蝉の鳴き声がぐわんぐわんとこだましている。
 それを耳にしながら、掃除も終わって閑散とした教室で恵美ちゃんに涙目で訴えていた。
 窓を全開にしても、クーラーの埃っぽい匂いはちっとも取れない。私の訴えに、恵美ちゃんは困ったような声を上げた。……実際に困らせてしまったんだろう。

「あのさあ、そこまで思ってるんだったらさあ、ちゃんと告白したほうがいいよ。ほら、今さ、部の中無茶苦茶空気悪いじゃない。争奪戦? 皆が皆、互いの動きを見てカバディしてるみたいな感じでギスギスしてさ」
「……私はさ、別に。篠山くんに告白しても失うものってないんだよ。だって、もしフラれてもそのまま部活に顔を出さなかったら、別に会わないし。同じクラスでもないし。でもさ、私がフラれたのを見たらさ、他の子が告白する気になると思う?」
「うーん……それなんだよねえ……」

 私は自分が泣きながら恵美ちゃんに必死で訴えている言葉を、ただ傍観していた。
 これって私が死ぬ前のときのこと……だよね。たしか、篠山くんと瀬利先輩が付き合ってるんじゃないかって噂が流れたときだったと思う。
 元々幽霊部員が多かった部なのに、篠山くん目当てで入部する子が増えていたのが一転、彼が既に付き合っているという噂のせいで、一斉退部したんだったか。
 この間、近藤くんと一緒にゲーセンに行ったとき。篠山くんの周りにいた女の子たちのうちの何人かも、そのときに辞めたんじゃなかったかな。
 私は当時、園芸部の存在を知らなかった上に、活動の緩い部じゃなかったら困るからと、部を辞めることもできず、ただ恵美ちゃんに泣きついてどうしようどうしようと愚痴をこぼしていた気がする。
 そんな中、ガラッと戸が開いた。話をしていた瀬利先輩だ。白いセーラー服のリボンタイは取ってしまい、自由になった胸元からはチラチラと谷間が見えるのに、私たちはそっと目を逸らした。
 わかりやすく恵美ちゃんが顔をしかめたのは、恵美ちゃんがあからさまに女を武器に使ってくるタイプが嫌いだからだろう。

「よっす、恵美に由良。いま大丈夫か?」

 私と恵美ちゃんは思わず顔を見合わせると、私よりも先に恵美ちゃんが表情をポーカーフェイスにしてから口を開いた。

「なんですか? 今日は部活なかったですよね?」

 彼女のあからさまな棘をスルーして、瀬利先輩は続ける。

「うーん、じゃなかったら逃げられるかなと思ってさ。いやさあ、うちの部。今人がいないじゃん? でもあたしもそろそろ引退しないと駄目だしさあ。こりゃまずいなあと思って」
「はあ……」

 恵美ちゃんが乾いた返事をする中、私はおずおずと口を開いた。

「あの……今、部に人は?」
「色男がへーんな噂流れてるせいかさあ、部に人がいないせいで、文化祭の準備が全然はかどんなくって困ってんだよねえ。部から文化祭の実行委員会にふたりくらい出さないと駄目なのに、人がいなさ過ぎてそれもできないしさあ。だから戻ってきてくれない?」
「それ、身勝手だって思いません? だって篠山のあれって、あいつの自業自得じゃないですか。部の空気だって悪いしっ」

