その日、私は園芸部に鬼瓦先生に謝って早めに家に帰ることにした。買い物に行かないといけないから。
本当だったら、近藤くんと少しだけ話がしたかったけれど、稽古中の人に声をかけるのも忍びない。私は剣道場のほうを一瞥してから、さっさと帰ろうとしたとき。
「佐久馬」
声をかけられて、私はビクン、と肩を跳ねさせた。振り返ったら、胴着姿の近藤くんがいた。多分走り込み中だったんだろう。少し息が上がっているようだった。
「こん、にちは」
「……あー、もう怒鳴ったりしないって。さすがに毎日急いで帰ってるのを見たら、なんかあるんだろうってことくらいはわかるし」
「ごめん……」
「そんなに怖がるなって」
私がビクビクしている中、近藤くんはガリガリとうなじを引っ掻いたあと、もう一度私のほうに視線を戻した。
「あのさ、いっつも忙しそうにしてるけど、日曜はやっぱり忙しいか?」
「えっと……土日だったら、親も休みだから大丈夫だと思う」
「あれ? 前に買い物って言ってたけど」
「うち、共働きだから。だから普段の家事は全部私がやってるし、週末は買い出しに行ってるから……さすがにそれだけじゃ全部賄えないから、平日でも買い物に行くけど」
そう伝えたら、少しだけびっくりしたように目を見開いたあと、「あー……すまん」と唸り声を上げられてしまった。
「どうして?」
「あー……うん。そんなに急いで帰らないといけないのかって、思ってなかったから。あー……すまん。でもそれだったらなおのこと、休みを潰す訳には」
「私、剣道のルールとか、全然わからないけど、見に行っても大丈夫なの?」
そう言ったら、またも近藤くんは目を見開いたあと、こちらにもう一度声をかけてきた。
「マジで?」
「えっ?」
「マジで見に来てくれんの? あー……よかった。別に審判の言葉聞いとけばだいたいわかるから、ルールはそんなに問題ないと思う」
「そうなの? えっと。なにか持っていったほうがいいの?」
私の言葉に、近藤くんは目をパチクリとさせていた。私は言葉を続ける。
「えっと差し入れ。他の先輩さんたちの邪魔にならなかったら、だけど……」
「アイス。アイスだったら入る。安いのでいい。アイス」
アイスだったら、ドラッグストアのポイントとクーポンを使えば、人数分買ってもそこまで高くないかな。普段から買い出しに行っているドラッグストアのポイントを頭に浮かべながら、私は頷いた。
「わかった。邪魔にならないよう、見に行く」
「おう。じゃ」
そう言って近藤くんは、ぶっきらぼうに背を見せて去って行ってしまった。でも。気のせいかすれ違いざまに見上げた耳が赤かったような気がする。
私は家に帰る前にスーパーとドラッグストアをはしごして、買い物していった。ここしばらくのご飯の材料を買い足していたところで、私は鶏肉が安いことに気が付いた。
……多分剣道の試合では、傷むものを出さないようにってことで、手作り品は駄目なんだろうけど。平日の昼ご飯だったらどうなんだろう。私は鶏肉の値段をちらっと見てから、一枚余分に買っていった。
今晩のおかずとして、漬け汁に漬けたひと口大の鶏肉を、米粉の衣を付けてジュワッと揚げる。二回揚げてから、多めにつくったぶんを冷ましておく。
体育会系男子に唐揚げって、安直過ぎるのかな。そう思ったけれど、私は近藤くんの好きなものをなにも知らない。
ただふわふわしてたいだけだったら、もうなにも考えずにただ眺めていればいい。傷付きたくないんだったら、もうなにもしなかったらいい。
でも。私は彼の赤い耳が、脳裏から離れなかった。
早く前の記憶が掻き消えてしまえばいいのに。
私はそう思いながら、片手鍋で味噌汁をつくりはじめる。
記憶に残っているキスシーン。あれが未だに引っかかっている。どうにか押し込めようとしても、私がふわふわとした気持ちになった途端に出てきてしまう。怖いし、思い出したくないし、誰にも説明できない記憶だ。
まだ、ただふわふわとした気持ちを楽しみたいだけ。まだ、どうこうなりたいなんて微塵にも思っていない。
想うことさえ気持ち悪くなってしまうのなら、私には前の記憶なんて必要ない。
****
次の日、私はいつものように早めにやってきて、園芸場の草木に水をあげていた。そろそろ日差しがきつくなってきたから、朝に加えて夕方も水やりをしないといけなくなるだろう。
私がホースを細く持って水をあげているところで、「おはよう、今日も早いな」と声をかけられた。近藤くんも胴着姿で、既に汗のにおいがするんだから、充分早起きだ。
