「ああ!」
思わず大きな声を出した私に、星弥はきょとんとしている。
「どうした?」
そういえば、さっきから自分の意志で話ができている。
病気のことを星弥に伝えられたなら……運命を変えられるのかもしれない。
「……星弥?」
「ん?」
紐をハサミで切りながら星弥が答えた。
「今からヘンなこと言うけど、聞いてくれる?」
大丈夫、今日はちゃんと声になっている。
いぶかしげに私を見たあと、星弥は「いいよ」と言った。
「前に、背中が痛いって言ってたよね? 病院には行ったの?」
「いんや。俺、病院苦手だからさー」
てるてるぼうずに目を書いた星弥が「できた」と私に見せてきた。
うなずくこともできず、私は姿勢を正す。
言わなくちゃ、早く言わなくちゃ。
「すぐに病院へ行こう」
「へ? 病院って、今から?」
冗談と思っているのだろう、星弥はクスクス笑った。
「そう、今から。すぐに検査をしてもらって――」
「落ち着けって。もう痛くないから大丈夫だよ」
「違う。大丈夫じゃない。大丈夫じゃ……」
あふれる涙が声を詰まらせ、うまく話せなくなる。
星弥が病院に行く時間を早めることができれば、未来は変わるかもしれない。
急に泣き出した私に、星弥は心配そうに首をかしげた。
「どうしたの? 『月読み』で、そういう占い結果が出たわけ?」
「違う。でも、お願いだから……」
「夢を見たとか?」
言葉にできずに首を横に振った。
ここが夢の世界だと伝えたら、すべて終わってしまいそうで怖かった。
気づくと星弥が隣にいる。
涙が止まらない私をギュッと抱きしめてくれた。
体温も呼吸もにおいもリアルに感じられる。
生きているうちにもっと彼を感じたかった。
でも、前はこんな展開にはならなかったはず。
だとしたら。この夢にはやっぱり意味があるんだ。
夢のなかでは未来を変えられる!
……泣いている場合じゃない。
急に立ちあがった私に、星弥は今度こそ目を丸くして驚いている。
そうだよ、この夢の世界で私にはやるべきことがある。
――星弥を助けるんだ。
「今から病院へ行こう」
「え、今から?」
「まだ午後の診察は終わってないはず。かかりつけ医ってどこ? そこで受診して、でもきっと精密検査は大きな病院だから紹介状をもらって――」
「落ち着けって」
グイと引っ張られる手に、星弥を見おろす。
同時に、周りの景色がゆがみだしているのがわかった。
ああ、夢が終わりを告げている。
夢が終わったなら、私は過去の自分に戻ってしまうのだろう。
病院を薦めたことも忘れ、たくさんのてるてるぼうずを作って終わるんだ。
「私、今日は帰るね」
「……なんで? 俺、なんか怒らせた?」
眉をひそめる星弥に「ううん」と目を見たまま答えた。
「ちょっと用事思い出しただけ。星弥は病院へ行って。お願いだから約束をして」
星弥は納得できないような顔をしていたけど、ふっと肩の力を抜いてうなずいた。
「よくわからないけど、わかった」
「約束だよ。じゃあ、またね」
リュックを手に部屋を出た。
急がないとどんどん景色がゆがんでいく。
階段をかけおり、リビングに続くドアを開けた。
「おばさん!」
キッチンに立つおばさんに声をかける。
おばさんにも念のため、病院へ行くことを伝えなくちゃ。
が、おばさんは冷蔵庫の横に貼ってあるカレンダーをぼんやり眺めていた。
そうしている間にも、冷蔵庫までゆがみだしている。
「おばさん、あの星弥を――」
星弥という言葉におばさんがハッと顔をあげてから私を見る。
「え……月穂、ちゃん?」
「おばさん、あのっ、今から星弥を病院へ――」
ダメだ、間に合わない。
溶けていく景色に視界がどんどん暗くなっていく。
おばさんは私に近づくと、ゆるゆると首を振った。
その表情も闇に飲み込まれていく。
「病院へ連れて行ってください」
言えた、と思ったのもつかの間、おばさんの表情が曇っていることに気づく。
どんどんゆがんでいく景色のなか、おばさんは首を横に振った。
「月穂ちゃん、あのね……星弥はもう亡くなったのよ」
さみしげな声を最後に、夢は終わりを迎えた。
濡れた制服をハンカチで拭きながら図書館に入ると、雨の音は聞こえなくなった。
照明がまぶしくて思わず目を伏せてしまう。
「こんにちは」
貸出カウンターに座る樹さんが挨拶をしてきたので、頭を下げる。
「あ、こんにちは」
「雨ばかりですね」
樹さんはかけていたメガネを外すと、書棚をぐるりと見渡した。
「本に湿気は大敵ですから、この時期は除湿器を総動員させています」
