どうして私が高校へ行くことがそんなにうれしいのだろう。行かなくて困るのは私のほうなのに。
会話を続けたら、せっかくの気持ちが萎えてしまいそう。
「こう見えてもダイエット継続中なんだってば。じゃあ、行ってくるね」
肩をすくめる自分をどこか遠くで見ているみたい。自然に明るくふるまえるようになってから、どれくらい経ったのだろう?
「え、もう?」
一瞬眉をひそめたお母さんは、
「ちょっと待ってね」
と、いそいそと弁当箱をチェック柄の布で包んでくれた。
洗面所に行き、鏡に自分の顔を映してみる。
お父さん譲りの大きな目に、お母さん譲りの標準の高さの鼻。
誰に似たのかわからないほど小さめの唇は私のコンプレックスのひとつだ。
クシを手にして気づく。前髪は校則通り眉の上で揃っているけれど、いつの間にか後ろ髪は肩まで伸びている。
意識して鏡に笑いかけてみる。
ぎこちない笑顔に落ち込んだままリビングに戻った。
通学用のリュックにしまい、廊下を進むとお母さんの声が追いかけてくる。
「長野県も、今日から梅雨入りだって。カサ持っていきなさいね」
「もう梅雨入りなの? やだなー」
家から早く出るゲームをしているみたい。
お母さんのこと、嫌いじゃないのに……嫌うはずがないのに、会話から逃げ出したい気持ちばかりが先行している。
靴を履いて玄関のドアを開けると、
「うわ……」
まぶしすぎる朝日が攻撃してくる。
これで梅雨入りなんて、やっぱりテレビなんてろくなニュースを言わない。
光を見ないようにうつむいたまま門を開ける。
「月穂」
振り向くとお母さんが玄関先に立っていた。
「どうかした?」
「あ、ううん。気をつけて行ってらっしゃい」
少し胸のあたりがもわっとしている。
きっとお母さんは私が無理していることに気づいている。
そうだよね、長い間一緒に暮らしているんだからわからないはずがない。
一方、それを指摘することがルール違反ということもわかっている。
気をつかい合った結果が今だとしたら、『気づかないフリゲーム』を続けるしかないのだから。
「じゃあ、行ってきます」
カサを少し持ちあげてみせると、お母さんはにっこり笑ってくれた。
歩き出すと同時に、私の顔から笑みは消えてしまう。
やっと本当の自分に戻れたみたいで少しホッとする。
夏服への移行期間も終わりに近い。
今日から夏服にしたけれど、半袖のせいで朝の風が肌に冷たい。
大きすぎる通学リュックを背負い、風をかき分けるように駅前へ向かえば、一歩ずつダメージをくらっている気分。
学校に行こう、という気持ちも一緒にダウンしていくような感覚だ。
奮い立たせて足を進めても、うしろから来たサラリーマンが軽々と追い越していく。背の低さは歩く速さに比例しているから仕方がない。
駒ヶ根駅の前にあるバスロータリーにつく頃には息があがっていた。
ロータリーといっても、市内巡回バスは数年前に廃止されてしまったので、使っている発着所はわずかだ。
『駒ヶ岳ロープウェー駅』行きのバスに乗り、途中からは山道を歩くという登校ルートのせいで、季節によっては観光客とおしくらまんじゅう状態になることもある。
早く家を出たせいで、数本早いバスに乗れた。
ここから一時間、バスに揺られる。
私の通う高校は、市内とはいえ、市内からはあまり人が足を運ばないはしっこの町にある。
山の中腹に位置し、バスか車でしか行くことはできない。
南アルプスの山も冬になればスキー客でにぎわうけれど、六月である今は閑散としている。
学校のある時間だけ人口が一気に増え、夜になればひっそりと存在しているような小さすぎる町だ。
長野県で生まれ、今日まで過ごしてきた。
他県の人は『山ばかり』というイメージがあるみたいだけれど、私の住む駒ヶ根市は見渡す限りの平地が続き、西東の遠くにアルプスの山が連なっている。
夏は涼しいし、山々の緑も深い。
逆に冬は、他市に比べそれほど雪も積もらない。
まあ、積もる時は半端ないけれど。それでも、この地が嫌いだと思ったことはない。
クラスメイトのなかには、東京とか名古屋の大学を志願している子もいるらしい。
都会に行きたいと思ったことのない私には、ありえない選択肢だろう。
それにしても、こんな遠くの高校に通うなんて思わなかったな……。
生徒の半数は学校併設の寮に住んでいるし、残りは近くの町出身の子たち。
同じ中学校からは数人しか通っていないと聞いている。
なぜそんな人里離れた高校に進んだかと言うと――やめよう。
思い出のフィルムを上映すれば、決まって悲しみが波のように押し寄せてくるから。
ざぶんざぶんと私を吞み込み、息を苦しくさせるだけ。
バスの窓越しの景色をぼんやり見る。
駅前から十分も走れば、ビルよりも民家のほうが増えてくる。
果てしなく続く平地には、やがて畑や田んぼばかりが目立つようになる。
自然のなかに人間が間借りしている感じ。
バスがエンジンを震わせ、山道に入っていく。
左右に体が振られるたびに、体力が削られていくみたい。
距離に嘆いたとしても、バスに乗っている時間が私は好きだった。
きっと、本当の白山月穂に戻れる貴重な時間だからだろう。
バスには、徐々に同じ制服の生徒が増えていき、同じクラスの子も数人乗って来た。
気づかれないように顔を伏せ、気づいていないフリで目を閉じた。
いつから私はこんなに臆病になったのだろう。
不登校気味な高校生活になるなんて、中学生の頃は想像もしていなかった。
クラスメイトは前のほうの席にいるみたい。確認するとふたりしてスマホとにらめっこしているうしろ姿が見える。
ホッとして窓越しの四角く切り取られた空を見あげた。
薄い月が窓枠のはしっこにぶらさがるように浮かんでいる。
六月十三日の今日は、満月にいちばん近い十三番目の月。
毎朝、月を確認しているのなんて、私だけなんだろうな。
中腹で停車したバスをおり、生徒の集団からわざと遅れて歩いた。
傾斜のきつい坂道の先に、高校の門が見えてくる。
ふり返ると木々や森、田んぼの緑色が広がっている。
上空に厚い雲が覆いかぶさっているせいだろう、いつもよりくすんで見えた。
このあと雨が降り出すのかもしれない。
今から教室に行ってしまうと、そのぶんもうひとりの私を長時間演じなくてはいけない。
「まだ早いよね……」
人の流れから抜け、校庭の奥へ向かうことにした。
ベンチに座りリュックを背からおろし隣へ置くと、背中が汗ばんでいた。
斜め前にテニスコートがある。
朝練をしているのだろう、ボールを打つ音や部員の掛け声が耳に届く。
紺色のジャージ姿がちらほら見えている。
楽しそうに笑う部員の声にまたため息がこぼれた。
同時に、過去の思い出たちが頭のなかで上映会を始める。
――夏服、梅雨、折りたたみカサ、バス。
ひとりで部屋にいるときは頭に浮かばないのに、どうして?
