第二章 音色
知らない間に、土間にあったゴミは片付いていた。悠が仏壇前で騒いでいる間に、祖父の高志が近所のゴミステーションに車で往復したそうだ。
「大物は、市の方へ連絡してから指定日に出さないとダメみたい」
まち子がそういうと、高志は「また行くしかないな」と返事をした。
そんな会話を聞きながら、自宅へ戻る車の後部座席で彼女は例の箱の中を見ていた。隣りに座った悟は、それを見てにやにや笑っている。
「伯父さんさあ、私この手紙ほとんど読めないよ」
「そりゃそうだ、旧仮名づかいで書いて有る上に常用漢字では無いものも多い。読めたら不思議だな。俺は、戦前の教育を受けてるから読めるけどな。高志も読めないと思うぞ」
運転中の小ジイが、チラッとこちらを見た気がしたが何も言われなかった。
「伯父さんは、このまま家に帰るの。それとも、一緒に夕飯に行くの」
「おお、一緒に行くぞ。一人暮らしだからって高志が呼びに来てくれたから出て来たんだし。帰る訳ねえだろ」
基本、軽くべらんめえ調で喋る悟は年齢を感じさせない。
「でもさ、なぜこんなリボンを取ってあるのかしら」
「そうさなあ、お前に理由を話してやりてえな。祖父様に怒られそうだけどな」
彼は楽しそうに笑うと、話をはじめた。
年号が明治に変わり、既に40年余りが経とうとしていた。日本は富国強兵を目指し、世界の大国と何度か交戦した。日本男子は20歳になると、兵役が義務づけられ戦争に行く行かないは別として教練に入った。
「しかし、お前のラッパは下手くそだな」
そんな言葉を言われ続けて、1年。ラッパ手は、出世できないとか。働きが悪そうな人間が割り当てられるなど言われて、散々だった。実際に戦場に駆り出されると、最初に戦死するのがラッパ手だと言われた。
当然、戦場でラッパを吹けば目立つ上に指揮系統の要になるから狙われて当然だ。磯吉は、人より頭一つ身体が大きい、大きい男は鈍いであろうという上司の先住観念から損な役割を回されたように思えてならなかった。
「なぜラッパ兵なんかにしたんだ」と心の中で思いつつ。今日も吹き慣れないラッパを磯吉は練習していた。
今日の昼のこと。
いつも通りに、食事のラッパを吹いていた時。何となく、最後の音を変えてみたくなった。というか、いつも最後の音はあと幾つか高い音にしたほうが食事にありつけるという喜びを表現出来る気がしていた。
そこで、磯吉は音をこっそり替えて吹いてみたのだ。
「こら!ラッパ手。何をやっとるか!!」
分隊長が直ぐに気がつき、走ってきて彼のラッパを取りあげた。
「分隊長殿、小生は最後の音に違和感がありまして変更してみた次第であります!」
そういった瞬間、彼は地面に叩きつけられていた。
「ちょこざいな、規則を守らんかっ!」
しこたま、足蹴りされ昼食も罰として与えられず。午後の教練は水が目一杯入ったバケツを持って立ち続けるという罰に撤することになった。
悔しさにラッパを地面に叩きつけたい衝動に駆られたが、これは貸与品だ。壊したら、余計にややこしくなる。上等兵達には「お前のラッパは下手くそだな。擦れない音を出してみろよ」などと言われ続けていたから。こうやって悔しくて、人のいない場所で練習をしているのだ。
「だいたい、農家の息子が何でラッパなんて」
悔しさに言葉が口から出るが、マウスピースに唇を付けてラッパを吹く。
すると、茂みがカサカサと動いた気がして磯吉は振り向いた。
「そこにいるのは、どなたですか」
細い琴の音に似た、若い女性の声が耳に届く。
「しょっ、小生は宮城磯吉であります!」
顔は優しいが、巨体で少し乱暴な所があり女性にはとんと縁が無い彼はラッパを下ろし。背筋を伸ばし、顔を斜め上に向け姿勢を正して名を名乗った。
