ウンて言って、小宮山

「なあ、んじゃアレは? 殿山の帰りに電車でさ・・」って加瀬くんの親指が私の唇をなぞる。
ムチャクチャ恥ずかしいけど、もう逃げるのはやめた。
「あのままキスしたら、オマエ逃げてた?」
「んーん。たぶん逃げてない」
加瀬くんが目を見開く。
「オ、オレ、もしかしてあん時キスできたの!?」
「そうかも・・だって、加瀬くんにされてイヤなことなんかナイんだもん」
「!!!」

勢いよく肩を引き寄せられて、ごっちん、ておでこ同士がぶつかった。
「いったあ。なに!?」
「アレ、今からやり直す!」
そう言うなり顔をぐぐぐと傾けはじめる加瀬くんに私は肝が冷えた。
その唇をとっさに手で覆う。
「うそ、ヤだ、ストップ!! なんでそんなに勢いまかせなの!? チョットは周りを気にしてよ! 人がいないかちゃんと見て!」
「オマエこそなんでそやっていちいち雰囲気ブチ壊すの!? オレはムード重視なの!」
プリプリ怒りながらも、加瀬くんはキョロキョロとまわりを見回して、
「まあ今はチョット・・ダメかもね・・」
って渋々キスを諦めた。
大人しく座り直した加瀬くんが私を見てニッコリと目を細めた。

「なあ、小宮山」

甘い声が耳をくすぐる。
加瀬くんの後ろには、真っ白な百日紅(さるすべり)
びっしりと花をつけた枝が重そうに垂れ下がっている。

背中に目一杯お花をしょって加瀬くんが笑う。
「オレ、小宮山のこと大事にする。絶対」
「私も。加瀬くんのこと、誰よりも一番大事にするね」
顔をよせあってふふふって笑いあう。

「あ、そうだ。私も聞いていい?」
「いーよ、なに?」
「坂川で言ってたやつ教えて。不安がなくなる方法」
「あー、アレね」
加瀬くんが意味ありげに腕を組んでイヒヒって笑う。
「聞きたい?」
「・・・・やっぱ今日はいいや。やめとく」

「エ!? なんで??」
「また今度でいいかなって」

だって今の顔はダメだ。
すんごいヤラシイ顔してた。

「えーー!? せっかくだから試そうぜ?」
「ヤだ。やめとく」
「なんでだよ、オレは今試したい! んじゃ、試させてくれたら小宮山の言うこといっこだけなんでも聞いてやるよ。何がいい!?」
「今、特になにもない」
「くそー。んじゃ、えーっとーーー」

ああ、またはじまった。
加瀬くんの言い出したら聞かないヤツが。

季節は7月。
オレンジ色の夕陽に染まる公園の片隅で、私たちは1日の終わりと新しいはじまりを迎えていた。



私のキライなもの。
それは小野先生の数プリ。
用紙の容量いっぱいに復習問題がみっしりと詰め込まれた黒々しいプリント。これを眺めるだけで私は気分が悪くなる。
文系の人間には悪夢そのもの。1年の時からずーっと縁の切れないこの数プリに私は泣かされ続けてきた。

ところが2年にあがった途端、私は嘘みたいに数プリの呪縛から解放された。
加瀬くんが宿題を写させてくれるようになったからである。
彼の完璧な数プリは、私の命綱だった。
少し前までは。
「加瀬くん、数プリやって帰ろ?」
「ヤだ」

つきあいはじめた途端「こんなことは小宮山のためにならない」なんて言い出した加瀬くんは、めっきり数プリを見せてくれなくなった。

「だって小宮山、自分でやんねえんだもん。すぐオレの写すだろ?」
「ウン、まあ・・わかんない時はネ?」
「オマエ、だいたいわかんねえじゃねーか。自力で頑張るなら教えてやるけどさ」
なんて言って、先生か保護者のような目つきで私を見るのだ。

そりゃあ加瀬くんの言い分は正しい。
だけど私はガッカリだった。
理系科目が大キライな私は、当然のように私立文系大志望。
3年分の授業さえこなせればいーんだから、マジメに数学やろうなんて気はハナっからない。
スイスイと問題を解いていく加瀬くんの数プリを端からタダで写せるなんて、こんなに楽ちんでありがたいことはなかったのにーーー