「ああ、たしかにそうですね」
「今日は、学校は?」
「……このあと行きます」
ほう、とうなずいて樹さんは目の前にあるパソコン画面に視線を戻した。
今日ここに来たのは、樹さんに会うのが目的だった。
なのに、いざ目の前にするとなにも言葉が出てこない。
でも、聞かなくちゃ……。
カタカタとキーボードを打つ音がする。
「前は平気だったのに、今ではメガネをかけないと文字がゆがんでしまって……。まるで文字のお化けみたいです」
「あ、あの……」
「照明が明るくなったせいだと思っているんですけど、言いがかりでしょうかね」
「あ、あの!」
思ったよりも大きな声が出てしまった。
「すみません」と謝りながら、勇気を振り絞りカウンターの前へ足を進ませた。
「今日は話を聞いてほしくて来ました」
「私に?」
目を丸くしたあと、樹さんは口角をあげてほほ笑んだ。
「私にわかることでしたらなんでも。まだほかのお客さんもいませんし」
誰かにあの夢の話を聞いてほしかった。
麻衣に星弥のことは言っていないし、松本さんにも同じ。
空翔に話せば、余計に心配させてしまうだろう。
「すぐに……」
本当は『すぐに戻ります』と言いたかったのに、言葉の途中で書棚の奥へ向かう。
星弥がよく読んでいた本を取り出した。
ずっしりと重い本を両手に抱えカウンターに戻ると、紙コップにお茶が用意されていた。
「失礼します。あの……」
本を抱えたまま椅子に座る私に、
「皆川星弥くんの話、ですね」
樹さんは懐かしむように目を細めた。
「……はい」
自分から星弥の話をすれば、あの頃の悲しみに襲われまた自分を見失ってしまう。
ずっとそう思っていた。
でも、あの夢の謎を解くために必要なら、恐れている場合じゃない。
カウンターに本を置いた。
明るい照明の下では、宇宙空間のイラストもどこか違って見えた。
「星弥が教えてくれました。『流星群は、奇跡を運んでくるだよ』って。樹さんも『信じる人にだけしか、奇跡は訪れません』って……。それって、過去の夢を見るってことなのですか?」
「夢?」
不思議そうに尋ねる樹さんに「あの」と視線を膝の上に置いた。
「こんな話、おかしいって思うんですけど……。夢を見るんです。星弥と出会ったころに始まって、今は二年前の夏ごろの夢で……」
話すそばからヘンなことを口にしている自覚はあった。
それでも誰かに聞いてもらいたかった。
「夢のなかで、私は今の私で、周りはみんなあの頃のまま。まるでビデオみたいに、昔のことを再体験しているんです。すごくリアルで、でも夢のなかで私は『これは夢だ』ってわかってて、だけど星弥は生きていて……」
涙がピントをぼやけさせ、あっという間に頬にこぼれていく。
星弥がいなくなり泣き続けた。もう一生分の涙が出尽くしたと思っていた。
「でも」と鼻を啜り続ける。
「先週見た夢は違ったんです。自分の意志で会話もできたし、実際には起きなかったことが起きたりしました。それにおばさんが……」
おばさんは最後、私に『星弥は亡くなった』と言った。
それまで三人で話をしていたのに、どうしてあんなことを言ったのだろう。
ううん、目覚める直前だったから私が寝ぼけていたのかもしれない。
「とにかく不思議な夢なんです」
ハンカチで涙を拭い、樹さんを見る。
が、その表情は私が期待していたものとは違った。
「不思議な夢、ですか」
困ったようにくり返す樹さんに、涙も勇気も一気にしぼんでしまった。
「夢を見るのが怖くなって……それから夢は見ていません」
ひと呼吸置いてから樹さんの顔をまじまじと見つめた。
「奇跡は、夢を見ることじゃないのですか?」
「どうでしょうか?」
質問を質問で返したあと、樹さんはほほ笑んだ。
「私が知っているのは、『流星群は、奇跡を運んでくる』ということと『信じる人にだけしか、奇跡は訪れない』という言葉だけです。全部、星弥くんが私に教えてくれたことなんです」
「星弥が……?」
樹さんが、本を指さした。
「ここに書いてあるそうです。でも、何度読んでも私には見つけられませんでした。だから受け売りの言葉なんです」
「……そうですか」
落胆する私に申し訳なさそうに樹さんは、紙コップを私の前に移動した。
「宇宙にまつわる言い伝えはいろいろあります。『流れ星に願いごとを三回となえると叶う』というのは有名ですよね? 国によっては『流れ星は自分の死の予告』という言い伝えもあるそうです」
「はい」
「詳しくないのは、きっと私が奇跡を信じていないからなのでしょうね。でも、月穂さんは違うのでしょう?」
