……あ、そうだ。
明日も雨が降ったら、死のう。
そう思い立ったのは、談話室の窓から、降りしきる雨をぼんやり眺めていたときだった。
雨は、今日で三日降り続いている。梅雨は明けたはずなのに、もう長いこと太陽を見ていない。
雨の日は退屈で憂鬱で、大嫌いだった。
入院中の唯一の気晴らしにしている、中庭の散歩ができない。気圧のせいで頭痛がするのもうっとうしいし、そもそも窓の外に灰色の景色が広がっているだけで、どうしようもなく気分が沈む。陽の光の差し込まない薄暗い病院内は、いつにも増して寒々しい。
明日こそは晴れるといいな。
ここ数日は、ずっとそんなことを願いながら過ごしていた。
だけどそんなささやかな願いすら叶えてくれない暗い空を何日か続けて眺めているうち、ふと嫌になった。これ以上、雨空を見るのが耐えられなくなった。
急に、ぷつんと糸が切れたみたいだった。
たぶん、そこが限界だったのだろう。
もうずっと、疲れていた。
終わりの見えない治療にも、周りの同級生との落差に落ち込むことにも、真っ暗な未来を悲嘆することにも。
小さな頃からずっと大好きだった漫画も、最近はあまり読めなくなっていた。
主人公の活躍や成長にわくわくする気持ちより、幸せそうな主人公を妬む気持ちのほうが大きくなってきて、読むのがつらくなった。
好きなものといえば漫画ぐらいしかなかったわたしにとって、それはわりと深刻な絶望だった。
途方に暮れ、少し前に、わたしは自分で漫画を描きはじめていた。
他人の描く知らない誰かの物語を読んでいるから、妬んでしまうのだと思った。自分で作った主人公なら、自分の分身みたいなものだ。自分の分身を自分の手で幸せにする物語なら、受け入れられる気がした。
そんな縋るような思いで必死に描いていた漫画も、ふいに、すべてバカらしく思えた。
誰が読むわけでもない、自分の願望を詰め込んだ、自己満足のための下手くそな漫画なんて、一生懸命に描いたところでなんになるのだろう。完成しても、誰かになにかを残せるわけでもないのに。
一度そう思ってしまったら、もうだめだった。
なにもかも無価値で、意味のないことだとしか思えなくなった。
そうして迎えた翌朝。
雨は、変わらず降り続いていた。
厚い雲が隙間なく覆う暗い空が、神様から突きつけられた答えのような気がした。
わたしはもう、これ以上生きていても仕方がないのだと。
こんな人生はここですっぱり終わらせてしまうことが、正しいのだと。
そうお墨付きをもらった気がして、気持ちが固まった。悲しいとは思わなかった。これでようやく解放されるのだという、奇妙な幸福感だけに包まれていた。
午前中は、どんな方法で死ぬかを考えながら過ごした。
ロープや練炭を今から用意するのは難しい。なにも道具を使わず、できるだけ確実な方法で、と考えたら、やっぱり飛び降りかな、という結論に至る。
だけど小さな子どもも入院しているこの病院の屋上から飛び降りるのは、さすがに憚られた。あまり遠くへは行けないけれど、せめて少しは離れた場所にしよう。飛び降りた瞬間を知り合いに見られるのも嫌だし。
しばらく考えた末、小さな頃に行ったことがある、雑居ビルの屋上から飛び降りることに決めた。市街地からは少し離れた場所にあるし、ここからわたしでも歩いて行ける距離だ。
場所が決まれば、あとは着替えて出発するだけだった。
そこでふと、机の上に置かれた青いギンガムチェックのノートが目に留まる。
とくに整理するようなものもないと思っていたけれど、漫画を描いていたあのノートだけは、さすがに見られると恥ずかしい。病院で捨てるとうっかり見つかるかもしれないから、持っていってどこか外で捨てようか。
そんなことを考えながら何気なく中を開いてみると、最後のコマは、ヒロインの顔が片目だけ描かれたところで終わっていた。
昨日、描いている途中で看護師さんに呼ばれたせいだ。なんとも中途半端な感じになっているその絵を見て、せめてこの顔だけは描きあげておこうかなと、なんとなく思った。
わたしはノートを持って病室を出ると、いつものように談話室へ向かった。
けれど今日の談話室は、いつになく人が多かった。騒がしさにうんざりしたので、どこか静かな場所を探して歩きだす。
階段を下りていると、それだけでポンコツな身体はすぐに疲れてしまった。一階のロビーに差しかかったところで息が上がってきて、わたしは会計を待つ通院患者に混ざって椅子に座った。
ノートを膝の上に載せて開く。自分の描いた漫画を、なんとはなしに最初から読み返していく。
ヒロインは、わたしとは正反対の女の子だ。
元気で明るくて、友達がたくさんいて、男の子にもよく好かれる。キラキラした、その場にいるだけで周りまで明るくするような、太陽みたいな女の子。
わたしの夢見ていた姿を、叶わなかった姿を、慰めるように無心に描いた。
……バカみたい。
唇の端から乾いた笑みが漏れる。おかしくて、涙が出そうだった。
こんなことをしても、どうせ虚しくなるだけだったのに。
もういいや。こんな漫画、どうでも。
そう思ったら、急にその下手くそな絵を見ているのも耐えられなくなって、ヒロインの笑顔の上に、シャーペンをめちゃくちゃに走らせようとしたときだった。
「――えっ、春野?」
わたしを呼ぶ、素っ頓狂な声が飛んできたのは。
トントン、と指先で肩を叩かれた瞬間からもう、苛立ちが湧いていた。
「なあなあ倉木」
後ろの席の吉村が、笑いの交じる声で僕を呼ぶ。
振り返ると、まず目に飛び込んできたのは、吉村のにやけ顔ではなく、彼がこちらに向けて掲げたスマホの画面だった。
「そういや倉木に見せんの忘れてたわ、これ」
画面を見る前から、そこに映っているものは知っていた。今日、吉村が興奮気味に、別のクラスメイトに自慢している姿を見ていたから。
「昨日買ってもらったんだけど、やばくね? めっちゃかっこよくね?」
「……やば」
僕は口元が引きつりそうになるのをなんとか堪え、驚いた表情を作ると、
「マジで買ってもらったんだ」
「おう、誕生日プレゼントで! めっちゃ頼み込んだわ。これから勉強死ぬ気で頑張るからっつって」
吉村がうれしそうに掲げていたのは、赤いエレキギターの写真。趣味でバンドを組んでいるという彼が、以前から欲しいと繰り返していた、人気ブランドの高級ギターだった。
「音もすっげえ良いの。今度聞かせてやるよ」
「いいよ。どうせ違いわかんないし」
「いやいや、これは倉木でもぜったいわかるぐらい良いから。やっぱ良いギターは全然違う」
