それから私は、園芸部に入った。
 先輩たちはほとんど……どころか全く来ない上に、顧問まで来ないという体たらくで、私はジャージ姿で誰も来ない園芸場で立ち尽くしていた。
 誰も来ないんだったら、もう帰ってもいいのかな。そもそも部長すら誰だかわからない部だからなあ、ここ。私は途方に暮れて視線をさまよわせていたところで、誰かが園芸場に入ってきたのが見えた。

「君かね、新しい園芸部員は」

 こちらに声をかけてきたのは、有名メーカーのジャージを着た先生だった。いかつい雰囲気で、年は多分私のお父さんと同い年くらいだろう。格好からして、体育教師らしい。

「あ、はい。Dクラスの佐久馬です」
「そうかそうか、なら畑の雑草を抜こうか。雑草はコンポストに入れるから、バケツを持って行きなさい」
「はい……あのう、失礼ですが、園芸部の副顧問……でしょうか?」
「いや? 剣道部の顧問だが」

 何故。私はそのとき、どんな顔でこの剣道部の顧問の先生を見たのかはわからないけど、多分引きつった顔をしていたんだと思う。
 私の顔を余所に、先生はずいぶんと慣れた手付きで雑草を引っこ抜いてはバケツに放り込んでいた。

「この辺りは先生が世話してるから、あんまり荒らしたりしないように。野菜の収穫など、部活で必要な場合は、ちゃんと先生に言ってからするように」
「え? 顧問にですか? 先生にですか?」
「ああ、そういえば名乗ってなかったか。鬼瓦だ。畑のことはなんでも聞くので」

 私はその物言いに、ツッコミどころしかないにもかかわらず、なにも聞くことができなかった。
 どうして剣道部の顧問が園芸場を牛耳っているんだろう。どうして剣道部員は日がな園芸場にこもっている顧問に文句を言わないんだろうか。そもそも園芸部の顧問よりも園芸部活動に熱心って、剣道部の顧問辞めて園芸部の副顧問に捻り込めなかったんだろうか。
 言いたいことはたくさんあれども、いかつい鬼瓦先生が真面目に真面目に雑草を抜いているのを見たら聞くこともできず、ただ夕方まで雑草を抜いて、コンポストに雑草を放り込んでから帰ったのだ。
 これが、園芸部の活動一日目の記憶だ。

****

「うはははははははは……!!」
「わ、笑わないで! 私も、本気でわかってないんだから!!」
「あはははは……いや、ごめんごめん……でもいかつい先生とただ雑草を抜いて終わる部活って、結構斬新というかなんというか……」

 昼休み。
 私がパンを食べながら恵美ちゃんに園芸部の話をしたら、腹を抱えて笑われてしまい、思わずぶすくれると、恵美ちゃんは目尻にいっぱい溜めた涙を拭って手を合わせて謝ってきた。

「ごめんごめん。でも謎過ぎるね、それ」
「うん。本当に意味がわかんなかった。でも人がいなさ過ぎて返って楽なんだけどね。誰に対しても気を遣わなくっていいし」
「ふうん……でもそれだったら天文部でもよかったんじゃないの?」

 彼氏とのデート最優先で、結局ひとりで天文部に入部し、幽霊部員と化した恵美ちゃんに指摘され、私は内心ギクリとする。
 まさか言えないもんな、天文部で顔を合わせたくない相手がいるだなんて。私はできる限り笑顔をつくった。

「うーん、でも今更園芸部辞めるっていうのも愛想がないし。あ、さつまいも育ててるから、秋になったら焼き芋するんだって鬼瓦先生が言ってた」
「へえ……他部の人間でもよかったら、ごちそうしてもらいたいなあ」
「それは先生に聞かないとわからないけど」

 適当に誤魔化して、それに納得してくれた恵美ちゃんに心底ほっとしながら、私は今日も園芸部へと出かけていった。
 花に囲まれていて、教師とふたりっきりで部活しているというと、なんだか怪しい話になるけれど、全くそんなことはなくて。
 園芸場はたしかに花で覆われているけれど、それ以上に多いのは野菜畑だ。いったいこれがなんの野菜なのかわからないつた植物から、これが本当に果物なのか信じられないくらい鮮やかな花まで、それらの世話を行っている。
 鬼瓦先生は既に既婚者な上に、顔がいかつく、とてもじゃないけれど少女漫画的な展開なんて起こりようもない。
 ……前の周が、てんこ盛り過ぎたんだろうな。私はそう納得している。
 顔がいい訳でもないのにモテまくる男子に告白して、中途半端な返事をもらった挙げ句に自爆して死んじゃうなんて未来に、辿り着きたい訳じゃない。
 別に彼氏なんかできなくってもいい。好きな人ができなくっても困らない。ただ、平穏に高校生活を終えたいだけなんだから。
 そんなことを口にしたら、彼氏持ちの恵美ちゃんに説教されそうだから、絶対に声に出して言わないけれど。
 私はのんびりと天気を見た。
 今日も五月晴れ。いい園芸日和になりそうだ。

****

 その日は部活は早めに切り上げて、買い出しに行かないといけない。このところ買い物に行けてなかったから冷蔵庫の中が空に近くなっているからだ。
 だから私はすぐ帰れるようにと、今日はジャージを着ずに園芸場に出かけたところで。
 普段だったら座って黙々と作業している鬼瓦先生が見つからず、私はあれと首を傾げた。でも冷静に考えれば、鬼瓦先生は元々は剣道部の顧問なんだから、剣道部のほうに今日は顔を出しているんだろうと納得した。
 元々園芸部だって活動日がそんなに固定されている訳ではない。雑草を抜いたり園芸場の世話が主な活動内容なんだから、当然雨の日は活動停止だ。
 そんな緩い部だけれど、私は園芸部に入ってから、何故か剣道部の鬼瓦先生としか一緒に活動をしていない。顧問は相変わらずほとんど顔を合わせないし、私は未だにうちの部長の存在を知らないままだ。
 困ったなあ、今日は早く帰りたいって伝えるつもりだったのに。私は困った顔で園芸場をさまよっていたら「おい」とぶっきらぼうに声をかけられて、驚いて振り返った。
 身長が高い男子がこちらを睨んでいるので、思わず身が竦む。三白眼にスポーツモヒカンと、凄みのある人だ。
 着ているのは胴着で、袴を合わせているところから察するに、剣道部の人……なんだと思うけど。

