今日は園芸部の予定はない。せいぜいまだ残暑が厳しいから水やりしてしまったら終わりだというくらいだ。
部活がないのに園芸部や天文部の使っている旧校舎に向かうのは、正直言って気が重い。特に、天文部に覗き見しようとする自分はなんなんだとついつい思ってしまう。
私は既に付き合っている人がいるのに。もう会わないって決めたのに。なんで前に好きだった人に会いに行こうとしているんだろう。
そう身勝手な自分が訴えるけれど、それに私は首をふる。
……これは恵美ちゃんが心配だからだ。
恵美ちゃんの柔らかい部分に篠山くんが入っていったらと思うと……正直、気分が悪い。
友達の破局の危機なのに、なんで自分のことばっかり考えるんだ。私は最低か。そう階段を一段進むたびに自己嫌悪が募っていく。
のろのろしていても階段はいつかは途切れる。気付いたら天文部の使っている科学室の前に辿り着いていた。
……なにもなかったら、それでいいんだ。
恵美ちゃんが変なことさえされなかったら、それで充分。
だって、今の篠山くんは私のことを知らないはずなんだから。
私はそう思いながら、戸の窓からそっと中の様子を伺った……。
中の窓は開けているらしく、黄ばんだカーテンがはためいている。
「ちゃんと彼氏と連絡取ったの?」
「……取れないんだよ。何度やっても繋がらない。もう駄目なのかな、あたしたち」
いつも聞いている恵美ちゃんの声よりも、一オクターブほど声が低いし、覇気がない。いつもの恵美ちゃんの快活さは、すっかりとなりを潜めてしまっていた……私たちとは、あれだけ普通にしゃべっていたはずなのに。
恵美ちゃんは行儀悪くも、科学室の丸椅子に三角座りをして、膝に顔をうずめてしまっていた。
彼女の癖のついた髪に、女子よりも大きめな手が伸びて、彼女の癖毛を伸ばすようにして撫でている男子。
その姿を見た途端に、鮮明に思い出してしまっていた。
彼はイケメンではない。黒い短く切り揃えた髪の男子が、制服を特に着崩すこともなく着ている。身長だって私よりは高いけれど、近藤くんよりも低い。中肉中背でないだけで、スタイルがひどくいい訳でもない。でも女家系のせいか、ひどく女子を安心させてしまうオーラをまとう、ごくごく普通の男の子。家事全般のせいか、手は年頃の男子よりも乾燥していて爪のあちこちがささくれ立っている。
……間違いなく、篠山くんだった。
篠山くんが心底困った顔をしながら、恵美ちゃんの頭を撫でていた。
「部に出てくれないと困るんだけどさ、あんまり彼氏のこと放っておくなよ?」
「ん……ありがとね、篠山」
男女間の友達にしては明らかに距離感がおかしいけれど、カップルにしては甘酸っぱい空気もけだるい雰囲気もないという、不可思議な光景。頭を撫でる篠山くんには、すこんと下心が消え失せ、普段は彼氏がいるために身持ちの固く警戒心の高い恵美ちゃんの警戒心が緩んでしまっている。
私はこれにどう反応しようと迷っていたとき、ふいに篠山くんの恵美ちゃんを撫でる手が止まった。
「ん、誰?」
そう言って戸の方へと向かってきた。
って、まずい……! 私は慌てて後ずさりするけれど、それより先にガラリと音を立てて戸が開いた。それに驚いて、ベチャンと廊下に尻餅をつく。
篠山くんは心底きょとんとした顔で、私のほうを見下ろしていた。
「ん? 入部希望? なわけないか」
「えっと……! と、友達が、今日元気なさそうだったから、様子を見に……!」
「あれ、木下のクラスメイト?」
それに私は首を縦に振る。
……当たり前だ。向こうが私のことを知っている訳がない。だって、今の今まで、話しかけたことすらなかったし、そもそも会ったことだってなかったんだから。
私は自分が挙動不審じゃないかと必死に考えるものの、頭がぐるんぐるんとしてしまって、上手く働いていない自覚がある。
こちらが勝手にぐるんぐるんしている間に、科学室の奥から恵美ちゃんが出てきた。
「あ、由良! 今日は用事あったのにどうしたの……!」
「うん……そうなんだけど、今日は恵美ちゃん様子がおかしかったから、どうかなと心配しちゃって」
「あー……ごめん、篠山。今日はまだ文化祭の準備ないよね? 友達迎えに来たから、先に帰るわ」
「おう、お疲れ」
私は恵美ちゃんのほうを見つつも、恵美ちゃんの傍に立っている篠山くんを盗み見た。
彼はあくまで平常心なのに、私は少しだけ「あれ?」と思う。
恵美ちゃんは彼氏とのことで揉めているんだから、それを慰めていた。それは私も盗み見ていたからわかる構図なんだけれど。
ここって、普通。ふたりはただの友達同士ですってアピールするところじゃないのかな。
篠山くんはいつだって、付き合ってる付き合ってないことははっきりと口にしていたはずなのに。それとも。
思い返すのは、瀬利先輩と付き合ってるという噂が流れたときのこと。あのときも、否定も肯定もしなかった。
なんで同じことを、恵美ちゃんにするの。
まさか……。一瞬思いそうになり、私は浮かんだ仮説を必死で否定した。いくらなんでもそれはゲス過ぎるし、恵美ちゃんに対して失礼だ。
私が勝手にぐるんぐるんと考え込んでいる間に、やんわりと篠山くんは口を開いた。
「ええっと、君も木下心配してくれたんだろ? 見てやってくれな?」
そうの穏やかな言葉に、私はどぎまぎするのを抑え込みながら頷いた。
「うん。ありがとう」
私は今、ちゃんと受け答えできているだろうか。なにも知らない恵美ちゃんが不審がるような声になっていないだろうか。努めて見知らぬ同級生としゃべっている体を保っていたけれど、私の心臓の激しい鼓動が耳について仕方がなかった。
……落ち着け。あっちは私のことを知らないはずだし、そもそも私は既にお付き合いしている人がいる。彼と私は赤の他人なんだから、変な邪推はしない。
自分にそう必死で言い聞かせながら、鞄を携えてきた恵美ちゃんと一緒に帰っていった。
手を振って見送る篠山くんにチクリとしたものを感じたけれど、それに気付かないふりをする。
前はさんざん吐き気がこみ上げてきて、実際に何度も洗面所に駆け込んだけれど。今は近藤くんのおかげだろう。吐き気も胸をつっかえるような気持ち悪さも襲ってこなかったことに、私は心底ほっとした。
****
私は恵美ちゃんと一緒に、本当に珍しくファミレスに入った。普段は忙しくって、なかなかファミレスで時間を潰す暇すらないからだ。
ドリンクバーで適当にジュースとアイスティーをブレンドしてフルーツティーをつくって、席に戻る。
「どうしたの、恵美ちゃん。最近なんかおかしかったけど……彼氏さんと上手くいってたはずじゃない」
「……それ、聞いたの? 奈都子から?」
普段はばっさりとしているのに、珍しく恵美ちゃんが弱っているのに、私も言葉が詰まる。
「……ごめん」
「別にいいんだけどさ。でもね……うん」
恵美ちゃんはズズズとフルーツティーをすすりながら続ける。
「夏休み中は上手くいってたんだ。普通にデートしてたしね」
やっぱり夏休み中はずっと一緒にいたんだなと納得していたら「でもね……」と恵美ちゃんは言葉を詰まらせる。
私はフルーツティーをちびちび飲みながら続きを待っていたら、恵美ちゃんはぽろっと涙をこぼした。
「……夏休み終わってから、急に彼氏がよそよそしくなって、少しずつアプリの返信が遅れてくるようになったの。本当に心当たりがなくって……」
「それだけだったらわからないよね。彼氏さんと会ってお話したの?」
「……二学期に入ってから、急に彼氏学校の都合で忙しくなって、会いに行こうとしても止めるの。全然理由がわからないし、電話は繋がらないし……これでアプリまでブロックされたら、あたしどうしようって……」
いくらなんでも、これはおかしい。
私の知っている彼氏さんは、律儀で誠実な人だし、恵美ちゃんの真面目な性格を知っているから、下手に誤解されるようなことはしないはずだ。
ただ。ひとつだけ心当たりがあり、私はずっと胸の中で警鐘が鳴っていたことを口にしてみた。
「……あのさ、天文部、今人がいないって聞いたけど」
「あれ? あんた、うちの部長が人足りないって言いに来たの知ってたっけ?」
「……前に他のクラスに『天文部人が足りない』って大声で言いに行っている先輩がいたから、そうなのかなと」
「ああ」
恵美ちゃんはあっさり納得してくれた。
今の瀬利先輩と直接対峙したことはないけれど、やっぱり今回も瀬利先輩が部員が減っているところ、幽霊部員を呼び戻しに行くことはしていたみたい。
私が頭の中で考えていることはさておいて、恵美ちゃんは頷く。
「今はずっと篠山に押し付けられているみたいだし、あたしも部が潰れるの自体は困るから、顔を出すようにしてるよ。でもどうして?」
「……もしかしなくっても、しのや……さっきの男子と一緒にいるところを見られたっていうのはない? ほら、さっきの男子、ちょっと距離感が変というか、近過ぎというか……」
……私自身、自分が天文部にいたときは全然気付かなかったけれど。
あの距離感はいくらなんでも、友達同士の距離感だなんて思わない。友達以上恋人未満。皆が皆惚れた腫れたにうつつを抜かしているわけじゃないだろうけど、距離感おかしいと思っても仕方ない感じがした。
恵美ちゃんは涙を拭きながら、だんだん顔を青褪めさせていく。
「……まさか、見られた? 本当に、あいつのことは同じ部活の奴としか思ってなかったんだけど」
「残念だけど、そう思っても仕方ないと思うよ」
「あたしのせいじゃん! 彼氏、まだアプリブロックしてないよね!?」
恵美ちゃんが震えている。通話が繋がらないと言っていたから、もしかするとそうなのかもしれない。私は黙って自分のスマホの電話を確認すると、それを差し出した。
「使って」
「え、でも由良……」
「彼氏さんとちゃんと仲直りしようよ。もし電話代高く付くようだったら、あとでそのぶんは請求するから」
「うん……ありがとね」
恵美ちゃんは私のスマホを受け取ると、震える手付きで電話番号をタップしはじめた。
私は慌てて彼氏さんに謝ろうとしている恵美ちゃんを見ながら、ほっとした。
でも……。変な胸騒ぎは治まらない。
私の知っている篠山くんは、たしかに周りに誤解されやすいタイプだ。特に女子。本当に弱っているところを優しくされてしまったら、ころっといってしまうのは経験則だけれど、篠山くんのあのどうしようもない癖は、男子には発揮しなかったはずだ。
だから篠山くん狙いの女子のことを好きな男子と揉めたことは、一度だってなかったはずなんだ。でも今回は、もうちょっとで恵美ちゃんと彼氏さんが破局するところだった。ううん、彼氏さんがそう誤解しようとしていた。
まさかと思うけれど……。
私は今まで遭った不可解なことが頭を掠める。