熱弁する吉村に曖昧な笑顔だけ返して、僕はおもむろに立ち上がると、鞄を肩にかけた。
「そろそろ電車来るから」
「あ、ごめんな、呼び止めて」
話をさえぎられたことに気を悪くするでもなく、吉村は感じの良い笑顔で、「じゃあな」と手を振る。
その手に握られたスマホがいつの間にか最新機種になっていることに、そこで気づいた。先週までは違ったはずなのに。
いつ変えたのだろう。昨日が誕生日だったらしいから、そのタイミングだろうか。
先ほど見せられたピカピカの高級ギターよりもなぜか、そちらのほうが頭に引っかかった。
吉村は、それについてはなにも言わなかった。まるで取るに足りないことみたいに。実際、今の彼はギターのことで頭がいっぱいで、スマホの機種を新しくしたことなんて、どうでもよかったのだろう。
彼にとっては、きっと、その程度のことなのだろう。
「ね、そういえば明日さ、初バイト代が入るんだよねー」
下駄箱で靴を履き替えていると、後ろから女子のそんな声が聞こえてきた。
「え、いいね」と別の女子の声が続く。
「なんか買うの?」
「とりあえず、あのバッグか財布かなって」
「あー、この前の雑誌に載ってたやつ?」
「そうそう、めっちゃかわいかったから、やっぱ欲しくて」
「うわ、いいなー。買ったら見せて」
否応なく耳に入ってくるその華やいだ声に、思わず顔が歪む。先ほどの吉村に対する苛立ちと合わさって、胸の奥でどす黒い感情が膨らむのを感じた。
いいな、お前らは。心の中で吐き捨てる。
履き古したスニーカーの踵を乱暴に踏み、早足で下駄箱を離れる。これ以上、彼女たちの声を聞きたくなかった。
なんの迷いもためらいもなくバイト代を自分のために使うという、そんな自分以外の“当たり前”を、これ以上突きつけられたくなかった。
外に出ると、雨が降っていた。
念のため持ってきていたビニール傘を差し、黒い雲が重く垂れ込める空の下を歩きだす。普段より早送りな周りの景色につられるよう、自然と早足になった。
駅のホームに人は少なかった。
スマホを取り出し時間を確認する。次の電車が来るのは十五分後だった。
僕は空いていたベンチに腰を下ろし、そのままスマホをいじる。昨日から何度眺めたかわからないバイト求人サイトを、また開く。
高校に入学してすぐ始めた短期バイトが、先週終了した。早く次のバイトを探さなければならない。しかし家から通える距離で高校生可という条件で絞るだけでもかなり限られてしまい、なかなか見つけられずにいる。
できるだけ近場がよかったけれど仕方ない、と少し範囲を広げて探しはじめたところで、ひとつ通えそうな距離にあるファミレスの求人を見つけた。
《時給870円》
タップするなり真っ先に飛び込んできたその文字に、ふと指先が止まる。
べつに特別安いわけではない。このあたりでの、高校生の平均的な時給だ。今まで働いていたところもそれぐらいだった。深夜は働けないので、学校に通いながらだと、入れるのは一日に四時間程度。
何日かかるのだろう。
ふと頭の隅でそんなことを思い、どうしようもなく乾いた気分になった。
吉村が欲しがっていたあのギター。たしか値段は三十万ほどだと聞いた。ここで何日働けば、あれを買うことができるのだろう。
計算しかけて、すぐにやめた。考えたくなかった。そもそも三十万稼いだとして、僕はそれを自分のために使うことなんてどうせできないのだから。
理解できない、と思う。たかだか趣味のバンドのために三十万もするギターを欲しがるのも、なにより、それを誕生日プレゼントとして親にねだれる神経も、心底理解できない。
三十万あれば、なにができるのだろう。何日分の入院費がまかなえるのだろう。何日分の薬が買えるのだろう。
考えていると胸の奥のどす黒い靄がさらに広がりそうで、追い出すようにまた画面を眺める。頭上の屋根を叩く雨粒の音が、耳を覆う。
二年前から使っているスマホの画面は、右下の隅に細かなヒビが入っている。それでも動作に問題はないので、修理する気も買い替える気もなかった。きっとこのまま、完全に壊れて使いものにならなくなるまで使いつづけるのだろう。ずっと。
普段は気にもしていなかったそのヒビが、なぜか今はやけに目についた。
爪先で触れ、削るようになぞる。
もうなにも考えないようにしようと思っても、いつもうまくいかない。
吉村に見せられた赤いエレキギターが、彼の持っていた最新型のスマホが、下駄箱で聞いた女子たちの会話が、ぜんぶ頭にこびりついている。
もし、と思う。
――もし僕に、そのお金があれば。
何度となく浮かんできてしまうその言葉に、ぐっと唇を噛みしめたときだった。
「ねえ、バイト探してるの?」
ふいに真横から声がした。僕に向けられた声だと、はっきりわかる近さだった。
驚いて振り向けば、いつからいたのか、そこにはひとりの女子が座っていた。
思いのほか近くまで顔を寄せていた彼女と至近距離で目が合い、ぎょっとして一瞬息が止まる。
けれどそのまま、視線を動かすことはできなかった。
数秒、固まったように彼女と見つめ合ったあとで、え、と声が漏れる。
「春野……?」
「うん。久しぶりだね、倉木くん」
白いシャツワンピースの上に淡い黄色のカーディガンを羽織った彼女が、にこりと笑いかけてくる。
僕は笑顔を返すのも忘れて、そんな彼女の顔を呆けたように眺めていた。
中学時代より少しだけ伸びた気のする、ショートボブの色素の薄い髪。一度も太陽の光を浴びたことがないような、真っ白い肌。まっすぐにこちらを見据える、茶色い瞳。
半年前とほとんど変わらない姿に、すぐに記憶がよみがえる。
春野花耶。
中三のときのクラスメイト。
彼女との関係を説明するとしたら、それ以外の表現は思いつかない。
間違いなく、友達と呼べるほど親しくはなかった。だけどその顔も名前も、僕はしっかりと覚えていた。
中学を卒業するよりだいぶ前に彼女は学校に来なくなっていたから、他のクラスメイトよりいっしょに過ごした期間は短いけれど、それでも他のクラスメイトより、僕は彼女のことをよく覚えていた。
「うれしいな」
「え?」
「倉木くん、わたしのこと覚えててくれたんだ」
そんなことを考えていたら、僕の反応を見て春野がうれしそうに顔を輝かせる。
かすかに紅潮した頬が間近に見えて、僕はそこでようやく我に返って視線を外した。
「最後に倉木くんと会ったの去年の十月だから、半年ぶりぐらいだよね。もう忘れられてるかもって、ちょっと心配だったんだ」
「……覚えてるよ、そりゃ」
忘れる、わけがない。