すると、コロコロと鈴を鳴らす様な可愛らしい声が響き。茂みから、袴姿で長い髪のサイドを後ろで束ねた女性が現れた。
「磯吉さんですね、なぜこんな所に?離れの兵隊さんですよね。こちらは母屋の敷地ですが。入ったら怒られますよ」
楽しそうに、少しからかう様子で大柄な彼を下から覗き込んだ。彼は姿勢を変えずに直立不動のまま「し、柴田家のお嬢様でありますか。し、失礼いたしました」と答えた。
彼女は、相変わらずイタズラな表情で笑いながら彼の手のラッパを見る。
「時々、母屋におりましてもラッパが聞こえて参ります。貴方が吹いてらっしゃるの。わたしくし、聞いて見たいです」
いかにも、良家のお嬢様。苦労など知らないという開けっぴろげな性格に、姉妹や母や祖母とは違う物を感じ相変わらず動けずにいる。
「わたくしの声、聞こえてらっしゃいます。こちらを見てくださいな」
軽く、ツンツンと彼の横っ腹をつつく。
「うっ、うはっあ」
妙な声をあげて、彼はやっと体勢を崩して彼女を見た。大きな瞳に、透き通る様な肌、少し尖った輪郭に黒髪が掛かって目に映る女性がこの世の物とは思えなかった。何せ、母や妹達は農作業で肌は小麦色に焼けているのだから。
「お、お嬢様。お戯れを」
「私は、お嬢様という名前ではございません。ゐくと申します。名前でお呼びください。磯吉さん」
「はっ、ではゐくお嬢様」
そう言うと、また気をつけ姿勢になってしまう。
「良いですか、聞いて下さい。父が事業に成功して、敷地が広く。離れを作り連隊の皆さんの兵舎としてお貸ししているのはご存じの通りです。
ただ、私はお嬢様でも何でも無く。ここの家の住人です、そのお嬢様という呼び方はお辞めいただきたいと存じます」
「えっ、お嬢様とお呼びするのはお嫌でしたか」
「当然です。わたくしも、跳ねっ返りで父からは怒られる事も多く・・・」
そこで、彼女はコホンと軽く咳払いをして下を向いた。
「小生も、乱暴者といわれております。で、こんな所に隠れて鬱憤を晴らしておりました。兵舎でラッパを吹けば、皆に聞かれてしまいます故」
「それで、母屋の方へ?規則でこちらに来てはいけない事になっていると聞きましたが、怒られますよ」
「それは、覚悟の上です。貴女こそ、こんな所で男と二人っきりでいらっしゃるのを、家の方に見られたら具合が悪のでは無いですか」
2人はしばらく、見つめ合ってから「ぷっ」っと吹きだして大笑いをした。
「何かおかしいですね」
笑いながら、彼女が言うと。
「意外と、私どもは似た所が有るのかも知れませんな」
彼も笑った。
その後、磯吉は庭石の上に座りながら彼女に今日の一件を話していた。
「それは、ダメですわ。だって、指揮系統で決められた音程でなければ、正しい指令が伝わらなくなります。戦地でしたら、命取りになりますよ」
ゐくに言われて、少しプーッと頬を膨らませる。
「しかしながら、食事のラッパくらいは良いと思います」
「いいえ、どのラッパも重要なのですよ。軍の規律とはそういう物だと兄も申しておりました。実は、兄もラッパ兵をしておりましたのよ」
「兄上様も、ラッパ兵でしたか」
「父が万が一戦いになったとき、矢面に立つ歩兵は嫌だと申しましてね。こっそりと、裏で手を回したと言う話でしたの。でも、ラッパ兵は狙われやすいと申しますでしょ。父上の考えも甘い様に思いますの」
彼女はまた、コロコロと美しい音で笑った。
「小生は、それでも食事や起床、就寝のラッパは遊び心があっても良いと思うのです」
「もう、貴方も頑固ですね。じゃあ、こうしましょう。私が、その遊び心にお付き合いいたします。また、ラッパが聞こえたらここに参りますわ。その代わり、普段のお勤めの際はしっかり規則通りのラッパを吹く。これでいかが」