 瀬利先輩のマイペースな言葉に、当然ながら恵美ちゃんは噛み付いた。そもそも噂の元凶は瀬利先輩で、彼女からも篠山くんからも否定の言葉が聞けないから、怒ったり泣いたりして部に人が来なくなってしまったんだから。
 ……私は、辞めてしまった子たちのことを責めることは、どうしてもできなかった。事情がなかったら、私だって同じことをしていたと思うから。本当なら、恵美ちゃんみたいに怒るべきところなんだ、身勝手だとか、無責任だとかって。
 でも。私は篠山くんの家庭の事情を知っていた。
 彼の家は母子家庭で、うちの共働きと同じく、家事全般は彼がやっていたはずだから、今の部の現状じゃ彼に負担がかかり過ぎてるんじゃと思ってしまったのだ。
 いくら土日には家族がいるからって、土日に全部の家事を回すのは無理だよね。
 友達のよしみというのが半分、部に来ないせいで負担が一気に篠山くんにかかっているという罪悪感が半分。
 ……ここで部に戻ったら、少しは篠山くんが感謝してくれるかもしれないという下心がほんのちょっぴり。

「あの……篠山くん。今はどうですか?」
「ちょっと、やめときなってば由良!」

 恵美ちゃんが止めるのも聞かずに、気付いたらこの質問が喉をついて出ていた。
 それに瀬利先輩が目をくりくりとさせる。

「おっ、戻ってきてくれる気になったか、由良?」
「えっと……文化祭の準備に、教室の準備をするのがふたり、実行委員会に出向するのがふたりで、最低四人いれば、部は回るんですよね?」
「回る回る。うちはプラネタリウムだから、暗幕張りさえすればそれで作業は終わるし。部の展示の準備はふたりで事足りるし、出向メンバーさえ揃ったら文化祭もなんとかなるよ」

 瀬利先輩のその言葉に、私は恵美ちゃんをじっと見た。
 恵美ちゃんは瀬利先輩のことを本気で苦手視しているし、今回の篠山くんとの件で完全に敵視してしまっていた。彼女は彼氏がいるぶんだけ身持ちが固く、交際のことをはっきりとしない人間は皆不誠実認定してしまうのだ。……つまりは、恵美ちゃんは私が篠山くんに気があるのに反対な訳で。
 恵美ちゃんは私の目に、ぶんぶんと首を振る。

「あたし嫌だよ。わざわざ友達がいいように利用されるのを横で見るの」
「……お願い、私のわがままだよ。一緒に部に戻ろう?」
「……あいつ、人の好意を平気で踏みにじる奴だよ? ひどい奴だよ? 本当にいいの?」
「いいよ。これは全部私のわがままなんだから、篠山くんは関係ない」
「あんたのわがままは篠山のせいだってのに……わかったよ、戻ればいいんでしょ」
「ありがとう……っ!」

 私は恵美ちゃんに抱き着いて「暑い……!」の悲鳴を聞いていた。
 それを眺めながら、私は頭が痛くなっていた。
 なんて友達甲斐の人間なんだろう、私は。
 恵美ちゃんは何度も何度も、嫌われるの覚悟で本気で止めてくれていた。なのにふわふわしていた私は、ただ篠山くんに頼られたいというそれだけで、一度距離を取ろうと思っていたのに戻ってしまったんだから、本当に質の悪い大馬鹿だ。
 勝手に期待して、勝手に裏切られたと思って……勝手に事故で死んじゃった。
 そんな私のドロドロしている部分を、近藤くんは知らない。
 話せる部分はかろうじて話したけれど、私と篠山くんのことに関しては、どうしても私が死ぬまでの話まで語らないといけなくって、言える訳がなかった。そもそも、やり直しているなんてこと、どうやって説明できるっていうの。
 だんだんと視界がぼやけてきたのは、これが夢だからだろう。ううん、ここまではっきりしているんだから、これはただ私の記憶を再生しただけなのかも。