正直ろくに関わりのなかった他のクラスメイトの記憶はもうおぼろげだけれど、春野のことはきっと、忘れたくても忘れられなかっただろう。
あの日、泣いていたひまりの姿といっしょに、記憶にこびりついてしまっている。
久しぶりに見た春野の顔に、にわかにあの日の衝撃がよみがえってきた気がして、すっと身体の芯が冷えたとき、
「ね、それより倉木くんさ、今バイト探してるんでしょ?」
これが本題だというように、意気込んだ調子で春野が話を戻した。僕の顔を覗き込むように、軽く身を乗り出してくる。
「浮かない顔してたけど、なかなか良いところが見つからない感じ?」
「……まあ」
僕が曖昧に頷けば、春野がなぜかうれしそうに笑って、
「それならさ、良いバイトがあるんだけど!」
「え」
思いがけない言葉が続いて、僕は春野のほうを見た。
目が合うと、彼女は僕に向けて指を三本立ててみせ、
「三十万」
「は?」
「三十万円、払うから」
まっすぐに僕の目を見据えたまま、春野が重ねる。顔は笑っていたけれど、その目は怖いぐらいに、真剣だった。
「倉木くんの一週間を、わたしに買わせて?」
ゆっくりと告げられたその言葉は、聞き間違えようもないほどくっきりと、耳に響いた。
「……は?」
それでも咄嗟に、なにを言われたのか理解できなかった。
ぽかんと春野の顔を見つめ、僕は間抜けな声をこぼす。そのあいだも春野は視線を揺らさず、ただじっと僕の目を見つめ返していた。
冗談ではないのだと、それだけは、その目から読み取れた。
「なに、どういうこと」
乾いた声で、なんとかそれだけ聞き返せば、
「一週間だけでいいから、倉木くんの時間を買いたいの。今日が月曜日だから、来週の日曜日までの七日間。三十万円で、わたしといっしょに過ごしてほしい。もちろん平日は学校が終わったあとの放課後だけでいいから、どうかな?」
「いや、どうかなって……」
丁寧に説明されても、理解は追いつかない。
なにを、言っているのだろう。
三十万円で、僕の時間を買う?
「買って、なにするの」
「いっしょに過ごすだけだよ。わたしと遊んでほしい。わたしの行きたいところに、付き合ってほしいの」
「いや、意味わかんない。それで三十万?」
「うん。大丈夫、ちゃんとあるよ」
僕がなにを疑っていると思ったのか、春野はおもむろに膝の上に置いていたハンドバッグを開けると、中から茶封筒を取り出した。
「ほら」と封筒の口をこちらに向けて開いて、中を見せてくる。たしかにそこには分厚い札束らしきものが見えて、なんだか軽く目眩がした。
「前払いでいいよ。倉木くんが受けてくれるなら、今ここで、このお金、倉木くんにあげる」
「いや、ちょっと待って……」
押し寄せてくる困惑に、僕は右手で額を押さえながら春野の顔を見ると、
「なんで、そんなこと。なんのために?」
「倉木くんと、いっしょに一週間過ごしたいから」
「いや、だからなんで。なんで僕と」
「ずっと、好きだったんだ、わたし」
ふいに耳を打った切実な言葉に、一瞬息を止めた。
春野はちょっと照れたように表情を崩すと、指先で頬を掻きながら、
「中学のときから。わたし、ずっと倉木くんが好きだったの。だから倉木くんといっしょに過ごしたい。だけどそれはわたしだけで、倉木くんはわたしのこと、好きじゃないでしょ?」
そんなことない、と言うべき場面だったのかもしれないけれど、僕は言えなかった。
包帯を巻いた足を引きずり、青い顔をして教室に戻ってきた沙和の姿が、なぜかそこで一瞬、頭に浮かんだ。
「だから」
春野はそんな僕の気持ちもすべて心得ているような表情で、静かに続ける。
「タダで時間をもらえるなんて思ってない。ちゃんと買うよ。倉木くんの一週間を、三十万でわたしに買わせてください」
僕は心底困惑しながら、そんな春野の真剣な顔を見つめていた。
ずっと好きだった。
生まれてはじめて向けられた、告白の言葉を反芻する。それでも湧いてくるのは、喜びとは程遠い、困惑だけだった。
だって、わからない。なんで、
「……なんで、僕なの」
春野に好かれるようなことをした覚えはない。そもそも、彼女とはあまり関わりがなかった。クラスメイトだったのだから何度か話したことぐらいはあるけれど、それだけだ。
思えばあの頃から、僕はずっと春野に困惑していた。しばしば話しかけてくる彼女に、どう対応すればいいのかわからずにいた。
教室で顔を合わせるなり、『野球やめたって本当?』と怒ったような表情で訊いてきたり、その翌日、突然漫画本を十冊ほど持ってきて、『これ面白いから貸してあげる』なんて言ってきた彼女に。
「なんでって、うーん」
僕の質問に、春野は顎に手をやり、考え込むような表情になる。そうしてしばし、難しい顔で宙を睨んだあとで、
「うれしかったから」
「え」
「去年の夏休みに、病院でわたしたち何回か話したでしょう。あれがすごく楽しくてね、それにうれしかったの。わたし、それまで、あんなふうにおしゃべりできるような友達っていなかったから」
言われて、ふいに記憶が手繰り寄せられる。
教室で、彼女から話しかけられるようになる少し前。
たしかに僕は病院で、何度か春野に会っていた。野球の試合で怪我をして、通院していた市立病院に、春野がいたから。
彼女は入院していて、病院に行けばいつも談話室にいた。だから通院のついでに、彼女とも少し話をするのが日課になっていた。春野とまともに話したのは、そのときがはじめてだった。
たしかにそのときの春野は、楽しそうにしてくれていたような気はするけれど、
「……いや、それだけ?」
答えを聞いても疑問は晴れず、僕は眉を寄せる。
話をしたといっても、本当に他愛のない会話だけだった。彼女を喜ばせるようなことを言った覚えはない。だから今この瞬間まで、自分が春野に好意を向けられているなんて、まったく考えたこともなかった。
けっきょく春野とは連絡先の交換もしなかったし、彼女がなんの報告もなく学校に来なくなったあとは、一切の関わりがなくなっていたから。
「うん。それだけじゃだめ?」
だけど春野は迷いなく言い切って、ちょっと困ったように首を傾(かし)げる。
「いや、だめっていうか……」
そう無邪気に訊ねられると返事に詰まって、僕は口ごもる。
わからない。あんな関わりの中で、いったい僕なんかのどこを好きになったのだろう。
たしかに春野は、クラスでは少し浮いている感じの女子だった。休み時間も、誰と話すでもなく、ひとり黙々と漫画を読んでいた姿を覚えている。
だけどべつに、それで嫌われているというわけではなかった。彼女に友達がいなかったのは、ただ単に、彼女があまり学校に来ていなかったからだ。