「おはよう。もう大会が近いんだから、先生だって園芸部の手伝い、許してくれるんでしょう?」
「いや、そりゃそうだけどさ」
そう言ってこちらのほうを見てきた。
私も近藤くんも、そんなに言葉数がない。沈黙が降りて、その中でホースから水が飛ぶ音だけが響いている。
「あの、近藤くん。唐揚げ好き?」
「はあっ?」
あまりにも脈絡なさ過ぎる言葉に、近藤くんは声を裏返して反応を返してくれた。そうだよね、私だって会話の前後と全く関係ない話だと思うもの。だいたいの土がしっかりと湿ったのを確認してから、ようやく水を止めてホースを立てかける。
「昨日、肉が安かったから、唐揚げつくり過ぎちゃったの。ええっと、友達に配るのも、嫌がられそうだし……」
多分恵美ちゃんも奈都子ちゃんも、私がタッパに詰めてきた唐揚げを見たら、すぐに食べてくれるとは思うけど。
私がたどたどしく並べる言葉に、近藤くんはしばらくポカンと黙り込んだあと、「おう」と頷いた。えっ、これって……。
「食う」
「あっ、ありがとう……っ」
「いや、俺。女子からその。食い物もらうの、初めてで……」
そう言ってしどろもどろになっている近藤くんに、私は笑った。
「桑の実ジャムは駄目だった?」
「いや、あれは。まあ……美味かった。うん、楽しみ」
「片言になってるよ」
さんざん笑ったけれど、私だって恥ずかしい。
言い訳並べて取っておいたタッパを近藤くんに渡したあと、剣道部の試合の時間と場所の確認を取ってから、私たちは別れた。
心臓がうるさい。ジャムだったらまだ文化祭のための試食だと言い訳ができたけれど、唐揚げだったら言い訳が全然できない。男子が好きそうという理由だけでつくって、それを渡したのなんて。近藤くんにはつくり過ぎたなんて嘘ついたけれど、こんなの端から見たら下心なんて見え見えだもの。
ああ、情緒不安定だ。まさか言えないじゃない。
言う気はないけれど、好きでいさせてくださいなんて。好意がそのまんま通じてしまわなくってよかった。本当によかった。私はそう思いながら、教室へと帰っていった。
****
お父さんとお母さんには「友達の部活の応援に行きたい」と言ったら、拍子抜けするほどあっさりと「行っておいで」と言われてしまった。
「普段由良には家事やってもらってるし、土日くらい遊んできなさい」
そう言われて、お母さんが車を出して途中まで送ってくれた。
剣道の県大会は県立の体育館を貸し切って行われるものらしい。
クーラーボックスにアイスをいっぱい入れて持っていって体育館に入ったとき、四つのブロックに分かれて、そこで大会の準備が行われているのが見えた。
団体戦と個人戦。ふたつのブロックで団体戦が、もうふたつのブロックで個人戦が行われるらしい。女子と男子はそれぞれ別の体育館らしくって、ここでは男子しか見つからなかった。もっとも、胴着着て防具付けちゃったら、端からだと男女の区別なんて付けようがないけれど。
私がきょろきょろとうちの学校を探していたら、「佐久馬さん?」と声をかけられた。鬼瓦先生だ。それに私はぺこりと頭を下げる。
「こんにちは! あの、差し入れを持ってきたんですけど……」
「ああ、ちょうど今から試合始まるから、こっちで見ておいで」
「ええ? いいんですか?」
「この辺りはうちの生徒たちが固まってるから、問題ないよ」
そう鬼瓦先生が言うので、ちらっと見る。
なるほど、胴着や防具は付けてないシャツと短パン姿だけれど、たしかにスポーツバッグを持って座っているのはうちの学校の男子らしい。試合には参加しない子たちなのかな。
私は邪魔にならないように座って、下を見た。
下ではうちの学校の団体戦が。向こうでは個人戦が見える。
皆がそれぞれお辞儀をしているのを見たとき、ふいに個人戦の男子がひとり、うちのほうに振り返ったことに気付いた。防具にはうちの学校の名前が入っている。そして、竹刀を持っていないほうの手を挙げたのだ。
あれ、もしかして……。
鬼瓦先生はのんびりと口を開いた。
「近藤も調子に乗っているから。ちゃんと見てないと怪我するのに」
「えっ……! 防具付けていても、ですか?」
「竹刀は割れやすくできているから、ちゃんと防具に当たれば怪我はしないけど、打ち所が悪いと誰だって怪我するよ」
「えっ……!」
そんな当たり前なことすら知らなかった私は、おっかなびっくり近藤くんの試合を凝視した。
