけどよ、毎日泣いて、肩バッキバキに凝って猫背悪化して視力も悪化するくらい辛いことって、がんばらなきゃいけないことなのか?」

「…っそれは、」

「覚悟決めて、頑張ってきた自分ごとぶっ殺せばいんじゃね?正直、死ぬほど辛い失敗から得られることって、何もねえだろ」




──心を救ってくれる人が、何処かに一人でもいてくれたなら。そしたら、きっともっと早く美味しいお酒が飲めたのにね。



「ぼ、ぼくは……っうう、ぼくはっ、」
「おう、ティッシュあんぞ」
「っ、いいんでしょうか…っ、ぼく、ぼく、」

「それ俺に聞いてどうなんだよ。まあ、俺だったらコンマ3秒で上司の鼻の穴に鷹の爪ぶち込んで辞職するけどな」

「うう……っ、辛かった、辛かったんです、ずっと…っうう……っ、」
「ほんとだわ。んな職場で頑張ってやっていこうって、ドMかお前」
「うっ、うう」
「なあ、日野くん」



「ニコラシカ、うめーぞ」



背中を丸めてぼろぼろと涙を流す日野さんに、西野さんはニッと悪戯に笑っていた。





「ありがとうございます…ぐずっ、…美味しいです……うっ、なんか、大人の味が、ッします」
「泣くか飲むかにしろや俺の酒を勝手に鼻水風味にすんじゃねえ」
「ううっ、すびばぜッ、んぐ」


西野さんからティッシュを受け取った日野さんがずびーっと鼻をかみながら謝る。先程より肩の力の抜けたように見えるのはきっと気のせいではないのだろう。西野さんのカクテルは、心をも救ってくれるみたいだ。「さてと、」と、日野さんから私たちに視線を移した西野さん。私にはどんなカクテルを作ってくれるのか、日野さんに贈られたニコラシカを見て期待が高まる。


「お前らはこれとこれな。灰崎はハーバードクーラー、トモちゃんはジンフィズ」


けれど、西野さんは 日野さんの時と打って変わり、私たちにはカクテルの名前だけを伝え、それらの名前が持つ意味についてはひとつも教えてくれなかった。「気になるなら自分で調べな」と言われ、ぐっと口を噤む。

差し出されたジンフィズは、バイト中によく注文を受けるものだった。ほぼ透明に近い液体にレモンが添えられている。マドラーでクルクルと氷を回し鼻を近付けると、ほのかにレモンの香りがした。


「トモちゃんにそれ、ピッタリ」


意味は教えてくれないくせにそんなことを言われても。スマホは生憎休憩室の鞄の中に入れてある。カクテル言葉が分からないまま、私はグラスに口をつけた。

お酒には特別弱い訳でも強い訳でもない。ジンはアルコールが強いというのはなんとなく分かってはいたけれど、口に含んだジンフィズはさっぱりとしていて飲みやすかった。





「トモちゃん。俺は、どんなトモちゃんも好きよ」
「……はい?」
「若いんだからな、もっと正直に生きな」


多くは語られていないのに、まるで私の心を見透かされたみたいな気持ちになる。私より10年早く生まれて10年早く人生を知っている西野さんの言葉は、私の光みたいだ。「…ありがとうございます」と短く礼を言えば、「おうよ」と軽く返事が返ってきた。



日野さんはニコラシカ、私はジンフィズ。灰崎くんに差し出されたのは、ハーバードクーラーという名前のお酒だった。

西野さんが、「りんごとレモンのミックスジュースみたいなもん」と適当な説明を添える。私が作ってもらったジンフィズよりも色味が強い、りんごとレモンを使ったカクテル。3人分のカクテルはどれもレモンを使用したものだったのは、「おれレモン好きなんだよねぇ」と、そういう理由らしい。


ジンフィズのカクテル言葉はあとで休憩室に戻ったら調べるとして、ハーバードクーラーのカクテル言葉は何なのだろう。

灰崎くんは、目の前に出されたグラスを何も言わずに見つめている。やっぱり、禁酒中だから飲むことに抵抗があるのかもしれない。けれど、西野さんにお酒を作ってもらうなんて早々ない機会だし、飲まないのもそれはそれで勿体ないなぁと、そんなことを考える。