先ほど初めて逢ったとは思えない、なつっこい女性に彼はタジタジになっていた。
「わ、分かりました。しかしながら、この性格ですから急にまた違ったメロディーを吹くやもしれませぬ」
「うふふふ、それなら・・・」
彼女は、そういうと髪に結んだリボンをスッと解き。彼の袖口を少し押し上げて、そこにリボンを縛ると、袖口を元に戻した。
「さあ、これで良しっと。これなら皆さんには見えませんね。でも、貴方にはリボンの感覚はありますでしょ。これを思い出して、身を慎む事を約束してください」
「し・・・しかし」
彼が、立ち上がろうとすると遠くから「お嬢様あ、ゐくお嬢様どちらにいらっしゃいますか」という数人の女性の声が聞こえてきた。
彼女はクスッと笑うと、唇に指をあて「しーっ」と声を出すなというジェスチャーをして立ち上がる。
「ばあや、ここよ。今行くわ」
良く通る声は、しっかり使用人まで届いたらしい。
「じゃあね、磯吉さん。またお逢いしましょう」
首を軽く傾げてニコッと笑うと、彼女は茂みの中に駆けていった。後ろ姿を見送る磯吉は、頭の中が混乱していた。そして、袖を軽くめくると彼女が縛っていった赤いリボンを見てしばらく呆然とする。
「ゐく殿か・・・可愛かったなあ」
少しずつ暮れ始めた空を眺め、先ほどの笑顔を思い出し夕焼けの様に赤くなる自分の顔に気がつき。両手で、頬を挟みバシバシと叩いてみる磯吉だった。
・・・・・・・
「ま、そんなこんなでな。祖父様と祖母様は出会った訳だ」
悟は、少年の様な笑顔で話を終えた。
「じゃあ、このリボンはゐくさんのリボンって訳ね」
「そうだな、俺が聞いてるのはそういう話だ」
「それが何で、大ジイが持っているの」
「まあ、それはだな。また話してやろう」
「ええええ、今教えてよ」
エキサイティングしている後部座席を振り向いたまち子は
「取りあえず、夕飯にしようか。悠、お店に着くよ」と笑った。
知らない間に、土間にあったゴミは片付いていた。悠が仏壇前で騒いでいる間に、祖父の高志が近所のゴミステーションに車で往復したそうだ。
「大物は、市の方へ連絡してから指定日に出さないとダメみたい」
まち子がそういうと、高志は「また行くしかないな」と返事をした。
そんな会話を聞きながら、自宅へ戻る車の後部座席で彼女は例の箱の中を見ていた。隣りに座った悟は、それを見てにやにや笑っている。
「伯父さんさあ、私この手紙ほとんど読めないよ」
「そりゃそうだ、旧仮名づかいで書いて有る上に常用漢字では無いものも多い。読めたら不思議だな。俺は、戦前の教育を受けてるから読めるけどな。高志も読めないと思うぞ」
運転中の小ジイが、チラッとこちらを見た気がしたが何も言われなかった。
「伯父さんは、このまま家に帰るの。それとも、一緒に夕飯に行くの」
「おお、一緒に行くぞ。一人暮らしだからって高志が呼びに来てくれたから出て来たんだし。帰る訳ねえだろ」
基本、軽くべらんめえ調で喋る悟は年齢を感じさせない。
「でもさ、なぜこんなリボンを取ってあるのかしら」
「そうさなあ、お前に理由を話してやりてえな。祖父様に怒られそうだけどな」
彼は楽しそうに笑うと、話をはじめた。
年号が明治に変わり、既に40年余りが経とうとしていた。日本は富国強兵を目指し、世界の大国と何度か交戦した。日本男子は20歳になると、兵役が義務づけられ戦争に行く行かないは別として教練に入った。
「しかし、お前のラッパは下手くそだな」
そんな言葉を言われ続けて、1年。ラッパ手は、出世できないとか。働きが悪そうな人間が割り当てられるなど言われて、散々だった。実際に戦場に駆り出されると、最初に戦死するのがラッパ手だと言われた。