近藤くんと一緒に買い出しに行ったときに、天文部がゲームセンターで遊んでいたのは偶然? 夏休み中に天文部のオブジェが落ちていたのは? それに今回の恵美ちゃんの彼氏さんの件……。
まるで私を天文部に誘い込むようで、気持ち悪い。でもそんなことする理由ってなに? だってそれだったらまるで。
篠山くんが、前のときの記憶を持っているようなものじゃない。
私の胸騒ぎはともかく、恵美ちゃんの通話は無事彼氏さんに繋がったみたい。恵美ちゃんが泣きながら必死で謝罪していたら、向こうから聞き覚えのある声がやんわりと彼女を慰めている声が届き、私もほっとした。
もし、私のせいで恵美ちゃんが彼氏さんと別れていたら、きっと自分を許せなかった。
でも。篠山くんが前のときのことを覚えているかもしれないって可能性が、消えた訳じゃない。どうしよう。
私は彼のことを考えると、ひどく気分が重くなる。
もう前のときの私とはずいぶんと違ってしまっている。
今の私は篠山くんのことを好きじゃないし、前のときたしかに好きだった彼との思い出を、これ以上汚さないで欲しい。
でもそれを篠山くんに言ってもいいの。だってこれがただの私の思い込みや勘違いだったら、どうしようもないじゃない。
このことを誰に、どうやって相談しよう。私は頭が痛くなるのを感じながら、泣いた顔が笑顔に戻っていく恵美ちゃんを眺めていた。
文化祭の準備として、それぞれ出展する部や委員、サークルがそれぞれ欲しいだけの暗幕や器具、器材を発注する。
私はジャージ姿になって科学室の窓縁近くに椅子を置いて、高さと長さを測っていた。それを机で近藤くんが長さをメモしている。
「高さは3.2m。横幅は……ここからここまでだったら6mかな」
「じゃあ一番近い暗幕はBを二枚だな……つうか、お前がわざわざジャージに着替えて測らなくっても俺がやんだろ」
「うーん、部活のときはジャージのほうが性に合っているというか」
「危ないだろ」
下でメモを取りながら唇を尖らせている近藤くんの言葉に、私は笑った。でも高いところに乗ってメジャーで高さを測るとき、近藤くんが台に乗ったら天井に頭をぶつけそうだから、私が台に乗って測ったほうが都合がよさそう。
実行委員会に申請する暗幕のサイズや数を確認してから、ようやく私は椅子から降りた。
「それで、文化祭の展示だけど」
「うん。育った成果として、鬼瓦先生が園芸場の野菜や花を貸し出してくれるみたいだから、それを並べるし、私も春先につくったジャムを展示しようと思う。あと配布品ね。これはもうちょっとだけ可愛くならないかなあと思ってる」
「一昨年は園芸場で育ててたツタの苗を配ってたんだろ? 今年どうすんの」
「うちの園芸場の花の種を配る予定だけど、せめて育て方ガイドでも書こうかなあと思ってる。それを印刷して、その紙袋の中に種を入れるの」
春に咲く花の種をランダムにわしづかみにして入れ、その種を適当にプランターや鉢に植えたら花が咲くというのは、園芸の通販サイトでよく見るものだ。
どれもこれも最初にいい土に撒いて、水やりさえ欠かさずにやっていればちゃんと花が咲く育てやすいものだけれど、ズボラな人は水やりを忘れてすぐに枯らしちゃうからなあ。
私の提案に、近藤くんは「はあ~……」と声を上げた。
「いろいろ考えんのな」
「うん。でも私ひとりだったら面倒くさくってやろうと思いつかなかったよ。剣道部の人たちをこき使うっていうのも、ただでさえアクティブ部員私しかいないのに申し訳なさ過ぎるし」
「まあなあ。園芸部、マジでお前以外来ないのな?」
「顧問の先生も、今年の部長が誰なのかすら忘れてるくらいだしねえ」
剣道部も今は朝の稽古こそあるものの、大会自体はしばらくお休みだから、こうやって園芸部の手伝いをしてもらっている。
私も近藤くんと一緒にいられる時間が増えて、ちょっとだけ嬉しい。
なによりも、ひとりになる時間が本当に少ないのが嬉しかった……ひとりでいたら、ずっと篠山くんについて考えてしまうから、思い悩まないほうがいい。
私が「こんなん書きたい」「種を入れるのは百均のシンプルな奴」とあれこれ提案するのを、近藤くんはふんふんと話を聞いてくれ、それを書き出したら、どうにか配布品の準備も整いそうだ。
「なあ、佐久馬」
「え、なに?」
「お前。なんか無理してねえか?」
その何気ないひと言に、ギクリとした。
「……どうして?」
「いや、俺といるのがつらいとかそういうんじゃないからな。一応、俺、お前と付き合ってるつもりだし」
「うん」
「……お前、なんか明る過ぎる。普段からよくここまでネガネガしく物考えんなあってこと言い出すのに、今日はネガネガしいことひとっ言も言ってねえから、言えなくなるほど参ってんのかと思ってさ」
ああ……この人は本当に。私は思わずうな垂れてしまう。
近藤くんは大雑把だし、ざっくばらんだから、私が普通にしていれば気付かれないと思っていた。
でも普通にしているのを「変」って突っ込まれるとは思わなかったなあ。
私はもやもやする気持ちを抱えたまま、ぽつんと言う。
「……友達が、ちょっと彼氏と別れかけたから、そのことに引きずられてへこんでたのかもね」
「ん? それってお前が落ち込むほどのことか?」
「落ち込むよ! だって一番仲いい友達の話だし……」
「それで俺ともいつかは別れるかもとか思った……って、そりゃないか。佐久馬は自分に起こったことで延々自分を責めるタイプで、被害妄想で落ち込むタイプじゃねえしなあ」
そこまで言われちゃうんだ……否定は全然できないけど。
近藤くんは筆記用具をひとまず鞄に突っ込んでから、私を椅子まで引っ張って座らせる。
「自分のせいとか思ったのか? なにがあったのか知らねえけど」
「……うん」
「うーん、お前もほんっとに難儀な性格してるよなあ」
そう言って私の頭をてちてちと撫ではじめたので、私は慌てて近藤くんを見る。近藤くんは愉快そうで、だんだんと顔が近付いてきた。それに私は固まる。
頭にどうしてもこびりついて離れない、篠山くんと瀬利先輩の生々しいキスシーン。
……もう私は篠山くんが好きじゃない。もう篠山くんが誰と付き合っても私には関係ない。だから、お願いだから私のファーストキスの邪魔をしないでよ。
またも喉からなにかがせり上がってきそうになったとき、近藤くんは私の眉間を指でツンと摘まんできた。
「……前も言ったろ。もう俺の匂いだけ覚えとけ。お前が言いたくねえって言うなら聞かないし、言いたくなったからいつだって聞いてやるから。だから、そんな顔すんな」
「ご、ごめん……」
「だから、自分が悪くもねえのに謝んなってば」
そう言って、私の顔を引き寄せてきた。くっ付いた唇はカサカサしていて、今度リップクリームをプレゼントしようと思った。
キスは、私が塗っていたリップクリームと、近藤くんが飲んでいただろう烏龍茶の味がして、その匂いが鼻を通っていった。
……もう、喉からなにもせり上がってこなかった。
近藤くんが私が小刻みに震えている中、何度も背中をさすってくれた。
そのことにほっとし、私もしばらく彼の腕の中に収まっていた。
……大丈夫、もう怖くない。でもこの気味の悪い状態に、いい加減に目を背けるのは止めないといけないかもしれない。
「近藤くん……」
「……んだよ」
ようやく唇が離れたとき、近藤くんの顔は真っ赤になっていた。この人はいっつもそうだ。自分から恥ずかしいことをするのに、終わってからすぐに照れる。でも私もすぐに熱が伝染するから、きっとおあいこなんだ。
「……ありがとうね」
「おう」
いつものぶっきらぼうな言葉が、今は私を強くしてくれる。
私が、今好きな人はたったひとりだ。
たしかに私が前に好きになった人はいたけれど、もう戻れないんだ。
篠山くんに、前のことを覚えているのかを聞こう。もし覚えてなかったんだったらそれまでだし、覚えているんだったら私のことを諦めてもらうしかない。
彼は彼の今を生きていて、私は私の今を生きている。もう、交わることはない。
蝉の鳴き声も、ガラス扉と空調で防がれて、ここまで届かない。ひと区切りされた葬式会場のロビーを、俺はぶらぶらと歩いていた。
まだ着る予定のなかった制服に身を通して見て回るロビーからは、あちらこちらからすすり泣きが聞こえた。
多分、佐久馬の中学時代の友達とか、同じクラスの連中なんだろうなと思い、俺はぼんやりとスマホを確認しながら、辺りを窺った。
スマホにぱっとアプリのメッセが飛び込んでくる。
【やめとく。あたしが行ったら場の空気が悪くなるから。あたしの代わりに線香あげてやって】
かごめ先輩からの言葉に、俺は溜息を付いた。
あの人は快楽主義だから、やめときゃいいのに人間関係を混ぜっ返すだけ混ぜっ返して、いろいろぶっ壊れたらすぐに逃げてしまう。多分、もうOGだからと理由を付けて部活に顔を見せることもなくなるんだろうなと思う。
俺がスマホの電源を落としてズボンのポケットに突っ込んだところで、「なんで」と地を這うような声を上げられ、顔を向けた。
木下だった。そういえば、佐久馬と一番仲がいいのはあいつだったなと思い返す。
「……篠山。なんであんたがここに来てるの」
「佐久馬の顔が見たかったから。俺のせいで、佐久馬が死んだから」
できる限り誠実に聞こえるように、言葉を選んだ。
こっちだって、まさかこんなにすぐに死ぬなんて思わなかった。せいぜいバッドエンドのひとつの破局くらいに思っていたのが、まさかの事故死だなんて、考えつかないじゃないか。
こちらの心の声はさておき、木下の声は上擦る。
「なんで……!?」
「ちょっと恵美、やめろって」
「離してっ……、こいつが、こいつのせいで、由良が……っ!!」
違う学校の制服の男子が必死に、こちらを殺したそうに睨み付けてくる木下を羽交い締めにしている。木下がたびたび部活をさぼる原因になっている彼氏だったかと、ぼんやりと記憶を探って当たりを付ける。
木下は羽交い締めにされてもなお、自由な口を使って俺を罵ってくる。
「あんた、いったい由良になにをしたっていうの!? 他の女にほっつき回っているくせに、あの子に期待持たせるようなことを言うだけ言って、あの子が勇気を振り絞った途端にこれだよっ……! それであの子がショックのあまりに飛び出しちゃったんじゃない……! あんたが女癖悪いのは知ってたけど、そこまでひどい奴とは思わなかった! あの女もあんたもさいってい……っっ!!」
そこまでの言葉は、あまりにも聞き覚えがあり過ぎて、いっそ笑えてくる。
ここまで何回も繰り返して、いろんな女子から罵られた。
どうして私だけ見てくれないの。どうして他の子のほうを振り向くの。
私のことが嫌いなの? 好きなの? どっちでもいいの? どうでもいいの?
