中間テストが終わったら、一気に窓に日差しが強く差し込んでくるようになる。
 今年は空梅雨で、もっとじめじめすると思っていたのが嘘のようで、毎日毎日暑い。天気予報だと、今年は蝉は土の中でほとんど熱で死んでしまって出てこないとか、気温が高過ぎてそもそも鳴かないとか、いろんなことを言っている。
 制服が冬服から夏服に切り替わった頃、私の部活の格好もジャージから半袖の体操服と短パンに切り替わっていた。
 鬼瓦先生から「昼に水やりしたら、畑が煮沸されてしまうから、なるべく日差しの低い内に」と教えてくれたので、前日になるべく家事を済ませてから、早めに登校して、水を一生懸命畑にやっていた。
 校庭からはどこかの部活のランニングのかけ声。私はホースに手をやっているときだけは涼を取ることができた。
 そういえば。中間テストが終わってから、あんまり近藤くんは園芸部の部活には顔を出さなくなった。最初はあれだけ嫌がっていたのに、気付いたらずっとあの大きな人と一緒に土いじりをしていた。私には重過ぎる土や肥料も軽々と運んでくれていたけれど、今は本当に見なくなってしまったなあ。
 鬼瓦先生になんの気なしに聞いてみたら、あっさりと教えてくれた。

「ああ、近藤くんね。ようやく部の試合に出ることになったから」
「そうなんですか……?」
「もうすぐ県大会だからね」

 そうなのか、と私はぼんやりと思う。
 運動部とはほとんどクラスでも話をしないから、県大会がいつとか、インターハイがいつとか、そんなことまで私はちっとも知らなかった。
 私自身も部活の日以外は真っ直ぐスーパーまで行って買い物をしているから、運動部の見学なんてしたことがない。
 その日の部活が終わったあと、普段だったらかけ声が怖くって絶対に自主的に足を運ばない剣道場まで、なんの気なしに足が向いていた。運動部の独特の空気が、文化系女子にはちょっと怖過ぎる。
 邪魔にならないようにと、夏だから開けっぱなしになっている剣道場の戸から覗いてみると、皆が皆、胴着の上に防具を被って、竹刀を激しく打ち合っているのが見えた。
 私にはどの人がどれだけ強いのかがわからない。
 ただ大きな声を上げて、互いを威嚇している様。竹刀を結んだ途端に、互いの竹刀をさばきはじめる動きの俊敏さ。ときどき見せる打ち込みの激しさ。
 どれもこれも、そこそこ距離の近い場所から見るのははじめてで、汗のにおいの濃さも忘れて、ただポカンと口を開けて見ていた。
 やがて、打ち合いが終わったあと、皆が銘々防具を取りはじめる。防具を取った途端に、より一層汗のにおいが強くなったような気がする。皆が皆、端に寄せてあるペットボトルを傾けはじめたとき、やがてひとり、こちらにドタドタと近付いてきたのに、私は思わず固まっていた。
 大柄な近藤くんが、少し驚いた顔してやってきたのだ。

「お前……今日部活は?」
「きょ、今日の作業は終わったから……近藤くんは?」
「打ち合いの練習も終わったし、もうちょっとしたら着替えて帰る。あー……先生からなにか言われたのか?」
「ち、違うよ……ただ、最近近藤くん見ないから、部活大変なのかなと思って……」

 言っていて、だんだんと恥ずかしくなってきた。
 ……別に私と近藤くんは、園芸場で一緒に作業するだけの仲であり、それ以上でもそれ以下でもない。クラスメイトですら、ないんだから。
 近藤くんは少しだけ困った顔をしながら、手持ちのペットボトルを傾ける。

