四話

 ◇


 お腹が痛いから、と言って夕食は取らず、ベッドに横になり、頭から布団をがぶった。こうすれば、みんなの声を聞かずに済むから。

 菅原くんが言ったように、午後からは雨が降った。風に吹き飛ばされて消えてしまいそうな線の細い雨が地面を微かに濡らしていく。細々と降る雨の陰気が室内まで入ってきて、私の気分は一段階暗さを増した。
 パラパラと窓ガラスを叩く雨音に耳を塞ぎ、低気圧からくる頭痛を眉を顰めて堪える。

 好き、と口の中で発音した。
 好き。好き。由依のことが好き。
 それは次第に声となって(こぼ)れ、抑えても抑えてもどんどん(あふ)れてくる。
 私はどうしようもなく由依に恋をしているのだ。

 枕に顔を押し付け、由依への愛の言葉を吐きだす。由依への恋心を自覚したときから今日で約十年。ずっとこの胸に秘めていた熱い恋心を、心思うままに。この想いを打ち明けられたらどれだけ楽だろうか。

 私はそうやってろくに外にも出ず残りの三日間を過ごした。扉越しに羽山くんが声をかけてくることもあったが、全部無視した。
 そして最終日前日。明日で最後か、と空っぽな感情で考えていると、控えめなノックが聞こえた。また羽山くんだろうと無視を決め込もうとしたときだった。

「ねえ、百瀬」
 それは、大好きな人の声だった。





「一度やって見たかったんだよね! 浜辺で花火!」
 潮風が私の髪を乱暴に掻き撫でていった。三日ぶりに眺める太陽は、三分の一が水平線に隠れ、海の一面を茜色に染め上げている。
 海岸に響く潮騒と縮まらないままの距離間のため、由依の声が自然と大きくなった。水平線を眺めるその顔は西日に照らされ淡い橙色に輝いている。

「もっと暗くなってからの方が良くない?」
 由依は「そうかも」と笑い、花火に火をつけた。細長い棒の先から夕日色の火の粉がブワっと吐き出される。

「花火、菅原くんとしたかったんじゃないの」
 私がそう言うと、由依はブンブンと首を横に振り、キッパリとした声で「百瀬と二人っきりがいい」と言った。
 それが嬉しくて思わず顔が綻ぶ。


「綺麗だね、夕日」
「そうだね」
「明日の朝にはもうこの島ともさよならしなくちゃいけないんだよね。なんか寂しくなってきた」
「また来られるんじゃない?」
「そうだといいな」
 由依が黙ると、私たちの間にあるのは波の音だけになった。とても静かな音なのに、茜空の隅々にまで響かせるような、果てしなく広がる音だ。
 

「私、菅原に告白しようと思う」
 私はゆっくり顔を上げる。そこには、夕日を背に佇む由依がいた。

 橙色に染まったワンピースと白肌が、夏の空気にそっと溶けているように見えた。そのあまりの美しさに目頭がぎゅっと熱くなる。
 島を覆う茜空、黄金色の水平線、そして潮騒。それら全てが由依のためだけに、今、此処に存在していたた。

 私は、強い意志を宿した瞳と不安そうに震える手を交互に見た後、「いいじゃん」と普段の会話と同じ調子で言った。
「いいの?」
 由依の可愛い顔が不安色に曇った。心配しなくていいよ、と私は首を横に振る。
「さっきも言ったけど、私は菅原くんのこと、なんとも思ってないから。本当だよ。神に誓って____いや、由依に誓って」
「なんで私なの」
 由依が綺麗な顔をくしゃりとさせて笑った。私が大好きなやつだ。その笑顔を見てまた泣きそうになる。

 由依は火の止まった花火をバケツに突っ込むと、今度は二つの花火に火をつけた。そして、その花火を両手に、薄橙に染まった砂浜の上をクルクルと回る。火の残映が、由依の纏うオーラのように彼女の周りに金の輪を作った。
 白いワンピースが揺れる。長い髪が宙を舞う。
 夕空に覆われたこの島全部が、由依のためだけに用意された舞台だった。由依が、由依という美しさを演出するための舞台だ。


「私、由依のことが好き」

 自然と声が出た。十年間ずっと言えなかった「好き」の二文字が、あっさりと、なんのつっかりもなく、はらりと滑らかに流れていった。
 由依は長いまつ毛を(しばた)かせた後、ふわりと笑った。
「私も百瀬のこと大好きだよ」
「違う。そういう意味じゃない」
 友達としてじゃない。友達としてじゃないんだ。私はもっとーーーー。
 

 私は、由依に恋をしている。

 由依の両手から、花が萎れたように火の勢いが消え、魂が抜けたように煙が吐き出された。


「あ、菅原」
 由依の視線が私から外れた。振り返ると、別荘から手を振る菅原の姿があった。由依の頬が赤く染まる。それが夕陽のせいではないことを、私はよくわかっている。

「行ってきなよ。片しとくから」
「でも」

「自分の気持ち伝えてきな!」
 不安そうな由依の背中を思いっきり叩いた。パンッ、と想像以上に大きな音がなる。その音がスタートの合図のように夕空に響いた。声のボリュームを上げたのは、泣いているのがバレないようにするためだ。

 由依が「ありがとう」と残し、菅原の方へ走っていった。私はその姿を目で追った。

 溜まった涙と夕日に視界を奪われ、由依の姿がだんだん見えなくなる。その姿が完全に見えなくなったとき、堰を切ったようにはらはらと涙が頬を伝った。その雫の一つ一つが橙の光を受け、淡く光る。

 由依が私のことを好きになればいいのに、と思っていた。でもそれは無理だ。凛とした瞳と、菅原くんを見つめる甘い表情を思い返しながら、私はそう確信する。
 私が思っていたよりずっと、由依は菅原くんのことが好きだったのだ。
 
 長い夢から覚めていくようだった。溢れる涙と一緒に、彼女に向けていた熱い感情が失われてゆく。
 この身を焦がすような、熱い熱い恋だった。二度もこの夏を送るほど、長い長い恋だった。

 私は今日、失恋をしたのだ。

 心の大半を占めていた感情が消え、ポッカリと心に穴が開いてしまった私は、ただ静かに立ち尽くす。


 溢れた涙は、透明な夏の空気に溶けていった。