審判の人が旗を挙げたのだから、試合がはじまったのだろう。
皆が皆、気合いの入った声を上げながら、なかなか打ち合いがはじまらないのを見ている。
「あのう、竹刀振らないんですか? さっきからずっと声を上げながら回ってますけど……」
「剣道はね、間合いを見る競技だから」
鬼瓦先生がゆったりと解説してくれるのを聞きながら、私は近藤くんを見ていた。ここからだと少し遠いけれど、互いが睨み合いながら、ぐるぐると回っているのが見える。
やがて、相手側のほうが大きく打ち込んできた。それを近藤くんが受け止める。もっと打ち合うのかと思ったけれど、何回か鍔競り合いをしたあと、またもぐるぐると周りはじめてしまった。
「あの、このまま打たないんですか? ええっと、面とか胴とか」
聞きかじりの言葉を言うと、鬼瓦先生は軽く首を振る。
「剣道は三本勝負だから、先に決め技を二本決めたほうが勝ちなんだよ」
「ええっと……?」
「さっきの鍔競り合いで、もうちょっとでどちらかが打ち込みそうになった。だからまた間合いを取ったんだよ。ここからじゃわかりにくいかもしれないけど、互いに相手の次の行動を読み合って、今は勝機がないとわかったから、もう一度間合いを空けたんだよ。でももうそろそろ勝負は決まるよ」
「そうなんですか?」
鬼瓦先生の言葉に、まだ勝敗がわかってない中、ふいに空調の風が吹いた。この辺りも熱気や湿気がこもっていてムンムンしているから、その風がありがたかった。
そのとき。近藤くんが動いた。彼の大きな突きが、相手の胸を客席にも聞こえるほど大きな音を立てて打ったのだ。途端に、白旗が近藤くんのほうに上がった。
「わっ!」
「うん、見事な胸打ちだね」
「すごい!」
わかってないなりに、今の近藤くんの技がすごかったことだけはわかった。結構間を空けていたはずなのに、技が決まったのはあっという間だったから。
私が思わずパチパチと手を叩いている中、他の部員たちがやんややんやと喝采している中、鬼瓦さんは隣に座っている私にしか聞こえない程度の声でつぶやく。
「園芸部活中も、近藤もしょっちゅう機嫌悪くってピリピリしてただろ」
「ええっと……そんなことないです」
「別に怒ってないから、誤魔化さなくってもいいよ。。勝負事になったらどうしても喧嘩っ早い子が集まるから、空気を抜くために園芸場に連れて行ってるけど。あれも最初は同級生だけだったらともかく、上級生とまで折り合いが悪かったからねえ。そんな態度ばかり取るんじゃ、とてもじゃないけど団体戦には出せないし、だからといって個人戦で他校の生徒とまで揉めてしまっても困るし、大丈夫かねえと心配してたけど。佐久馬のおかげで大分マシになったねえ」
「え、私……ですか?」
思えば。たしかに近藤くんは最初、好きでもない園芸部の手伝いで終始機嫌が悪かった。私も他に入れる部がないから辞めることもできないし、ずっと部活中はピリピリしていたと思う。
私はただ、怖くて勝手に泣いただけで、近藤くんのためになにかしたことなんてなかったと思うけど。
ただただ首を傾げている中、鬼瓦先生はゆったりと笑う。怖い顔も、笑えば存外優しく見える。
「若いっていいねえ」
そう締めくくられるけれど、本当に心当たりがないものだから、そうなのかなとしか思えなかった。
結果、近藤くんは一度は打ち返されてしまったものの、また取り戻したから、二対一で勝ち上がり。次の試合まで少し休憩したところで、私はようやく選手の皆にアイスを配りに出かけることにした。
うちの学校、たしかに運動部は強いらしく、剣道部もご多分に漏れず強い。団体戦も次の試合へとコマを進めたのに、私は怖々とクーラーボックスを抱えて挨拶に行った。
「お、お疲れ様です……!」
「あれ、一年の子……だよね?」
防具を取って、噴き出てくる汗をタオルで拭っている先輩は、たしかに前に剣道場で見た先輩のうちのひとりだったと思う。私がときどき近藤くんを見に行っていたから、顔を覚えられていたらしい。
私がアイスを配りたい旨を伝えたら、先輩はすぐに「お前らー、一年から差し入れだぞー!!」と大声で言い「あざーっす!!」と頭を下げられるものだから、私はビクビク震えながら、クーラーボックスを開けてアイスを取ってもらった。
私はアイスをひとつ持って近藤くんを探すと、近藤くんも防具を取ってペットボトルを傾けているところだった。私はひょいとパッケージごとアイスを差し出す。
