「……おい、佐久馬?」

 その声で、私は一気に現実に引き戻された。それでも、体は強ばって動けず、ただプルプルとしながら、近藤くんを見上げていた。
 まさか今回は一度も会ったことのない人を本気で怖がって動けなくなっているなんて、言える訳もなく、ただ逃げ出したいけれど体が動けないでいる。
 近藤くんは顔をしかめると、私が凝視しているクレーンゲーム機のほうを見て、女の子集団に目を留める。

「あれって、うちの学校の奴らか? 誰か、会いたくない奴でもいんの?」

 そのひと言に、私は必死で首を縦に振った。
 声帯まで強ばってしまって、声がまともに出てくれない。気持ち悪くって吐きそうで、えずきそうになるのをどうにか必死で堪えている。
 そのとき、近藤くんがぐいっと私の手を掴んだ。彼の手は私よりも大きくってグローブみたいだ。おまけに、剣道やってるせいかボコボコの豆ばかり当たっている。
 私が手に感心が移っている中、近藤くんはあからさまに顔をしかめた。

「佐久馬、お前マジで大丈夫か? 手が無茶苦茶冷たいぞ」

 それで私は近藤くんに手を引かれるまま、ゲームセンターを後にした。ゲームセンターからフードコートまで行ったところで、ようやく手を離してもらったけれど、私の唇がプルプルと震えて歯が勝手にカチカチと鳴る。今は夏で暑いはずなのに、気のせいかひどく肌寒い。

「……佐久馬、お前大丈夫か? あいつら誰だ?」

 そう聞かれ、私はたじろぐ。
 あの子たちとは同じ部活だったから知っていたけれど、クラスも小中も違うから、天文部以外に接点がない。今の私は天文部じゃないから、怖がっている理由なんて説明ができない。
 だから私はぶんぶんと首を横に振るしかできなかった。でも私の反応があからさまにおかしかっただろう。さすがに近藤くんも見逃してくれなかった。

「隠すな。お前マジですっげえ顔してるから、なんもない訳ねえだろ」

 そう言われても。どうやって説明すればいいんだろう。
 視線をさまよわせている私の目を、近藤くんはじっと見ている……彼は誠実な人だ。これだけ心配してくれているのに、なんの説明がないのは心苦しい。
 私は困り果てた末に、「前にね」とだけ前置きしてから、言葉を探しはじめた。いくらなんでも、本当のことを一から十まで言っても納得してもらえないけれど、嘘をついても見逃してもらえるとは思えなかった。
 だから、嘘ではないけれど本当でもない話をして、お茶を濁すしかできなかった。

「……好きな人がいたんだ。その人のことが好きだったけど、その人、女の子に人気でね。いっつも女の子に取り囲まれている人だった……だから私、すぐに諦めちゃったんだよね。仲のいい友達として、ずっと一緒にいれたらいいなって、そう思ってた」

 聞いている近藤くんは仏頂面だった。まるでなにかに耐えているような表情で、私は胸がシクシクと痛むのを感じていた。
 近藤くんはなにも悪くない。「今の」篠山くんはそもそも私を知らない。だから、そんな顔する必要なんてこれっぽっちもないのにと思わずにはいられなかった。

「でも皆が勝手にひとり諦めふたり諦め、気付いたら好きな人の周りに誰もいなくなったの。友達として一緒にいた私以外いなくなったから、もしかしたら今だったら言えるかもしれないって思ったの」

 口にしてみると、なんて身勝手な話だとも思う。
 気持ちなんて、一日や二日で変わるものじゃない。好きになってもらう努力をしたのかどうかは、今の私には思い出せない。ただ、友達としての距離感を保つ、ときめいても気付かないふりをする努力という、不毛な努力ばかり繰り返していた気がする。
 自分の保身が第一な時点で、そこまで好きじゃなかったのかなとも記憶をかすめる。打算ばっかりなんだもの。
 でも、ならどうしてずっと勝手に傷付き続けてるんだろう。今の私は彼とは他人で、彼は私の存在自体知らないはずだから、とっくの昔に悩む必要なんかなくなっているというのに。
 近藤くんは私が思い出して、ときどき吐きそうになるたびに、そっと背中をさすってくれた。胸が冷えて、寒くて仕方なくなったときに、絶妙なタイミングでさすってくれるから、どうにか呼吸ができた。

「……告白したけど。その人、私の告白した数分後には、誰か別の人とキスをしていた。それからなの。モテる人を見ると、途端に吐き気がしたり、気持ち悪くなったりするようになったの……我ながら気持ち悪い話だと思う。変なこと聞かせてごめんね」

 そう言って無理して笑う。
 はあ、終わった。そう思ってしまう自分がいた。
 こんなに自分勝手なことばっかり言ってたら、いくら近藤くんがいい人でも、呆れてしまってもしょうがないだろう。ううん、女子の汚い部分を見せたんだから幻滅されてもしょうがない。
 近藤くんが「はあ……」と溜息をついた。
 やっぱり。そうどこかで諦めが付いたとき、近藤くんは不愛想に口を開いた。

