焼き芋屋の黒煙と『やーきいもー』の歌声が流れてくる。
 それらを耳にしながら、私は家に帰ろうとしていた。
 普段は背の高い近藤くんと一緒に歩いているせいかあんまり寒さを感じないけれど、今日は少し寒い。まだ十一月になったばかりだというのにこれだけ寒かったら、冬本番のときはどうなっちゃうんだろうと、身を震わせていたところで。

「佐久馬?」

 声をかけられて、私の喉は思わず突っ張った。
 その人好きのする声は、どう聞いても篠山くんのものだった。
 前のときは、一緒にいるだけで安心するとか、ほっとするとか。そんな感情があったはずなのに、今は恐怖しか感じないのは、知らなくってもよかったことまで知ってしまったからかもしれない。
 私が彼の声を無視して大股で歩こうとしたとき、篠山くんはそれでもなお私の隣を歩いてくる。

「どうかした? 木下の友達で、木下からいろいろ聞いたんだけど」
「……恵美ちゃんに、なにをしたんですか?」
「なにしたって。変に警戒してるなあ。俺は単純に『君の友達ってどういう人?』って聞いただけだけど」

 恵美ちゃんは自分自身も他人にも身持ちが固いタイプだから、彼氏のいる人間の情報を横流しするようなことはしない。
 前に天文部の子をけしかけてきたように、恵美ちゃんが彼氏と別れるように仕向けたように、またなにかしたんじゃ。私はますます警戒心を持って目を細めて篠山くんを睨んだとき、目があった篠山くんがふっと笑った。
 まるで本当に、自分の周りの女の子の幸せは守るという、スケコマシとは程遠い善人の顔なのが、なおのこと腹が立った。

「……私になにかするのはいい。私が逃げればいいだけのことだから。でも、恵美ちゃんは関係ないでしょう? あなた、いったい恵美ちゃんになにをしたの?」

 私の声は、どうしても端々がささくれ立っている。怒っているのが丸わかりの声だ。
 それでも篠山くんはそれをすり抜けて、緩やかに笑いながら言葉を続ける。

「かごめ先輩がまた先走っちゃったみたいだからさ。俺はただ、君にちゃんと落ちて欲しいだけなんだ。それが皆のためなんだから」
「皆ってなに? それって本当に皆のためなの?」
「俺の助けたい子たちは、皆ひとりで生きていけないんだ。だから、俺が助けないといけない。でも俺はひとりしかいない。それじゃ不平等だろう? だから、全員が幸せになるエデンに連れて行かないといけない」

 あのアプリに出ていた得体の知れないルート。
 誰もが怒らないし平等に幸せになれる世界をつくるという……でもそれって、要はハーレムじゃない。嫌だって、気持ち悪いって、そんな気持ちも封じ込められた、ただ穏やかな凪の生活。
 そんなの気持ち悪いだけだし、私も恵美ちゃんも、可哀想じゃないのにどうして可哀想に閉じ込められないといけないの。

「私は関係ないし、恵美ちゃんも関係ない。勝手に巻き込まないで」
「そうは言われてもなあ……木下は最後の最後まで粘ったけれどい、最終的には陥落したんだ。あとは君だけなんだよ。でも君の彼氏はちょっと難航しててね、でも友達思いの優しい佐久間だから、友達と彼氏を天秤にかけられたとき、どっちを取るかっていうのは目に見えているよね」

 これはただの篠山くんの口車なんだろうか。それとも、近藤くんは物理的に強いし、メンタル的にも下手な口車に乗せられないと判断したから、恵美ちゃんに揺さぶりをかけて、私を落とそうという作戦なんだろうか。
 こんなの……こんなの……。
 もう恋ですらないじゃない。
 勝手に自分の気持ちを押しつけられて、勝手に気持ちを刷り込まれて、それで幸せ? 他の女の子たちだって可哀想だ。
 瀬利先輩の背景になにがあるのかは知らない。他の子たちが可哀想な事情も知らない。でも、これは一番気持ちいいのって、結局は誰かを助けられた、女の子たちを幸せにした、だから愛されているっていう篠山くんじゃないか。ただのメサイアコンプレックスを満たすための道具になんかされたくない。
 今の私の気持ちを、歪められたくなんかない。