「お疲れ様。あの、私。ルール全然わからないけど、すごかった」
「えー。ルールわかんないのにすごいってなんだよ」
「ルールわかんなくってもすごいって見てて思ったんだよ」
「ああ、サンキュ。アイスもな。ありがと」
そう言いながらパッケージをめくってアイスに齧り付いた。近付いてみると本当にこの辺りは湿気がむんむんしているし、たしかに冷たいアイスが余計においしく感じるのかもしれない。
私も湿気でパタパタと手を振っていたら、近藤くんがひょいと私が配ったアイスを差し出してきた。まだ少ししか囓っていない。
「ここ無茶苦茶暑いのに、お前の分ないだろ」
「いや、いいよ。私も別に、近藤くんの応援に来ただけだから」
「あのなあ。甲子園での高校野球でだって、観客も選手もバタバタ倒れてんだろ? 熱中症ってマジで怖いんだからな。ちゃんと水分摂っとけ、室内だからって油断すんな」
「え、でも……」
「ほら」
またもずいっとアイスを差し出されて、私はたじろぐ。
これって間接キスになるんじゃ……。友達同士でだったら平気でペットボトルの飲みっこだってできるけれど、男子と間接キスなんてしたことがない。
ただ、近藤くんが眉間に皺を寄せて「ほらっ」となおも差し出してくるし、熱気のせいでアイスも溶けかけているのを見たら、さっさとひと口食べて返さないと、近藤くんが食べられなくなっちゃうと、慌ててひと口もらうしかなくなったのだ。
シャクッとひと口囓ると、冷たさが喉を通っていく。本当に、暑い場所で食べるアイスはおいしい。
「ありがと……もう残りは近藤くんが食べちゃって」
私がそう言って近藤くんを見上げると、いつかのときと同じく、耳まで真っ赤に染まっているのが見えた。
……まさか、近藤くん。本気で間接キスだって気付いてなかったんじゃ。
こちらのほうを、先輩たちが生暖かい視線を向けてくるのがつらい。さっさと観客席のほうに戻ったほうがよさそう。
「そ、それじゃ。私もそろそろ、戻るから……」
「おい、佐久馬」
「はっ、はいっ……!」
私が脱兎しようとする前に、近藤くんはぶっきらぼうに言う。
「……絶対に優勝するから、見とけ」
「う、うんっ」
なにこれ。なにこれこの少年漫画みたいなのは。
私がパッケージを回収してそのまま観客席まで戻るまでの間、ヒューヒューと口笛が飛び、近藤くんは恥ずかしかったのか、単純に次の試合の順番が近いのか、すぽっと防具を被って顔を見えなくしてしまった。
気恥ずかしい中、私は試合に挑む近藤くんを見た。
鬼瓦先生の解説のおかげで、どうにか試合の流れもわかってきた。おかげでどこで声援を上げればいいのか、どこで拍手をすればいいのかもわかってきて、心の底から剣道の試合を楽しむことができた。
結果として、うちの学校は県大会優勝。近藤くんも個人戦を優勝し、インターハイにまで進めることができたのだ。
なんだろう、これ。すごい。有言実行だなんて。優勝旗が渡されるのを眺めながら、私は観客席でずっと手を叩いていた。
ようやく帰る用意をはじめたところで、私はようやく近藤くんに声をかけることができた。
「近藤くん! 優勝おめでとう! あの、すごかった! 本当に、すごかった!」
「おう、サンキュ。でもお前、ルール全然わかんないとか言ってただろ」
「鬼瓦先生が教えてくれたからわかったよ! でも、本当すごくって!」
「お前ぜんっぜん語彙ねえなあ」
「なんだろう、感激していると、言葉が本当に全然出てこなくって……!」
我ながらあまりにも頭の悪過ぎる感想だったけれど、近藤くんはまたも照れたように頬を引っ掻いて明後日の方向を向いていた。
「いや、お前が見に来てくれたのに、下手な試合はできねえし……まあ、佐久馬はマジでルールわかってないから、俺が下手な試合してもわかんねえかもしれないけど」
「か、勝ち負けはわかるよっ! 審判さんたちが旗上げるし!」
「いやそうなんだけどさ」
近藤くんはようやくこちらに視線を合わせて、にんまりと笑った。
まるで大型犬が牙を剥いたような、獰猛な笑みだったけれど、不思議と怖いとは思わなかった。
「ありがとな」
「……うん」
私はそのお礼に、何度も馬鹿みたいに首を縦に振っていた。
いつも、ふわふわしていたら、キスシーンが頭に浮かんで、吐き気がこみ上げてくるのに。初めて、キスシーンが脳裏に瞬くことも、吐き気が喉を迫り上がってくることもなかった。