実際、春野ともっと仲良くしたいと思っていたクラスメイトは多かったはずだ。女子のあいだでの評判はよく知らないけれど、少なくとも男子のあいだでの春野の人気はわりと高かった。単純に、春野の見た目がかわいかったから、というその一点で。
だからきっと、その気になれば彼氏のひとりぐらい、春野には簡単に作れたはずだ。べつに、僕しかいなかったから、なんていう卑屈な理由で、こんなパッとしない男にこだわらなくても。
「とにかくわたしは、ずっと好きだった倉木くんと、一週間いっしょに過ごしたいんです」
理解が追いつかずにいる僕を待たず、春野は真剣な口調で畳みかけてくる。
「わたしの片思いなのはわかってるから、ちゃんと対価は払うし。すごく割の良いバイトだと思うけどな。一週間で三十万。ね、どうかな?」
「……いや、どうもこうも」
本気なのだ。
まっすぐな目で見つめてくる春野に、それだけは嫌になるほど、理解した。
また軽く目眩を覚えながら、僕は黙って春野の持つ茶封筒に目を落とす。
春野が、本気で言っているのだとしても。
……ありえないだろう。一週間で三十万なんて、割が良いどころじゃない。どう考えてもおかしな話だ。三十万は、こんなに簡単に手に入れていい金額じゃない。
僕は目を伏せ、短く息を吸う。そうして、無理だよ、とゆっくり告げようとしたときだった。
ふいに、声が喉の奥で絡まった。
……手術。
脳裏を、そんな単語がよぎる。どくん、と耳元で心音が鳴った。
もうすぐだと、聞いている。
ひまりの病気を治すための、手術の日は。
母は僕を心配させるようなことは言わない。お金のことなんて、僕の前ではなにひとつ口にしない。だけどもちろん、手術費が決して安くはないことぐらい、僕にもわかる。それだけではない。手術後はしばらく入ることになるという特別個室の入院費も、きっとバカにならないのだろう。
少しでも家計の足しになればと思って始めたバイトも、実際は高校生が稼げる額なんてたかが知れていた。これから先同じように働いたところで、きっとたいした助けにはなれない。
――だけど。
だけど、もし。
今、ここで、この三十万が手に入るとしたら……?
唾を飲み込む。知らず知らず握りしめていた拳に、力がこもった。
「……どうやって」
「ん?」
「どうやって用意したの、こんな大金」
三十万だと春野は言った。中身は確認していないけれど、彼女の様子を見るに、それは間違いないのだろう。ぺらぺらの薄い封筒に入れられたそれは、まるで飴玉でも差し出すかのような軽さで、こちらへ向けられている。
「お小遣い」
「え?」
「わたしのお小遣いだよ。わたしの家、すっごいお金持ちで、お小遣いたくさんもらってるんだ」
また、彼女の言葉を理解するのに、少し時間を要した。
あっけにとられて春野の顔を見ると、彼女はなぜかちょっと困ったように笑って、
「でもね、わたしあんまり買いたいものとかなくて、お金があまっちゃってたんだ。それで考えたの。わたしの欲しいものってなんだろうって。そうしたら倉木くんが浮かんだの。倉木くんしか浮かばなかった。だからこれはもう、倉木くんに使うしかないなって」
恥ずかしい秘密を打ち明けるみたいに、はにかみながら話す春野の顔を、僕は黙って見つめていた。
お小遣い。
彼女の口にしたその単語を、胸の中で繰り返す。
不思議な感覚だった。吉村のギターやスマホを見たときのようなどす黒い感情は湧かず、むしろあらゆる感情が、すうっと引いていくのを感じた。
その言葉を、僕は心のどこかで期待していた気がした。
この三十万を、春野がはした金だと言ってくれることを。
そしてそんな自分に気づいたとき、喉奥から笑いが込み上げてきた。口元が歪む。
「なんだ、それ」
額を押さえていた右手で、ぐしゃりと前髪を握りしめる。顔を伏せると、足元には僕の汚れたスニーカーと、おろしたてのような春野の真っ白いパンプスが並んでいた。
その光景にまた、乾いた笑いが漏れる。
きっと違うのだ、なにもかも。僕と春野は、生きている世界が違う。だから僕にとっての三十万と、春野にとっての三十万は、まったく別物なのだ。
――だったら。
べつに、いいんじゃないのか。
「倉木くん?」
急に笑いだした僕に、春野が戸惑ったように声をかけてくる。
僕は息を吐くと、目尻に浮かんだ涙を乱暴に拭ってから、顔を上げた。
心配そうに眉を寄せて僕を見ていた春野と、まっすぐに目を合わせる。そうしてすっと息を吸ってから、口を開いた。
「いいよ」
短く返した僕の声は、自分でも驚くほど投げやりに響いた。
「三十万で、春野に売るよ。僕の一週間」
「えっ、ほんとに!?」
「うん。こんな割の良いバイト他にないし」
そう、これはバイトだ。自分の口にした単語を、確認するように繰り返す。
春野もそう言っていた。べつに、春野からただ三十万をもらうわけではない。僕は春野といっしょに過ごすという仕事をする。
春野も言っていたように、僕にとって春野は好きな女の子というわけでもない。むしろどちらかというと苦手で、あまり関わりたくない相手だった。だから対価をもらうのは正当なことだ。金額が釣り合っていないのではないか、とか、そんなことは僕が気にするべきところではない。だって、春野がそれでいいと言っているのだから。
「わあ、よかった!」
僕の答えにぱっと顔を輝かせた春野が、茶封筒をあらためて僕のほうへ差し出してくる。うれしそう、というより、どこかほっとしたような笑顔で。
「じゃあ一週間よろしくね、倉木くん!」
それは本当に、なんのためらいもない渡し方だった。三十万というお金に対して少しの未練も執着も感じない、まるで本当にいらないものみたいに。
いや、みたいではなく、本当にいらないのだろう。はした金なのだから。春野にとっては。何日働けば稼げるのかと、僕が考えることすら嫌になったその金額が。
考えているとまた苦い笑いが込み上げかけて、僕は唇を噛む。振り払うように目を伏せ、差し出された封筒へゆっくりと手を伸ばす。
受け取ると、見た目以上にその封筒は重量感があって、三十万という金額を実感した。
「よし、じゃあさっそく行こっか!」
僕の手に封筒が渡るなり、春野がきびきびと言って立ち上がる。僕にふたたび迷いが生じる隙を与えないような早さだった。
「え、どこに」
「とりあえず今日はね、恋木神社に行こ!」
そう告げた春野の声に重なるように、電車の到着を告げるベルが鳴った。まもなく上り電車がまいります、とアナウンスが続く。
「恋木神社?」
彼女が挙げたのは、地元にある縁結びの神社だ。