「それ、全然笑うとこじゃねえだろ。どう考えてもお前が告白した奴が悪い。なんでお前だけが一方的に悪いみたいになってんだよ。お前、自分のこと被虐し過ぎ」

 意外過ぎる言葉に、私はしばし目をパチパチと瞬かせる。

「え……だって。今はいない人だよ?」
「なんというかさあ。お前はお前で、勝手に自分は傷付かないポジションに居座るってその態度は気に食わねえけど、なあなあで済ませておいしいところ取りすんのも、結局は傷付きたくないからだけだろ。お前が告白したあともよその女にちょっかい出してるそいつも相当気に食わねえ」

 そうばっさりと切り捨てたことに、私は拍子抜けして、目を再びパチパチとさせた。そして大きな手で、私の手を握ってきた。
 まだ私の掌には体温が戻ってきてないのを、まるで揉み解すようにして柔らかく力を込めてくる。近藤くんの手は温かくて、すっかり冷え切ってしまっている私の手には心地いい。
 私の手を揉み解しながら、近藤くんは気遣わし気な目をする。

「ここまでトラウマになってんのに、なんでお前が謝るんだよ。そっちのほうがおかしいだろ」
「だって……いつまで経っても忘れられないから……私、自分のことしつこいって、そればっかり」
「なんだよ、忘れられないくらいひどいことした奴が悪いに決まってんだろ。俺だってしつこい性格だから、嫌いなセンセから言われたことなんていつまで経っても忘れないし、いつか絶対生徒の前でズラ引っぺがしてやるとか思ってんからな?」

 そう言ってきたことに、私は思わず噴き出した。生活指導の先生の中には、カツラだと噂されている先生がいるせいで、自然と頭に浮かんできてしまう。

「なんで、いきなりカツラの話になるの……!」
「いや、俺もしつこいなあと自己分析しただけで」
「全然。近藤くんは全然しつこくないよ……! むしろ健全過ぎて……」

 さっきまで落ち込んで、催していた吐き気も治まり、全然体温の戻らない掌にも、ようやく体温が戻ってきた。それに気付いたのか、近藤くんは何度も何度も私の指先を揉み込んでから、ようやく手を離した。

「おっし、ようやく笑ったな、佐久馬も」
「うん……ありがとう、近藤くん」
「別に。お前がうじうじしてんのは、なんか惜しいと思っただけだし。それにさ」

 そう言って近藤くんはふいっと顔を逸らした。また彼の耳が赤くなっているのに、私はあれ、と目に留めていたら、ぽつんと近藤くんが呟いた。

「……別にさ、お前が手ひどい失敗したのって、別に悪くねえと思うんだよな」
「……打算って思わないの?」
「もっと友達囲って相手追い詰めるとか、SNSでひどい目に合ったとか言って拡散させるとか、相手に仕返しする方法なんていくらでもあんだろ。でもお前はそんなことしてないんだろ? 痛いのが嫌って、そんなもん当たり前じゃねえのか? 武道だってまず習うのは受け身だし」

 近藤くんの言葉に、私はじんわりと胸が温かくなるのを感じた。
 彼は不愛想だし、無神経だし、悪いところだっていくらでも挙げられるけれど。
 なにかに対して一生懸命言葉を繋げることができるのは、素敵なことだなとぼんやりと思った。
 近藤くんは、「なんか、臭いこと言ったよな」と誤魔化すように頬を引っ掻いてから、フードコートの入り口のほうに視線を向けた。開いたばかりのフードコートは、まだ人の数もまばらだ。

「もうちょっとしたら混みはじめるけど、今だったら席取れるだろ。そろそろなんか食うか?」
「うん。なに食べよっか?」
「腹減ってるから、カツ丼かなんか食えねえかなあ」

 ふたりでフードコートを見回して、結局は近藤くんはカツ丼の特盛り、私はカツ丼の並盛りを頼んで、並んで食べた。
 フードコートも日々レベルが上がっているせいか、お店のようにサクサクでおいしいとんかつを味わえ、ふたりで並んで食べた。
 ドラッグストアで買い物してから、ふたりで適当にショッピングモールを見て回った。
 帰りに自転車を駐輪場まで取りに行くとき、山田くんに「あのさ、佐久馬」と言われ、私は振り返った。

「……お前のさ、トラウマ。どうにかなるといいな」

 一瞬意図がわからず、私は目を瞬かせながら、「うん」と頷いた。私の間抜けな反応に、近藤くんが一瞬顔をしかめたけれど、もう次の瞬間には自転車を跨いでいたから、もう表情の確認なんてできなかった。
 なんでそんなこと近藤くんが聞くんだろう。
 一瞬だけ、自分にとって都合のいい話が頭を掠めたけれど、それに私は真っ先に「NO」を突きつけていた。
 ……私が思っているぶんには、なんの問題もない。でもあっちも好きだって思うのは、どうかしている。
 ずっとズキズキと胸が痛いのは、私がわずかにも期待してしまったからだ。篠山くんは私のことを好きだと思い込もうとしたからだ。
 好きになるのは勝手だ。私の自由だ。でも。
 期待しちゃいけない。好きだと思っちゃいけない。近藤くんに勝手に期待して、勝手に傷付いて、また近藤くんに迷惑なんてかけちゃ駄目だ。だって。
 私の恋はいつだって身勝手なんだもの。そんな気持ちを近藤くんに向けちゃいけない。