本当だったら、近藤くんと少しだけ話がしたかったけれど、稽古中の人に声をかけるのも忍びない。私は剣道場のほうを一瞥してから、さっさと帰ろうとしたとき。
「佐久馬」
声をかけられて、私はビクン、と肩を跳ねさせた。振り返ったら、胴着姿の近藤くんがいた。多分走り込み中だったんだろう。少し息が上がっているようだった。
「こん、にちは」
「……あー、もう怒鳴ったりしないって。さすがに毎日急いで帰ってるのを見たら、なんかあるんだろうってことくらいはわかるし」
「ごめん……」
「そんなに怖がるなって」
私がビクビクしている中、近藤くんはガリガリとうなじを引っ掻いたあと、もう一度私のほうに視線を戻した。
「あのさ、いっつも忙しそうにしてるけど、日曜はやっぱり忙しいか?」
「えっと……土日だったら、親も休みだから大丈夫だと思う」
「あれ? 前に買い物って言ってたけど」
「うち、共働きだから。だから普段の家事は全部私がやってるし、週末は買い出しに行ってるから……さすがにそれだけじゃ全部賄えないから、平日でも買い物に行くけど」
そう伝えたら、少しだけびっくりしたように目を見開いたあと、「あー……すまん」と唸り声を上げられてしまった。
「どうして?」
「あー……うん。そんなに急いで帰らないといけないのかって、思ってなかったから。あー……すまん。でもそれだったらなおのこと、休みを潰す訳には」
「私、剣道のルールとか、全然わからないけど、見に行っても大丈夫なの?」
そう言ったら、またも近藤くんは目を見開いたあと、こちらにもう一度声をかけてきた。
「マジで?」
「えっ?」
「マジで見に来てくれんの? あー……よかった。別に審判の言葉聞いとけばだいたいわかるから、ルールはそんなに問題ないと思う」
「そうなの? えっと。なにか持っていったほうがいいの?」
私の言葉に、近藤くんは目をパチクリとさせていた。私は言葉を続ける。
「えっと差し入れ。他の先輩さんたちの邪魔にならなかったら、だけど……」
「アイス。アイスだったら入る。安いのでいい。アイス」
アイスだったら、ドラッグストアのポイントとクーポンを使えば、人数分買ってもそこまで高くないかな。普段から買い出しに行っているドラッグストアのポイントを頭に浮かべながら、私は頷いた。
「わかった。邪魔にならないよう、見に行く」
「おう。じゃ」
そう言って近藤くんは、ぶっきらぼうに背を見せて去って行ってしまった。でも。気のせいかすれ違いざまに見上げた耳が赤かったような気がする。
私は家に帰る前にスーパーとドラッグストアをはしごして、買い物していった。ここしばらくのご飯の材料を買い足していたところで、私は鶏肉が安いことに気が付いた。
……多分剣道の試合では、傷むものを出さないようにってことで、手作り品は駄目なんだろうけど。平日の昼ご飯だったらどうなんだろう。私は鶏肉の値段をちらっと見てから、一枚余分に買っていった。
今晩のおかずとして、漬け汁に漬けたひと口大の鶏肉を、米粉の衣を付けてジュワッと揚げる。二回揚げてから、多めにつくったぶんを冷ましておく。
体育会系男子に唐揚げって、安直過ぎるのかな。そう思ったけれど、私は近藤くんの好きなものをなにも知らない。
ただふわふわしてたいだけだったら、もうなにも考えずにただ眺めていればいい。傷付きたくないんだったら、もうなにもしなかったらいい。
でも。私は彼の赤い耳が、脳裏から離れなかった。
早く前の記憶が掻き消えてしまえばいいのに。
私はそう思いながら、片手鍋で味噌汁をつくりはじめる。
記憶に残っているキスシーン。あれが未だに引っかかっている。どうにか押し込めようとしても、私がふわふわとした気持ちになった途端に出てきてしまう。怖いし、思い出したくないし、誰にも説明できない記憶だ。
まだ、ただふわふわとした気持ちを楽しみたいだけ。まだ、どうこうなりたいなんて微塵にも思っていない。
想うことさえ気持ち悪くなってしまうのなら、私には前の記憶なんて必要ない。
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次の日、私はいつものように早めにやってきて、園芸場の草木に水をあげていた。そろそろ日差しがきつくなってきたから、朝に加えて夕方も水やりをしないといけなくなるだろう。
私がホースを細く持って水をあげているところで、「おはよう、今日も早いな」と声をかけられた。近藤くんも胴着姿で、既に汗のにおいがするんだから、充分早起きだ。
