君のいない世界に、あの日の流星が降る

 七日の朝の電話が来てからのことは思い出したくない。

 星弥のおばさんの気持ちが、今になって理解できる。
 自分がこわれてしまう経験は二度としたくない。
 考えるだけで、果てしない宇宙に放り出されるように怖い。

 長い髪を手際よくひとつにしばってから、樹さんは背筋を伸ばした。

「その気持ち、わかる気がします。私も昔の夢を見ることを拒否している。奇跡を信じられればよかったのですがね」

 ため息交じりの言葉を落としてから樹さんは口の端を少しあげた。
 無理して笑っているように思えた。

「樹さんも、夢で会いたい人がいるのですか?」

 前にも似た質問をしたことがある。
 あの時はうまくはぐらかされたけれど。
 樹さんはあいまいにうなずいた。

「誰だって年を重ねれば、会いたくても二度と会えない人がいるものでしょう」

 まだ若い樹さんがそんなことを言うので、返答に困ってしまう。
 自分でもおかしいと思ったのか、「一般論です」と樹さんは付け加えた。

「目を閉じているときに会えても、目覚めるといない。私のように弱い人間は、夢の世界へ依存してしまうでしょう」
「私も……夢のなかで生きていたいって思いました。でも、今は星弥の弱っていく姿を見たくない。都合いいですよね……」
「それが人間なのでしょう」
「やっぱり……夢の続きを見たほうがいいのでしょうか?」

 自信なさげに上目遣いで尋ねる。
 きっと同意するだろう、という予測は外れ、樹さんは困った顔で首をかしげた。

「よく人は、『どうせ後悔するなら、やり切ってから後悔しろ』みたいなことをもっともらしく言いますよね。あくまで個人的な意見なのですが、それには賛同できません。アドバイスをする人にとっては、結局は他人ごとですから。それに、やり切ることで、さらに新しい傷を背負うことだってあると思います」

 思わぬ自論に驚いてしまう。
 自分でもそう感じたのか、樹さんは苦笑した。

「結局、私は奇跡を信じなかった。そんな私からすれば、あなたは必死でがんばってきた。これ以上ムリをする必要はないと思います。ただし――」

 まっすぐに私を見つめたまま樹さんは続ける。

「奇跡を願ったあなたが、強くなっていることはたしかです。私ともこんなにたくさんお話してくれるようになったのですから」

 なんてやさしい目をしている人なんだろう。
 潤んだ瞳の奥にある悲しみを隠そうともせず、樹さんはほほ笑んでくれた。
「強くなった実感はありませんけど……」
「自分ではわからないものです。自分の評価は自分ではできない。概して他人からの印象で決められるものです。星弥君のために必死でがんばっているあなたは、きっと前とは違います」

 さっき、松本さんが言っていたことと同じだ。

 本当にそうだろうか?
 そうなのかな?
 そうなのだろう。

「今日、友達に星弥のことを初めて話しました。暗い気持ちにさせてしまう、って心配だったけれど、少しでも話せてよかったと思う自分もいます」

 麻衣は私の重荷を一緒に背負ってくれた。
 星弥がいなくなって、ひとり残された私に手を差し伸べてくれている。

 ふわりと椅子から立った樹さんが、電気を消して天井に星空を広げた。
 無数の銀河が私を見おろしている。

「月穂さんが選んだ道を、あなたの友達は応援してくれますよ。私も同じです」

 星弥を救うために強くありたい、と願った。
 今からでも間に合うものなの……?

 あと四日でこの町に流星群がふる。
 星弥を救えるのならなんだってやる。
 奇跡を信じるのに理由なんていらないんだ。

 あきらめかけていた勇気がまた生まれてくるのを感じた。





 部屋のドアがノックされる音はたしかに聞こえていた。
 夢中でてるてるぼうずを作っていたせいで、返事をするのが遅れてしまった。
 二度目のノックのあとドアが開いた。
 お母さんは私の部屋の散らかりようを見て目を丸くしてから、たくさんのてるてるぼうずに気づき、「あら」と間の抜けた声を出した。