女子はいつだってワールドイズマインで、自分以外のものが入ってきたら、それを集中的に攻撃する。快楽主義者だって、小心者だって、蓮っ葉だって、女子っていう生き物はいっつもこちらの想像範囲の中の言動しかしてこない。
……ほんっとにもう、うんざりするほど、それこそ耳にタコができそうなほどに聞いてきたんだ。
なあ。女癖が悪かったら、よそ見して他の女子を見ていたら、少しでも気の合った女子の葬式に来ることも許されないのか?
木下は俺が黙って見るのに、ますます頭に血が上ったようで、彼氏の腕の中でもがいて暴れている。そしてポロポロ涙を溢しているのだ。
「あたしが……あたしがあんたにさっさと告白するよう言わなかったら、由良は、由良は死ななくってよかったのに……あたしのせいで、由良が……っ」
「落ち着けって、佐久馬が死んだのは、恵美のせいでもないだろ?」
「だって……由良は、本当に篠山のことが……」
そのまま彼氏になだめられるがまま、とうとう木下は決壊し、わんわんと声を上げて泣き出してしまった。
……付き合ってられない。
俺はふたりをロビーに置き去りにして、さっさと会場に入った。線香を上げたらさっさと帰ろう。
葬式会場にはくたびれた感じの女の人と男の人が、来る弔問客来る弔問客に頭を下げている。あれが共働きの佐久馬の親御さんたちだろう。普段から佐久馬はあの人たちのために頑張って我を通していたって訳か、と思いながら俺は頭をペコリと下げていった。
滞りなく式ははじまり、さっきまで流れていたJ-POPのピアノ曲は止まって、お坊さんの念仏がはじまった。線香を上げる列に並び、線香を上げる。最後に、棺の中にいる佐久馬に花を入れるとき、ようやく佐久馬の顔を見た。
真っ白な顔からは、この間まではにかんで笑っていたことも、こちらを「気持ち悪い!」と言い捨てて泣き出した表情もわからず、ただツルンとしていた。つくり物めいた顔は、きっと事故のせいで、よっぽど顔をつくらなかったらその事故の跡が皆に公開されてしまうからだろう。佐久馬の親御さんたちの憔悴っぷりからして、きっと顔がつくられる前の姿を見たんだろう。だって花を配るスタッフの近くで固まった親御さんたちは、なかなか棺に花を添えることができないでいる。
俺は気まずくなって、さっさと菊の花を一本もらうと、それを棺にひょいと落として、返礼品だけもらって帰っていった。
バイバイ佐久馬。またあとで。
蝉のけたたましい鳴き声を聞きながら、俺は返礼品の紙袋を手で弄びつつ、式の間留めていた胸元のボタンを外していく。
なにが間違っていたんだろう。
かごめ先輩を止めなかったこと、は間違いなくあるだろう。あの人にもうちょっとフォローを頼めばよかったのに、クリアしたと勘違いして気が緩んで失敗してしまった。
他の女子は別の周回で落としているから、問題ない。あとひとりだったんだ。
一番の堅物で、他の女子を狙ったら最後、すぐに諦めてしまうし、最悪部活に来なくなってしまうから、最後まで落とすことができなかったんだ。
佐久馬は一番普通の女子だから、そこまで落とす手間もかからないだろう。他の女子の場合は大量に問題を抱えている……それこそかごめ先輩なんて問題しかない……浮気せずに普通に真面目で気さくな男子として振る舞えばいけるだろうと、そう思っていたのに。
すぐにこちらを諦める。すぐに他の男とフラグが立つ。一度友達宣言したら、最初から最後まで友達のままで、こっちは俺のことが好きなのわかっていても、こちらからなにかとアプローチを試みても、ちっとも落とされてくれない。落ちる素振りを見せることもない。
これが正ヒロイン枠だったらまだよかった。正ヒロインが一番落としにくいっていうのは、どこのギャルゲーでも鉄板なんだから。でも佐久馬は違う。佐久馬はサブもサブ。シナリオ的にも普通で平凡が過ぎるし、背景が問題だらけな訳でも、話がドラマティックな訳でもない。本当に平々凡々なスクールライフのはずだった。
せめて地味女子というキャラ設定なら、もうちょっと恋愛に免疫がないとか、優しくされるのに弱いとかで落としやすくてもよかったのに、地味女子の癖して堅物と、設定がガチガチに固められ過ぎて、何周かけても駄目だった。
今回もあと一歩のところだったのに、詰めが甘かったのか、最後の最後で事故死してしまったのに、俺は溜息をついた。
「回数制限は、あと一回なんだよな……」
俺はズボンのポケットからスマホを取り出すと、ひとつのアプリを起動させた。
【悠久の放課後エデン】
そのアプリに出てくる設定画面をタップする。
【最終シナリオ:放課後エデンルート出現条件
1:全攻略対象のトゥルーエンドをクリアすること
2:全攻略対象が学校内に生存していること
注意事項:全攻略対象の攻略回数には上限が存在します。その上限に達した場合、キャラのシナリオはロックされ、その攻略対象からシナリオを回収することは不可能となります。
シナリオを回収した攻略対象について
シナリオを回収した攻略対象は、あなたのパートナーとなり、放課後エデンルート作成に協力してくれるようになります。設定画面でどのシナリオの記憶を保持して周回するかを設定できますので、放課後エデンルートを解放するために、積極的に協力してもらいましょう。】
今回はかごめ先輩をパートナーに選んだのは、明らかに失敗だったか。最後の最後でミスったのは痛かった。
前は木下をパートナーに選んだら、木下の彼氏のことを知っている佐久馬からひどく嫌われて、ルートに入ることすらできなかった。でもかごめ先輩くらいなんだよな、何股かけても許してくれるのは。
次はどうするか。次で決めなかったら、もう佐久馬のシナリオはロックがかけられてしまって、放課後エデンルートを出現させることすらできない。他の女子は全シナリオを回収したっていうのに、佐久馬はトゥルーエンドを回収できない。かろうじてノーマルエンドとバッドエンドは回収できたっていうのに。
パートナーなしでひとりで特攻するか? んんんん……、今までの攻略傾向から考えて、無理だ。佐久馬が警戒心の塊なせいで、俺が距離を詰めたら、返って「友達」と固定させてしまうかもしれない。
さんざん悩んだ末、ふとある考えが閃いた。
そうだ。いっそのこと佐久馬に今回の記憶を持たせればいいんだ。記憶なんてものは美化されるし、夢だと思えば思うほどに、その記憶がこびりついて離れなくなる。俺のことも忘れられなくなる。
最初は嫌な相手が、忘れられないくらいに好きな相手になるっていうのは、他の女子でも学んできたことだ。
きっと佐久馬のことだ。覚えていたら最後、俺から徹底的に距離を置こうとする。でもまた勝手に他の男とフラグが立つかもしれないから、そこをどうやって潰すか考えないといけないな。
「よし」
そうと決めたら、俺はスマホをタップしてシナリオの選択をはじめた。
今回は残念だったけれど、大丈夫。次こそは決める。
もう佐久馬は死なせないし、他の女子も死なせない。
俺が皆を幸せにするから、だから佐久馬は早く素直になれ。さっさと落ちてこい。
アプリの設定入力は済んだ。
さあ、最後のゲームのスタートだ。
文化祭の準備期間がはじまった。
授業を受けているのはもっぱら体育会系の部や出展のない部に限られ、出展する部やクラスはたちまち人がいなくなって閑散としてくる。
私も唯一のアクティブ園芸部員として、鬼瓦先生が連れてきてくれた剣道部の助っ人と一緒に園芸部の出展の準備をしていた。アクティブじゃない先輩たちはもうすぐ引退してしまうらしいし、私はもうちょっとしたら部員確保のために奔走しないといけないのかもしれないと、それだけは頭が痛い。
暗幕を貼り、その上に両面テープでぺたぺたと写真を貼る。今年の春先から秋までの園芸場の様子だ。そのうちの一点は、この前に園芸場の畑で芋掘りをした光景だ。掘った芋は、剣道部のいらない竹刀をくべて、焼き芋にして食べた。
「高いとこは俺らが貼るから、お前は出展用の植木鉢と配布の種の準備しとけ」
「うん。ありがとう」
鬼瓦先生と顧問が撮ってくれた写真の中から、いかにも園芸部っぽいという写真を選んで近藤くんたちに貼ってもらい、私は言われたとおりに園芸場で水まきして咲かせた花の植木鉢を並べ、配布の種を育て方のガイドと一緒に百均で買ってきた袋に詰めていた。
普段はいかにも科学室っぽい教室も、暗幕と植木鉢のおかげで、なんとなく園芸部っぽく見えてきた……もっとも、普段から本当に園芸部っていったいという活動しかしてないから、園芸部っぽいってニュアンスも謎なんだけれど。
私はそうこうしていると、手伝ってくれている剣道部員が「あっ、やべえ」と悲鳴を上げた。
「どうかしましたか?」
手伝ってもらっている手前、園芸部のほうで実行委員への発注をミスっているんだったら私が走らないといけない。私が恐る恐る聞くと、剣道部員が「いやあ」と両面テープの芯を見せてくれる。
「もう両面テープないんだけど、新しいのある?」
「ええっと……」
普段科学室の一部の引き出しは園芸部の備品を入れさせてもらっている。私はそこを開けて備品を漁ってみるけど、もう両面テープはないみたい。
私はぶんぶんと首を振りながら、財布を取る。
「ごめんなさい、もうないみたいなんで、すぐ買いに走ってきます。他に必要な備品ありますか?」
「ええっと、ガムテープももうそろそろ切れそう。近藤、嫁さんが買い出し行ってくれるって、欲しいもんある?」
嫁さん……剣道部員からは、私と近藤くんの仲は生暖かく見守られている。あからさまにからかってくる感じじゃなく、こういうときどき揶揄ってくる程度だから、嫌がられてはいないんだと思う。うん。