「おはよう。もう大会が近いんだから、先生だって園芸部の手伝い、許してくれるんでしょう?」
「いや、そりゃそうだけどさ」
そう言ってこちらのほうを見てきた。
私も近藤くんも、そんなに言葉数がない。沈黙が降りて、その中でホースから水が飛ぶ音だけが響いている。
「あの、近藤くん。唐揚げ好き?」
「はあっ?」
あまりにも脈絡なさ過ぎる言葉に、近藤くんは声を裏返して反応を返してくれた。そうだよね、私だって会話の前後と全く関係ない話だと思うもの。だいたいの土がしっかりと湿ったのを確認してから、ようやく水を止めてホースを立てかける。
「昨日、肉が安かったから、唐揚げつくり過ぎちゃったの。ええっと、友達に配るのも、嫌がられそうだし……」
多分恵美ちゃんも奈都子ちゃんも、私がタッパに詰めてきた唐揚げを見たら、すぐに食べてくれるとは思うけど。
私がたどたどしく並べる言葉に、近藤くんはしばらくポカンと黙り込んだあと、「おう」と頷いた。えっ、これって……。
「食う」
「あっ、ありがとう……っ」
「いや、俺。女子からその。食い物もらうの、初めてで……」
そう言ってしどろもどろになっている近藤くんに、私は笑った。
「桑の実ジャムは駄目だった?」
「いや、あれは。まあ……美味かった。うん、楽しみ」
「片言になってるよ」
さんざん笑ったけれど、私だって恥ずかしい。
言い訳並べて取っておいたタッパを近藤くんに渡したあと、剣道部の試合の時間と場所の確認を取ってから、私たちは別れた。
心臓がうるさい。ジャムだったらまだ文化祭のための試食だと言い訳ができたけれど、唐揚げだったら言い訳が全然できない。男子が好きそうという理由だけでつくって、それを渡したのなんて。近藤くんにはつくり過ぎたなんて嘘ついたけれど、こんなの端から見たら下心なんて見え見えだもの。
ああ、情緒不安定だ。まさか言えないじゃない。
言う気はないけれど、好きでいさせてくださいなんて。好意がそのまんま通じてしまわなくってよかった。本当によかった。私はそう思いながら、教室へと帰っていった。
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お父さんとお母さんには「友達の部活の応援に行きたい」と言ったら、拍子抜けするほどあっさりと「行っておいで」と言われてしまった。
「普段由良には家事やってもらってるし、土日くらい遊んできなさい」
そう言われて、お母さんが車を出して途中まで送ってくれた。
剣道の県大会は県立の体育館を貸し切って行われるものらしい。
クーラーボックスにアイスをいっぱい入れて持っていって体育館に入ったとき、四つのブロックに分かれて、そこで大会の準備が行われているのが見えた。
団体戦と個人戦。ふたつのブロックで団体戦が、もうふたつのブロックで個人戦が行われるらしい。女子と男子はそれぞれ別の体育館らしくって、ここでは男子しか見つからなかった。もっとも、胴着着て防具付けちゃったら、端からだと男女の区別なんて付けようがないけれど。
私がきょろきょろとうちの学校を探していたら、「佐久馬さん?」と声をかけられた。鬼瓦先生だ。それに私はぺこりと頭を下げる。
「こんにちは! あの、差し入れを持ってきたんですけど……」
「ああ、ちょうど今から試合始まるから、こっちで見ておいで」
「ええ? いいんですか?」
「この辺りはうちの生徒たちが固まってるから、問題ないよ」
そう鬼瓦先生が言うので、ちらっと見る。
なるほど、胴着や防具は付けてないシャツと短パン姿だけれど、たしかにスポーツバッグを持って座っているのはうちの学校の男子らしい。試合には参加しない子たちなのかな。
私は邪魔にならないように座って、下を見た。
下ではうちの学校の団体戦が。向こうでは個人戦が見える。
皆がそれぞれお辞儀をしているのを見たとき、ふいに個人戦の男子がひとり、うちのほうに振り返ったことに気付いた。防具にはうちの学校の名前が入っている。そして、竹刀を持っていないほうの手を挙げたのだ。
あれ、もしかして……。
鬼瓦先生はのんびりと口を開いた。
「近藤も調子に乗っているから。ちゃんと見てないと怪我するのに」
「えっ……! 防具付けていても、ですか?」
「竹刀は割れやすくできているから、ちゃんと防具に当たれば怪我はしないけど、打ち所が悪いと誰だって怪我するよ」
「えっ……!」