****

 窓の外からは、蝉の鳴き声がこだましている。
 私はタオルケットに顔を埋めながら、ぼんやりとさっきまで見ていた夢を思い返していた。
 ……なんであんな夢見ちゃったんだろう。もう戻れない夢だっていうのに。今の私のことを、篠山くんも瀬利先輩も知らないはずだ。
 そもそも。このふたりが付き合っているって噂が流れはじめたのは九月だったような……。私が泣きながら恵美ちゃんに相談したのは、たしか九月の半ばだったはず。
 ふたりが付き合っていたのか付き合っていなかったのかは、結局わからないままだった。
 今も付き合っているのかは定かではない。
 天文部幽霊部員の恵美ちゃんによれば「天文部にいるなんでモテているのかわからない」男子には、今も特定の彼女がいないらしい。
 でも篠山くんのことだ。周りにいっつも女の子がいるんだ。なによりも押しの強い瀬利先輩がいるんだから、今は付き合っていなくても、ふたりが付き合い出すのも時間の問題だろう。
 ……ううん、今の私には全然ふたりのことなんて関係ないのに。私は首を振りながら、ようやく起き上がる。
 夏休みに入ったから、少しだけ寝坊はできるけれど、やることは変わらない。
 洗濯物を急いで片付けたら、学校に行かないと。園芸場の水やりをしないといけないし。
 さっさと着替えると、洗濯機を倍速でかけ、その間にトーストとインスタントコーヒーの簡単な朝ご飯を済ませる。手早く洗濯物を干すと、そのまま学校へと飛び出していった。
 夏休みになったら、さすがに登下校路も学校も静かなもんだ。この中でも登校しているのは、大会前の運動部くらいだろう。
 剣道部はたしか、明後日からインターハイの会場に現地入りすると言っていて、今日が学校でする最後の稽古の日だと近藤くんが言ってたな。
 園芸場に来てみたら、鬼瓦先生が育てた畑が艶々とし、夏野菜もたっぷりと実っている。これ採らなくってもいいのかな。私はそう思いながら水道のホースを取ると、蛇口を捻りはじめる。これを採る採らないの権限って私にはないものね。
 私はそう思いながら、水を畑に撒きはじめる。葉っぱに水をかけてはいけない。あんまり日差しが強いときには絶対に水をやっちゃいけない。鬼瓦先生に何度も何度も口酸っぱく言われた通りに水をあげているとき、剣道場から竹刀と竹刀がぶつかり合う音が響いてきた。
 剣道部の稽古も、明々後日からはじまる試合に向けての総仕上げなんだろう。いつもよりもその音は激しい気がする。私はそう思いながら耳を澄ませていたとき。

「佐久馬?」

 そう声をかけられ、驚いてびっくりして振り返る。
 さっきまで稽古をしていたんだろう。むわりと汗のにおいを漂わせている近藤くんだ。胴着姿で首にタオルを引っかけていた。

「おはよう。練習お疲れ様」
「おう。明後日には行くから」
「何度も聞いてるよ、それは」
「なあ」

 私はいつものぶっきらぼうな近藤くんの言葉に相槌を打っていたら、ぽつんと声をかけてくる。
 思わず近藤くんを見ると、この間のショッピングモールのときと同じように、罰の悪い顔をして、明後日の方向を見ていた。
 彼はちゃんとしゃべらないといけないときは視線を逸らさない。逸らしているときは、大概罰が悪いからだ。

「……俺、優勝してくるから。もし優勝してきたら、言いたいことがあるんだけど」

 そう言われて、私は固まる。
 ホースを持つ力が水流に負け、たちまち私は顔に思いっきり水流をかぶってしまった。

「おい、佐久馬……!?」
「ご、ごめんなさい……! 思わず呆けて……!」
「ああ、タオルこれしかねえし……」
「別にいいよ! 水やり終わったらすぐに家に帰るから!」

 私はぶんぶんぶんと首を振って、水しぶきを飛ばす。
 あまりにもお約束が過ぎる言葉に、私は近藤くんが言い出したことの意図がわからなかった。

「なんで?」

 ぽろりと間抜けな言葉が漏れていた。

「……この間、買い出しに行ってからずっと考えてた。お前、すっげえフラれ方したせいで、卑屈になってるからどうすりゃいいのか」
「フラれてないよ。私が勝手に勘違いしただけだから」
「いや勘違いで吐き気するほど追いつめられるってアリか? ……いや、それはどっちでもいいんだよ。俺が嫌なんだよ。訳のわからん奴がずっとお前ん中にいるのが」

