声に出さずに顔をあげた。
お母さんはお茶を飲んだあと、「ほら」と顔を近づけた。
「あそこって山の中にあるでしょう? なかなか来館者が伸びなくて大変なんじゃない? あなたもお世話になったんだから、たまには顔出してあげなさいな。高校の帰りとかなら図書館は近いでしょう?」
「そうだね。今度行ってみる」
きっと私は行かないだろう。
あの場所には、星弥との幸せな思い出が多すぎる。
心の反対の言葉を口にするのは慣れている。
今度こそ箸を置いて手を合わせた。
「ごちそうさまでした。お腹いっぱい」
自分の部屋に戻り、早くひとりきりになりたい。
「なあ、おい」
お父さんがテレビに目をやったまま私たちに声をかけた。
「すごいニュースやってるぞ」
「なになに?」
好奇心旺盛なお母さんがいそいそと向かったので、今がチャンスと立ちあがる。
このすきに食器をシンクに置いて部屋に戻ろう。
が、お父さんは私にまで手招きをしている。
仕方なく画面が見える場所まで向かった。
ローカルニュースの番組のようだ。
真面目な顔の男性アナウンサーが『くり返します』と私を見た。
『やぎ座流星群が七月七日の夜、日本でも見られることは以前からお伝えしていますが、長野県は他県に比べ観察環境が良いことがわかりました。通常よりもかなり近い距離で、大流星群と呼ぶべき量の流星が見られる可能性が高いそうです』
――そこから先は、あまり覚えていない。
気づけば部屋にいた。
真っ暗な部屋の真ん中でベッドにもたれて膝を抱えていた。
まだ、胸がしくしくと痛い。
「流星群……」
記憶の底に押しこめていた言葉をふいに聞いたせいだろう。
星弥との数ある思い出のなかにおいても、流星群には特別の思いがある。
今年の夏、一緒に流星群を見ようと約束をした。
それは、永遠に果たされることのない約束。
一年前に私の恋は終わった。
それは、星弥が亡くなってしまったから。
彼の死を受け入れるには、あとどれくらいの時間が必要なのだろう。
その日まで早送りできればいいのに……。
ドアをノックする音に続きお母さんの声がした。
「月穂、大丈夫?」
大丈夫じゃない。
でも、これ以上心配かけたくなかった。
「なにが?」
「あ、なんていうか……」
「もう寝るところ。なんかちょっと疲れちゃって」
声が震えないように伝えると、
「そう。おやすみなさい」
とお母さんはホッとしたように言う。
足音が遠ざかっていくのを確認してから、のろのろと起きあがり部屋の電気をつける。
まぶしさに目を伏せ、机の椅子に腰をおろした。
机の引き出しの一番上を開ける。
その奥に、彼と作ったノートがある。
久しぶりに取り出すと、表紙には『月読みノート』とペンで書いてある。
星弥の几帳面な文字をそっと触り、だけど開くことができずにまたしまった。
『流星群は、奇跡を運んでくるんだよ』
蘇る彼の声。
彼が言うと、本当に奇跡が起きるような気がしていた。
でも、もう私は知っているの。
奇跡なんてこの世には起こらない。
あのころは、毎日のようにいろんな神様に願った。
どうか奇跡が起きますように。彼がずっとそばにいてくれますように。
願いは届かず、奇跡も起きなかった。
星弥だけがいないこの世界に、私はひとりぼっちで残されたんだ。
――今日の夢は、あまり好ましくない場面からはじまった。
教室に私はいる。
クラスメイトの顔ぶれから見ると、中学二年生の夢だろう。
黒板に五月十二日と記されていた。
懐かしいクラスメイトがいくつかのグループに別れ、弁当を食べている。
スピーカーから流れる校内放送がやけにリアルだった。
きっとこの夢には星弥が出てくる。
星弥が亡くなって以来、彼の夢は避けてきた。
だったら目覚めてしまおう。
悪夢の時は無理やり目を覚ましてから、もう一度寝ることもあったから。
が、一向に夢は醒めてくれない。
「ウケるよね」
「マジで」
「ありえないし」
あきらめて、口々に話をする同じグループの女子を見やる。
きっとそのうち目覚めるだろう。
ドッと笑いが起き、私も一緒に笑っていた。
懐かしい。
あの頃は、どんな小さなことでもお腹が痛くなるほど笑ったよね。
お弁当を食べ終わった私は、自分の席へ戻る。
そうだ、教壇の前の席だった。