「灰崎、俺の酒はうめーぞ」
「…そんなん知ってますよ」
「カクテル言葉、特別に教えてやろうか?」
「…それも知ってますって」

「ほんと、おまえは変わんねえな」



やはり、西野さんと灰崎くんは私が知らない出来事をなにか共有し合っている仲みたいだ。

会話から読み取るに、少なくとも過去に1回以上、灰崎くんは西野さんにカクテルを作ってもらったことがある。そしてその時もまた、今出されたものと同じ───ハーバードクーラーだったのだろう。



「飲まねえなら、今日割った食器代給料から引いてやろうかなー」
「は、なん…、パワハラっすよ」
「今は営業時間外だからセーフなんだよ」
「意味わかんねぇ…」
「お前だけのために作ったのに飲まないんですかーそうですかー大した理由でもないくせに禁酒とかいってー飲まないんですかー」
「…はあ、もー…うっさいな」



西野さんの少々強引な誘いに、灰崎くんはあきらめたようにため息をつくと、グラスに入ったハーバードクーラーをぐっと飲み干した。グラスにそこまで体積があるわけではなかったけれど、一気飲みとなるとどうしてもハラハラしてしまう。すっかり泣き止んでいた日野さんも、「だ、大丈夫でしょうか?」と不安げに声をかけている。

グラスをテーブルに戻した灰崎くんは、数秒俯いたあと、「あー……」と低い声で唸った。




「……ほんと、サイアクっすよ、西野さん」



アルコールは、時に特別な力を持っている。








「営業時間外なのに本当にありがとうございました。ぼ、ぼく、…あした、部長に相談してみようと思います。…ちゃんと辞められたら、また、ここに来ます」

「おう、待ってんよ」

「本当に、本当に…ありがとうございました」



日野さんは、ニコラシカ1杯分のお金を払い、丁重にお辞儀をして店を出た。

来店時より心なしか猫背がよくなったような気もする。決心がついたことによって心が解放された影響もあるのだろう。明日が、日野さんにとってよりよい一日になることを、こころの片隅で願った。


.


西野さんと私の二人で日野さんを見送った後。カランカラン、ベルを鳴らして店内に戻ると、カウンターのいちばん端に突っ伏して眠る灰崎くんの姿が見えた。


時刻は3時半を回ったところ。灰崎くんは、30分前からこんな感じで、時折「ん“~…」と唸りながら眠りについている。


「トモちゃん、ごめんねーこんな遅くまで」
「いえ、問題ないです」
「灰崎《こいつ》の禁酒理由、どーよ。笑えるっしょ」
「笑える…と言うより、意外、でした」
「はは、そーかそーか」


灰崎くんが禁酒している理由は持病を持っている訳ではなかった。そして、西野さんはその理由を知っていた。バイト終わりにビールを差し出して断られたのも、「あーそんなん?」なんて言っておいて、早川くんに悟られないようにするためのカモフラージュだったと言う。



「……灰崎くん、お酒弱いんですね」





ハーバードクーラーを飲んで数分すると、灰崎くんは明らかに様子がおかしくなった。おかしくなった……と言うよりは、確実に『酔っている』人になったと言う方が正しいだろうか。

「なんなんすかもおー…」とか、「西野さんまじ意味わかんねえっす」とか「寝たい」とか。普段バイトしている時は ニコニコ笑って愛嬌を振りまいているはずの灰崎くんはどこにも居なくて、代わりに、全然笑わない灰崎くんが現れた。

意外だったのだ、本当に。勝手なイメージではあるけれど、灰崎くんはお酒が強いひとだと思っていた。



「普段ヘラヘラ笑って誤魔化してるくせに、酔うと自分のこと引くほど卑下して喋るんだよ。トモちゃんもさっき見たろ。俺最初見た時すげー悲しくなったもんな。聞いてるこっちが同情してもしきれないくらい、灰崎は自分のことを嫌ってる」

「……そうですね」

「灰崎は、多分この先もトモちゃんにはあんなん見せるつもり無かったんだと思うんだけど。俺はさ、トモちゃんには灰崎のこと知って欲しいって、勝手に思ってたわけよ」

「…それは、どうしてですか?」

「そりゃあれだよ、灰崎とトモちゃんが似たもの同士だから」



灰崎くんと私が似ている。具体的にどこが、とは 言われなかった。けれど確実に、たしかに、私たちは似ているらしい。





「灰崎起きろ。タクシー呼ぶから帰れ」
「ゔゔ〜…ん」
「ポンコツ酔っ払いめ」
「うぅぅん、ゔっざいでず、にしのさん」
「ウザイだぁ?森に捨ててやるかコラ」
「ん"う……」
「そんでまた寝んのかおまえ……」