「んー……じゃあ、一緒に帰るか? そろそろ日が傾いてきたし」
「いや、いいよ。普段からこれくらいの時間だったらひとりで帰ってるし」

 今日はまだご飯の準備は揃っていたから、他に買い足すものもなかったはずだと、冷蔵庫の中を思い浮かべる。それに近藤くんはますます眉を潜ませる。

「……いや、ちゃんと送らせろよ」

 そう言って、「暑いけど、ここでちゃんと待ってろよ!!」と言い残して、そのまま去って行ってしまったのに、私はぽかんとしていた。
 恵美ちゃんはさっさと帰って、今頃は彼氏とファミレスデートをしているはずだ。
 だから、こういうときに周りに誤解されたくないからと逃げ帰るのが正解なのか、このまんま好意に甘えて送ってもらうために待つのが正解なのか、アドバイスが欲しくっても全然聞ける相手なんていなかったんだ。
 他の剣道部の人たちも、身長が大柄な人から私とそこまで変わらない人までいても、どの人も私よりも体格はがっちりとしているし、別に特別細い訳じゃない私でも細く見えるような気がする。
 ときどきこちらに好奇心でちらちらと見てくる、着替え終わったらしい剣道部の人たちにビクビクしていたら、「佐久馬!」と声をかけられて、私はびくり、と髪の毛を逆立てる。
 制服に着替えた近藤くんが、汗で額に前髪を貼り付けたまま、こちらにズカズカと寄ってきたのだ。

「帰るぞ」
「え、あ。はい」

 なんだろう、こんなに物々しい下校。初めてなんだけれど。
 自転車登校らしい近藤くんは、鞄と一緒に竹刀袋を背負い、なにげに私のほうを見ると、くいっと前籠を指差した。

「そこ。鞄入れていいから」
「えっ?」
「ほら、いいから入れる」
「あ、はい」

 私がいそいそと近藤くんに言われるがまま鞄を籠に入れたら、そのままスタスタと歩きはじめてしまった。
 近藤くんと私はコンパスの差があるせいで、私は必死で着いていかないと追いつけない。それに近藤くんは少しだけ意外そうな顔をしてこちらに振り返った。

「……もしかして、お前足が遅いの?」

 私の足が遅いんじゃなくって、私と近藤くんだと足の長さが違うの!
 そう声をかけたかったけれど、萎縮してしまって上手く抗議の声が出なく、私は「ごめんなさい」と謝っていった。
 近藤くんは少しだけ自転車にブレーキをかけて、こちらのほうに振り返る。

「別に、言ってくれりゃ遅く歩くのに」
「そんな、鞄入れてくれてるのに」
「別にそんなこと感謝するとこじゃなくね?」

 この人、優しいのか優しくないのか全然わからないなあ。
 私は少しだけ歩みが遅くなった近藤くんの隣を、テクテクと歩く。
 まだ空は高い。やっぱり、今日みたいな日は私ひとりで帰っても大丈夫だったんじゃないかなとぼんやりと思う。

「なあ、佐久馬。お前日曜日暇?」
「えっと」

 頭にぱっと出たのは、スーパーの特売日だった。その日はお母さんも休みだから、車を出してもらって大量に調味料とか日持ちする食料とか買っておくのだ。
 なんて。言ってもわからないよねえ。私は無難に「買い物」と言うと、近藤くんは「そっかあ」とだけ言った。
 あれ。私は目を瞬かせながら、近藤くんを見た。

「なにかあったの?」
「……なんもねえ」
「あの、私。また怒らせるようなこと」
「あのなあ、たしかにお前、見ててすっげえイライラすることあるけど」

 また怒気を孕んだ声を出すのに、私は肩を強ばらせる。それに気付いたのか、近藤くんは少しだけ気まずそうにふいっと顔を逸らした。

「……いや、忙しいんだったら別にいい」
「ええ? うん」

 そのまま、ふたりとも特に会話が弾むこともなく、うちのマンションまで帰ってしまった。私は鞄を取り、「ありがとう、送ってくれて」とお礼を言ったら、近藤くんはぶっきらぼうに「おう」とだけ言って、そのまま自転車に跨がって帰って行ってしまった。
 ……元来た方向へ。
 私はそれを、ポカンとして見ていた。
 もしかしなくっても、家、逆方向だったんじゃ。申し訳ない気分とむずむずした気分が迫り上がってくるけれど、同時に胃液が上がってきたのを、どうにか堰き止めた。
 ……近藤くんは、口が悪いし態度も悪いけど、多分いい人なんだ。
 だから、私みたいなよくわからない人間に優しくしなくってもいいのに。そう思いながら、彼を背にして、マンションへと入っていった。