困惑する僕にかまわず、電車はさっさと目の前の線路に滑り込んでくる。
「さ、行こ!」と楽しそうな春野に促されるまま、僕たちはふたりでその電車に乗り込んだ。
「さて、まずは契約の内容を確認しておこうか」
扉近くのボックス席が空いていたので、向かい合う形で座ったところで、春野がちょっとあらたまった調子で口を開いた。
「契約?」
「うん。アルバイト契約の内容。大事でしょ?」
電車が動きだし、走行音のせいで声が少し聞き取りづらくなる。
春野は軽くこちらへ身を乗り出すようにして、「まずはね」とさっきまでよりいくらかはっきりとした声で話しだすと、
「期間は、さっきも言ったけど、今日から来週の日曜日までの七日間。時間は、学校が終わったあとの放課後、七時ぐらいまで大丈夫かな? 倉木くんって門限何時?」
「門限とかとくにないよ」
むしろ門限を気にしないといけないのは春野のほうじゃないのか。お金持ちのお嬢様らしいし。そんなことを思ったけれど、あえて言いはしなかった。
「そっか。ちなみに今週の放課後は毎日空いてるの?」
「空いてる」
「そういえば倉木くん、部活は? 野球してないの?」
思い出したように春野が口にしたその単語に、ちりっと口の中に苦みが広がる。
「……してないよ。もうやめた」
「え、なんで?」
「時間もお金もないし」
話題を打ち切るように素っ気なく返せば、春野もなにか察したようにそれ以上は訊いてこなかった。
「そっか」となんとなく神妙な声で相槌を打ってから、
「それで、土日だけどね」
と気を取り直すように話を戻した。
「できれば土日は朝から夕方まで、一日時間をもらいたいんだけど、いいかな?」
「いいよ」
三十万ももらうのだから、さすがにそれぐらいはしようと思っていた。
それでも時給換算すればえげつない金額になることに違いはないだろうけれど、そこについてはもう気にしないことにする。有り余るほどお金を持っているやつが、自分の好きなようにお金を使っているだけなのだ。僕が気にする必要はない。
「よかった。じゃあ土日、空けておいてね。予定入れちゃだめだよ」
「わかった」
言われなくても、バイトが入らない限り、もともと僕に土日の予定なんてない。野球もやめたし、友達とどこか遊びにいくなんてことも、もうぜったいにない。そんなことに使えるお金はないから。
「次に遊ぶ場所だけど、基本的にわたしの行きたいところに付き合ってもらいます」
「うん、それでいいよ」
僕のほうには春野といっしょに行きたい場所なんてとくにないのだから、むしろそうしてもらわなければ困る。
「そこで使うお金も、ぜんぶわたしが出します。だから倉木くんはお財布持ってこなくていいよ」
「いや、そのお金はこの三十万から出せばいいんじゃ」
「ううん、それは倉木くんの時間代だもん。別途経費はこっちで出すよ、もちろん」
「……それはどうも」
春野がそう言うのなら、もうなにも考えず、言われたとおりにすることにした。一円も使わなくていいのなら、それに越したことはない。
「それで、僕はどんな感じにすればいいの」
「ん、なにが?」
「いっしょにいるあいだ、春野の彼氏っぽく振舞ったほうがいいの? どういう感じで春野といっしょに過ごせば」
くわしくは知らないけれど、そういうサービスがあることはちらっと聞いたことがあった。レンタル彼女とか、レンタル彼氏とか。お金を払って、疑似恋人としてデートをしてもらう。
三十万ももらって、ただただいっしょに過ごすだけでいいとはさすがに思えなかったので、春野が望んでいるのもそういうことなのかと思ったけれど、
「えっ!? いや、か、彼氏なんてそんなっ!」
春野はなぜかぎょっとしたように大声を上げ、両手をぶんぶんと顔の前で振った。彼女の顔が耳まで赤くなったのを見て、僕までぎょっとしながら、
「いや、本当に彼氏になるわけじゃなくて、その、いっしょに遊ぶあいだだけ……」
「そんなそんな、とんでもない! ふつうでいいよふつうで! 倉木くんにわたしの彼氏なんてそんな、振りでも申し訳なさすぎる! めっそうもないです!」
本気で焦ったように全力で首を横に振る春野に、僕のほうがなにか変なことを言ってしまったような気がして、急に恥ずかしくなった。
「あ……そ、そうですか」
「うん! ああ、びっくりした」
春野は赤くなった頬を冷ますように、自分の手でぱたぱたと顔を扇ぎながら、
「倉木くんはべつに、わたしになにもしてくれなくていいんだよ」
「なにも?」
「うん。ただ、わたしといっしょに一週間過ごしてくれれば。わたしはただ、それだけでいいんだ」
穏やかな声で言い切った春野は、本当に、心からそう思っているように見えた。
降車駅に着いたときには、雨はやんでいた。
見れば春野の持ち物は小さなハンドバッグだけで、傘の類はなにも持っていない。だから雨がやんでくれていたことに、僕は少しほっとしていた。
もし雨が降っていたら、駅から神社までの道中、彼女を僕の傘に入れて歩かなければならないのだろうかと思っていたから。
市街地から少し離れ、お店の代わりに田んぼと民家が増えてきた街並みの中に、目的の神社はあった。
全国でもめずらしい『恋命』を祀る神社として、このあたりでは人気の観光名所となっている恋木神社も、平日の夕方はひとけがなかった。
緑が深く、風が街中よりも涼しく感じる。
「わー、かわいい!」
カラフルなハートの陶板が敷き詰められた参道を見つけるなり、春野がはしゃいだ声を上げた。参道だけでなく、入り口に置かれた石碑や灯篭など、境内のいたるところにハートのモチーフはちりばめられている。
キラキラした目でそれを見渡している彼女に、僕はふと怪訝に思って、
「まさか、ここ来るのはじめてなの?」
僕の家は、この神社の徒歩圏内にある。そしてたしか、春野の家も近かったはずだ。中学の頃、家の方向が同じだという春野と、何度かいっしょに帰ったことがある。
若い女性向けに全振りしたような神社なので、このあたりに住んでいる女子なら、当然一度は来たことのある場所だろうと勝手に思っていたけれど、
「うん、はじめて来た!」
「え、マジか」
お嬢様はこんな庶民的な場所には来ないものなのだろうか。やっぱり、住む世界が違う人間のことはよくわからない。
「倉木くんは来たことあるの?」
「そりゃ何回かは」
「えっ、恋愛祈願に来たの?」
「いやべつに、ふつうに散歩で」
「あ、そっか。倉木くんの家、この近くだったもんね」
思い出したようにそんなことを呟く春野に、僕はふと眉を寄せる。