目覚めたらきっと灰崎くんはいつもの彼に戻っていて、早川くんに何を言われてもどんな態度を取られても、笑っているのだろう。

大学には行かず、女性関係にだらしないと噂を立てられ、バイトに来たらグラスを割る。それが普通だとされても尚、彼は笑っている。


私は、明日からもまたいつも通りできるだろうか。似たもの同士だなんて、空っぽな私と同じにされて灰崎くんは嫌じゃないだろうか。



『全部中途半端でゴミみたいな生活してて、心ん中でいっぱい黒いこと思ってて、俺ばっかりなんでこんなことしなきゃなんないんだっても思う。言うこと聞かない俺の手からグラスが落ちて、破片を片付ける度に これが刺さって血だらけになって指ごと無くなっちゃえばいいのにって思うし、知らない人とのセックスは苦痛だし、酒飲んでいい気分になって全部どうでも良くなりたいのに弱いから3杯で死ぬしさぁ、ほんと、まじで、かなり最悪』




アルコールが回った灰崎くんは、聞いているこっちが悲しくなってしまう過去の話をしていた。






灰崎 在真。21歳、フリーター。


高校時代までバドミントン部に所属していて、インターハイに行くほどの実力の持ち主だったという。けれど、手首を怪我して引退する前に退部。「手がゆるゆる」と言っていたのは、怪我の影響だったみたいだ。

本来ならスポーツ推薦を貰えるはずだった大学には行けなくなり、止むを得ず地元の大学に進学するも、やりたいことが見つかることはなく、時間の無駄だと感じて3年の夏にやめたらしい。


手が痙攣してしまうのでバイトもろくに出来ず、本当にお金がない時はホテル街を彷徨って、年上の女性からお金を貰う。西野さんのバーでバイトするようになってからも、バイトがない日は未だにそういうことをしているらしい。早川くんが見たのは、その時の灰崎くんだったのだと納得した。


そんな生活をしていた灰崎くんが、ある日ベロベロにお酒を飲んで路上で死にかけていたところを 西野さんが拾って介抱したという話だ。そこからの経緯は、西野さんが常に軽いノリがあることもあって、流れるままにここで灰崎くんを雇うことにしたとのことだった。






話を聞いて思ったのは、やっぱり私たちはどこも似ていないということだった。


私には、インターハイに行った経験も、怪我で挫折をしたことも、大学を辞める勇気を持ったこともない。冒険しない平凡な道を、つまらないつまらないと言いながら歩いてきただけの人間だもの。灰崎くんと似たもの同士だなんて、灰崎くんに失礼だ。



『おれ本当なんで生きてんのか分かんないよ、なんの価値もない。おれ、毎日命の無駄使いしてるんだ』



命の無駄使い。灰崎くんはそう言って自分で自分を侮辱する。苦しかった。日野さんも私も、灰崎くんにかけるべき正しい言葉が分からず、そこにはただどんよりと重い雰囲気が漂っていたのを覚えている。



「トモちゃん、タクシー呼ぶから一人で帰れる?灰崎帰れそうにないから、俺ん家連れて帰るけど。それとも、トモちゃんも一緒に来る?」


先程のことを思い返していた私に、灰崎くんを担いだ西野さんが言う。「え?」と声を零せば「どっちでもいいよ」と返された。どっちでも良いって、一緒に来るって、どういうこと。



「ああ、でも、灰崎はカクテル言葉詳しいよ」


そう言われ、言葉を飲み込んだ。後で調べようと思ってはいた。けれど、自分で調べるのと 人から意味を聞くのとでは、耳への溶け込み方が違う。灰崎に教えて貰えるのならその方が良いと、私は思ってしまった。……けれど でも、本当に良いのだろうか。私なんかが灰崎くんに踏み込んで──…、


「トモちゃん」


名前を呼ばれ、顔を上げる。




「知りたがることは なにも悪いことじゃねえぞ。それに言ったろ?もっと正直に生きなって」


───正直に生きることが、命を大切に扱っていることになるのなら。





───
──




「あんた、どういうつもり?」



17時。家に帰ると、おかえりよりも先に母にそう言われた。鋭い視線を向けられ、ギュッと手を握る。手汗がしめっていて、やけに温かかった。



「バイトばっかりして、就活はちゃんとしているの?どうしていつもそうなの。どうしてちゃんとできないの。周りの友達はもうみんな就活頑張って居るんでしょう、あんただけよ、こんな時期にまだバイトばっかりしてるのは」