そんな当たり前なことすら知らなかった私は、おっかなびっくり近藤くんの試合を凝視した。
審判の人が旗を挙げたのだから、試合がはじまったのだろう。
皆が皆、気合いの入った声を上げながら、なかなか打ち合いがはじまらないのを見ている。
「あのう、竹刀振らないんですか? さっきからずっと声を上げながら回ってますけど……」
「剣道はね、間合いを見る競技だから」
鬼瓦先生がゆったりと解説してくれるのを聞きながら、私は近藤くんを見ていた。ここからだと少し遠いけれど、互いが睨み合いながら、ぐるぐると回っているのが見える。
やがて、相手側のほうが大きく打ち込んできた。それを近藤くんが受け止める。もっと打ち合うのかと思ったけれど、何回か鍔競り合いをしたあと、またもぐるぐると周りはじめてしまった。
「あの、このまま打たないんですか? ええっと、面とか胴とか」
聞きかじりの言葉を言うと、鬼瓦先生は軽く首を振る。
「剣道は三本勝負だから、先に決め技を二本決めたほうが勝ちなんだよ」
「ええっと……?」
「さっきの鍔競り合いで、もうちょっとでどちらかが打ち込みそうになった。だからまた間合いを取ったんだよ。ここからじゃわかりにくいかもしれないけど、互いに相手の次の行動を読み合って、今は勝機がないとわかったから、もう一度間合いを空けたんだよ。でももうそろそろ勝負は決まるよ」
「そうなんですか?」
鬼瓦先生の言葉に、まだ勝敗がわかってない中、ふいに空調の風が吹いた。この辺りも熱気や湿気がこもっていてムンムンしているから、その風がありがたかった。
そのとき。近藤くんが動いた。彼の大きな突きが、相手の胸を客席にも聞こえるほど大きな音を立てて打ったのだ。途端に、白旗が近藤くんのほうに上がった。
「わっ!」
「うん、見事な胸打ちだね」
「すごい!」
わかってないなりに、今の近藤くんの技がすごかったことだけはわかった。結構間を空けていたはずなのに、技が決まったのはあっという間だったから。
私が思わずパチパチと手を叩いている中、他の部員たちがやんややんやと喝采している中、鬼瓦さんは隣に座っている私にしか聞こえない程度の声でつぶやく。
「園芸部活中も、近藤もしょっちゅう機嫌悪くってピリピリしてただろ」
「ええっと……そんなことないです」
「別に怒ってないから、誤魔化さなくってもいいよ。。勝負事になったらどうしても喧嘩っ早い子が集まるから、空気を抜くために園芸場に連れて行ってるけど。あれも最初は同級生だけだったらともかく、上級生とまで折り合いが悪かったからねえ。そんな態度ばかり取るんじゃ、とてもじゃないけど団体戦には出せないし、だからといって個人戦で他校の生徒とまで揉めてしまっても困るし、大丈夫かねえと心配してたけど。佐久馬のおかげで大分マシになったねえ」
「え、私……ですか?」
思えば。たしかに近藤くんは最初、好きでもない園芸部の手伝いで終始機嫌が悪かった。私も他に入れる部がないから辞めることもできないし、ずっと部活中はピリピリしていたと思う。
私はただ、怖くて勝手に泣いただけで、近藤くんのためになにかしたことなんてなかったと思うけど。
ただただ首を傾げている中、鬼瓦先生はゆったりと笑う。怖い顔も、笑えば存外優しく見える。
「若いっていいねえ」
そう締めくくられるけれど、本当に心当たりがないものだから、そうなのかなとしか思えなかった。
結果、近藤くんは一度は打ち返されてしまったものの、また取り戻したから、二対一で勝ち上がり。次の試合まで少し休憩したところで、私はようやく選手の皆にアイスを配りに出かけることにした。
うちの学校、たしかに運動部は強いらしく、剣道部もご多分に漏れず強い。団体戦も次の試合へとコマを進めたのに、私は怖々とクーラーボックスを抱えて挨拶に行った。
「お、お疲れ様です……!」
「あれ、一年の子……だよね?」
防具を取って、噴き出てくる汗をタオルで拭っている先輩は、たしかに前に剣道場で見た先輩のうちのひとりだったと思う。私がときどき近藤くんを見に行っていたから、顔を覚えられていたらしい。
私がアイスを配りたい旨を伝えたら、先輩はすぐに「お前らー、一年から差し入れだぞー!!」と大声で言い「あざーっす!!」と頭を下げられるものだから、私はビクビク震えながら、クーラーボックスを開けてアイスを取ってもらった。
私はアイスをひとつ持って近藤くんを探すと、近藤くんも防具を取ってペットボトルを傾けているところだった。私はひょいとパッケージごとアイスを差し出す。