「……らい」
「えっ?」
「あなたなんて、大っ嫌い」

 気付いたら、前のときの不満も、今の私の不満も、爆発していた。

「嫌い、私のこと好きでもなんでもない癖に、優しくして落とそうとするあなたが大嫌い。私のこと好きでもなんでもないんだったら、もう放っておいて。それでも愛されたい認められたい助けたいっていうんだったら、母親孝行でもしてればいいでしょ。あなたのこと、お母さんだったら絶対に許してくれるし愛してくれるしちやほやしてくれるんだから。あなたのその中途半端な救世主面、もう大っ嫌い。顔だってもう、見たくはない…………!!」

 本当に。本当に。
 前のとき、私はどうして死ななきゃいけなかったんだろう。好きだったはずの気持ちもギタギタにされたのに、性懲りもなく好きでいなくちゃいけなかったんだろうか。もう冗談じゃない。
 簡単な話なんだ。
 私が、前のときの記憶を手放してしまえば、もう彼とはなんの縁もゆかりもない、ただの赤の他人なんだから。

 なにかが、ブチッと切れた。

「……えっ?」

 私は目をパチパチとさせた。
 焼き芋の香ばしい匂いに、黒煙が鼻を通っていく。

「佐久馬?」

 こちらに恐る恐るかけてきた声の方向を向いて、私は目を瞬かせた。
 見覚えのない、うちの学校の制服を着た男子だった。他のクラスの人かな。

「あの、どちら様ですか?」
「えっ? ほら、天文部の……」
「天文部……」

 同じ旧校舎で活動している部だけれど、ほとんど縁もゆかりもなくって、覚えがない。あ、そうだ。恵美ちゃんが幽霊部員として所属している部だったと思う。私は会釈した。

「えっと、恵美ちゃん……木下さんの知り合いですか?」
「え……」

 その男子は困惑した顔をしていた。
 特に顔がいいとは思わないけど、ずいぶんとひょうきんな表情をする人だなとぼんやりと思う。でも、あんまり知らない男子と親しくしてるのはよくないか。近藤くんは焼き餅焼きってタイプではないけれど、若干過保護なところがあるから、また余計な心配をさせちゃうかもしれない。
 今日はお母さんが休みだから家事の心配はないけれど、日が落ちるのも早くなってきたから、早めに帰ろう。私は見知らぬ男子に会釈した。

「あの、用がないんだったら帰りますね、失礼します」
「……あの、本当にどうして」

 変な人だなと私は思い、ただ「木下さんによろしくお伝えください」とだけ言い残して帰ることにした。
 近藤くんの試合の差し入れ、どうしようかな。この時期だったらスポドリは寒いかもしれない。なにを持っていったらいいのか、もう一度近藤くんや剣道部の人たちに確認しておこう。私はそう段取りを考えながら、ふと空を見た。
 まだ日は完全に落ちきっていないのに、もう星が瞬いている。冬が近付いているんだ、きっと。

****

 なんでだ。
 俺はスマホを黙って触って、アプリを見る。

【周回が規定数越えたので、ルートはロックされました】

 ちょっと待てよ。ルートがロックされたのはわかる。記憶が消えているのは、いったいなんで。
 そもそも。佐久馬をパートナーに固定しておいたのに、いったいどうしてこんなことに。俺は颯爽と去って行ってしまった佐久馬とスマホを見比べるけれど、頭の中がぐちゃぐちゃして、いつものように上手く運ばない。

「そりゃそうだろ。【悠久の放課後エデン】で天文部を指定してアプリをプレイしていたのが、光太郎だけだったら、もしかしたら上手くいったかもしれねえけど」

 その声に、俺はちらっと顔を上げた。
 思えば、俺はいつもかごめ先輩のミスで、失敗していたような気がする。
 かごめ先輩は、よくも悪くも快楽主義で、普段から自分に都合のいいことしかしないし興味を持たない。だからなにをされてもどうせ悠久エデンルートに入ってしまえば同じと思って放っておいたけど。
 かごめ先輩はけざやかに笑い、ひょいと自分のスマホを掲げて見せた。