私が勝手に照れている間に、近藤くんも顔をどっと火照らせて「うちのんからかわんでくださいっ!」と言って、一瞬教室を沸かせたあと、ちらっと私が作業していた机を見た。
種を袋に入れる際に、種がこぼれないようにと仮止めノリで留めていたけれど、それがもうすぐなくなりそうなのに気が付いたらしい。
「佐久馬、ノリも切れそうだけど。あんまり重かったら俺もついてくけど、ひとりでいけるか?」
「うーんと、テープにガムテにノリ……大丈夫だと思う! それじゃ、すぐ買ってくるから!」
「気をつけてな」
そう言われて皆に送られ、私も走って購買部へと急ぐ。ついでに自販機で飲み物でも買っていこうか。剣道部の皆がなにを好きか、聞いておけばよかったなあと後悔しつつ、走っていると。
天文部のほうの準備に目が留まりそうになり、私は慌てて目を逸らした。
……今度、一度篠山くんと話をしようとは思っていたけど、私の思い込みかもしれないし、先走ってはいけない。あっちが本当に前の記憶があるのかどうか、確認してからじゃないと、私がただの危ない人になってしまう。
私はそう自分に言い聞かせて、そのまま階段を降りようとしたとき。
廊下に足下に丸いものが転がってきたことに気付いて、思わず立ち止まる。
それは、いつか園芸場で見たのと同じ。天文部の展示用オブジェだ……さすがにこれは、見て見ぬふりをしたらまずいんじゃないかな。ただでさえ天文部の展示はプラネタリウムくらいしかないいい加減なもので、プラネタリウムをしてないときは、オブジェ頼みの情けない展示なのだから。せめてオブジェが揃ってなかったら格好がつかない。
私はそう自分に言い訳して、ひょいと拾い上げた。オレンジ色のそれは、多分火星のオブジェだ。
少しだけ息を吸って吐いて、私は声をかけた。
「すみませーん、これ、転がってきたんですけどー」
「ああ、ありがとう。あれ、君って」
出てきたのは案の定、篠山くんだった。ジャージ姿の彼を見たのは、恐らく私が死んだときの合宿以来だろう。
ひょいとオレンジ色のオブジェを差し出すと「うわ、本当ありがとう、助かった!」と声を上げる篠山くんを、私はじっと観察する。
あまりにも普通で、これだけだったら、前のときの記憶があるのかどうかわからない。でもこれ以上観察していても不自然だから、私もそろそろ買い出しに行かないと。
「それじゃ、私も購買部行かないといけないんで」
「えっ、君も購買部行くの? 俺も用事あるんだけど」
「はあ……なら、ついでに買ってきましょうか?」
「いいよ、どうせ領収書書いてもらわないとだから。それじゃ、俺ちょっと購買部行ってくるから」
他の部員にそう声をかけると、篠山くんは私と一緒に天文部を後にした。私は去り際に天文部の展示準備の様子をちらっと見る。
「行ってらっしゃーい」と手を振っている子たちには皆、見覚えがあった。ゲームセンターにも一緒に来ていたはずの子たちだ。恵美ちゃんもたしか部の展示の手伝いするって言ってたけど、いないってことは実行委員会のほうに回ったんだろうか。
なにがどう違うのかわからないけど、前のときは篠山くんが瀬利先輩との噂が流れたときに辞めちゃった子たちが、皆辞めなかったんだ……。私はそれに困惑しながら、篠山くんと付かず離れずの距離を保って、一緒に階段を降りていった。
****
購買部は案の定というべきか、大混雑に見舞われていた。
文字通り商品が飛ぶように売れ、押し合いへし合いの揉み合いでなかなかレジまで進めない。
「えっと、木下の友達だよね。なに買うの? レシート別にして買ってこようか?」
「大丈夫です。どうせ私も、領収書切らないと駄目なんで」
「あれ? 君の部も人いないの? 俺もほとんど強制的に一年で部長就任なんだけど」
あまりにも自然に会話が続くのに、本当に引きずられて前のときのようなテンポでしゃべりそうになるのを、私はつっかえつっかえ言葉を飲み込むことで、それを阻止する。
今と前は、全然違う。ただ……。
前のときに見た、瀬利先輩とのキスシーンが、今しゃべっている彼と結びつかないから困ってしまう。まるで、前のときに見たあれは、私の勘違いだったんじゃないかと錯覚しそうになる。
それに私は内心かぶりを振る。
今の私は、もう近藤くんとお付き合いしている。近藤くんが誤解するような真似はしちゃ駄目だ。実際問題、恵美ちゃんはもうちょっとであんなにいい人の彼氏さんを誤解させてしまったせいで、破局しかけた。……たしか、彼氏さんがわかってくれたおかげで、その危機は去ったはずなんだけれど。
私は脳内でどうにか考えをまとめると、やんわりと口を開いた。
「お互い大変みたいですね、アクティブ部員が全然いなくって」
私たち似ていますね、みたいな風に話を進めてしまったら、勝手に連帯感をもたれてしまい、篠山くんのペースで振り回されてしまう。彼は人たらしでおだて上手なのは、前のときにさんざん思い知っているから、相手にイニチアシブを持っていかれてしまったらいけない。
自分をそう戒めて、私はそう言葉を打ち切る。
押し合いへし合いになりながらも、どうにかレジに辿り着いたので、欲しい商品を叫ぶと、店員さんがすぐに両面テープにガムテープ、仮止めノリを出してくれた。私はすぐに支払って購買部を出ようと財布を開けたとき。
財布の小銭が開けた勢いでパーンと辺りに散らばってしまった。って、嘘。こんな後ろに長蛇の列になっているところで、お金をぶちまけたの……!?
後ろから舌打ちが聞こえる中、私は「すみません、すみません……っ!!」と声を上げながら、ぶちまけた小銭を拾い集めはじめた。ちょうど私の隣のレジに辿り着いた篠山くんも、さっさと目的の品を買い、領収書を切ってもらいはじめたところで、私に声をかけてきた。
「大丈夫? 小銭拾うの手伝おうか?」
「け、結構です! すぐ終わるんで!」
「でも後ろ」
そう言いながら私の制止の言葉も聞かずに、一緒に小銭を拾いはじめた。
私のミスとはいえど、なんでこんなにタイミングよく、小銭が飛び散るんだろう。私はどうにか自分が拾えるだけ小銭を拾い終え、あとは篠山くんの足下に落ちたぶんをもらえば終わりと、どうにか立ち上がろうとしたとき。篠山くんの口元がちらっと目に入った。
彼の口角は、きゅっと上がっていた。……ちょっと待って。どこに笑う場面があったの。
まさかまさかと思っていたけれど、なんの証拠もない疑惑が、胸の中を占めていく。
彼は、私が死ぬ前の記憶をやっぱり持っているんじゃあ。そんなの私の思い込みかもしれないって思っているけれど、状況証拠だけが、どんどんと積み重なっていく。
そんなことある訳ないとは思っている。でもそんなことある訳ないと言い切れるだけの証拠もないんだ。
そうこうしている間に、こちらをじっと待ってくれていた店員さんに頭を下げながら支払いを終え、ようやく混雑していた購買部から逃げ出すことができた。
元来た道を戻ろうとする中、「えっと」と篠山くんから声をかけてきた。
「木下の友達だったら、言いにくいじゃない。君をなんて呼べばいいの」
そう軽く声をかけてきたのに、私は喉がヒュンと鳴るのがわかった。
なんで友達と同じ部活の人ってだけで、名前を教えないといけないの。
身持ちが固いとは自分でも思っているけれど、友達の知り合いってだけの人に名前を教えるのは怖いって、思わないんだろうか。
私はただ、笑顔をつくって買った荷物を抱き締めた。盾にするには心細いけれど、逃げないとととっさに思う。
「……恵美ちゃんにでも聞いてください」
私はそれだけ言うと、一目散に階段を駆け上がっていた。
篠山くんはなにか言いたげな顔をしていたけれど、それ以上追及することなく、私を見送る。
……なにか決定的なことを言っていた訳じゃない。私が死ぬ前の出来事をほのめかした訳でもない。でも。
私は息を切らしながら階段を昇り終え、その場に息切れでしゃがみ込んでしまった。
篠山くんはやっぱり。前の時のことを覚えている。彼の距離感の取り方は、付き合っているのか付き合ってないのかわからないもので、身内として一緒にいるときは、私もこの人はいったいどうしたいんだろうと思ったものの、最終的には仕方ないと諦めてしまっていたけど。距離を取った今だとわかる。
あの距離の詰め方を、会ったばかりの人間にはしないでしょ。初めて出会ったときの近藤くんとのことを思い返し、私は小さく首を縦に振る。
最初暴言を吐かれて泣いてしまったけれど、あれくらい距離感の詰め方を失敗したり、逆に距離を開けてよそよそしくなったりするものだと思う。
あの距離感は、いくらなんでもおかしい。
秋になったら、日が落ちるのも早くなってきた。
一生懸命準備をしていたら、あっという間に空は赤くなってしまっていた。
私は近藤くんの自転車に荷物を入れてもらって、いつものように一緒に帰っていた。
「もうちょっとで文化祭だね。見たい展示とか、演目とかある? 演劇部の舞台はちょっとだけ見てみたいなあと思ってるけど」
「あー、有名な恋愛小説の舞台化、だっけ? ああいうの佐久馬も興味あんの?」
「恋愛小説だから興味あるとかじゃなくって、単純に聞いたことある話がどんな風な絵になるんだろうと思って」
「ふうん。まあ当日の当番だって、お前しかまともに部に出てないからって、お前がずっと展示の見張りをする訳じゃねえし、見たいもんあるんだったら、事前に言っとけよ。剣道部のほうにも口利きしとくから」
「ありがとう」
ふたりでしゃべりながら歩いているとき。ふいに自転車を押していた近藤くんが、キィーと音を鳴らした。
「なあ、佐久馬」
「なに?」
「お前また、なんか隠してねえか?」
それに、私がギクリとする。
私はそこまで顔に嘘が出るタイプじゃないと思うし、近藤くんはそこまで察する力があるとは思わないけど。いつだって彼は、私の隠し事を暴いてしまう。