「春野もでしょ?」
「え?」
「春野の家も、この近くなんじゃないの」
言うと、なぜか一瞬、春野はきょとんとした顔をした。なにを言われたのかわからなかったみたいに。
だけどすぐに、「あっ、うん、そう」と笑顔に戻って頷くと、
「でも今まで来たことはなかったよ。ね、じゃあ倉木くん、案内してくれる?」
そう言って、楽しそうに参道の先を指さした。
案内と言っても、こぢんまりとした神社だ。参道を歩いた先にある鳥居にたどり着くまで、三分もかからず終わった。
御神紋であるハートのモチーフがほどこされた鳥居をくぐった先には、鮮やかなピンク色の御社があり、その横にはずらりと絵馬が吊るされている。
わあ、とそこでまた春野は黄色い声を上げ、
「すごーい。神殿までかわいい! 映えるね、これは!」
「写真撮ってあげよっか?」
「え、ほんと!?」
なんとはなしに向けた提案に、春野がぱっと顔を輝かせる。そうしてバッグからスマホを取り出しかけたようだったけれど、途中でふと思い直したように手を止めた。「あ、ううん」独り言のように呟いて、そのままなにも持たずにバッグから手を出す。
「やっぱりいいや。ありがとう。それより、早くお参りしよう」
そう言って春野はさっさと御社の前まで進むと、財布を取り出した。
がま口の部分を開け、おもむろに手のひらに向けてひっくり返す。じゃらじゃらと音を立て、軽く十枚以上の小銭が春野の小さな手のひらに落ちてきた。
それをしっかりと握りしめながら、春野は賽銭箱のほうへ歩み寄る。そうして迷いなく、手の中にある小銭を、すべてその中にこぼした。
こんな豪快なお賽銭の入れ方をする人を見たのははじめてだった。
がらららと派手な音を立てながら、小銭が賽銭箱の中に消える。
あっけにとられてその様子を見ている僕にかまわず、春野はそのまま手順に沿って鈴を鳴らした。二回お辞儀をしてから、ぱんぱんと手を叩く。そうして目を閉じると、手を合わせ、じっとなにかを祈りはじめた。
長いこと、春野は動かなかった。
三分は経っただろうか。いつまでこうしているのだろう、と僕がちょっと心配になってきた頃、ようやく彼女は目を開け、こちらを振り向いた。
「おまたせ」と少し照れたように笑う。
「……ずいぶんたくさん願いましたね」
「なんかね、願いはじめたら止まらなくなっちゃった。倉木くんは? お参りしないの?」
「いい。べつにここで願うようなことないし」
「え、好きな人とかいないの?」
その質問がなんともさらっとした調子で向けられたことに、僕はちょっと驚いた。春野の顔を見ると、彼女はその口調と同じさらっとした表情で、僕を見ている。
僕に好きな人がいてもべつにいい、と思っていそうなその表情に、なんとなく困惑しながら、
「……いないよ」
「そっか」と春野はあいわらずあっさりとした声で相槌を打って、
「でもせっかくだし、なにか願ったら? べつに恋愛関係以外のことでもいいんじゃないのかな」
「いいのかな。ここ、恋愛専門の神様っぽいけど」
「いいよいいよー、そんな固く考えなくても。せっかく来たんだから願っちゃおう、ほら」
なぜか春野に許可をもらって、僕も御社の前へ進む。お賽銭は省略させてもらうことにして、春野に倣って鈴を鳴らし、お辞儀をした。ぱんぱんと手を叩き、目を閉じる。
なにを願おう。考えたとき、真っ先に浮かんでしまったのは、『お金が欲しい』だった。
だけど神様へ向けるにはさすがにゲスすぎる願いのような気がして、やめておく。代わりに、少し考えてから、『ひまりの病気が早く治りますように』と願っておいた。
「なに願った?」
「……家族の健康」
「おお、いいね!」
なにがいいのかはわからないが、春野は笑顔でぐっと親指を立ててみせてから、
「そういえば、ひまりちゃん元気にしてる?」
僕の口にした家族という単語で思い出したらしい。笑顔のまま向けられた質問に、口の中でかすかに苦い味が広がる。
適当に頷いておこうかと、僕は少しだけ迷ってから、
「……元気ではない。入院してる」
「え、あれからずっと?」
「いや、何回か退院もしたけど、けっきょくまたすぐ入院して、の繰り返し」
ひまりは、年の離れた僕の妹だ。今は六歳で、本来なら、今年の四月、小学校に入学するはずだった。
ひまりは入学式を楽しみにしていた。去年の夏に買ってもらったランドセルを、毎日うれしそうに眺めていた。
だけど去年の秋に心臓の病気が見つかったせいで、ひまりの日々は一変した。
家にもほとんど帰れず、毎日たくさんの薬を飲む、闘病生活が始まった。
まだ、たったの六歳なのに。楽しみにしていた入学式にも出られず、半日迷って選んだ水色のランドセルも、まだ一度も背負えないままで。
本当に不運でかわいそうな、僕の妹。
「そうなんだ。大変だね」
僕の話に、春野は神妙な顔になって目を伏せると、
「あの、腕の傷は?」
「もうほとんど消えてる。頭のほうの後遺症もないし、そっちはたぶんもう大丈夫」
「そっか。……よかった」
なんとなく空気が重くなって、僕たちは無言のまま鳥居をくぐり、参道のほうへ戻った。
「沙和ちゃんとは」
春野がその名前を口にしたのは唐突だった。だけどなんとなく、さっきまでの話題と一続きのように聞こえた。
春野の声で形作られたその響きに、どくん、と心臓が嫌な跳ね方をする。
え、と聞き返しながら春野のほうを見ると、
「沙和ちゃんとは、今も会ってるの?」
静かな目でこちらを見据える彼女と目が合い、一瞬、ざわりと胸の奥が波立った。
包帯の巻かれた沙和の足が、その日以降、僕を避けるようになった沙和の強張った顔が、また久しぶりに、瞼の裏で弾けた。
冷たい唾が喉に落ちる。
僕は短く息を吸うと、できるだけなんでもない口調になるよう努めて、
「……会ってないよ。中学卒業してから全然。高校違うし」
「そっか」とだけ相槌を打って、春野はそれ以上なにも言わなかった。
「――じゃあ、今日はここで解散にしよう!」
神社の入り口まで戻ってきたところで、足を止めた春野が、やけに明るく僕に告げた。神社に着いた頃はまだ黄金色だった日差しも、気づけばすっかり赤く染まっている。
「ここで解散でいいの?」
本当に、ただいっしょに過ごすだけだった。はじめて訪れた神社に、春野は楽しそうな様子ではあったけれど、それはべつに僕の力ではなく、この神社が魅力的だったおかげだ。
三十万ももらっているのに僕はとくになにもしていないことが、やっぱりどうしても気になって、
「家まで送ろうか?」
「え!?」
どうせ近くだし、と思ってそんな提案をしてみたけれど、素っ頓狂な声を上げた春野は、すぐに首を横に振った。