「……、」

「聞いてるならうんとかすんとか言いなさいよ。あんた口無いの?普通に頑張ることがどうして出来ないの。今頑張らないでいつ頑張るの?常識的に分からない?あんた本当、これからどうするの。娘が就職浪人とかフリーターとか、恥ずかしくておばあちゃん達に顔向けできないでしょう」


今日もよく動く口だ。フツウもジョウシキも聞き飽きた。そんなことよりも、私は まず最初におかえりって言われたかった。そう言ったって、どうせ母は聞いてくれない。くだらないと吐き出すように言われるだけ。母に対して自分の感情を殺すのは、もう慣れっこ。


「これ以上、お母さんのストレスにならないで」
「……それ、そっくりそのままお母さんに返すよ」
「はあ?」



「これ以上、私のストレスにならないでよ、お母さん」



──そう、いつも通りの私だったら。





「普通も常識も義務じゃないよ。みんなと同じことしてるのが普通?就活するのは常識?大学4年になる春休みにバイトしてるのはそんなにダメなことなの?違うのは体裁だけでしょ。社会に出てるのは変わらないのに、そうやってお母さんみたいに言う人がいるから、常識と普通が当たり前になっちゃうんじゃん……っ」



言い返してきた私に、母は驚いたように目を見開いている。口答えしてくるとは思わなかったのだろう。当たり前に私が母の言葉に頷くと思っていたから。だから、そんな顔するんでしょう。


「バカじゃないの、働くことは人間の常識でしょう!?何も大手に入れなんて言ってないじゃない!普通にどこかに正社員で受かってくれたらお母さんはそれで……っ」

「そんな常識押し付けてくんなって言ってんじゃんっ!」



就活生がたった3社しか応募しないのは異常なの。書類選考で落ちて病むのはいけないこと?就活が落ちて当たり前、内定貰えたらラッキーって、誰が最初に言ったの。

必死になって書き出した自分の長所もスラスラと出てきてしまう短所も、お祈りメールが届いた途端、突然無価値なものに見えてくる。それを当たり前って、超えなきゃ行けない壁だって、誰かが決めた当たり前に苦しみたくないよ。



『トモちゃんは感情を隠すのが上手いよね。隠すっつうか、あれか。普段から感情を一定に保ってるのか』
『俺はどんなトモちゃんも好きよ』
『若いんだから、もっと正直に生きな』

『おれ本当なんで生きてんのか分かんないよ、なんの価値もない。おれ、毎日命の無駄使いしてるんだ』



もう疲れたんだ。頑張れない人間なりにここまで頑張ってきたんだ。人をランク付けする常識なんか、人を簡単に傷つける普通なんか、粉々に砕けて全部無くなっちゃえ。


「……ほんと、しょうもない」






───昨夜、……いや、今朝の話。

バーの2階にある西野さんの家にお邪魔した私は、灰崎くんと色んな話をした。眠っていた彼は、西野さんに半ば強制的に飲まされた水で段々と頭が冴えてきたのか、虚ろな瞳に私を映すと、「……うわ、トモちゃん」と青ざめた顔で言った。



「おれ、何言った……?」
「色々、言ってたよ」
「いろいろ……」

「でも、いつもの灰崎くんより、少しだけ身近に感じた」
「……は」

「私たち、似てるのかな。西野さんが言ってた。ジンフィズのカクテル言葉、灰崎くんは知ってるんでしょう」



西野さんは気を使って自室に戻って寝ている。私と灰崎くん、二人分の呼吸がリビングに響く。朝方6時。灰崎くんが目覚めるまで、私はずっと この部屋でこれまでの人生について考えていた。


私はどうしてこんなに空っぽなのか。人に興味が無かったからだろうか。口うるさい母の元に生まれたからだろうか。大学選びを間違えたから?受験期に頑張らなかったから?