ゆっくりうなずくと、樹さんは天井へ視点を向けた。
「だったら、ご自身で謎を解いてはいかがでしょうか? きっと、見られている夢に意味はあると思います」
知らずに息を止めていた。
ようやく息をつき、お茶で唇を湿らせる。
「そうしてみます」
星弥が信じたものを私も信じる。
あの不思議な夢のなかで、星弥を助けられるならなんだってやる。
「貸出不可の本で、申し訳ないのですが……」
申し訳なさそうに樹さんが本を指さした。
「これから七夕の日まで入り浸りますから」
「テストは大丈夫ですか?」
「それは考えないようにしています」
やっと笑えた私に、樹さんは大きくうなずいてくれた。
終着駅である駅前でバスを降りた空翔は、あいかわらず不機嫌そうな顔で自転車置き場のほうへ歩き出した。
どうしようか、と一瞬迷ってから勇気を振り絞って追いながら声をかける。
「空翔、待って」
一瞬ビクッと体を震わせてから、
「んだよ」
と、うなるように空翔は言った。
「学校さぼってなにやってたわけ?」
結局、あの日図書館に行ったあと学校には行かなかった。
翌日からも、週の半分は図書館に通う生活が続いているし、今日だって同じ。
あの本を最初のページから読んでいき、ノートにメモを取った。
今のところ、奇跡について書かれている箇所は見つけられていないけれど。
「あのさ、少しだけ話せる?」
「別にいいけど」
駐輪場の白壁にもたれた空翔に、すうと息を吸ってから頭を下げる。
「いろいろ、ごめんなさい」
「なにそれ。おい、やめろよ」
自分のつま先を見つめたまま「ごめんさい」とくり返した。
「空翔は心配してくれてるのに、ひどいことを言ったから」
「別にいいって。てか、気持ち悪い」
「ひどい」と文句を言って顔をあげると、空翔は穏やかな目をしていた。
「まさか謝られるとは思わなかった。俺も、なんかわけのわかんないこと言っちゃったしさ。悪かった」
そんなことないよ、と首を横に振った。
私も壁を背に立った。
ふたりして廊下に立たされているみたい。
「それを言うために、俺が帰るのを待ってたわけ? 雨、大丈夫だった?」
空翔はやっぱりやさしい。
曇り空は、今日何度目かの雨を落としそう。
薄暗くなりゆく町に、わずかなビル照明がにじんでいる。
「平気。思ってたよりも早いバスで帰ってきてくれたし」
そう言ったあと、大きく息を吐いた。
ちゃんと言わなくちゃ……。
「空翔、前に言ったよね。『星弥のこと、なかったことにしてんのかよ』って」
「だって――」
「あのね」と言葉をかぶせた。
「実際、そうだと思う。まだ受け入れられないの。受け入れてしまったら、自分も終わってしまうって。こわれてしまうって思うから」
「…………」
「一緒に高校に行くはずだった。なのに、ずっとひとりぼっち。どうしてだろう、って考えるのが怖いんだよ。学校では必死でもうひとりの自分を演じている。そんな自分がイヤでイヤで、だけどやめられない」
泣くかな、と思ったけれど最近泣きすぎているせいか、鼻がジンと痛いだけで視界はゆがまなかった。
「すげえな。やっと星弥のこと口にできたんだ」
感心したように空翔が言った。
「うん」
「俺、月穂が逃げてるみたいに思えてさ……。口にはしないのに図書館には行くし、ひとりで思い出の世界にいる気がしてた。俺だって空翔の親友なんだし、一緒に思い出話したいんだよ」
親友が現在進行形なことがうれしく思えた。
空翔も悲しいんだよね……。
「いつか、できると思う。でも、まだ思い出にはしたくないの。あのね、うまく言えないんだけど、答えを見つけられる気がしてるの」
「答え?」
「今、私がやるべきことの答え。詳しくは言えない、っていうか自分でもよくわからないことが起きてるから。もう少しだけ待っててほしい」
過去に囚われている、と言われたばかりだから、あの夢の話はできない。
でも、空翔にはわかってほしかった。
「きっと、流星群が奇跡を運んでくれるから」
もう空翔は口を挟まずにぽかんとした顔で私を見ている。
こういう反応になるのはわかっていた。
「ヘンなこと言ってごめん。私なりに受け入れようと努力をしている、って伝えたかっただけなの」
しばらく空翔はまじまじと私を見ていたが、やがて息を吐いた。
「わかった」
うなずいてすぐ、空翔は声を低くして「でも」と続けた。
「クラスのやつらは星弥のこと知らないわけじゃん。実際、『サボってる』みたいなウワサも出てるし」