「お疲れ様。あの、私。ルール全然わからないけど、すごかった」
「えー。ルールわかんないのにすごいってなんだよ」
「ルールわかんなくってもすごいって見てて思ったんだよ」
「ああ、サンキュ。アイスもな。ありがと」
そう言いながらパッケージをめくってアイスに齧り付いた。近付いてみると本当にこの辺りは湿気がむんむんしているし、たしかに冷たいアイスが余計においしく感じるのかもしれない。
私も湿気でパタパタと手を振っていたら、近藤くんがひょいと私が配ったアイスを差し出してきた。まだ少ししか囓っていない。
「ここ無茶苦茶暑いのに、お前の分ないだろ」
「いや、いいよ。私も別に、近藤くんの応援に来ただけだから」
「あのなあ。甲子園での高校野球でだって、観客も選手もバタバタ倒れてんだろ? 熱中症ってマジで怖いんだからな。ちゃんと水分摂っとけ、室内だからって油断すんな」
「え、でも……」
「ほら」
またもずいっとアイスを差し出されて、私はたじろぐ。
これって間接キスになるんじゃ……。友達同士でだったら平気でペットボトルの飲みっこだってできるけれど、男子と間接キスなんてしたことがない。
ただ、近藤くんが眉間に皺を寄せて「ほらっ」となおも差し出してくるし、熱気のせいでアイスも溶けかけているのを見たら、さっさとひと口食べて返さないと、近藤くんが食べられなくなっちゃうと、慌ててひと口もらうしかなくなったのだ。
シャクッとひと口囓ると、冷たさが喉を通っていく。本当に、暑い場所で食べるアイスはおいしい。
「ありがと……もう残りは近藤くんが食べちゃって」
私がそう言って近藤くんを見上げると、いつかのときと同じく、耳まで真っ赤に染まっているのが見えた。
……まさか、近藤くん。本気で間接キスだって気付いてなかったんじゃ。
こちらのほうを、先輩たちが生暖かい視線を向けてくるのがつらい。さっさと観客席のほうに戻ったほうがよさそう。
「そ、それじゃ。私もそろそろ、戻るから……」
「おい、佐久馬」
「はっ、はいっ……!」
私が脱兎しようとする前に、近藤くんはぶっきらぼうに言う。
「……絶対に優勝するから、見とけ」
「う、うんっ」
なにこれ。なにこれこの少年漫画みたいなのは。
私がパッケージを回収してそのまま観客席まで戻るまでの間、ヒューヒューと口笛が飛び、近藤くんは恥ずかしかったのか、単純に次の試合の順番が近いのか、すぽっと防具を被って顔を見えなくしてしまった。
気恥ずかしい中、私は試合に挑む近藤くんを見た。
鬼瓦先生の解説のおかげで、どうにか試合の流れもわかってきた。おかげでどこで声援を上げればいいのか、どこで拍手をすればいいのかもわかってきて、心の底から剣道の試合を楽しむことができた。
結果として、うちの学校は県大会優勝。近藤くんも個人戦を優勝し、インターハイにまで進めることができたのだ。
なんだろう、これ。すごい。有言実行だなんて。優勝旗が渡されるのを眺めながら、私は観客席でずっと手を叩いていた。
ようやく帰る用意をはじめたところで、私はようやく近藤くんに声をかけることができた。
「近藤くん! 優勝おめでとう! あの、すごかった! 本当に、すごかった!」
「おう、サンキュ。でもお前、ルール全然わかんないとか言ってただろ」
「鬼瓦先生が教えてくれたからわかったよ! でも、本当すごくって!」
「お前ぜんっぜん語彙ねえなあ」
「なんだろう、感激していると、言葉が本当に全然出てこなくって……!」
我ながらあまりにも頭の悪過ぎる感想だったけれど、近藤くんはまたも照れたように頬を引っ掻いて明後日の方向を向いていた。
「いや、お前が見に来てくれたのに、下手な試合はできねえし……まあ、佐久馬はマジでルールわかってないから、俺が下手な試合してもわかんねえかもしれないけど」
「か、勝ち負けはわかるよっ! 審判さんたちが旗上げるし!」
「いやそうなんだけどさ」
近藤くんはようやくこちらに視線を合わせて、にんまりと笑った。
まるで大型犬が牙を剥いたような、獰猛な笑みだったけれど、不思議と怖いとは思わなかった。
「ありがとな」
「……うん」
私はそのお礼に、何度も馬鹿みたいに首を縦に振っていた。
いつも、ふわふわしていたら、キスシーンが頭に浮かんで、吐き気がこみ上げてくるのに。初めて、キスシーンが脳裏に瞬くことも、吐き気が喉を迫り上がってくることもなかった。