不運な天使にキスを

 2階にある教室から放送室までは遠い。
 やっと半分まで来たと思ったら
 「ちょっと神田さんっ。廊下を走らないで!」
 厳しいと有名な体育教師、未来みくちゃんこと、海月未来くらげみく先生が追いかけてきた。さすが体育教師というだけある。物凄い速さで猛追してくる。
 ひゃー。
 早く放送室に着かないと、未来ちゃんに追いつかれてしまう。
 追いつかれたらどんな目に合わされるか。うぅ、考えただけで眩暈と寒気が・・・
 そんなことを考えながら走っていたら足が(もつ)れて・・・
 バタンッ!

 大きな音を立てて私は派手に転んでしまった。
 いてて・・・
 と思う間もなく、未来ちゃんが追いかけてくる。未来ちゃんは自分で「廊下は走るな」と言っているのに今日に限って全速力で追いかけてきて、
 「隙在り!」
 そう言って、私の上に馬乗りになった。
 「生徒にする行動じゃないでしょ!」と言いたくなるほどただただ重い。未来ちゃんにそんなこと言ってしまったら、ゆうみんのところに伝達がいって内心点が下がってしまう。ただでさえ中間テストの順位も点数も平均で中途半端なのに悪口をいったら“中”が“中の下”になる。「そんなことは嫌」と思うことで未来ちゃんに対する悪口がなんとか抑えられた。
 「痛い、痛い」
 私は悲痛な叫び声をあげた。
 「起こしてよ。馬乗りになるのはもうやめてよ。」
 「いやいや、自分の悪事を反省するまではこのままだよ~」
 未来ちゃんはニヤリと笑った。この笑顔は何かを企んでいる顔だ。そう確信できる。その企みが実行される前に謝罪の言葉を述べなくては。焦り始めて冷や汗が止まらない。今日は厄日だな。断ったり、謝ったりしなきゃいけないんだもん。
 「本当にごめんなさい!もう死ぬまでこんな廊下を走るなんて幼稚なはしたないことはしません。」
 私は深々と頭を下げた。「うーん。どうしようかな」このままでは許してもらえないと思った私は、本当に反省しているという意味を込めて土下座した。
 「よし、そこまでするなら許してあげようじゃないか」
 よかったぁ。
 私はこの日“土下座”という行為がとても役立つことを知った。
 「ほら、顔上げな?神田さんの幼馴染くんが、ずっと、吹き出しそうになるのを我慢してるから。早乙女くん、だっけ?」
 「はいそうです。何かありました?」
 「そろそろ吹き出してもいいんじゃない?逆に神田さんがかわいそうだよ。」
 未来ちゃん、本当に神!本当に!私が恥ずかしくてたまらないことに気付いてくれたんだね。もとと言えば未来ちゃんが原因だけど、救ってくれたならいいか。終わり良けば全てよしとしよう。
 んん?
 今までどんちゃん騒ぎがあったせいで気にしていなかったけど、楓は誰に告白するつもりだったんだろう。私が楓のことを庇おうとして教室を飛び出して未来ちゃんに馬乗りにされたせいで告白はなくなった。
 誰だろう。私?それはないか。自惚れにはなりたくないし。
 ズキッ
 私の胸が締め付けられた。
 2023年3月15日1時00分の出来事だった。
 4月になって、太陽はきらきらと輝いていて、私たちを容赦なく照り付ける。
 「ひゃー。こりゃ今日だけでも一生分の日焼けしそうだよ。」
 柚はそう言って休み時間になるたびにこれでもかというくらいに日焼け止めを塗っている。4月なので私はまだ半袖のブラウスではなく長袖のブラウスとその上からグレーのカーディガンを羽織っている。校則に引っかからないくらいに折ったプリーツスカートの下には黒いレギンスを穿いているので、日焼け止めは塗らなくても、あまり日焼けするような恰好はしていない。柚は、その油断がいけないんだよ、とお説教するが私は興味がないので聞き流している。
 私は昔からティーン向け雑誌など、1回も目を通したことがない。そのせいでお洒落に疎くなってしまった。2個上の姉、早希(さき)は、校則に引っかからない程度に制服を着こなして、ティーン向け雑誌を読みまくっている。
 早希は髪にもこだわっているよう。私は500円くらいで買えるようなシャンプーをしているが、早希は900円もするものを使っている。そのお金はどこからでているのかというとバイト。
 ショッピングモールの“White sweet”という名の甘いスイーツを売っているお店で働いている。何回か柚と行ったことがある。フルーツパンケーキが絶品で。中間テストや期末テストが終わった後に、ご褒美、と言って柚と2人でWhite sweetに行って各々好きなスポーツを食べている。
 私と柚は筝曲部で活動は土曜日。平日にバイトをすることは可能だが、先輩後輩関係が嫌でバイトをする気はない。バイトをすれば今後の就活にも役立つのだろうけど。柚もバイトをする気はないようだ。
 実は柚は泉グループの社長令嬢。将来は社長になることが決まっている。1回だけ柚の家に行ったことがある。部屋や食べ物が平凡な私たちとは全く違った。でも鈴の食事だけは私たちと同じだった。理由を聞くと、みんなと同じようなものを食べて、同じようなことをしたい。世間知らずの高嶺のお嬢様だとは思われたくない、だそうだ。確かにこの学校で柚が泉グループの社長令嬢だと知っている人は私と先生のみ。小学校、中学校の同級生にも行っていなかったようだ。バイトも普通のことだと思うけどな。柚の親御さんはバイトも経験だと言っているのだが柚は聞く耳を持たない。
 話を戻して。
 早希は、900円もするシャンプーのお陰で髪の毛はさらさらでヘアアレンジがしやすいとここ最近ずっと自慢ばかり。お母さんも自分のお金で買っているならと文句を言わない。しかも、早希は香澄川くんと同じように中間テストや期末テストで全科目満点でお母さんはベタ褒め。そのお陰で、お母さんは早希がよっぽどのことをしない限り怒ったりはしない。私には怒りまくりだけれど。
 早希のヘアアレンジはとても凝っていて。みつあみハーフアップやくるりんぱ、たらしだんご。楽なポニーテールにシュシュを付けただけの私とは全く違う。
 小さいころからお母さんや親戚(しんせき)の人たちに言われてきた。
 「同じ血の通っている姉妹なのに、どうしてこんなにもちがうのかしら」
 お母さんは高校生活私を楽しんで欲しいらしく。早起きが苦手なお母さんが5時に起きて来たときは、動揺を隠せなかった。こんなに早く起きて何をするのかと思ったら、急に、制服をいじくり出してスカートを短く折ったり、ブラウスの第1ボタンまで外されたりしたのだ。
「ちょっ、何すんのさ」
 抵抗したが無駄だった。
「今日はそのまま行きなさい。帰ってくるとき、もと通りになってたらお小遣いなし!」
 