「お前か、園芸部員って」
「あ……はい……」
「手伝えって言われたんだけど」
「へ?」
「だから、ここの世話っ!」

 言葉尻を強く言われてしまうと、こちらも思わず肩がびくびくと上がってしまう。
 そもそもどうして私は剣道部の人に声を荒げられているんだろう。それに、私は今日、早く帰りたかったのに。でもあからさまにイライラしている剣道部員にそう伝える勇気はなかった。結局は園芸部の活動内容を逐一教えることとなってしまった。
 ……どうして園芸部のほぼ唯一のアクティブ部員が、剣道部の男子に園芸のレクチャーをしているんだろう。
 どう考えてもおかしいんだけれど、それを突っ込める心の余裕も、口にする度胸もなく、私はただ、イライラしている男子の癇癪玉を破裂させないように、破裂させないようにと努めることしかできなかった。
 男子は雑草をブチブチ抜きながら、私に言っているのか独り言なのかわからない文句を言っている。

「……そりゃ、俺はまだうちの部じゃ一番弱いけど、これでも段持ちなのに、なんで部活中に草いじりしてんだよ。練習しないといけないのに。しかもここの部やる気もぜんっぜんねえし……ああ、もう、くそっ」

 私はあからさまにイライラしている男子に、「もうそろそろ帰りたいです」と言えず、ただ時計だけを気にしていた。
 夕方になったらスーパーは値引きセールがはじまる。それまでに買い物を済ませてしまわないと、今日の晩ご飯だってつくれない。家にはギリギリ米しかないんだから。私は何度目かの時計の確認をして、気が付いた。
 ……もうそろそろ五時が回りそうだ。私はとうとう口で「ヤバイ」と言ってしまった。

「なんだよ?」

 男子がギョロリと睨むのにビクつきながらも、私は立ち上がって雑草をコンポストに入れた。

「わ、私。本当にそろそろ帰らないといけなくって! きょ、今日は、本当は早く帰りたくって」
「お前な、ならなんで部に入ったんだよ!?」

 とうとう男子の癇癪玉が破裂するのに、私は「ひいっ!?」と身を竦ませる。
 ただでさえ大柄な上に胴着姿の男子が三白眼を吊り上げると、肉食獣みたいで本当に体が強ばって動けなくなってしまう。
 男子はこちらを睨み付けながら吠える。

「ほんっとうに、ただお気楽に菓子でも食べたきゃそういう部に入ればいいじゃねえか。わざわざこっちの時間奪っていい道理はねえだろ!?」
「わ、たしは……別に……」
「なんだよ、お前みたいにうじうじ口の中でばっかりしゃべってる奴、ほんっとうにウザイんだよ!!」

 なんで私、部活を休みたい日に部活をさせられた挙げ句に怒られてるの? 私だって家のことがなかったら早く帰りたいなんて言わないし。でも怒っている男子は自己紹介もないし、怖いし、なんで。
 怖いし怒りたいしでも逆らえないしで、私の心はとうとう決壊してしまった。気付いたらボロッと涙が出てきていた。
 それには強面の男子も少しだけ目を見開いたあと、なおもこちらを睨んでくる。

「そうやってすぐに泣くから!」
「ご、ごめんなさいっ! でも、今日は本当に無理っ!!」

 謝る必要なんてないことはわかっている。でもこの剣道部の男子は怖い。
 早く帰りたいし買い物したいし、ご飯つくらないといけない。
 頭の中はパニックで上手く考えがまとまらない。ただ私は言いたいことだけ言うと、端に寄せていた鞄を引っ掴んで、そのまま男子を置き去りにして逃げ出していた。
 涙はどんどん溢れてくるし、鼻水だって止まらない。
 なんでこんなに悔しくて悲しくて泣いてるのか、訳もわからないまま、私は泣きながら走っていた。
 スーパーに着いたら、案の定値引きセールでごった返してしまっていた。
 私がズビズビ泣きながら買い物をしていると、主婦の人たちがぎょっとして道を開けてくれたり、一部の人たちは心配そうに「どうかしたの?」「具合が悪いの?」と聞いてくれたりしたのに「大丈夫です!」「なんでもありません!」と答えながら、なんとか買い物を終える。
 ようやく買えた数日分の買い出しの袋をぶら提げながら、私は夕日をぼんやりと仰いでいた。
 前の周のときは、篠山くんもスーパーの特売前に帰りたがったし、それに便乗する形で帰れたから、あんまり家の事情を周りに公表しなくってもよかったんだよなと今更思う。うちの事情を知っているのなんて、恵美ちゃんみたいな小学校時代からの付き合いの友達とか、それこそ篠山くんくらいだったんだから。
 私だって、たまにはファミリーレストランのドリンクバーで馬鹿なジュースをつくって遊んだり、一緒に宿題して過ごしてみたいし、カラオケでフリータイムを使い切ってみたい。でも家事は待ってくれないんだから。
 ……事情を知らない人に怒っても、しょうがないよね。私はほんの少しだけ気持ちが落ち着いたのにほっとしながら、家路を急いだんだ。