「いいよいいよ! そこまでしてもらうのは申し訳ないし!」
「べつに、そこまでってほどのことじゃないと思うけど」
むしろ三十万の対価としては、これでもぜったいに足りないと思う。
けれど春野は、「いいの、本当に!」ともう一度はっきりとした口調で言い切って、
「それにわたしね、ちょっとここに残ってやることがあるし」
「やること?」
「うん、だから今日はここで解散。あ、そうだ、その前に明日の確認だけしておかなきゃ」
言いながら、思い出したように春野はバッグからスマホを取り出した。それからふと、窺うように僕を見て、
「あの……よかったら、なんだけど」
「うん」
「倉木くんの連絡先、教えてもらえる?」
おずおずと向けられた質問には、とくに迷う間もなく、「いいよ」と頷いた。むしろ春野が言い出さないなら、僕のほうから訊いておこうと思っていたことだった。
「ありがとう!」
ほっとしたように息を吐いた春野と、メッセージアプリのIDを交換する。
画面に現れた春野のアイコンは、どこかの庭を写した写真だった。なんとなく見覚えがある気もしたけれど、小さな画像ではよくわからない。
「じゃあ、明日の集合場所とか時間とか、あとで送るから見てね!」
「了解」
そんな確認をしてから、僕たちは神社前で別れた。
しばらく歩いたところで、なにげなく後ろを振り返ってみる。
春野はまだ別れた場所にいて、こちらを見ていた。目が合うと、春野はちょっと恥ずかしそうに笑って、胸の前で手を振ってくる。
それに僕も小さく手を振り返しながら、ふいに、半年前もこうして僕に手を振っていた彼女の姿を思い出した。
去年の夏休み。病院で別れる僕に、いつも手を振っていた、パジャマ姿の春野を。
***
八月の頭だった。
部活中にデッドボールを指に受けた僕は、その日はじめて、市内でいちばん大きな総合病院を訪れていた。
検査の結果、薬指の骨にヒビが入っていることがわかった。しばらく治療のため通院することになり、医師からはまた明日診せにくるよう告げられた。
ギプスで固定してもらった指を気にしながらゆっくりと帰っていたとき、通り過ぎようとしたロビーに、見覚えのある横顔を見つけた。
「――えっ、春野?」
思いがけない姿に、僕は思わず声をかけていた。
まさかこんなところで、クラスメイトに出会うなんて思わなかったから。
しかも春野は私服ではなく、青い水玉模様のパジャマを着ていた。一目で入院患者とわかる出で立ちで、背中を丸めるようにしてロビーの椅子に座っている。
見れば、彼女は膝の上にノートを広げ、それになにかを描いていた。そのせいか、声をかけるまで近づいてくる僕に気づかなかったらしい。
「へっ」急に呼ばれた名前に、びくっと身体を震わせた春野は、拍子に膝の上にあったノートを落とした。軽い音を立て、ノートが床にぶつかる。
「あっ、ごめん」
驚いた顔でこちらを振り向いた春野に、僕はあわてて謝る。そうして床にしゃがむと、彼女が落としたノートを拾おうとした。
ノートは開いた状態で落ちていた。そのせいで、僕にはそこでノートの中身が見えた。
「わ」
「あっ」
僕の驚いた声と、春野の引きつったような声が重なった。
春野が咄嗟にノートのほうへ手を伸ばしかけたようだったけれど、それより先に僕はノートを拾っていた。
「え、すご!」そこに描かれたものを眺め、感動して声を上げる。
「なにこれ、春野が描いたの!?」
「あ、う……うん」
「え、めちゃくちゃ上手いじゃん! こんなん描けるんだ、すご!」
見開き一面にシャーペンで描かれていたのは、漫画だった。少女漫画のようなキラキラとした絵柄は繊細で、普通に上手い。
興奮気味に春野のほうを振り返ると、彼女はぽかんとした顔で僕を見ていた。
こちらへ伸ばしかけた手を中途半端な位置に浮かせたまま、短くまばたきをする。そうして、
「……上手い?」
と掠れた声で聞き返してきた。
「うん」と僕は力いっぱい頷いてみせる。
「上手いよ、めっちゃ。すごいな、背景もめっちゃ細かく描き込んである」
「あ……入院中、暇だから……描き込む時間があって」
漫画をまじまじと眺めながら僕が感心していると、春野はうつむいてぼそぼそと答えた。
それからふと、思い出したように顔を上げて、
「倉木くんは、どうしたの。なんでここに」
「ああ、部活中に怪我しちゃって。指をちょっと」
「大丈夫?」
「うん。全然たいした怪我じゃない」
そこで僕は、漫画に気を取られて訊き忘れていたことをようやく思い出した。
「春野は?」
訊ねながら、彼女の隣に座る。
「え」
「なんで入院してるの?」
そう質問を重ねたあとで、はっとした。春野の顔が軽く強張るのを見たから。
「あ、ごめん」デリカシーがなかったことにすぐに気づき、僕はあわてて謝ると、
「言いたくなかったらいいよ」
「あ、ううん、べつに……ちょっと、心臓の病気で」
心臓。その単語に少し動揺してしまったのを悟られないよう、
「そうなんだ。いつから入院してるの?」
僕は何気ない調子で質問を重ねた。
「えっと、今回のは七月二十日から……」
「え、じゃあ夏休み始まってからずっとだ」
今回の、という春野の言い方は、彼女の入院がはじめてではないことを示していた。
そういえば春野はこれまでも、一ヵ月ほど長期で学校を休んでいた時期があった。理由を聞いたことはなかったけれど、あれも入院のためだったのだろうか。
「そうなの。だから暇でしょうがなくて、漫画なんて描きはじめちゃった」
「前から描いてたの?」
「ううん、今回はじめて描いた。読むのはずっと好きだったんだけど」
「え、はじめてでこれ? やばくない? 漫画家になれるよ」
僕が力を込めて告げると、春野はくすぐったそうに目を伏せて、
「それは無理だよ」
「いやなれるって。マジで上手いし」
「……でも、病気だし」
「関係ないでしょ。描けてるし。てか春野、これ続きは? ここまでなの?」
話しながら春野の漫画を眺めていた僕は、めくったページの先が真っ白だったことにがっかりして、春野に訊ねた。
「あ、うん。まだそこまでしか描けてない」
「続きも描くんだよね?」
「……どうだろう。気が向いたら」
「え、描いてよ。続き読みたい。ここで終わってんのモヤモヤするし」
春野の漫画は、ヒロインがヒーローらしき男子に告白したところで終わっている。開始二ページでいきなり告白しているのもなかなかびっくりしたし、ヒーローの反応的にヒロインが振られそうな気配なのも気になる。
僕の言葉に春野は顔を上げると、こちらを見た。
