ワセリンと薬用リップは買ったものの、履歴書はバイト先の近くの本屋では売り切れだったから買わなかった。履歴書とエントリーシートを郵送しなければならないと指示があったけれど、まあ、まだ間に合うでしょ。そんな気持ちで本屋を出たのが17時すぎのこと。18時にシフトを組まれていたので、コンビニで夜ご飯のおにぎりと飲み物を買った。履歴書を買う分のお金を食費に当てただけ。悪いことじゃないのに、コンビニを出たあとはいつも少しだけ罪悪感がある。

「トモちゃんおはよー」
「店長。はよざいまーす」

カランカラン、と控えめに鳴ったベル。レトロで落ち着いた雰囲気の店内に入ると、店長の西野さんが挨拶をしてきたので、私も同じように軽く返した。今のバイト先は、昼間はカフェ、夜はバーを開いている小洒落た店だった。西野さんは30代前半の比較的若い雰囲気のおじさん。八敷知(やしきとも)というのが私の名前なので、このバイト先の人は大抵みんなトモちゃん、と親しい呼び方をしてくれる。

「ノーゲスですか」
「16時くらいから。でもまあ、今日20時に予約3件入ってっからよ、その準備で忙しいからありがてーよ」
「あれ。今日のバイトは……」
「早川は今休憩中。あいつ今日ロングなんだわ」
「なるほど」
「灰崎は19時半から入ってんよ」
「了解です」

お客さんがいない店内を通り、突き当たりにある[staff only]のプレートがかけられたドアを開ける。入ってすぐ、真ん中に置かれたテーブルに突っ伏して眠る男の姿を捉えた。



「……ん、あ。八敷さん、はよざいます」


ドアを開けた音に反応したのだろう。むくりと体を起こした早川くんが、眠そうに目を擦りながら言った。

早川 光(はやかわひかり)くん。一つ年下の男の子で、私と同じバイト三昧勢。ふわふわの黒髪は一度も染めたことがないと、前に休憩室で聞いたことがある。年下だからなのか、私のことをトモちゃんではなく『八敷さん』と呼ぶ数少ない人。

「ごめん、起こしちゃって」
「いえ、全然」
「休憩何時まで?」
「18時までです。八敷さんの入りと同じ」
「そっか。私着替えるし、寝てていいよ」
「や、もういっすよ」

ハハ、と軽く笑った八敷くん。八重歯が覗いていて可愛らしい笑い方だなといつも思う。一つ違うと言うだけでこんなにも変わるものだろうか。20歳の彼がどうしようもなく初々しく見える。同じくバイト三昧な生活をしているはずなのにな。

「客居ました?」
「いや、ノーゲスだった」
「マジか。休憩終わりも誰も客来ないで欲しいな、仕込み結構あるし」
「20時に予約3件だってね」
「そうなんすよね。まあでも、八敷さんいるなら安心です。回しやすいんで」
「いやいや、こっちの台詞だよ」
「いやいや。今日のシフトが灰崎と二人だったらマジしんどかったんで」


その言葉に、思わず動きが止まる。早川くんは、今ここに居ない人の顔を思い出してか、ハッと笑っていた。






「八敷さん灰崎と二人で回したことないんでしたっけ?あいつやばいっすよ、俺と同じくらいに入ってんのに、全然仕事ができない。顔と元気でミスしてもなんとか客の機嫌は取ってますけど、愛嬌だけじゃこっちは回んねえよって感じなんすよねー」
「……へえ」
「あ、もちろん本人の前では「さん」付けてますよ。一応センパイなんで、灰崎サン」

「このことは本人には内緒でお願いしますね」そう言って早川くんは口元に手を当てた。笑って誤魔化すことも出来ず、「ああ、うん」とぎこちなく返事をする。早川くんがそんな私に気付いていたかどうかは分からないけれど、気づいてくれていた方が楽に距離を取れるのにな、とそんなことも思った。

「顔だけって、灰崎のための言葉って感じしません?ヘラヘラ笑って許される奴が居るからこっちが損するっつうか。女は顔がよけりゃなんでもいいんすかね?大学もまともに行ってない…ってか辞めた?みたいな噂だし。あと来る者拒まず去るもの追わず!よくラブホ街で見かけるんですよ」
「…そうなんだ?」
「だから八敷さん、もし声掛けられても断った方がいいっすよ。つーか断って欲しいっす、なんとなく。俺のワガママ、ですけど」

人の悪口というのはどうしてこうも饒舌に放たれるのだろう。早川くんの人懐っこい笑顔も、ちらりと覗く八重歯も、「灰崎」の悪口を聞いただけでどうにもくすんで見えた。