一年ぶり。俺、東京でもなんとかやっていけてるよ。心配しないで。
目を開け顔を上げる。井之口家と彫られたそれが目に入る。
母は俺が東京に行ってすぐに病気で亡くなった。父はそれがショックだったのか独居で痴呆が始まって衰弱し、後を追うように数年で他界した。一人息子である俺が家に残っていれば少しは違ったのだろうか、後悔がないと言えば嘘になるだろう。

夏休みも後二日。
次の日、俺は帰省してから何度目かの約束の場所へ行った。あの夏の思い出の場所へ。一緒に遊んだ最後の日に。
ずっと子供の頃から何度も遊んでいた山を登り、初めて一人で登った頂上を越えて。何年も、何度も通っている内にできてしまった下りへの道を通って、久しぶりでもわかる下りのルート。体力が落ちているのかあの頃の倍くらい時間がかかっているが、不思議と嫌な疲れはない。初めての時はあっちに行って引き返した、ここでよく休んでいた、そしてここで滑り落ちた。
思い出の残る景色を過ぎ、そしてたどり着いた場所。


そこは俺の思い出とは少し違っていた。去年の大雨のせいだろうか、あの大きな岩が少し下流に流されていた。
「変わっちまうんだな。」
自然と出た独り言で更に噛みしめることになる。約束のあの岩の場所も変わってしまって、思い出まで流されたような気分だ。目印がなくなってしまったら、これでは会えなくなってしまうみたいで、それはまるであの夏はもう終わったんだということを突き付けられる気分だった。でもそんなこと関係なく今更こんなところに来たって元々会えるはずなんか無いんだと、頭ではわかっている。

もし。もし、両親が言っていたようにヨーコ姉ちゃんが本当に妖怪か何かだったら、そうしたら、また会えるのだろうか。
確かに今思えば不思議なことはある。飲食をした記憶がなかったり、遊んだ詳細な記憶がぼやけている。それは子供だったから記憶がアヤフヤということもあるのかも知れないが、それすら定かではない。
だからもしかしたらと、そしてそんなことすら期待してしまう自分が情けない。
だけどもし例え会えたとして、それが今更何になるというのか、どうしたいのか。その答えなんてないまま、何もしないまま、昔二人で遊んだことをなぞるように思い出しながら河原の石に腰掛ける。
河原で遊ぶことは、もうない。

時が経って、この河原だけじゃなく俺も変わってしまったんだ。いつまでもあの頃のままではいられない。
日が沈み、帰る時間になる。
俺は約束の場所に背を向け、帰り道へ向かう。
最後に一度だけ振り返り

「・・・・・・・ヨーコ姉ちゃん・・・・・。バイバイ。」






次の日、荷物をまとめて駅に向かう。もう東京に戻らなければ。明日からは仕事だ。
途中、優紀子が俺を待っていた。
「もう・・・行っちゃうんだね。」
「ああ。休暇は今日までだからな。」
「今年も、山に行ってたの?」
「・・・ああ。」
「やっぱり、・・・私には、教えてくれない?」
俺がその言葉に答えられないでいると優紀子が「そっか・・・。」と言って俯いてしまった。

そのまま二人で駅まで歩く。
「・・・なんだか懐かしいね。高校生の時はこうやって登校してたよね。毎日。」
「ああ、そうだな。毎朝早くて大変だったよな。」
「私は嫌じゃなかったよ。あの頃は皆で遊びに行ったり、勉強会やったり。楽しかったなあ。」
「何気ない景色の全部に思い出があるもんな。ここは。」
そう言って辺りを見渡す。近道だとか言って走り回った水路。よく遊んだ公園、駐車場、荒れ地でさえ全部に何かしらの思い出がある。
ないのは変わってしまった景色だけだ。
「まこちゃんはさ、どうして、・・・東京に行ったの?」
「それは、ここだと仕事がないから。」
「嘘。本当はいくつか誘われてたよね。途中までは出て行く気はなかったでしょ?」
「それは・・・。」
「それも、私には、言えない?教えてはくれないの?」
「それは・・・優紀子には、」
そこまで言って俺は口をつぐんだ。だけど言わんとしていることは伝わってしまう。それだけ長い付き合いだから。俺にとって、お互いにとって、離れてもなお一番長い付き合いだから。お互いのことは何となくわかる。
「関係ない?かも知れないけど、でも、私は。」
優紀子は俺のことを気遣ってくれているんだ。力になりたいと思ってくれている。ずっと昔から。だから俺も、まずは打ち明けなきゃいけない。俺の事を。俺の気持ちを。


駅に着いて、二人でよく過ごした誰もいない待合室。
通学の時に何となく決まったお互いの定位置ともいえる椅子に腰掛ける。
「来年さ、」
「うん。」
「連れてくよ。」
「え?」
「山。」
「・・・いいの?」
「ああ。でも結構大変だぞ。」
「頑張るよ。」
「その時にさ、全部話すよ。今まで内緒にしてたこと。でも凄い情けない話なんだぜ。わけわかんない話だし。だからきっと優紀子が思ってるようなことじゃ全然ないから。」
「でも、まこちゃんにとっては大事なことなんでしょ?」
「・・・ああ。」
「だったら知りたいな。来年、待ってるからね。私。」


電車の到着が迫って、二人で待合室を出た。
「なあ、優紀子。」
「ん?」
「優紀子はさ、東京に出てくる気、ないんだっけ。」
「・・・うん。あんまり、ないかな。不安、なんだと思う。ここを出る事も、ここの事も。」
「その、そういう不安とかさ、解消できるように頑張るからさ、ついてきてほしいって言っても、駄目かな?」
「え?それって・・・。」
「今すぐに答えてくれなくてもいい。だけど、考えておいてくれよ。」
沈黙の間に電車がホームに到着する。
「来年また帰ってくるからさ。その時に俺の気持ちを聞いてほしいんだ。」
情けないくらい少しの勇気しか出せない俺に、優紀子はいつもの笑顔で
「うん。」
と。そう答えてくれた。

俺は今でも、そして未だに。あの夏の日をおっている。
そんな俺が前に進めるんだろうか。
そんな俺が優紀子を幸せにできるんだろうか。
そんな不安を胸に俺は毎日の生活に戻る。
故郷を離れて。
思い出を後にして。