「ごはんだよね。ごめん」

 お母さんを押し出すように一緒に部屋を出て一階へおりる。
 お父さんはすでにビールを飲んでほがらかな顔を浮かべていた。
 お父さんの斜め前の席に着く。
 今夜はトンカツ。千切りキャベツの緑色がやけに鮮やかに見えた。

「しかし、もう七月かあ。明日は七夕だな」

 お父さんがトンカツにソースをかけた。
 お母さんにいつも『かけすぎ』と注意されているからか、少しかけて様子を見て、また追加している。
 お茶を淹れてから、お母さんも前の席に座った。

「テストは明日までだっけ?」
「うん」
「終わったら夏休みね」

 お母さんがそう言うと、「いいなあ」とすかさずお父さんが話題を受け継ぐ。

「俺なんてお盆すら休めないかもしれないんだぜ」
「あら、いいじゃないの。お仕事があるだけでありがたいものよ」
「そうだけどさぁ。俺だって疲れるんだよ。な、月穂?」

 白米から湯気が甘い香りとともに浮かんでいる。
 味噌汁とトマトサラダ、トンカツにキャベツ。いろんな色やにおいで胸が苦しい。

 ……違う。

 こうやってなんとか私を元気づけてくれるふたりに、胸がいっぱいになっているんだ。

「お父さん、お母さん」

 ずっと星弥のことを言えずにきた。
 痛いくらいの心配に気づいていても、口に出せなかった。
 だって、星弥の死を受け入れてしまったなら、本当にひとりぼっちになると思っていたから。
 樹さんは言っていた。
 私が選んだ道を応援してくれる人はいる、って。

「星弥のことで、ずっと心配かけてごめんなさい」

 カチャンと音がした。
 箸を落としたことに気づいていないのか、お母さんは私を見たままフリーズしてしまっている。

 そうだよね。ずっと、この話題を避けてきたから。
「私ね、星弥が病気になってから、すごく怖かった。誰に会っても、星弥の前でさえも病気のことを口に出せなかった。星弥がいなくなってからも、そのことが信じられないままだった」
「月穂……」
「一緒に行くはずだった高校にひとりで通い出した。新しい友達もできた。だけど、自分のことじゃないみたいだった。さっきまで笑っていたと思ったら、急に泣きたくなったり……。こわれたおもちゃになった気分だった」

 お母さんが隣の席に移動してきて、私の肩に手を置いてくれた。
 肩に伝わる温度を感じながら、私は感情を言葉にする。

「学校に行きたくないときもあったし、サボったりもしてる。いつも、理由を考えてくれてありがとう」
「いいのよ。そんなの……そんなの親なら当然じゃないの」

 涙声になるお母さんの向こうで、お父さんはトンカツをじっとにらんでいる。

「星弥がいない世界で生きていくのが怖かった。星弥が死んだことを受け入れるのが怖かった。星弥が入院しているとき、神様にずっと願ってた。だけど、奇跡は起きなかった。それなのに、私は……」

 今も奇跡を信じている。
 くじけそうになっても、やっぱり星弥が好きで。
 それ以外の言葉では気持ちが表せないよ。

 星弥の夢は、あの日以来見られていない。
 明日は七月七日。
 てるてるぼうずだって、徹夜しても足りないまま当日を迎えてしまう。
 天気予報は変わらずの曇りで、降水確率は午後のほうが高くなっている。