「はーあ。せっかく彼氏が頭イイのに、これじゃあ賢い彼氏の無駄遣い」
「オマエねえ・・いい加減にしないとホントにアホになるよ?」

・・みたいな小競り合いが、日々、地味に続いていた。
加瀬くんとの関係が友達から恋人に変わっても、私の日常にほとんど変化はなかった。変わったことといえば数プリ取り上げられたことくらいで、あとは何にも。
あんなにビビってたのがバカバカしくなるくらい、加瀬くんとのオツキアイは怖くもなんともなかった。それどころか私は幸せで。

たとえばこんなふうに加瀬くんの胸にスッポリ抱きしめられるとーーー

「はあ。スッゴイ安心する・・」
「オマエ好きだね、コレ」

知らなかったのだ。
だれかに抱きしめてもらえることが、こんなにシアワセなものだったなんて。

私は今、かつての私には未知だった、新しい種類のシアワセを手に入れていた。ひとりじゃ絶対に手に入らなかった類いのシアワセを。
そんなある朝、マナが2組にやってきた。

私の机の真横にしゃがみこんだマナは、加瀬くんの顔を見るなり、はあっ、てため息をつく。
「カンジわりーな。人の顔見てため息つくなよ」
「だって出るんだもん。仕方ないでしょ」
頭じゃわかってんのに心がどーしてもアンタを受け付けない、なんて加瀬くんにズケズケと言い放ち、デッカイため息をもうひとつ。

そんなマナがポケットから取り出したのは、カフェのドリンクチケットだった。
花火大会の当日に使えるやつ。

「これ、もしかしてヒロちゃんのカフェ?? 参道にお店出すの?」
「そうなの!!」
マナが嬉しそうに胸をはる。「今年はヒロちゃんのとこも出店するの!」って。

ヒロちゃんは坂川でカフェを経営している9つ年上のマナの従姉妹のお姉さん。
ヒロちゃんのオシャレでステキなお店は坂川でも評判の有名店で、行ったことのない私でもお店の存在だけは知っている。
美人で優しくて、料理上手。ステキなお店をリッパに切り盛りするヒロちゃんは、マナの自慢のお姉さんなのだ。

「これあげる。ふたりで行ってよ」

私と加瀬くんに、ドリンクチケットを1枚ずつ握らせた後、花火大会用のメニューが載ったチラシをひろげて、どれがおいしいか一生懸命オススメを教えてくれる。

「絶対行ってね? イッパイ頼んでね? 一番最初に行ってくれてもいい」
「うん、わかったよ。絶対行く」
「ありがと。約束ね!」

めいっぱいカフェの宣伝をしてから、マナは丁寧にチラシを折り畳んでポケットにしまいこんだ。
「あーあ。だけどやっぱり4人で行きたかったなあ。これだって人数分そろえて楽しみにしてたのにさ」
今くれたドリンクチケットを指差してマナがムスッと顔をしかめるのだが、マナの言う4人の中には、もちろん加瀬くんは含まれていない。

「いきなり彼氏できるなんてヒドイよ。んでまた、その相手が・・」
って加瀬くんを見下ろすマナの眉間にくっきりと深いシワがよる。
「しつけーな! ソレ、いつまでやる気!?」

そろそろマナの無礼を流せなくなってきた加瀬くん。
こうなると、ひとこと言い返してやらないと気が済まないのが彼の性格なのだ。
不信感丸出しにしてマナに余計なことを言いはじめちゃう。
「オイ、マナちゃん。念のため言っとくけど! ってかオマエ、いかにもやりそうだから今ここで言っとくけど!」
ってまずはしつこく前置き。

「もう小宮山連れて男と遊びに行ったりすんなよな。そーいうのが非常識って、オマエわかる?」
「なにそれ!? 私、そんなことしない!」
「ならいいけど。オマエ無神経だから、ハッキリ言ってやんないとわかんねーかと思って」
「ハアア!?」
ああ、今のはマズイ。
マナは見た目こそ派手だけど、そこらへんはきちんと真面目で、ルーズなことは大嫌い。
だけどそんなこと加瀬くんにはわからないから、完全に見た目の印象だけでアレコレ言っちゃう。
その上、若干デリカシーに欠けてる加瀬くんは、
「もっと人の気持ちを考えた言動したほーがいいぞ、オマエ」
なんて言いながら、マナが大事に抱えてきたチケットを折り畳みもせず、そのままぐしゃっとお尻のポケットにつっこんだ。

「あっ・・!」

加瀬くんのお尻を凝視するマナの顔が怒りに歪む。

「アンタにだけは言われたくない・・!」