席に着くと同時に誰かが教壇の前に立った。
――覚えている。
中学二年生で同じクラスになった星弥。
距離が急に近くなったのは、この日の会話からだ。
やめて、これ以上思い出したくないよ。
過去のやり直しみたいな夢は、今の私にはつらすぎるの。
なのに、私はあの日と同じように顔をあげていた。
そこには記憶よりも幼い顔の星弥がいた。
黒い前髪が無造作に、校則ギリギリアウトくらいに伸びている。
端正な顔に鋭い眉、唇は三日月みたいに薄い。
五月というのに焼けた肌で、いつも腕まくりをしている。
なんとなく人を寄せつけないオーラを感じていたけれど、空翔と一緒にいることが多いせいか、笑っている顔を見かけることも多くなっていた。
そんな時期だ。
久しぶりに会う星弥に、夢のなかの私は不思議そうに首をかしげている。
「前から気になってたんだけどさ、白山さんって月穂って名前でしょ?」
ああ、こんな会話からはじまったんだよね。
忘れかけていた記憶を、夢が思い出させてくれている。
「あ、うん」
「俺は皆川星弥。つまり俺たちって、星と月なんだよね」
「うん」
同じ言葉で返す私。
星弥は軽くうなずいたあと、教壇の上から覗き込むようにぐんと顔を近づけて来た。
「月とかに興味あったりするの?」
「え、まあ……少しは」
「ふうん」
体を元の位置に戻した星弥は、品定めをするように私を見てから「俺はさ」と続けた。
「名前のせいで、星について詳しくなっちゃってさ。星座のことならだいたいわかるんだ」
「私も満月カレンダーは頭に入ってるよ」
月の満ち欠けは一定周期で起こる。
それをスケジュール帳に記すのは昔からの日課だった。
あまり人に言ったことのない特技を、なぜか張り合うようにするりと言葉にしていた。
星弥は感心したように少し目を大きく開いた。
「てことは、俺たちは名前で人生を左右されてるふたりってわけだ」
そんなことを言う星弥に噴き出してしまった。
「それは大げさすぎない?」
同じように笑う星弥の目が、カモメみたいなカーブを描いた。
同じクラスになって初めて、彼が私にほほ笑んでくれた瞬間だった。
「秘密を教えてあげるよ」
さっきよりも声を潜めた星弥に、ゆっくりうなずいた。
一度は経験したことなのに、初めてのように胸がドキドキしている。
星弥の唇が動き、言葉になる。
「三年後の夏、この町に星がふるんだよ」
「それって――」
と尋ねた瞬間、ぐにゃりと周りの景色がゆがんだ。
これは……夢が終わってしまうの?
星弥の夢を見るのはつらいはずなのに、私たちのはじまりのシーンがあまりにも愛おしくてもっと見ていたかった。
今日だけはこのまま、夢の世界にいさせて。
必死で願っても世界はどろりと景色を変えていく。
やがて真っ暗になったあと、足裏に土の感触が生まれた。
「あ……」
気づけば私は校門に立っていた。
まだ夢の世界にいることはすぐにわかった。
この夢は……さっきの続き?
青空が上空に広がっている。
上限の月が薄く空に浮かんでいる。
「お待たせ」
星弥が駆けてくる。
さっきより背が伸びている。
これは……中学三年生の春だ。
一瞬で一年が経過したなんて、まるで昔話の浦島太郎みたい。
「ねえ、部活に行かなくて本当にいいの?」
歩き出す星弥に夢のなかの私は尋ねた。
星弥はキヒヒと笑うと頭のうしろで両手を組む。
「いいって。始業式の日くらいみんな遊びたいだろうし」
そうだった。
この日は、私たちの関係が進展した日だった。
昔あった出来事をそのまま夢で見るなんて不思議。
夢は、満たされない現実から目を背けさせるために見るものだ、と聞いたことがある。
星弥の夢だけは避けてきたのに、なぜ?
「空翔は?」
勝手に私の口はそう尋ねていた。
「あいつはああ見えて真面目だからさ。今ごろ自主練だろ」
この一年で、私たちの距離は近づいていた。
ただのクラスメイトから、仲の良いクラスメイトに昇格した感じだ。
私の片思いも丸一年続いていることになるんだな……。
甘酸っぱい感情が胸に広がった。
本当は星弥に抱きつきたい。
泣きながら名前を叫びたい。
こんなに強く思っているのに、体も言葉も自由に動いてくれなかった。
過去の再現を自らおこなっているみたい。