****

「それ、応援に来て欲しかったんじゃないの?」

 休み時間に昨日のことを、かいつまんで話したら、あっさりと奈都子ちゃんにそう指摘されてしまった。応援って……剣道の?
 私がわからないという顔をしているせいか、奈都子ちゃんはポテチを食べながら話を続ける。

「うん、だって日曜日は剣道部、県大会だったんじゃないかな。近藤が団体戦に出るのか個人戦に出るのか知らないけど、どっちかに出るのが決まったから応援して欲しかったんじゃないの?」
「え……でも、私。剣道全然わからないんだけど……!?」
「いや、そりゃそうだろうけど」

 奈都子ちゃんが助けを求めるように恵美ちゃんのほうに顔を向けると、恵美ちゃんはそのまま私にがばっと抱きついてきた。

「よかったじゃない! 上手くいけば彼氏ゲットだよ!」
「いや……でも、そういうのって、よくないんじゃ」
「なにがよ?」
「だってさ……近藤くん。本当に剣道好きで。顧問のせいで園芸部の手伝いとかさせられたりするの、すっごく嫌なくらい剣道好きなのに、浮ついた気持ちで見に行くのは、失礼なんじゃないかな……」

 最初に泣かされたことは、今でも怖かったと思うけど。実際に近藤くんは背が高いし、言動がぶっきらぼうだし、女子の扱い本当にわかってないなって思うけど。
 好きなことを一生懸命好きでいるのは、私も羨ましいなと思う。私にはそういうなにかに打ち込むって情熱、ちっともないから。
 嫌なものは嫌って言えって、自分のことじゃないのに怒ってくれるのも、多分いい人だからだと思う。
 私がそう思ったことを口にしてみたら、奈都子ちゃんはぽろっと指先からポテチを袋に落とし、暑い中抱きついてくる恵美ちゃんが、そのまま私の背中をバシバシと叩いてきた。

「そこまで思ってるんだったら、なおのこと行ってあげたほうがいいよっ!」
「え……でも。私が行ったら失礼なんじゃ……」
「うーん、あたしが彼氏とデートスポットのひとつとして野次馬に行くんだったら失礼だと思うけど、近藤が頑張ってるのを知ってるあんたが見に行くのは、ちっとも失礼なことじゃないと思うな!」
「そう、なのかな……」

 剣道部の部活の応援って、なにか持ってったほうがいいんだろうか。それは近藤くんに聞けば教えてくれるのかな。私はぼんやりと近藤くんのことを頭に思い浮かべてみた。
 悪い人ではないんだと思う。ううん。むしろ優しい人だと、最近になって特にそう思っている。
 でも。
 頭に浮かんでくるのは、どうしても篠山くんと瀬利先輩のキスシーンだ。
 そのシーンを思い出すたびに、喉を苦酸っぱい味のものが突き上げてきて、それを必死で飲み下してなかったことにしてしまう。きっと今の私は、眉間に皺を寄せた変な顔をしていることだろう。
 ……もうこれは終わった話だし、私は既に死んでいるんだから、その世界の話にどうやっても介入なんかできない、どうしようもない話だ。
 ふわふわとしたものが浮かんでくるけど、それをどうしても押し留めてしまう。怖い。フラれてしまうほうがまだマシだった。私の恋心を簡単に踏み潰されてしまう、それが一番怖い。