お母さんはそう言って私を家から追い出した。今日は制服このままか、と憂鬱な気持ちになりながら学校へ向かった。お母さんは言ったことを絶対に曲げない。本当にお小遣いがなくなる可能性が無きにしも非ず(あらず)だから今日だけは、しょうがない。
 柚は驚いていたが何も答えなかった。私は俯いた。ここで理由を答えたらこうされたことが悲しくて涙が出て来そうだった。柚をそれを悟ったのか何も聞いてくることはなかった。
「でも、それレギンス穿かない(はかない)と日焼けするからね。気をつけな」
 日焼けか。そんなことこだわったことないな。日焼けしようが命に関わることはないし、だからといって日焼けしようとも思わない。つまるところ服は着ることができればいいのだ。けれど、露出するような服は好まない。早希は爽やかな色のオフショルダーのワンピースを着たり、純白の白のTシャツにデニムの台形スカートを合わせたりと色気重視の洋服を着ている。まだ夏になっていないのによくそんな洋服を着れるなと尊敬してしまう。早希が来ている服には賛成できないけれど。
 キーンコーンカーンコーン
授業の始まりを告げるチャイムが鳴った。4限目は数学。数学は得意な方だ。去年の学年末テストでは90点だった。
 もうすぐお昼だ。今日は楓を誘って外でお弁当を食べようかな、そんなことを考えながら授業を受けていると
「神田さん、この問題の答えは?」
 ゆうみんに指されてしまった。今は微分積分を学習している。高1の数学の中で1番苦手。昨日、予習しようと思ったのだが、英語の予習もして疲れてしまったため、明日早起きしてやればいいかと思い寝てしまったのだった。案の定、寝坊してしまい、数学の予習はできなかった。つまり、言いたいのは、「この答えが全く分からない」ということだ。でも、ここで、わかりません、と言ってしまったら、課題がみんなより多く出されるに違いない。どうしよう。ゆうみんは、早く答えろよ、と言いたそうな顔をしているし、外にいる小鳥は「ピッ、ピッ」と私の解答を急かすように鳴いている。そんなとき、私の机に紙飛行機が飛んできた。紙を開いてみると
 