「あたしもやってたからさあ。【悠久の放課後エデン】に天文部を指定して、繰り返し繰り返しやるの。パートナー指定をぜーんぶ光太郎にしておいたんだよ。他の奴ら無視して光太郎固定でやってたから、パートナーは光太郎固定だったから、光太郎が同じようにプレイしていても何度やり直しても記憶は持ち越せるし、あたしも全部の記憶を持ち越せてた。で、他のルートをわざと失敗させてロックかけていった。さっき由良のルートを失敗させてからな。攻略失敗したから、あいつのルートにロックがかかって持ち越した記憶も消えたんだろ」
「……なんで、こんなことをやったんですか?」
「決まってんだろ。他の女の尻ばっかり追いかけてるより、もうあたしにしちゃえばいいじゃん」

 そう言ってペロリと形のいい唇を舐めてから、俺のものを唇で覆う。
 ざらりとした舌の感触、瑞々しい体臭。全部かごめ先輩のものだ。
 ああ、そっか。この人、快楽主義は快楽主義でも、一途だったのか。今更ながら気が付いた。
 もう、他の女子を助けることはできない以上、ここで俺も治まるしかないのか。
 助けを求めていたはずの子たちをもう助けることはできない。もうかごめ先輩に捕まってしまったから。もっと嘆き悲しめばいいのに、何故か痛快な気分になっているんだから、俺は相当かごめ先輩に骨抜きにされていたという訳だ。

****

 晩秋でも上着は手放せなくて、隙間風にぶるぶる震えながら近藤くんの試合を見ていた。
 結局、寒いからとスポドリは断られたけれど、温かい食べ物が欲しいと言われ、考えた末に量販店で手軽に買える肉まんを持っていったら、皆が奪い合いしながら食べてくれた。
 試合中の近藤くんたちのぶんもどうにか残して、ひとつ勝ち上がった近藤くんたちが客席まで上がってきたのを見計らって持っていった。

「はい、肉まん」
「おお、マジか。サンキュ」

 防具を取ってはむはむと食べてくれる近藤くんにほっとしながら、私は食べているのを眺めていたら、「なあ、佐久馬」と声をかけてくれる。
 さっさと食べ終えた近藤くんをきょとんと見上げていたら「あー……」と声を上げる。

「ちょっと散歩しね?」
「うん」

 剣道部の皆が「夫婦行ってらっしゃい」と茶化すのを「やめてください!」といつものように噛みつくのでくすくす笑い、ふたりで試合会場の外に散歩に出る。
 近藤くんがこちらをちらちら見てくるのに、私はキョトンとした。

「なに?」
「あー……うん。ちょっと前まで、お前やけに落ち込んでたみたいだったけど、試合前で放っておいて心配だったんだ。もう、大丈夫そうか?」
「私、そんなに心配かけてた? ごめん……」
「なんでもないんだったらいいんだよ。マジで。自己中毒起こす前にちゃんと俺に言え、なっ?」

 そう心配そうな顔で頭をポンポンと撫でられるけれど、本当に心当たりがなくって、私はいったいなにをそこまで近藤君を心配させてしまったのかがわからず、ただ目を白黒とさせる。
 私たちは同じクラスじゃないし、今は園芸部も活動休止状態だから園芸場で会うこともできない。寂しくなかったと言えば嘘じゃないけど。でもなんで?
 私がますますわからない顔をしてる中、近藤くんが頬をポリポリと「あー……」と引っ掻く。

「うん。元気ならそれでいいんだ」
「……私は、今本当に幸せだよ?」

 好きな人がいて、好きな人と両思いで、別にドラマティックじゃなくっても、その日一日幸せを噛みしめている。
 それ以上の幸せはないと、何故か確信している。
 近藤くんは少しキョトンとしたあと、どっと顔を火照らせた。

「……あったり前だろ、バッカ……!」
「お、こらないでってば!」
「怒ってねえよ! あー、もう!」

 そのまま、少しだけ抱き着かれた。胴着臭くって、思わず目を白黒とさせたけれど、近藤くんのひと言に、私は少しだけ固まった。

「……なんか、俺ばっか佐久馬のこと考えてるみたいで、不公平だと思ったのに……」
「……そんなこと、ないよ」

 誰にも心を操られていない。誰にも思うようにされていない。
 それが幸せなんだと、何故かそう思った。

 私は、この恋を大切にしたいと、そう心の奥から思うのだ。

<了>