でもどうしよう。私は篠山くんのことをどうやって話せばいいのかわからない。
私には死ぬ前の記憶があって、そのときに死んだ経緯に彼がかかわっている……それだけでも既に話がファンタジー過ぎて言いづらいって言うのに、私が死んだ経緯が失恋だなんて。もう私は篠山くんのことをなんとも思ってないのに、彼のことを忘れられないイコールまだ気があると思われたくない。
近藤くんは私をじーっと見るのに、私は目を伏せる。
「……あのね、これだけは信じてね。私、近藤くんが好きです」
「お、おう?」
それにどっと首まで顔を赤くさせるのは、相変わらずの近藤くんだ。
そんな彼をしみじみと好きだなあと思いながら、私は言葉を探す。
誤解なんてされたくない。させたくない。近藤くんに、かつての私みたいな「好きって気持ちをいいように使われた」思いなんて、させたくない。
「前にちょっとだけ話した、手ひどい失恋した相手と、ちょっとだけ顔を合わせちゃったから。前みたいに、その人のことを考えただけで吐き気が止まらないってことはなくなったんだよ。それは本当。でもその人は私が失恋したのをわかってないみたいで、昔みたいに接してくるから、怖くなって逃げ出したっていう、それだけ」
口にしてみれば、本当に篠山くんのどこが好きだったのか、前の自分が信じられなくなってくる。
だって、口にしてみればしてみるほど、私のことがどうでもよかったから、目の前で死んだ女子に無神経に距離を詰めるんだよなあと思う。普通だったら気まずくなって距離を取る場面で、友達や知り合いとは言いづらいほどに距離を詰めてきたら、普通に怖いし傷付く。
でもそのたびに、前の自分が悲鳴を上げるのもわかる。
自分の初恋を無残に踏み荒らさないでと、前の自分が泣いているように思えるから。
前の私と今の私は、完全に分離してしまったんだなと、前の私のことを他人事のように眺めていないと、今の私にはつら過ぎる。
そう思ってシュン。となっていたとき、近藤くんが「ふん」と鼻息を立てた。
「なんだそれ。そいつうちの学校の奴……あのゲーセンでいた奴だったのか?」
「えっと……うん。会わないでいようと思ったらまず会わないから、あんまり心配しないでいいよ?」
「でも会って気分悪くなってんだろう? なんかそいつに、変なこと言われたりされたりしてないか?」
そう言って私を心配そうに見てきたのに、首をぶんぶんと振る。名前だって教えてないんだから、下手に近付かない限り、大丈夫だとは思う……うん。
「大丈夫。心配かけてごめん」
「まあ、佐久馬は勝手にひとりで抱え込んで自己中毒起こしてるから、言ってくれたのはよかった」
「私、そこまで自己中毒起こしてた……!?」
「無自覚ってマジで質悪いなあ……普通、トラウマになってる相手に会ったからって、吐きそうなくらいに顔面蒼白になったりしないからな!? ほんっとうになんもないならいいけど、体壊すくらいに気分悪くなってんのに、そいつに絶対一対一で会おうなんてすんなよ」
「……うん」
近藤くんに無意味に心配かけてしまったけれど……本当になにもないと信じてもらえてよかった。
でも……どうすればいいんだろう。
会わないで、このまんま距離を開けて他人のままでいてっていうのが、私の要望だけれど。篠山くんは私にコンタクトを取りたがっているように思える。
無視してるのが、一番だよね。きっと。でも……。
ずっと存在自体は気付いていても、無視し続けたのが原因なんじゃ、と思っている。恵美ちゃんと彼氏さんに降りかかった災難は、本来篠山くんはどんなに女子との距離感を間違えているとはいっても、それは部室内、身内内での話。それ以外の人たちに誤解させるような真似はしないはずだし、あれはわざと誤解させて波風を立てたような気がしてならない。
私をおびき寄せる、ただそれだけのために恵美ちゃんが傷付けられたんだったら、もう見て見ぬふりはできない。少ししゃべっただけの篠山くんがなにを考えているのかは、こっちも完璧に把握しきれているなんておこがましいことは思えないけど。
私がただ会わないだけ、ただ近藤くんと平穏にお付き合いを続けたいだけで、それ以上の要望はない。でも……。
もし篠山くんが恵美ちゃんにやったみたいに、私の大事な人たちを傷つけるようなことをするようだったら、私はどうすればいいんだろう。それとも私の考えの飛躍し過ぎ、近藤くんの言う通りにただ自己中毒起こしているだけだったらいいんだけど……。
二学期に入ってから続いている、変な胸騒ぎが治まってくれることを、今の私は祈ることしかできなかった。
****
私が胸騒ぎを覚えている中、とうとう文化祭がはじまった。
園芸部には他の部の展示の見物のついで、演劇部や合唱部の演目がはじまる前の暇つぶしにやってくる人が多いから、配布の種さえ受け取ったらさっさと出て行く人も多く、展示の見張り番の役目もそこまで難しくはない。
私と近藤くんがふたりで種を配っている中、剣道部の男子が「交替だぞー、早く嫁さんとデート行ってこい行ってこい」と科学室を追い出されるのに、私たちは顔を見合わせた。
「あー……うちの連中がごめん」
「ううん。あ、近藤くんは見たい演目とか展示とかある? 私は演劇部の演目が見れたらいいなと思ってるけど、近藤くんが行ってみたいところがあるんだったらそっち優先するし」
「んー……そうだなあ。じゃあ屋台見てきたい。佐久馬は食べたいもんある?」
「じゃあたこ焼き! 大阪出身の先輩たちが食材から厳選したって言ってたから、どんなんか食べたい」
「マジか。じゃあ行くか?」
「うん」
ふたりでそんなやり取りをしながら、人が多い中手を繋いで歩きはじめる。
これだけ人が多かったら、手を繋いでもいちいちからかってくる人たちがいないから楽だ。私たちはふたりで旧校舎を出て、校庭のほうに並んでいる屋台の並びに出て行った。
ほとんどは展示するような成果や見せるような演目のない文化部や、卒業までの思い出づくりに立候補した三年生たちによる出店で、たこ焼きやお好み焼き、焼きそばなんかのわかりやすいものから、トルコアイスや綿菓子、飴細工なんかの見て楽しむようなものまで、結構皆が思い思いの出店をしているのが目に入る。
私たちは三年生のたこ焼き屋でたこ焼きを買うと、それをベンチスペースで食べていた。
「すげえ、結構本格的なんだな。もっとガリッとしたもの想像してた」
「そうだよねえ、大阪だと八割くらいは自宅でたこ焼きつくれるから、下手な味出したら怒られるんだって」
「マジか。え、たこ焼き焼く型って、普通に売ってるもんなの?」
「たこ焼きマシーンが普通に家にあるって聞いたことあるけど」
「マジかあ……」
思っている以上においしかったたこ焼きを、ふたりではふはふしながら食べていたところで、女の子たちが甲高い声を上げているのが耳に入る。
「ねえ、今回の天文部やばいらしいよ!」
「え? うちの天文部なんてあったっけ?」
「あったんだって」
それに私はギクリとして、たこ焼きを刺していた爪楊枝をポキンと折ってしまう。
「おい、佐久馬。大丈夫か?」
「……うん、大丈夫。どうしよう。手づかみで食べるのは熱いし、爪楊枝か割り箸かもらえるか交渉して……」
「もう俺食べ終わったから、俺の使えよ」
「えっ……」
「そこ照れるところかよ」
私が顔を火照らせているのを無視して、近藤くんが自分の使っていた爪楊枝を私のたこ焼きに刺してくれる中でも、女の子たちの甲高い声が続く。
「うん、天文部。今年は占い小屋やっているんだってさ。その占いがびっくりするほど当たるの!」
「えー……今時コールドリーディングとかあるじゃん。占いイコール統計学とも」
「それは夢がなさ過ぎだよ。もっと『ラッキーアイテムが赤!』みたいな雑誌の巻末占いみたいなのを想像してたんだけどさあ、何月何日にこんな出来事が、みたいなのがピタッと当たったんだよねえ。最初は物見遊山だった子たちも、だんだん鵜呑みにして、今は長蛇の列だよぉ」
「へえ、それだったらちょっとは興味あるかな」
……ええ? 私はその内容に耳を疑った。だって占いなんて出展、私が知っている限りやったことはない。……前のときとは勝手が違うとは言っても、ここまで根本が違うなんて初めてだ。
まるでなにがなんでも私を誘き寄せたいみたいな感じで、すごく怖い。私は急いでたこ焼きを食べ終えてしまうと、近藤くんに「ちょっとアプリ触ってもいい?」と聞くと、当然ながら怪訝な顔をされてしまった。
「そりゃ別にいいけど。なに、他の奴と予定入ってた? なら俺は園芸部の展示の当番に戻ってるけど」
「ううん、確認だけしておきたいから。それ終わったら演劇部のほうに行こう」
私はそう言って、急いで恵美ちゃんにアプリのメッセを送った。
【天文部、ずいぶん噂になってるね。占い屋さんやるってはじめて聞いたよ】
恵美ちゃんは彼氏と仲直りしてからは、天文部の幽霊部員に戻ってしまい、今日の文化祭も彼氏さんと回っているはずだけど。天文部の出展内容知ってたのかな。そう思っていたら、すぐに恵美ちゃんから返信が来た。
【ああ、言ってなかったっけ? 辞めたって思ってた部活の子が、篠山にやりたいって言って星占いするとか言い出したんだよ。子供だましみたいな展示だからそんなに人来ないだろうって踏んでたけど、ずいぶん混雑してるから人員整理のために狩り出されてんの。彼氏に謝って当番交替までデートできません。ぐすん】
その内容に、私はますます呆気に取られた。
……たしかに、私はほとんどしゃべったことのない子だったけど、占い好きな子は天文部にいたと思う。でもその子は、篠山くんと瀬利先輩の仲が噂されるようになってから部活を辞めてしまってたと思ってたけど、今回は辞めてない……?