違う、そんなんじゃない。私は、ずっと私を好きになれなかったから空っぽだったんじゃないのか。



「…ジンフィズは、トモちゃんにピッタリだとおもうよ」



すっかりアルコールが抜けた灰崎くんの落ち着いた声が、リビングに落ちる。


「カクテル言葉は、『在るがままに』。おれも、西野さんと同じ気持ち。トモちゃんはトモちゃんのまま居てほしい。気使えるし、安易に心を開かない。時々暗い顔してる時もあるけど、それすらも、おれは魅力的だと思ってる」







どうして私は頑張れないんだろうとずっと思っていた。人と同じことをするのが嫌いだった。けれど 母に言うと怒られるから、仕方なくやっていた。


無駄に要領だけが良いせいで、私はやればできる人 みたいに思われているのも嫌だった。やれば出来るじゃなく、やりたくないからやらないんでしょう。勝手にやらせようとしないで、といつも頭の片隅で思っていた。


「トモちゃんはすげーよ。辛いことばっかでもちゃんと生きてる。嘘ついたとしても、ちゃんとさ、常識に馴染もうとしてるんだろ。偉いし、すごい」

「……灰崎くん、悪趣味だ」

「トモちゃんも悪趣味だろ。おれのことすごいって、最初にいったのトモちゃんだから」



灰崎くんは悪趣味だ。私なんかのことをすごいって、おかしな話。

「生きてるだけで凄いよ。だからもう、トモちゃん頑張るのやめよう。そのままでいなよ。やなこと全部無視しよ」
「じゃあ、灰崎くんも笑って誤魔化そうとするのやめよう。早川くんに言い返していいよ。てか言い返しなよ、ムカつくよ、普通に」
「ふはっ、トモちゃん性悪」
「灰崎くんも性悪」


「ハーバードクーラーのせいかなぁ。あれ飲んだから、おれ、トモちゃんとこうやって話せてるのかも」

「……嘘つきでお酒に弱い灰崎くんにピッタリだよね」

「調べた?」
「調べた。気になったから」
「じゃあ、ジンフィズのも知ってた?」
「灰崎くんが寝てる間に調べたよ」
「うわ、あんな説明しちゃってなんか恥ずいわ」



けれどでも、私たちはやっぱり、似ているのかもしれない。





───
──


「もう、お母さんの言う通りにはならない。一回しかない人生、お母さんのものにはしたくないから」

「知《とも》…!」

「お母さんが悪いんじゃないよ。……でも、お母さんのフツウと私のフツウは違うんだ。私、フツウでいるために頑張るの、もう疲れた。私は、私のままでいたい」


お母さんが作った私も、フツウになろうとする私も、くだらないししょうもない。感情を殺して ヘラヘラ笑って みんなと同じように就活してお母さんに反抗しない、自分に嘘ばっかりつく人生。

もういいよ、もうやめよう。もう、飽きたから。


「、なんなのよあんた…っ」
「残念ながら娘だよ。バイトばっかりしててまともに就活も頑張れない、空っぽな娘」
「どこで間違えたの…!?」
「どこも間違えてない。私とお母さんが合わなかっただけ。私、フツウになりたくて生きてるんじゃないから」
「ああぁ、もう、もおぉ……っ」


「ごめんねお母さん、フツウに頑張れなくて、ごめんね」



西野さんと灰崎くんのおかげで、日野さんの来店のおかげで、私はやっとそう思えたよ。







「トモちゃん、おつかれ」
「灰崎くん、おつかれ」



「どう?人生の進捗」

「んーん、最悪。また書類で落とされちゃった」
「そりゃ御社、センスねーわ」
「自分らしさについて記述するところ、『それなりに生きてるだけでえらいと思います』って書いたせいかなー」
「最大の特徴じゃん。トモちゃんの、つうか人間の一番偉いとこだわ」
「だよねだよね。次、がんばる」



「灰崎くんはどう?人生の進捗」


「この間早川と二人で回す日、グラス一回も割らなかった」
「えっ凄いじゃん」
「高校ん時使ってたサポーターしたんだよ。したらさ、早川のヤロー 鼻で笑いやがった」
「ごめんね灰崎くん、それ私も笑っちゃうかも」
「でも割らなかったんだよ。効果はあるってこと」


「あ、あとさ、西野さんに 正社員としてここで雇ってもらうことになったわ」

「えっほんと?凄い」
「だからさ、バーテンダーの勉強、ちゃんと始めた。元々興味はあったから、カクテル言葉とかは結構知ってた方なんだけど」
「凄いよ灰崎くん、サポーター新しいの買ったら?」
「バカにしてんなトモちゃん」


「トモちゃん、なんか作ってあげる?練習台になってよ。あ、明日面接とかある?そしたらやめとこう」
「ううん、無いから大丈夫。作ってくれるの?」
「いーよ。何飲みたい?」


「……ハーバードクーラーかな」


「え。おれ、トモちゃんに隠してること、もうないよ」
「私があるの」
「え?」
「灰崎くん、あのね」





























「灰崎くんのことが好きだよ」