今でも色あせない、決して色あせたくない記憶を何度もくり返してしまう。
人が苦手になってから、どれくらいの時間が過ぎたのだろう?
昔は誰かとしゃべることが好きだったのにな……。
それこそ、『口から生まれて来た』とからかれることもあるくらい、いつも誰かと話をしていた。
みんなの笑っている顔がうれしくて楽しくて、毎日はキラキラと輝いていた。
……今では話すことが怖い。
注目されることも見られることも、心配されることすらも怯えている。
それを見せないようにするために明るくふるまって、あとでぐったりと疲れている。
だったらムリして演じなければいい。
わかっている……わかっているのに止める方法が自分でもわからない。
期末テストまではまだ日があるし、やっぱり今日は帰ろうかな……。
そんなことを考えていると、
「おはよう」
うしろから声がかかった。
驚いてふり返ると、村岡麻衣が立っていた。
「あ、おはよう。ぼーっとしてたからびっくりしちゃった」
村岡麻衣はベンチの右隣にどすんと腰をおろした。
ショートボブの髪がさらりと揺れ、大きな瞳が私を見つめる。
「さっき校門のところで見かけてさ、『月穂』って声かけたけど気づいてくれなかったから、必死で追いかけてきちゃった」
呼吸を整えようと大きく深呼吸する麻衣に、私は意識して笑顔を見せる。
「そうだったの? 全然気づかなかったよ~」
ぷうと麻衣は頬を膨らませた。
「二週間ぶりの再会なのに冷たいこと」
「ごめんごめん。私もさみしかったよ」
はしゃぐ私に麻衣は首をかしげた。
「体調はもういいの?」
「え?」と聞き返して慌ててうなずく。
学校を休みがちな理由を、体調不良にしていることを思い出したから。
元気な笑顔は不向きだったかもしれない。
「まだ本調子とは言えないけど、少しずつ……かな」
さっきより声のトーンを落とした。
「季節の変わり目、ってニュースでも言ってた。去年の今くらいから具合悪くなったでしょう? 一年間くらい、体調くすぶってるよね」
もう一年か……。
不登校気味になったのは最近のことだと思っていたけれど、そんなに経っていたんだ。
なんて答えていいのかわからず、無意味に肩までの髪を指でなぞった。
「でも、月穂に会えてうれしい」
麻衣はかわいい。
長いまつ毛にまっ白い肌の持ち主で、私よりもすらっとした体型。
一年生のときから同じクラスで、いちばん仲がよいクラスメイトだ。
「私もうれしい。ほんと、健康な体がほしいよ」
嘆く私に麻衣は笑った。
これでいい。
すべて、もうひとりの私がしていること。しなくてはいけないこと。
さっきバスで見かけたクラスメイトとも、教室では普通に話をする。
一年前の自分がどんな感じだったのかもわからないまま、今も口のはしに笑みを意識している。
麻衣は「で」とテニスコートのほうを見た。
「こんなところでなにしてたの? ひょっとしてテニス部に好きな子がいたりして」
「そんなわけないでしょ。ちょっと休憩してただけ」
軽い口調で答える。
「あやしいなあ」
「あやしくないって。それより、見て。月が出てる」
北西の空を指さすけれど、麻衣は目をこらして「どこ?」と低い位置を探している。
「もう少し上のほう」
「あった! わ、今日は満月なんだね」
八重歯を見せて笑う麻衣に本当は教えてあげたい。
今夜は十三番目の月だということ、満月は明日だということ、あさってからは月は欠けていくということを。
――それは全部、彼が教えてくれたこと。
「……満月だね」
胸に広がる悲しみを隠して笑ってみせるの。
ざぶんざぶん、と悲しい音が聞こえないように。
自分がまたこわれてしまわないように。
そんな私に気づかず、麻衣は「ねえ」と、なにか思い出したように手を叩いた。
「月穂って、月とか星が好きなんだよね? ほら、一年生のときに『星占い』をしてくれたことあったじゃん」
「『星占い』じゃなくて、『月読み』ね」
思わず訂正してからキュッと口を閉じた。
言葉数を多くすれば、そのぶん彼の記憶を呼び覚ますことになる。
説明は最低限に留めておかなくちゃ。