「苦しいの。信じたいのにくじけそうになる気持ちが苦しいの」
「月穂」

 ギュッとお母さんが肩を抱いてくれた。 
 涙がボロボロと頬にこぼれては落ちていく。

「お母さん、私どうすればいいの? 元気になりたい。だけど、どうしても星弥のこと忘れられないの」
「大丈夫よ、大丈夫」

 胸に顔をうずめても、星弥の笑顔が消えてくれない。

 会いたい。どうしても会いたいよ。

「お母さん助けて。お願い、怖くてたまらないよ」

 子供のように泣きじゃくる私を、お母さんはいつまでも抱いてくれた。
 忘れたいのに忘れられない。
 笑いたいのに笑えない。
 泣きたくないのに泣いてしまう。

 このまま明日を迎えるのが怖くてしかたない。

――どれくらい泣いただろう。

 ようやく落ち着いてご飯を食べはじめた。
 なにを食べても涙味で、だけど美味しかった。

「月穂は強くなったのね」

 お母さんの声に顔をあげた。
 不思議と、少し気持ちがラクになっている。

「強くないよ。泣いてばっかりだし」

「あら」とお母さんは目じりを下げた。

「だって、お母さんたちに本当の気持ちを話してくれたじゃない」

 お父さんも両腕を組んで大きくうなずいている。

「学校なんていくらでも休め。月穂が思ったようにやればいいんだから」
「ほらね。保護者のお墨つきなんだから、堂々と休めばいいのよ」

 自慢げに胸を張るお母さんに少し笑ってしまう。

「普通、親がそんなこと言う?」
「うちは自由を愛する家族なのよ。さ、どんどん食べて。あ、お父さん」

 お母さんが、お父さんが再度手にしたソースの便を奪い取った。

「ちゃんとチェックしてるのよ。かけすぎ注意!」
「バレてたか」

 悔し気なお父さんに今度こそ笑ってしまった。

 ふたりの子供でよかったと思えたんだ。









 青空に、月がかすかに残っている。
 太陽の光に、外形を半透明に溶かしてもなお、空にへばりついている。
 天気予報は雨のはずなのに、と考えてすぐに気づく。

「あ、これ夢だ……」
 駅前のバス停。
 中学の制服姿で通学リュックを背負っているから、これから登校するところなのだろう。
 スマホを取り出し確認すると七月三日と表示されている。
 星弥が亡くなる四日前……。

 てっきり七日の夢を見ると思っていたけれど、この日になにかあったのかな……?

 ホスピスに転院した星弥は、面会を拒否しているらしく一カ月以上会えていない。
 きっと、弱っていく自分を見られたくないんだろうな。
 おばさんは電話口で何度も謝っていたっけ……。

 ふと、違うバス乗り場にいる見慣れた男子が目に入った。
 つまらなさそうにポケットに両手を入れ、ぼーっと遠くを見ているのは空翔だ。

 そうだ。この日の朝、たまたま空翔を見かけたんだっけ……。
 声をかけることもなく私は先にバスに乗り、あとで彼がずる休みをしたと聞いたんだ。

 ……ひょっとして。

 やってきたバスに乗らず、空翔のいるバス停へ向かう。
 近づいてくる私に気づいた空翔があからさまに口をへの時に結んだ。

「おはよう。どこ行くの?」
「んだよ。関係ねーだろ」

 プイと顔を逸らした空翔が、なにか思い出したかのように私を見た。

「あ、俺が違うバスに乗ったこと、誰にも言うなよ」
「言わないよ」

 そっか、と今さら気づく。

「空翔、ひょっとしてホスピスに行くの?」
「…………」

 答えないのは正解ということだろう。
 隣に並ぶ私に空翔は「げ」と声に出した。

「ついてくんなよ」
「私もたまたまホスピスに行くところだったの」
「ウソつけ」

 空翔の口調がやわらかくてホッとした。
 星弥が亡くなる前は、こんなふうに軽口を叩ける間柄だったよね。
 星弥がいなくなることで、いろんなことが変わってしまった。
「空翔はさ、星弥に会えているの?」

 私の質問に空翔はぶうと頬を膨らました。

「部屋の前までは行ったけど、入れてくれない。なかからカギかけてんだぜ。あいつ、マジむかつくんだよな。そっちは?」
「私は建物の前まで。最近じゃ、建物の屋根を見て帰ったりしてる」

 会いたくて会いたくて、だけど星弥を困らせたくなくて。
 この日の夢を見ているのは、その後悔をなくすためかもしれない。

 星弥は七月七日の早朝に亡くなった。
 私が駆けつけた時にはもう、死亡診断書がおりていた。

「今日は絶対に会うから」

 決意を込めて言う私に、空翔は「おっかね」と笑った。






 ホスピスのなかに入るのは二度目だった。
 星弥の危篤を知らされ、夢中で廊下を走った記憶が残っている。
 薄いオレンジ色の壁紙にグリーンのソファが配置され、あたたかみのある内装だった。