なんでだろう。なにが起こってるんだろう。ますます気になったけれど、同時にますます得体が知れなくなってしまった天文部に近付きたくなくなってしまった。
私がスマホをスカートに突っ込んだとき、ふいにふにっと眉間をつねられ、思わず顔を上げたら近藤くんがこちらを見下ろしていた。
「どした? また変なことでも考え込んでたか?」
「……ううん、なんでもない」
「お前、そう言ってまたひとりで悩むのやめとけよ? 本当にヤバいって思ったらちゃんと言えよ」
「うん。ありがとう……あ、演劇部。もうそろそろ体育館に入らないといい席取れないかも」
「マジか。そんなに人気ある話なのか?」
「そこそこじゃないかな」
私はそう言いながら、ふたりでまた手を繋いで演劇部の演目へと急いで行った。
なにが起こっているのかわからないし、得体が知れな過ぎて怖い。篠山くんがなにをしたいのかわからなくって、私はますます怖くなっている中。
ふいに辺りがざわついていることに気が付いた。
なんだろうと思って声のほうに視線を移してみると、そこには黒ローブを被った女の子が歩いているのが見えた。まるで演劇部みたいだけれど、今回の演目が現代劇だったから、こんなあからさまにファンタジーな格好の人はいないはず。……そうだ、まるでわかりやすい占い師の格好なんだ。
その子は私と近藤くんの近くでピタッと足を止めて、私を指差してきた。
「悪いことは言わない。あなたは運命の相手を間違えている」
「はい?」
聞き覚えのある甲高い声が、あまりにも失礼なことを言うのに、私はイラッとした。でも、この声をどこで聞いたのか思い出せないと私が考え込んでいたところで、近藤くんが努めて冷静な声で、その子に声を上げた。
「……お前、人の彼女になに失礼なこと言ってんだよ」
「運命は決まっているの。少なくともあなたじゃない」
「あのなあ。そもそもその運命決めてるのは誰だよ。人が運命をとやかく言ってんじゃねえよ」
「運命を決めているのは私じゃない。星がなんでも教えてくれるの」
「……俺は無宗教だから知んねえ」
噛み合わない会話に、近藤くんがだんだんと声がイラついている中、私はようやくその声の主に当たりを付けた。
そうだ。ゲームセンターにもいた……天文部の占い好きの子だ。
前のときは辞めたのに、今回は篠山くんの噂を聞いても辞めなかったんだ……。
彼女は近藤くんとしゃべっても埒があかないと判断したのか、彼をスルーして私のほうに視線を向けてきた。
「あなたの運命の相手は別にいる。そちらに行かなかったら、いずれ災いがあなたに降り注ぐ」
そうきっぱりとした口調で言うと、そのまんまマントを翻して、そのまま元来た道を立ち去ってしまった。
それに周りがざわついている。
「すげえな天文部。過激な演説して」
「占い当たるって言ってたけど、お芝居までやって客寄せしてんだねえ」
皆は概ね、天文部の占いの宣伝芝居なんだろうくらいに捉えているみたいだけれど。私は彼女が言っていることの意味を考え込んでしまった。
「おい、佐久馬。いい加減なこと言ってるだけだから、マジで鵜呑みにすんなの?」
「うん……大丈夫」
私はカタカタと震えていた。
篠山くんがなにを考えているのかわからない。なにがなんでも私を連れてきたいみたいだけれど、はっきり言ってますます行きたくない。
私の気持ちをまるで無視するのに、ますます前の自分が悲鳴を上げる。
私の恋心を殺さないで。
私が好きだった人を殺さないで。
私の好きだった人は、いったいどこに行ってしまったの。
……今の私もだけれど、前の私も、今の篠山くんを好きになることは、絶対にないのに。
文化祭が終わってからというもの。
あの占いが原因なのか、それとも近藤くんがインハイで優勝してしまったせいなのか、妙に近藤くんとふたりで会う時間が減ってしまった。
「ごめんな、今日も稽古が終わらなくって」
「ううん。仕方ないよ、次の大会あるんでしょう?」
次は地区の新人大会に出場するから、近藤くんだけでなく、剣道部の一年は剣道場に最終下校時刻ギリギリまで稽古を重ねている。
竹刀の激しい音を聞いていたら、「寂しいから部活なんて放っておいて」なんて可愛げないことを言える訳がない。
私がやんわりと頷くと、近藤くんは心底眉を寄せながら、頭を下げてきた。
「本当にごめん……佐久馬、またおかしなことがあったら、俺の都合なんか無視して、ちゃんと言えよ?」
「うん、ありがとう。ちゃんと頼るから」
「本当だからな? 佐久馬は、勝手に自己中毒起こすんだから、絶対に相談しろよ?」
「わかってるってば。近藤くんも、稽古のほうに集中してね? 五体満足じゃないと、次の大会に出られないでしょう?」
「おう……また、スポドリの差し入れ、してくれると嬉しいんだけど」
そのひと言に、少しだけ顔が赤くなる。
また試合を見に行ってもいいって言われたことが嬉しくて、私は近藤くんが剣道場に戻るまで、何度も首を縦に振っていた。
「わかった、また持っていく! 練習、頑張ってね!」
「おう」
手を挙げて戻っていく近藤くんを、私はほんわかとしながら見送った。
やっぱり、近藤くんが好きだなあ……。
そうしみじみ思いながら、私はひとりで家路を急ぐことにした。晩秋になったら、園芸場は休息日になる。鬼瓦先生曰く、春まで園芸場は水やりしたり雑草抜きしたりしないらしい。そうすることで、多年草の根っこを休ませるらしい。
文化祭が終わったら、私はほとんど部活に来なかった先輩たちから、部長の座を譲ってもらった。唯一のアクティブ部員として、ほとんど幽霊部員しかいない園芸部をどうにかして盛り立てないといけないらしいけれど、晩秋からはやることがほぼない。
どうしたもんかなあと思いながら、校門を通ろうとしたとき。
「あ、一年女子。部長になったんだって?」
いきなり声をかけられて、私はぎょっとして振り返ると、冬服にカーディガンを羽織って、挑発的な目でこちらを見てくる先輩の姿があった……瀬利先輩だ。
もう三年生は引退して引継ぎを済ませてしまったはずだし、部長になったら部長会議に出席しないといけなくなるけど、天文部の部長は今回は部員が思いのほか辞めなかった関係で篠山くんではなかったはずだ。
……なんで私が園芸部の部長になったって知っているんだろう。そもそも、なんで私が一年生だってすぐわかるのかな。瀬利先輩は私のこと、全然知らないはずなのに。
「あの、失礼ですがどちらでしょうか?」
とっさに当たり障りのない質問を投げかけてみると、瀬利先輩はケラケラと笑う。屈託なく笑う様は、こちらを試しているようにも思えない。
「ああ、そっか。知んないんだっけ? あたしは瀬利かごめ。文系の三年。この間まで天文部の部長やってたんだけど、引退したんだわ」
「はあ……」
ここまでは私の記憶通りだけど。だから、どうして私のことを知っているの。油断なく瀬利先輩を観察していたら、彼女はしみじみとした口調で言葉を続けた。
「ちょっと顔を貸して欲しくってさあ……いい?」
「いいもなにも……」
今日はちょうどお母さんが休みの日だから、私の食事当番ではないけれど。私は知っているけど瀬利先輩は私のことを知らないはずなのに、なんで瀬利先輩が私に声をかけてきて、あまつさえデートしないといけなくなっているんだろう。
私が困り果てた顔をしているのに気付いたのか、瀬利先輩は人好きのする顔をして笑いかけてきた。
「まあ、赤の他人同士だけど、共通項はあるしさ。近所のファミレスのドリンクバーでも借りてさあ」
「はあ……それなら」
「おっし、決まり決まり。行こう行こう」
そのまま背中を押されてしまった。
ちょっと待って。これ本当にどういう状況なの。私は現状をちっとも飲み込めないまま、瀬利先輩にファミレスまで連れさらわれることとなったのだ。
****
ファミレスのドリンクバーで、ひとまず烏龍茶だけ入れて席に着いたら、メロンソーダを入れた瀬利先輩はそれをのんびりとストローで吸いはじめた。
「うーんと、一年は園芸部の部長、だっけ?」
「あ、はい……あの、天文部の元部長さんが私にいったいなんの用で?」
「まずは、うちの一年の氷室が文化祭のときに失礼したみたいだから、謝罪かな。あの子も占いに傾倒してるのはいいんだけど、人に迷惑かけるなとあれほど言ってるのに、まさか爆弾発言かますとは思ってもいなくってねえ。本当にうちの一年がごめんね」
「え? ああ……」
文化祭のときに私に謎の予言をしていった黒ローブの女の子が頭をよぎり、納得した。あの子もずいぶんと難儀なことをしでかしてくれたものだ。
私はひとまず手をぶんぶんと横に振る。
「いえ、気にしてませんから。私の彼氏も、彼女に対して失礼なことを言ってしまいましたし。私たち、普通に付き合ってますし、別に占いくらいで気まずくなりませんから」
「あ、そっかそっか。一年には彼氏がいるのか。へー、今は?」
「もうすぐ試合なんで、学校に残って稽古中です」
「ああ、そっか。運動部の。格好いいね! まあ、余談はここまでで、本題に入ろうか」
本当に、瀬利先輩は話が右に行ったり左に行ったりして、脈絡がない。しかも私を呼び出した意図が全くわからないと訝しがっていた途端にこれだ。
化粧もしていないにもかかわらず、長い睫毛で目力ばっちりの瀬利先輩が、口角をきゅっと上げる。多分それだけで皆たじろいてしまう。私だって、息を飲む以外にどうすればいいのかわからない。
「あの……?」
「天文部にさ、唯一のアクティブ男子部員の篠山光太郎っているんだけどさ」
「はい……?」
「一年女子に、光太郎を献上したいんだわ」
「…………はあ……?」
私は今、いったいなにを言われたんだ。そう思って、瀬利先輩のセリフを頭の中でリピートさせる。
……てっきり、「光太郎と仲良くするの止めて」とか、「彼氏いるんだったら光太郎に近付くな」とかだったら、「わかりました、今後近付きません」だけで済んだのに。
なんで私が篠山くんをもらう話に発展しているんだろう……?