 涼音ちゃん
 その答えは —だよ。
 かえで

 ナイス、楓と叫びたくなるくらい今日1で嬉しいことだった。
 「—です。」
 「応用問題なのによくできたね。」
 しかも、褒められた!嬉しい!、と思ったのも束の間。
 「早乙女くん、きみやっぱり頭いいね~。先生たちの間でも有名だよ。いや、成績トップというだけある。今度から“天才くん”と呼ばせてもらうよ。」
 ガ、ガーン。褒められたのは楓だった。そりゃそうか、私は楓が教えてくれた答えを読んだだけだもんね。と、私は1人勝手に納得していた。
 他のみんなもドン引きしている。ゆうみんが楓のことをベタ褒めしすぎて。
楓が超人級に頭がいいことは放送委員会の人を除いて全員知っている情報だけど、ゆうみんが人にこんなに褒めるという情報は新情報。ある意味いいことがあったな。“みんなの掲示板”に書いておこう。
 楓は、こんなに褒めるのは嬉しいけどちょっとやめて欲しい、と私に囁いてきた。当事者がこのテンポについていけてないってどういうこと!?
 キーンコーンカーンコーン
 あっという間に50分が経っていたらしい。いろいろなことがあったな。
 そんなこと考えないで、楓をお弁当に誘わないと、他の人に取られちゃう。それだけは御免だ。
 「かえっ!」
 楓に声をかけようと思ったら、他のクラスの女の子が楓に声をかけているのが目に入った。さらさらの髪で低めのツインテールをしている。プリーツスカートは明らかに校則に引っかかるくらい短くしていて、ブラウスの上に薄いピンク色のカーディガンを羽織っている。あっ、そういえば3月に借りた楓のカーディガン、返してなかったな。楓にカーディガンをかけてもらって安心しちゃって、今に至る。
 柚から聞いた。あの子は、岩槻陽菜(いわつきひな)、というらしい。名前まで可愛いなんて。神様、陽菜さんに二物を与えすぎだよ。世の中ふこーへいだ。
 だんだん嫉妬心がメラメラと、湧き上がってきて。
 「12本のバラの花束、海を泳いでるクラゲ・・・」
 「なんでそんなこと言ってんの?」
 「たぶん、ふつふつと湧き上がって来てる黒い気持ちを静めようと綺麗なものを想像してるんだと思う。」
 そうだよ、嫉妬でどうにかなりそうなんだよ。よく理解してくれた。華也(かや)ちゃん。心の友よ~。華也ちゃんはいつも冷静で、体育会系ではないけど元気ハツラツ系の柚がかっかしたときに(なだ)める係だ。華也ちゃんと私は派手なものは好きではないので柚と同じように馬が合う。ふわふわした性格でちょっと力を込めただけで潰れてしまいそうで、壊れ物を扱うように関わらないといけない。決してつまらないというわけではない。
 あぁ、なんか気持ち悪くなって来た。なんか地に足がついている感覚がしない。視界が狭まってきているような気がする。あれ、なんかみんなと地面が傾いている。あっ、違う。私が傾いてるんだ。そう思った瞬間・・・
 バタンッ
 大きな音を立てて私は倒れた。
 痛っ、ここで私は意識を手放した。
 んん?
 私は今どこにいるの?
 保健室特有のつんとした消毒液の匂いがする。
 試しに目を開けてみた。白い天井が見える。やっぱり私は保健室にいるんだ。
 音がぼやっとしていて聞こえにくい。
 「・・音ちゃ、涼音ちゃ、涼音ちゃん、涼音ちゃん!」
 何処かの誰かが私の名前を呼んでいる。でも誰が読んでいるのかはわからない。
 「涼音、涼音!いつまでも寝てんじゃないよ!」
 誰かが私に対して怒っている。これも同じく誰が言っているかは不明。だんだん眠くなってきた。もう1回寝よう。
 「涼音ちゃんっ!」
 「涼音!」
 2人が同時に怒鳴った。キーンと耳障りな音がする。ここに病人がいるというのによくこんな声が出せるな。そんなこと私だったら絶対にできないよ。 それじゃ、おやすみなさい。心の中でそう呟いて、もう1度夢の世界へと戻っていった。

 うっ!
 なんか気持ち悪さがカムバックしてきた。
 はあ、はあ、なんか息がしづらい。水の中で息を吸っているみたい。
 「神田さんっ?大丈夫?」
 幾田美琴(いくたみこと)先生が切羽詰まった声で聞いてくる。この優しい声は絶対に幾田先生だと思った。私がこの学校で一番慕っている先生。
 私は答える余裕などなく。「はあ、はあ」と言うだけだった。
 「とにかく、親御さんと救急車を呼ぶわね。えっと、119,119。そうだ、早乙女くんと泉さんちょっとごめんね。教室に戻って神田さんのバッグ、持って来てくれる?」
 「早乙女、持っていってあげな。私は2人の恋に首を突っ込む気は微塵もないからね。」
 ああ、そうだったのか。さっき私の名前を呼んでいたのは楓と柚だったのか。通りで聞いたことのある声だなと思ったわけだ。
 でもそんなこと考える余裕など今の私にはない。息が苦しい。胸が痛い。体が熱い。
 私、まだ若いのに死んじゃうのかな。そう思いながら意識を手放した。