「いいか。自然なそぶりで受付の前をとおること。星弥の部屋は家族以外の面会はお断り。ここでバレたら追い返される。ちなみに俺も前回はバレて追い返された」
「わかった」
「よし、行くぞ」

 ふたりで澄ました顔で受付を通り過ぎた。
 受付にいる女性がチラッと私たちを見たけれど、診察券を持った女性に話しかけられそっちの対応を始めた。
 受付が見えないところまで進むと空翔が「やったな」と前を向いたまま言ったのでうなずく。
 奥へ進むと、右へ左へと空翔の導くままに進む。

「このエレベーターで三階へ行くのが正しいルート。でも、着いた先にステーションがあるから確実に敵に見つかる。しかも敵のレベルはかなり高い」
「なるほど」

 ゲームに例える空翔が懐かしい。
 最近ではこんな会話、してなかったから。

「てことで、非常階段を使う。俺が捕まったとしても、敵はひとりしかいないから先に進め」
「了解しました」

 さっさと階段へ進む空翔に遅れないようについていく。

 一歩ずつ階段を上るたびに、これが夢であることを忘れそうになる。
 まだ星弥は生きている。
 もっと早く、空翔にたのんで連れてきてもらえばよかった。

「なあ、月穂」

 先を行く空翔が足を止めずに尋ねてきた。

「星弥に会ったら、なにを言う?」
「え? 考えてなかった」

 素直に答える私に、空翔が「んだよ」と不機嫌な顔になる。

「考えてないのかよ」
「そういう空翔はどうなのよ」

 階段をのぼる足音がやけに響いている。
 ふと、空翔が足を止めた。

「わかんねえよ。ホスピスって調べたら、『終末期』とか『最後の』とかイヤな言葉ばっか出てくるし。こんな時にかける言葉なんて、学校じゃ教えてくれなかったし」

 空翔はもう体ごとこっちに向いていた。
「星弥に追い返されたなんてウソなんだ。部屋の前までは行くことができても、ノックすることができなかった。んで、帰る。それのくり返しだった」

 そうだったんだ……。
 私と同じで空翔も星弥に会えてなかったんだ。

「なあ、やっぱり帰ろうか。あいつに迷惑かけたくないし」

 親友の死期が近いことを、空翔も受け入れられないんだ。強そうに見えて、だけど弱くって……。
 誰もが星弥の死におびえている。

「ダメだよ」

 迷いなくそう言う私に、空翔は驚いた顔をした。

「もし帰ったら、きっといつまでも今日のことを後悔することになると思う」
「でも、さ……星弥だってイヤだから拒否してるんだろ?」
「だったら私が聞いてみる」

 星弥とのラインを開くと、なつかしいやり取りが表示されている。

『今日は体調いいよ』
『おやすみ。テストがんばって』
『病院食マズすぎ』

 彼がいなくなってから一度も開いていないメッセージたちは、キラキラ輝いて見えた。
 もう、後悔したくない。

『今、ホスピスにいるの。どうしても会いたい。空翔も一緒にいる。勝手なことしてごめんなさい。会いに行ってもいい?』

 送信ボタンを押すとすぐに既読マークがついた。
 空翔に画面を見せると、もう泣きそうな顔になってる。

「マズいよ。絶対に怒らせたって」
「もしそうだとしても、私は会いに行く」

 夢のなかではもう迷わない。
 現実世界に反映されなくてもいい。
 少しでも後悔の数を減らしたいだけ。
 空翔は眉をひそめていたけれど、「んだよ」と例の口ぐせを放った。

「俺より月穂のほうがしっかりしてんじゃん」
「してないよ。ただ、未来の自分のためにできることをしたいだけ」

 スマホが震え、星弥からのメッセージが表示された。

『いつか来る気がしてた。今、看護師がいるから五分後に来て。ただし、カーテンを開けないって約束すること』

 空翔に見せるとすぐに「もちろん」と答えた。
『わかった』と返信をし、空翔と階段を駆けあがる。
 五分数えてから廊下に出ると、空翔に案内され奥の部屋へ進む。