とりあえず私はぶんぶんぶんと首を振る。
「あの、私。彼氏いますから。いきなりその男子と付き合えと言われても、困ります……?」
「いや、別に彼氏と別れなくってもいいんだよ? ただ光太郎をもらって欲しいだけで」
「なんでですか……! 困りますよ……! 堂々と二股しろと言っているようなもんじゃないですか……!」
「だってさあ、光太郎があたしのためにいろいろやってくれていると思ったら、可哀想になってさあ」
「……はあ」
いったい瀬利先輩はさっきからなにを言おうとしているんだろう。というより、本題に入ってから、私は彼女としゃべっているような気がしない。一方的にまくし立てている瀬利先輩の話を聞いているというのが正しいような気がするんだけど。
私が訝しがっているのをわかっているのかいないのか、瀬利先輩はまたも自分語りをはじめた。
「なんでか知らないけどさ。天文部って問題ある子しかアクティブ部員にならないんだよね。問題ない子は全然来ないし。恵美も彼氏いるせいか全然来ないしね」
「はあ……」
「光太郎は問題ある子たちの話を聞いて、その子たちの悩みを解決してあげているんだけどね、解決してあげたら、どうにもその子たちは光太郎に惚れちゃうんだわ。弱っているところに優しくされるとコロッと行く奴? それになって」
それは前のときにさんざん見た。よくもまあ、ここまで問題起こるなと傍から見ていて、私もそれが原因で諦めようとしていたんだから。
瀬利先輩は続ける。
「それのせいで、天文部はすっごいギスギスしてるの。光太郎がひとりの子を助けてあげたら、ひとり助けられない子ができる。だからその子も助けようとすると、前に助けられた子が拗ねる。問題を解決したら、新しい問題が浮上して、結果として天文部はギスギスしてくる。わかる?」
「あの……その話がどうして私が光太郎くん? その人をもらうことになるのか、全然わからないんですが……」
「ああ、そっか。これだけじゃわからないか。光太郎は、どうにかして全員助けようとしたら、あるアプリに辿り着いたんだわ。それが【悠久の放課後エデン】」
そう言いながら、瀬利先輩はスマホを取り出すと、なにやらアプリを起動させてその表示を見せてくれた。
ゲームみたいなイラストやロゴが表示されたと思ったら、アプリの説明文までスクロールする。
【悠久の放課後エデン
こちらは一定数の悩み、痛み、苦しみを持ったサークルの心を解きほぐし、幸せへと導くものです】
少し読んでみると、それはあまりにもカルトの説明文みたいで、怖くって正気でこんなのを信じているのかわからず、私は思わず鞄から財布を取り出すと、ドリンクバー代を並べていた。
「あの、私はこれで……」
「ああ、ここだけ読んだら本当にカルトだよねえ。じゃあ、続き」
瀬利先輩は私が逃げ出そうとするのを無視して、スマホをスクロールさせると、信じられないものが見えてきた。
【現在の表示サークル:木瀬基高校天文部】
その文字の下で、可愛らしいイラストの女の子たちが次々と表示されはじめたのだ。
一番上にはモデル立ちしている美人。その髪型といい、挑発的な体型といい、明らかに目の前にいる瀬利先輩だ。
他にもツインテールの守ってあげたくなるような雰囲気の女の子、黒ローブのミステリアスな女の子、三つ編みの大人しそうな女の子……どの子もどの子も、明らかに見覚えのあると思ったら、ゲームセンターで見かけた天文部の子たちばかりがここに表示されているのだ。
「な、んですか……これ……」
「そういうアプリなんだよ。記入したサークルの問題を解決するために、サークルメンバーをアプリに登録して、アプリ内で個人個人の問題を解決させる。で、ある一定条件を満たしたら、サークルの問題が全くない世界が完成するんだよ」
「サークルの問題が全くないって……」
「たくさん人数いたら、ひとりふたりどうしても、そもそも問題なんてない子が存在する。そりゃ全員病んでたら、サークルそのものが機能しなくなるからねえ。それこそ、恵美とか一年……いや、由良みたいなね」
それに私は絶句した。
……ちょっと待って。なんで瀬利先輩が私の名前を知っているの。そもそも、これはいったいどういうこと?
突然聞かされたことがちっとも信じられなくって、私は顔を強ばらせたまま、瀬利先輩を見ていた。瀬利先輩はいつもの気怠げな調子で、ちょっと首を傾げてこちらを見るばかりだ。
「全員問題ない世界をつくるには、条件として恵美や由良にも問題を起こしてもらって、それを光太郎が解決する必要がある。恵美の場合は彼氏と別れさせて、その傷付いている恵美を助けることで、条件を満たしたけれど。問題は由良のほうだねえ……由良はなにかあったらすぐに光太郎から離れてしまう。だって由良は光太郎に依存する理由がないからねえ……あたしたちと違って」
「……っ」
「幸せなんだからいいじゃん。その問題ない世界をつくるのに協力してくれてもさ。光太郎も疲労困憊なんだよ。何周も何周も繰り返したからね、そろそろ終わらせてあげたいんだよ。あたしもあいつがずっと思い悩んでいるのはつらいからね」
なにを言っているの。
そう声に出してしまえばそれでおしまいなのに、何故か私は言葉が出なかった。
人が今、普通に幸せに平和に暮らしているのに。皆を助けるために、好きでもない人のところに行けって、そう言ってるの?
瀬利先輩がなにを抱えているのか、私は知らない。
篠山くんが女の子たちを助けるために、なにをやっていたのか、私はちっとも知らない。
ただ。恵美ちゃんを彼氏と別れさせようとしたっていうのを、今はっきりと聞いた。
恵美ちゃんはいい子だし、彼氏さんもいい人だ。誰かを幸せにするために、どうしてふたりが別れないといけないんだ。
私だってそうだ。どうして誰かを幸せにするためにという大義名分の中、不幸にされようとしているんだ。
だんだんと込み上げてきたのは、吐き気じゃない……このよくわからない状況についての憤りとか、怒りだ。
「……ざけないでください」
「ん、なあに?」
「ふざけないでください! どうして私が篠山くんをもらわないといけないんですか!?」
「え、由良。どこ怒るとこあるんだよ?」
「怒るに決まってるじゃないですか!? なんですか、この滅茶苦茶な説明は……!」
私の好きだった人は、私のことが好きじゃなかった。
かつて彼のことを好きだった私の心は砕け散ってしまって、彼女の泣き声すら聞こえなくなってしまった。
全部聞かされた今の私は、怒りに打ち震えている。
誰かを助けるついでに、私は不幸にされた。
皆を助けると言っておきながら、私は泣きながら死んでしまった……あのときのよろしくは「ようやく全員助けられる」というほっとしただけの言葉で、私の心情なんかどうでもよかった、ついでだったというのに、どうして怒らないでいられるのか。
私の激高に、怪訝な視線が投げかけられるけれど、そんなものは全て無視した。
「私は天文部と関係ありません! 好き勝手言うのは止めてください!」
「だって、お前も記憶があるんだろう?」
「知りません! 私の気持ちを勝手に決め付けないでください!」
「えー……今回がラストチャンスなんだよ。あたしたちのために、あいつが疲れるのは、これ以上見たくないんだよ」
またこれだ。
瀬利先輩の言葉に、私はますます苛立ちが募った。
ここに「皆のため」「篠山くんのため」があっても、私の気持ちなんてなにひとつ吟味されちゃいない。私は「皆」には含まれていない。
「私には関係のない話です! 帰ります、お金はここに置いておきますんで!」
「おい、由良……!」
「さようなら! もう二度と会いませんけど!」
我ながら失礼なことを言って、そのまま勢いよくファミレスを飛び出してしまった。
はあ……私は頬を伝う温度で、ようやく自分が泣いていることに気が付いた。
前の私は、あまりにも不毛な恋をしていた。その恋を終わらせるのが嫌で、何度も何度もあがいて、抵抗して、とうとう告白して、こんな仕打ちを受けるなんて。本当に、前の私が可哀想過ぎた。
そして恵美ちゃん。普通に彼氏さんと幸せに過ごしているんだから、皆が幸せになるために不幸にしないといけないとかいう訳のわからないことに巻き込まないでほしい。もう放っておいて欲しい。
私は歩きながら、さっき瀬利先輩の見せてくれたアプリの名前を思い返し、そのアプリの内容について検索をかけはじめた。
公式サイトには、先程瀬利先輩から見せられた宗教じみた説明しか書かれていなかった。このアプリ、普通の人だったら、まずしないんだろうな。だって説明文が怪し過ぎるんだもの。
大型アプリサイトではインストールすることができない。多分、この手のサイトに登録するには、アプリの内容が怪し過ぎるからだろう。
検索を続けてみたら、このアプリのレビューサイトや考察サイトが見つかった。
【ハーレム製造アプリ】
【癒やされる、これのおかげでうちの会社も安泰】
【本当にこれだけ幸せでいいのかって思う】
男性陣から概ね好評なようだけれど、女性陣や一部の男性陣からは非難囂々となっている。
【勝手に人を不幸認識しないで欲しい】
【なんでハーレム要員にされないといけないの。ここ日本だから、一夫多妻制じゃないから】
【私をここから出して】
どうにもこのアプリは、知る人ぞ知るって感じで、表だって有名なアプリではないらしい。そりゃそうか。こんなアプリが表立って宣伝されてしまったら、男対女の戦いがはじまってしまうし、不毛過ぎる。
そしてこのアプリの対処法も出てきた。
【一見対処がないように見えるけれど、このサークルの中に組み込まれた場合、規定数越えてしまったらもうサークルの中に入れられない】
【規定数って?】
【何度も何度も周回させられるの。それにアプリを使っている人間だって、何周もしてたら息切れしちゃうから、相手を疲れさせるか、規定数周回させて、もうこれ以上は周回できませんってロックかけてしまったら、逃げられる】
【でも覚えていないんでしょう?】
【こればっかりは、アプリ使用者が設定をトチるのを待つしかない】
どうにも、私が前のときの記憶を持ち越してしまったのは、完全に篠山くんがミスったことが原因らしい。本当に運とか確率の問題だ。
嘘か本当かわからない内容だけれど、これを全部嘘とか冗談で済ますには気持ち悪いことが多過ぎた。今だって「人の人生をなんだと思っているんだ」と気持ち悪くて仕方ないけど、原因が特定できたら、そこまで得体の知れない恐怖はない。
頑張って逃げよう。なによりも、「これが自分たちのためなんだ」と思い込んでしまっている子たちが可哀想だ。
だって、全員を平等に大事にするなんてこと、たくさんいたらできるわけない。
一夫多妻制が普通の国の人たちだったらともかく、今の日本で、そんなことできる人がいるわけないじゃない。
焼き芋屋の黒煙と『やーきいもー』の歌声が流れてくる。
それらを耳にしながら、私は家に帰ろうとしていた。
普段は背の高い近藤くんと一緒に歩いているせいかあんまり寒さを感じないけれど、今日は少し寒い。まだ十一月になったばかりだというのにこれだけ寒かったら、冬本番のときはどうなっちゃうんだろうと、身を震わせていたところで。
「佐久馬?」
声をかけられて、私の喉は思わず突っ張った。
その人好きのする声は、どう聞いても篠山くんのものだった。
