中学時代より少しだけ伸びた気のする、ショートボブの色素の薄い髪。一度も太陽の光を浴びたことがないような、真っ白い肌。まっすぐにこちらを見据える、茶色い瞳。
 半年前とほとんど変わらない姿に、すぐに記憶がよみがえる。

 春野花耶(かや)
 中三のときのクラスメイト。
 彼女との関係を説明するとしたら、それ以外の表現は思いつかない。
 間違いなく、友達と呼べるほど親しくはなかった。だけどその顔も名前も、僕はしっかりと覚えていた。
 中学を卒業するよりだいぶ前に彼女は学校に来なくなっていたから、他のクラスメイトよりいっしょに過ごした期間は短いけれど、それでも他のクラスメイトより、僕は彼女のことをよく覚えていた。

「うれしいな」
「え?」
「倉木くん、わたしのこと覚えててくれたんだ」
 そんなことを考えていたら、僕の反応を見て春野がうれしそうに顔を輝かせる。
 かすかに紅潮した頬が間近に見えて、僕はそこでようやく我に返って視線を外した。
「最後に倉木くんと会ったの去年の十月だから、半年ぶりぐらいだよね。もう忘れられてるかもって、ちょっと心配だったんだ」
「……覚えてるよ、そりゃ」
 忘れる、わけがない。
 正直ろくに関わりのなかった他のクラスメイトの記憶はもうおぼろげだけれど、春野のことはきっと、忘れたくても忘れられなかっただろう。
 あの日、泣いていたひまりの姿といっしょに、記憶にこびりついてしまっている。

 久しぶりに見た春野の顔に、にわかにあの日の衝撃がよみがえってきた気がして、すっと身体の芯が冷えたとき、
「ね、それより倉木くんさ、今バイト探してるんでしょ?」
 これが本題だというように、意気込んだ調子で春野が話を戻した。僕の顔を覗き込むように、軽く身を乗り出してくる。
「浮かない顔してたけど、なかなか良いところが見つからない感じ?」
「……まあ」
 僕が曖昧に頷けば、春野がなぜかうれしそうに笑って、
「それならさ、良いバイトがあるんだけど!」
「え」
 思いがけない言葉が続いて、僕は春野のほうを見た。
 目が合うと、彼女は僕に向けて指を三本立ててみせ、
「三十万」
「は?」
「三十万円、払うから」
 まっすぐに僕の目を見据えたまま、春野が重ねる。顔は笑っていたけれど、その目は怖いぐらいに、真剣だった。
「倉木くんの一週間を、わたしに買わせて?」

 ゆっくりと告げられたその言葉は、聞き間違えようもないほどくっきりと、耳に響いた。
「……は?」
 それでも咄嗟に、なにを言われたのか理解できなかった。
 ぽかんと春野の顔を見つめ、僕は間抜けな声をこぼす。そのあいだも春野は視線を揺らさず、ただじっと僕の目を見つめ返していた。
 冗談ではないのだと、それだけは、その目から読み取れた。

「なに、どういうこと」
 乾いた声で、なんとかそれだけ聞き返せば、
「一週間だけでいいから、倉木くんの時間を買いたいの。今日が月曜日だから、来週の日曜日までの七日間。三十万円で、わたしといっしょに過ごしてほしい。もちろん平日は学校が終わったあとの放課後だけでいいから、どうかな?」
「いや、どうかなって……」
 丁寧に説明されても、理解は追いつかない。
 なにを、言っているのだろう。
 三十万円で、僕の時間を買う?

「買って、なにするの」
「いっしょに過ごすだけだよ。わたしと遊んでほしい。わたしの行きたいところに、付き合ってほしいの」
「いや、意味わかんない。それで三十万?」
「うん。大丈夫、ちゃんとあるよ」
 僕がなにを疑っていると思ったのか、春野はおもむろに膝の上に置いていたハンドバッグを開けると、中から茶封筒を取り出した。
「ほら」と封筒の口をこちらに向けて開いて、中を見せてくる。たしかにそこには分厚い札束らしきものが見えて、なんだか軽く目眩がした。

「前払いでいいよ。倉木くんが受けてくれるなら、今ここで、このお金、倉木くんにあげる」
「いや、ちょっと待って……」
 押し寄せてくる困惑に、僕は右手で額を押さえながら春野の顔を見ると、
「なんで、そんなこと。なんのために?」
「倉木くんと、いっしょに一週間過ごしたいから」
「いや、だからなんで。なんで僕と」
「ずっと、好きだったんだ、わたし」
 ふいに耳を打った切実な言葉に、一瞬息を止めた。
 春野はちょっと照れたように表情を崩すと、指先で頬を掻きながら、
「中学のときから。わたし、ずっと倉木くんが好きだったの。だから倉木くんといっしょに過ごしたい。だけどそれはわたしだけで、倉木くんはわたしのこと、好きじゃないでしょ?」
 そんなことない、と言うべき場面だったのかもしれないけれど、僕は言えなかった。
 包帯を巻いた足を引きずり、青い顔をして教室に戻ってきた沙和(さわ)の姿が、なぜかそこで一瞬、頭に浮かんだ。
「だから」
 春野はそんな僕の気持ちもすべて心得ているような表情で、静かに続ける。
「タダで時間をもらえるなんて思ってない。ちゃんと買うよ。倉木くんの一週間を、三十万でわたしに買わせてください」