 そうきっぱりと言われて、私は思わず黙り込んだ。
 私だって、もう記憶全部失くして、イチからやり直せたらいいなとは思ってた。もう痛い思いなんかしたくない。自分のドロドロした部分と嫌というほど向き合うなんて、気分が悪くって嫌だった。
 私の中には未だに篠山くんが住み着いていて、何度忘れようとしても、なにかの拍子に彼の気配を感じて、気持ちが死ぬ前に引きずり戻されてしまう。
 私は、近藤くんをちらっと見た。凝視する度胸は、どうしても湧かなかった。

「あの、私」
「なんだよ」
「いいところ、ないよ? すぐ落ち込むし、落ち込んだらズンドコまで落ち込むし、人の好意を素直に信じられないひねくれ者だし、特に美人でも可愛くもないし……」

 口にしてみればしてみるほどに、情けなくなってくる。どうして近藤くんがこんな私に声をかけてきたのか、本気でわからないからだ。
 でも。

「うるせえ」

 そのひと言で私の言葉を遮ったのも、近藤くんだった。

「うるせえ、いくらお前でも、これ以上自虐辞めろよ!? 本気で怒るぞ!」
「もう怒ってるじゃない!」
「これは怒ってんじゃねえよ、叱ってんだよ。ああん、もう。……とにかく、覚えとけ。お前、俺が優勝するよう、家で祈っとけ」

 告白するぞってあれだけわかりやすく言っているのに、こんなに上から目線の言葉なんてあるのかな。
 私はどうしようと思いながら近藤くんを見ていたけれど、彼は顔を真っ赤にして、「ふん」と鼻息を立てるものだから、本当に勝つ気なんだなということはよくわかった。

「……うん、返事考えとく」
「おう」

 言いたいことだけさんざん言って、そのまま近藤くんは剣道場へと帰っていった。
 残していった汗のにおいを嗅ぎながら、蝉時雨を一身に浴びる。
 私が彼に告白したのは、二年生の夏合宿だった。今は一年の夏で、部だって、状況だって、人間関係だって、全然違う。
 もう、いいんじゃないかな。少しだけそう思う。
 私は私を、そろそろ甘やかしてもいいんじゃないかな。近藤くんみたいな人、もう会えないと思う。
 なりたくて卑屈になったわけじゃないけど、そんな私がいいって言ってくれる人、次はいつ会えるかわからないんだもの。
 一通り水やりを終え、ようやく蛇口をひねってホースを片付けたとき。
 私は蛇口の下になにかが転がっていることに気付いた。

「え……?」

 丸いそれは、青く光っていた。縁日とかでよく見るゴムボールかなと思って拾い上げて、気が付いた。
 これ、天文部のオブジェ……文化祭のときに、やる気のない天文部がそれっぽく見えるようにと太陽系をつくって展示するときに使う、海王星のオブジェだ。
 私はがばっと頭上を見上げる。校舎裏にある園芸場は、天文部のある旧校舎……だったと思う。
 まだ文化祭の時期じゃないのに、準備して出さないのに、これが落ちてるなんておかしい。
 なにか一瞬ヒヤリとしたものが胸に走るような気がしたけど、それにぐっと耐えた。
 ……考え過ぎだ。私はセーラー服の胸元を掴みながら、一度拾ったオブジェをその場に戻した。
 これを拾って天文部に届ける度胸はなかったし、そもそも天文部は夏休み中は全面的に活動自体中止していたはずだ。合宿はあったけど、恵美ちゃんからは参加の話は聞いていない。あんまり参加人数少ない合宿だったら中止になるんじゃないかな。
 できる限り自分に都合のいい筋道を思い浮かべて、私はすぐにその場を立ち去った。