前のときは、一緒にいるだけで安心するとか、ほっとするとか。そんな感情があったはずなのに、今は恐怖しか感じないのは、知らなくってもよかったことまで知ってしまったからかもしれない。
私が彼の声を無視して大股で歩こうとしたとき、篠山くんはそれでもなお私の隣を歩いてくる。
「どうかした? 木下の友達で、木下からいろいろ聞いたんだけど」
「……恵美ちゃんに、なにをしたんですか?」
「なにしたって。変に警戒してるなあ。俺は単純に『君の友達ってどういう人?』って聞いただけだけど」
恵美ちゃんは自分自身も他人にも身持ちが固いタイプだから、彼氏のいる人間の情報を横流しするようなことはしない。
前に天文部の子をけしかけてきたように、恵美ちゃんが彼氏と別れるように仕向けたように、またなにかしたんじゃ。私はますます警戒心を持って目を細めて篠山くんを睨んだとき、目があった篠山くんがふっと笑った。
まるで本当に、自分の周りの女の子の幸せは守るという、スケコマシとは程遠い善人の顔なのが、なおのこと腹が立った。
「……私になにかするのはいい。私が逃げればいいだけのことだから。でも、恵美ちゃんは関係ないでしょう? あなた、いったい恵美ちゃんになにをしたの?」
私の声は、どうしても端々がささくれ立っている。怒っているのが丸わかりの声だ。
それでも篠山くんはそれをすり抜けて、緩やかに笑いながら言葉を続ける。
「かごめ先輩がまた先走っちゃったみたいだからさ。俺はただ、君にちゃんと落ちて欲しいだけなんだ。それが皆のためなんだから」
「皆ってなに? それって本当に皆のためなの?」
「俺の助けたい子たちは、皆ひとりで生きていけないんだ。だから、俺が助けないといけない。でも俺はひとりしかいない。それじゃ不平等だろう? だから、全員が幸せになるエデンに連れて行かないといけない」
あのアプリに出ていた得体の知れないルート。
誰もが怒らないし平等に幸せになれる世界をつくるという……でもそれって、要はハーレムじゃない。嫌だって、気持ち悪いって、そんな気持ちも封じ込められた、ただ穏やかな凪の生活。
そんなの気持ち悪いだけだし、私も恵美ちゃんも、可哀想じゃないのにどうして可哀想に閉じ込められないといけないの。
「私は関係ないし、恵美ちゃんも関係ない。勝手に巻き込まないで」
「そうは言われてもなあ……木下は最後の最後まで粘ったけれどい、最終的には陥落したんだ。あとは君だけなんだよ。でも君の彼氏はちょっと難航しててね、でも友達思いの優しい佐久間だから、友達と彼氏を天秤にかけられたとき、どっちを取るかっていうのは目に見えているよね」
これはただの篠山くんの口車なんだろうか。それとも、近藤くんは物理的に強いし、メンタル的にも下手な口車に乗せられないと判断したから、恵美ちゃんに揺さぶりをかけて、私を落とそうという作戦なんだろうか。
こんなの……こんなの……。
もう恋ですらないじゃない。
勝手に自分の気持ちを押しつけられて、勝手に気持ちを刷り込まれて、それで幸せ? 他の女の子たちだって可哀想だ。
瀬利先輩の背景になにがあるのかは知らない。他の子たちが可哀想な事情も知らない。でも、これは一番気持ちいいのって、結局は誰かを助けられた、女の子たちを幸せにした、だから愛されているっていう篠山くんじゃないか。ただのメサイアコンプレックスを満たすための道具になんかされたくない。
今の私の気持ちを、歪められたくなんかない。
「……らい」
「えっ?」
「あなたなんて、大っ嫌い」
気付いたら、前のときの不満も、今の私の不満も、爆発していた。
「嫌い、私のこと好きでもなんでもない癖に、優しくして落とそうとするあなたが大嫌い。私のこと好きでもなんでもないんだったら、もう放っておいて。それでも愛されたい認められたい助けたいっていうんだったら、母親孝行でもしてればいいでしょ。あなたのこと、お母さんだったら絶対に許してくれるし愛してくれるしちやほやしてくれるんだから。あなたのその中途半端な救世主面、もう大っ嫌い。顔だってもう、見たくはない…………!!」
本当に。本当に。
前のとき、私はどうして死ななきゃいけなかったんだろう。好きだったはずの気持ちもギタギタにされたのに、性懲りもなく好きでいなくちゃいけなかったんだろうか。もう冗談じゃない。
簡単な話なんだ。
私が、前のときの記憶を手放してしまえば、もう彼とはなんの縁もゆかりもない、ただの赤の他人なんだから。
なにかが、ブチッと切れた。
「……えっ?」
私は目をパチパチとさせた。
焼き芋の香ばしい匂いに、黒煙が鼻を通っていく。
「佐久馬?」
こちらに恐る恐るかけてきた声の方向を向いて、私は目を瞬かせた。
見覚えのない、うちの学校の制服を着た男子だった。他のクラスの人かな。
「あの、どちら様ですか?」
「えっ? ほら、天文部の……」
「天文部……」
同じ旧校舎で活動している部だけれど、ほとんど縁もゆかりもなくって、覚えがない。あ、そうだ。恵美ちゃんが幽霊部員として所属している部だったと思う。私は会釈した。
「えっと、恵美ちゃん……木下さんの知り合いですか?」
「え……」
その男子は困惑した顔をしていた。
特に顔がいいとは思わないけど、ずいぶんとひょうきんな表情をする人だなとぼんやりと思う。でも、あんまり知らない男子と親しくしてるのはよくないか。近藤くんは焼き餅焼きってタイプではないけれど、若干過保護なところがあるから、また余計な心配をさせちゃうかもしれない。
今日はお母さんが休みだから家事の心配はないけれど、日が落ちるのも早くなってきたから、早めに帰ろう。私は見知らぬ男子に会釈した。
「あの、用がないんだったら帰りますね、失礼します」
「……あの、本当にどうして」
変な人だなと私は思い、ただ「木下さんによろしくお伝えください」とだけ言い残して帰ることにした。
近藤くんの試合の差し入れ、どうしようかな。この時期だったらスポドリは寒いかもしれない。なにを持っていったらいいのか、もう一度近藤くんや剣道部の人たちに確認しておこう。私はそう段取りを考えながら、ふと空を見た。
まだ日は完全に落ちきっていないのに、もう星が瞬いている。冬が近付いているんだ、きっと。
****
なんでだ。
俺はスマホを黙って触って、アプリを見る。
【周回が規定数越えたので、ルートはロックされました】
ちょっと待てよ。ルートがロックされたのはわかる。記憶が消えているのは、いったいなんで。
そもそも。佐久馬をパートナーに固定しておいたのに、いったいどうしてこんなことに。俺は颯爽と去って行ってしまった佐久馬とスマホを見比べるけれど、頭の中がぐちゃぐちゃして、いつものように上手く運ばない。
「そりゃそうだろ。【悠久の放課後エデン】で天文部を指定してアプリをプレイしていたのが、光太郎だけだったら、もしかしたら上手くいったかもしれねえけど」
その声に、俺はちらっと顔を上げた。
思えば、俺はいつもかごめ先輩のミスで、失敗していたような気がする。
かごめ先輩は、よくも悪くも快楽主義で、普段から自分に都合のいいことしかしないし興味を持たない。だからなにをされてもどうせ悠久エデンルートに入ってしまえば同じと思って放っておいたけど。
かごめ先輩はけざやかに笑い、ひょいと自分のスマホを掲げて見せた。
「あたしもやってたからさあ。【悠久の放課後エデン】に天文部を指定して、繰り返し繰り返しやるの。パートナー指定をぜーんぶ光太郎にしておいたんだよ。他の奴ら無視して光太郎固定でやってたから、パートナーは光太郎固定だったから、光太郎が同じようにプレイしていても何度やり直しても記憶は持ち越せるし、あたしも全部の記憶を持ち越せてた。で、他のルートをわざと失敗させてロックかけていった。さっき由良のルートを失敗させてからな。攻略失敗したから、あいつのルートにロックがかかって持ち越した記憶も消えたんだろ」
「……なんで、こんなことをやったんですか?」
「決まってんだろ。他の女の尻ばっかり追いかけてるより、もうあたしにしちゃえばいいじゃん」
そう言ってペロリと形のいい唇を舐めてから、俺のものを唇で覆う。
ざらりとした舌の感触、瑞々しい体臭。全部かごめ先輩のものだ。
ああ、そっか。この人、快楽主義は快楽主義でも、一途だったのか。今更ながら気が付いた。
もう、他の女子を助けることはできない以上、ここで俺も治まるしかないのか。
助けを求めていたはずの子たちをもう助けることはできない。もうかごめ先輩に捕まってしまったから。もっと嘆き悲しめばいいのに、何故か痛快な気分になっているんだから、俺は相当かごめ先輩に骨抜きにされていたという訳だ。
****
晩秋でも上着は手放せなくて、隙間風にぶるぶる震えながら近藤くんの試合を見ていた。
結局、寒いからとスポドリは断られたけれど、温かい食べ物が欲しいと言われ、考えた末に量販店で手軽に買える肉まんを持っていったら、皆が奪い合いしながら食べてくれた。
試合中の近藤くんたちのぶんもどうにか残して、ひとつ勝ち上がった近藤くんたちが客席まで上がってきたのを見計らって持っていった。
「はい、肉まん」
「おお、マジか。サンキュ」
防具を取ってはむはむと食べてくれる近藤くんにほっとしながら、私は食べているのを眺めていたら、「なあ、佐久馬」と声をかけてくれる。
さっさと食べ終えた近藤くんをきょとんと見上げていたら「あー……」と声を上げる。
「ちょっと散歩しね?」
「うん」
剣道部の皆が「夫婦行ってらっしゃい」と茶化すのを「やめてください!」といつものように噛みつくのでくすくす笑い、ふたりで試合会場の外に散歩に出る。
近藤くんがこちらをちらちら見てくるのに、私はキョトンとした。
「なに?」
「あー……うん。ちょっと前まで、お前やけに落ち込んでたみたいだったけど、試合前で放っておいて心配だったんだ。もう、大丈夫そうか?」
「私、そんなに心配かけてた? ごめん……」
「なんでもないんだったらいいんだよ。マジで。自己中毒起こす前にちゃんと俺に言え、なっ?」
そう心配そうな顔で頭をポンポンと撫でられるけれど、本当に心当たりがなくって、私はいったいなにをそこまで近藤君を心配させてしまったのかがわからず、ただ目を白黒とさせる。
私たちは同じクラスじゃないし、今は園芸部も活動休止状態だから園芸場で会うこともできない。寂しくなかったと言えば嘘じゃないけど。でもなんで?
私がますますわからない顔をしてる中、近藤くんが頬をポリポリと「あー……」と引っ掻く。
「うん。元気ならそれでいいんだ」
「……私は、今本当に幸せだよ?」
好きな人がいて、好きな人と両思いで、別にドラマティックじゃなくっても、その日一日幸せを噛みしめている。
それ以上の幸せはないと、何故か確信している。
近藤くんは少しキョトンとしたあと、どっと顔を火照らせた。
「……あったり前だろ、バッカ……!」
「お、こらないでってば!」
「怒ってねえよ! あー、もう!」
そのまま、少しだけ抱き着かれた。胴着臭くって、思わず目を白黒とさせたけれど、近藤くんのひと言に、私は少しだけ固まった。
「……なんか、俺ばっか佐久馬のこと考えてるみたいで、不公平だと思ったのに……」
「……そんなこと、ないよ」
誰にも心を操られていない。誰にも思うようにされていない。
それが幸せなんだと、何故かそう思った。
私は、この恋を大切にしたいと、そう心の奥から思うのだ。
<了>