「読みたい?」
ぱちぱちとまばたきをしながら、ゆっくりと訊き返してくる。
「うん」と僕は強く相槌を打った。
「僕が読みたいから、描いてよ」
それから、ロビーの椅子に並んで座ったまま、しばらく春野と話をした。
小さな頃から病気がちで、入退院を繰り返していること。そのせいでしばしば学校を休んでいたこと。入院中の暇つぶしには昔からもっぱら漫画を読んでいたこと。少女漫画も少年漫画もなんでも読むこと。対して活字はまったく読めず、すぐに眠くなってしまうこと。
久しぶりの同級生との会話がうれしかったのか、春野はよくしゃべった。
「天気が良い日はね、中庭をお散歩するんだけど」
入院中の一日の過ごし方を僕に教えてくれていた春野は、そこでふっと窓のほうに視線を飛ばし、
「雨の日はお散歩できないから、わたし、雨って嫌いで」
彼女が見つめる窓の外は、薄暗く、細い雨粒が窓の表面を流れ落ちている。数日前から降り出した雨は、今も断続的に降り続いていた。
「わかる」
恨めしげな彼女の口調に、僕も心底同意して相槌を打つと、
「僕も雨は嫌い。野球できないし。プロ野球の試合も中止になるし」
「倉木くん野球するの?」
「三年間野球部だよ」
「え、うそ。なんかバット持ってるの想像つかない」
「どういう意味? いいや、じゃあ退院したら野球してるところ見にきてよ。わりと上手いから」
「……うん。見たいな」
呟いて、春野はふいに目を伏せると、
「雨ね、ずっと、ずっと嫌いだったんだけど」
「ん?」
「今日は、雨が降ってよかったな」
噛みしめるように彼女が口にしたその言葉の意味は、よくわからなかった。
翌日も、雨はやまなかった。
昼過ぎに僕はまた市立病院を訪れ、指の怪我を診せた。
昨日と同じようにギプスで指を固定した医師に、「次は三日後に来てください」と告げられ、診察室を出る。
会計を済ませると、僕は階段で三階へ上がった。
昨日、春野に聞いていた。普段、検査などがない暇な時間は、たいてい三階の談話室で過ごしていること。天気が良い日は中庭を散歩するとも聞いていたけれど、今日は雨だ。
明るい木目のフローリングに、緑を基調とした椅子やテーブルがゆったりと並べられた談話室に、春野はいた。いちばん奥のテーブルに、背中を丸めて座っている。
広々とした談話室にいるのは、春野と、テレビ前のソファに座っているおばあさんだけだった。
近寄っていくと、春野がなにか描いているのが見えた。手元のノートにかじりつくように顔を近づけ、握ったシャーペンを無心にすべらせている。
「――あ、漫画?」
「わっ!」
「続き描いてんだ」
思わずうれしくなって僕が覗き込もうとすると、春野は素早い動きでノートを閉じた。ばん、と勢い余って彼女の手がテーブルを叩いた音が響く。
「く、倉木くん。びっくりした」
「今日も診察だったから」
「……また会いにきてくれたの?」
「退屈してるかと思って」
言いながら、テーブルを挟んだ春野の向かい側に座る。
驚いたようにそんな僕を見つめていた彼女は、一拍置いて、ふわりと表情をほころばせた。「ありがとう」と弾んだ声で笑う。
「本当にね、すっごい退屈だったんだ」
「今日も雨だしね」
「ね。全然やまなくて嫌になっちゃうよ」
そうぼやく春野の顔は、言葉とまったく釣り合わない、にこにこ顔だった。
「漫画、進んだ?」
「けっこう。朝からずっと描いてたから」
「マジで。ちょっと見せて」
「ま、まだ途中だから。完成したら見せる」
あわてたように、ノートを自分のほうへ引き寄せる春野に、
「なんで漫画、自分でも描こうと思ったの?」
ふと浮かんだ疑問を訊ねると、春野は、へ、と聞き返しながら顔を上げた。
「いや、僕も漫画は好きでわりと読むけど、自分で描こうと思ったことはないから。なんか、描こうと思うのがすごいなって」
「……わたし、ずっと読んでたから」
「漫画?」
「うん。小さい頃からずっと。わたしの好きなものって漫画ぐらいしかなくて」
春野はテーブルの上で組んだ自分の手に目を落とし、訥々と続ける。
「小説は読めないし、スポーツとかもできないし。ずっと漫画が唯一の趣味だったのに、最近、漫画を読むのがつらくなってきちゃったの。なんか……毎日楽しそうに生きてる登場人物たちが、うらやましいなって思っちゃうから」
力のない笑みを浮かべる春野の肌の白さが、なぜかそこで目についた。
今まであまり陽の光を浴びたことがないことが伝わる、文字どおり病的な白さだった。
「だからね」
指を何度か組み替えながら、春野は言葉を手繰るようにして続ける。
「読めないなら自分で描いてみようかな、なんて思って。漫画以外、好きなものもないし。でも入院生活はめちゃくちゃ暇だし。だからやむにやまれずというか、消去法みたいな感じで」
「いいじゃん」
自虐するように春野が言うので、僕は思わず口を挟んでいた。
え、と驚いたように言葉を切った春野に、
「たしかに読みたいものがないなら、自分で描くのがいちばんいいと思う。頭良いよ、春野」
「そ……そう、かな?」
「うん。やっぱ春野、そのまま漫画家になっちゃえばいいじゃん。上手いんだし、そんだけ漫画が好きなら。なれるよ、春野なら」
つい勢い込んでまくし立てた僕の顔を、春野は目を丸くして見つめていた。
それから少し間を置いて、
「……ありがとう」
と、はにかんで目を伏せた。
「倉木くんは、いつから野球してるの?」
「小学一年生から。少年野球にも入ってた」
答えてから、思えば僕にも野球以外の趣味なんてとくにないなと、ふと気づく。
「わたし昨日ね、はじめてテレビでプロ野球の試合見たよ」
「お、いいね。楽しかったでしょ?」
「それが、ルールがよくわかんなくて……」
「よし、じゃあ教える。簡単だから」
春野が野球に興味を持ってくれたのがうれしくて、僕は基本的なところだけかいつまんでルールを説明した。
攻撃と守備の流れ、どうすれば点が取れるのか、どうすればアウトが取れるのか。
春野は、そこまで真剣にならなくても、というぐらい真剣な顔で僕の説明を聞いてくれた。時折手元のノートにメモまでとっていた。
「とりあえず、今日またテレビで試合見てみる」
僕が説明を終えると、春野は満足げに手元のメモを眺めながら言った。
「退院したら、倉木くんの試合も見にいきたいな」
「うん、見にきてよ」
「倉木くんどのポジションなの?」
「今はサードが多いかな。たまに外野もするけど」
「じゃあ今日は、サードの選手に注目して見てみよう」
弾む声でそんなことを呟く春野に、ちょっと照れた。