当然、戦場でラッパを吹けば目立つ上に指揮系統の要になるから狙われて当然だ。磯吉は、人より頭一つ身体が大きい、大きい男は鈍いであろうという上司の先住観念から損な役割を回されたように思えてならなかった。
「なぜラッパ兵なんかにしたんだ」と心の中で思いつつ。今日も吹き慣れないラッパを磯吉は練習していた。
今日の昼のこと。
いつも通りに、食事のラッパを吹いていた時。何となく、最後の音を変えてみたくなった。というか、いつも最後の音はあと幾つか高い音にしたほうが食事にありつけるという喜びを表現出来る気がしていた。
そこで、磯吉は音をこっそり替えて吹いてみたのだ。
「こら!ラッパ手。何をやっとるか!!」
分隊長が直ぐに気がつき、走ってきて彼のラッパを取りあげた。
「分隊長殿、小生は最後の音に違和感がありまして変更してみた次第であります!」
そういった瞬間、彼は地面に叩きつけられていた。
「ちょこざいな、規則を守らんかっ!」
しこたま、足蹴りされ昼食も罰として与えられず。午後の教練は水が目一杯入ったバケツを持って立ち続けるという罰に撤することになった。
悔しさにラッパを地面に叩きつけたい衝動に駆られたが、これは貸与品だ。壊したら、余計にややこしくなる。上等兵達には「お前のラッパは下手くそだな。擦れない音を出してみろよ」などと言われ続けていたから。こうやって悔しくて、人のいない場所で練習をしているのだ。
「だいたい、農家の息子が何でラッパなんて」
悔しさに言葉が口から出るが、マウスピースに唇を付けてラッパを吹く。
すると、茂みがカサカサと動いた気がして磯吉は振り向いた。
「そこにいるのは、どなたですか」
細い琴の音に似た、若い女性の声が耳に届く。
「しょっ、小生は宮城磯吉であります!」
顔は優しいが、巨体で少し乱暴な所があり女性にはとんと縁が無い彼はラッパを下ろし。背筋を伸ばし、顔を斜め上に向け姿勢を正して名を名乗った。
すると、コロコロと鈴を鳴らす様な可愛らしい声が響き。茂みから、袴姿で長い髪のサイドを後ろで束ねた女性が現れた。
「磯吉さんですね、なぜこんな所に?離れの兵隊さんですよね。こちらは母屋の敷地ですが。入ったら怒られますよ」
楽しそうに、少しからかう様子で大柄な彼を下から覗き込んだ。彼は姿勢を変えずに直立不動のまま「し、柴田家のお嬢様でありますか。し、失礼いたしました」と答えた。
彼女は、相変わらずイタズラな表情で笑いながら彼の手のラッパを見る。
「時々、母屋におりましてもラッパが聞こえて参ります。貴方が吹いてらっしゃるの。わたしくし、聞いて見たいです」
いかにも、良家のお嬢様。苦労など知らないという開けっぴろげな性格に、姉妹や母や祖母とは違う物を感じ相変わらず動けずにいる。
「わたくしの声、聞こえてらっしゃいます。こちらを見てくださいな」
軽く、ツンツンと彼の横っ腹をつつく。
「うっ、うはっあ」
妙な声をあげて、彼はやっと体勢を崩して彼女を見た。大きな瞳に、透き通る様な肌、少し尖った輪郭に黒髪が掛かって目に映る女性がこの世の物とは思えなかった。何せ、母や妹達は農作業で肌は小麦色に焼けているのだから。
「お、お嬢様。お戯れを」
「私は、お嬢様という名前ではございません。ゐくと申します。名前でお呼びください。磯吉さん」
「はっ、ではゐくお嬢様」
そう言うと、また気をつけ姿勢になってしまう。
「良いですか、聞いて下さい。父が事業に成功して、敷地が広く。離れを作り連隊の皆さんの兵舎としてお貸ししているのはご存じの通りです。
ただ、私はお嬢様でも何でも無く。ここの家の住人です、そのお嬢様という呼び方はお辞めいただきたいと存じます」
「えっ、お嬢様とお呼びするのはお嫌でしたか」
「当然です。わたくしも、跳ねっ返りで父からは怒られる事も多く・・・」
そこで、彼女はコホンと軽く咳払いをして下を向いた。
「小生も、乱暴者といわれております。で、こんな所に隠れて鬱憤を晴らしておりました。兵舎でラッパを吹けば、皆に聞かれてしまいます故」
「それで、母屋の方へ?規則でこちらに来てはいけない事になっていると聞きましたが、怒られますよ」
「それは、覚悟の上です。貴女こそ、こんな所で男と二人っきりでいらっしゃるのを、家の方に見られたら具合が悪のでは無いですか」
2人はしばらく、見つめ合ってから「ぷっ」っと吹きだして大笑いをした。
「何かおかしいですね」
笑いながら、彼女が言うと。
「意外と、私どもは似た所が有るのかも知れませんな」
彼も笑った。
その後、磯吉は庭石の上に座りながら彼女に今日の一件を話していた。
「それは、ダメですわ。だって、指揮系統で決められた音程でなければ、正しい指令が伝わらなくなります。戦地でしたら、命取りになりますよ」
ゐくに言われて、少しプーッと頬を膨らませる。
「しかしながら、食事のラッパくらいは良いと思います」
「いいえ、どのラッパも重要なのですよ。軍の規律とはそういう物だと兄も申しておりました。実は、兄もラッパ兵をしておりましたのよ」
「兄上様も、ラッパ兵でしたか」
「父が万が一戦いになったとき、矢面に立つ歩兵は嫌だと申しましてね。こっそりと、裏で手を回したと言う話でしたの。でも、ラッパ兵は狙われやすいと申しますでしょ。父上の考えも甘い様に思いますの」
彼女はまた、コロコロと美しい音で笑った。
「小生は、それでも食事や起床、就寝のラッパは遊び心があっても良いと思うのです」
「もう、貴方も頑固ですね。じゃあ、こうしましょう。私が、その遊び心にお付き合いいたします。また、ラッパが聞こえたらここに参りますわ。その代わり、普段のお勤めの際はしっかり規則通りのラッパを吹く。これでいかが」
先ほど初めて逢ったとは思えない、なつっこい女性に彼はタジタジになっていた。
「わ、分かりました。しかしながら、この性格ですから急にまた違ったメロディーを吹くやもしれませぬ」
「うふふふ、それなら・・・」
彼女は、そういうと髪に結んだリボンをスッと解き。彼の袖口を少し押し上げて、そこにリボンを縛ると、袖口を元に戻した。
「さあ、これで良しっと。これなら皆さんには見えませんね。でも、貴方にはリボンの感覚はありますでしょ。これを思い出して、身を慎む事を約束してください」
「し・・・しかし」
彼が、立ち上がろうとすると遠くから「お嬢様あ、ゐくお嬢様どちらにいらっしゃいますか」という数人の女性の声が聞こえてきた。
彼女はクスッと笑うと、唇に指をあて「しーっ」と声を出すなというジェスチャーをして立ち上がる。
「ばあや、ここよ。今行くわ」
良く通る声は、しっかり使用人まで届いたらしい。
「じゃあね、磯吉さん。またお逢いしましょう」
首を軽く傾げてニコッと笑うと、彼女は茂みの中に駆けていった。後ろ姿を見送る磯吉は、頭の中が混乱していた。そして、袖を軽くめくると彼女が縛っていった赤いリボンを見てしばらく呆然とする。
「ゐく殿か・・・可愛かったなあ」
少しずつ暮れ始めた空を眺め、先ほどの笑顔を思い出し夕焼けの様に赤くなる自分の顔に気がつき。両手で、頬を挟みバシバシと叩いてみる磯吉だった。
・・・・・・・
「ま、そんなこんなでな。祖父様と祖母様は出会った訳だ」
悟は、少年の様な笑顔で話を終えた。
「じゃあ、このリボンはゐくさんのリボンって訳ね」
「そうだな、俺が聞いてるのはそういう話だ」
「それが何で、大ジイが持っているの」
「まあ、それはだな。また話してやろう」
「ええええ、今教えてよ」
エキサイティングしている後部座席を振り向いたまち子は
「取りあえず、夕飯にしようか。悠、お店に着くよ」と笑った。