三話

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 私は、当時の記憶を一つ一つ、入念に思い出していった。
 結婚式で聞いた話によると、二人は元々お互いが好きだったが、それは幼馴染みの延長線に近く、お互いを異性として強く意識し始めたのはこの旅行中でのことだったらしい。

 だからこの三日間、二人の仲が深まるきっかけとなるようなことを片っ端から防げば、三日後の告白イベントを回避することができるはずだ。その代わりに、由依が私を恋愛対象として見るよう仕向ける。そして三日後、本来由依が菅原に告白するタイミングで、私が由依に告白する。

 告白に対して望んだ返事が返ってくるとは思っていない。ただ、告白をすることで由依に今までとは違った意識を持たせることはできる。
 完璧とは言えない作戦だが、今この状況での私にできる精一杯のことだった。
「拒絶されたら」という考えがないわけではない。その場合、付き合うことはもちろん親友でいることすらできなくなる。最も避けたいことだ。それでも、そんなことを気にしていては、十年にわたるこの恋心を救うことはできない。


 昼食後、由依が皿洗いをして菅原くんがそれを手伝う、ということを私はよく覚えていた。
 若い男女が広くない流し場で肩を寄せ合い、同じ作業をする。二人の心の距離が近づかないはずがない。
 当時の私は二人の後ろ姿を離れたテーブルから見ていた。指先が触れてしまった二人が、目を合わせて恥ずかしそうに笑うその瞬間さえも、はっきりと。
 妬みや羨望の感情を抱きながらも、私は二人の空間に割って入ることができなかった。

 でも、今回は違う。

 由依が菅原くんに手伝いを求める前に、私が手伝うと名乗りを上げる。そして、二人で皿を洗っている最中、由依が私を恋愛対象として意識するような言葉を一つ二つ吐く、_____つもりだった。
 私はここで重大なミスを犯してしまった。

「皿どうする?」
「私するよ。でも一人だと大変だから菅原も、」

 由依がそう言って立ち上がったとき、咄嗟に彼女の腕を掴んだ。突然の出来事に目を見張る由依。ほぼ無意識のうちにしてしまった行動に自分でも戸惑いながらも、もう後には引けないと思い、その細腕をぐいと引っ張りそのまま外へ飛び出した。


「ちょっと、どこ行くの」
 その言葉に返事をせず、木々の隙間を駆け、別荘から距離を置く。目的地なんかはない。ただ、二人を遠ざけたかった。
「痛いよ。離して」
 私は由依の腕を掴む力を強めた。ここでこの手を離してしまうと、由依がもう二度と帰ってこないような気がしたからだ。


 嫉妬だった。

 菅原くんの元へ行こうとする由依の姿が、バージンロードを歩くその姿と重なったのだ。 
 二人にためだけに用意された神聖な領域。そこに他者が立つことも、近付くことも許されない。
 菅原くんに手を引かれる由依。全てが真っ白の清らかな式場の中で、口づけをする二人だけが別空間にいるように感じた。幸せなラブストーリーを観客席から覗いているような、そんな感覚。目の前で起こっていることのはずなのに、決して手が届かない。

 羨ましくて仕方なかった。この幸せを壊してやりたかった。
 二十六歳にってもそんな子供じみた衝動に駆られたことに情けなさを感じたが、由依と二人になれたということへの達成感の方が大きかった。

 気が付くと私たちは、青空を覆う木々の葉たちによって作られた影の中にいた。昼間だというのに薄暗く、真夏だというのに肌に触れる空気がひんやりとしている。
 きっと別荘からはそう距離はないだろうが、私たちを囲む木々の幹と生い茂る夏草のおかげで、二人っきりだという感覚を強く植え付けてくれた。

「百瀬?」
 横目で由依の方を見ると、小さな手が私のTシャツの裾を握っていることに気がついた。私を見つめるその姿は身長差のおかげで自然と上目遣いになっている。由依は、
この状況に不安になったのか、私の肩に頬を寄せてきた。

 このまま顔を下げたら、キスしてしまいそう。
 熱い血が胸の中で脈打つ。脳内に広がる甘い感情が思考力を麻痺させ、緊張で震える指先がその髪に触れることを拒ませる。

「ねえ、百瀬」
 由依は私の手を引っ張り向かい合うような形にさせた。愛くるしい目にじっと見つめられ、この身を揺らすような激しい鼓動に襲われる。反射的に目を逸らした。「何?」と返す自分の声に、恋人と話すような甘さが含んでいたことに少し驚いた。今の私はかなり浮かれている。
 そんな熱い感情で胸を高鳴らせていたのは私だけだった。


「前から思ってたんだけどさ」
 由依の声がワントーン下がった。
 南風に草木が揺れ、強い葉の匂いを振り撒いた。

「百瀬、菅原くんのこと好きでしょ」

 冷めた言い方で、微かな怒り深い悲しみを含んだ声で、そう問うたのだった。困惑の中、由依と目があった。普段の人懐っこい瞳ではなく、どこまでも真剣な瞳だった。その強烈な視線に気圧された私は「何言ってるの」とぎごちなく笑うことしかできない。
「私が菅原と話してるとこ、いつも見てるし」
 違う。私が見ていたのは由依だ。
「私が菅原の話をしたら、いつも嫌そうな顔する」
 それは、由依と仲が良い菅原くんが羨ましかったからだ。
「それで気づいたんだ。百瀬、菅原のこと好きなんだな、って」
 違う。全然違う。
「何で言ってくれなかったの? 好きな人が被ったくらいで友達じゃ無くなってしまうって思ったの?」
「待ってよ、由依」
「黙ってられた方が余計傷付くんだけど」
 由依が震えた声でそう言った。

 違う。違うって言わなくちゃ。必死に声を出そうとするが、私の口は石化してしまったようにピクリとも動かない。
 早く、私が好きなのは由依だって伝えなくてはいけないのに。

「だからさっき私が菅原に話しかけようとしたの邪魔したんでしょう? ねえ、百瀬も私と同じ人が好きなんでしょう?」

「違う!」
 私の怒声に、由依の肩がピクリと震えた。その瞬間、ハッと正気を取り戻す。
「由依、あのさ」
 この場を取り持つ言葉を探したが、上手く見つからなかった。
 おずおずと由依の方を向く。大きな瞳に涙の膜が張っていた。
「違うんだよ、由依。私が好きなのは、」

「あ、こんなとこにいた」
 不意に、この場に似つかない軽快な声が聞こえた。菅原くんのものだ。
「菅原」
「なんか忙しい感じ?」
 彼は、私たちの間に漂う不穏な空気を感じ取ったのか、「午後から雨降るって。だから早く戻ってこいよ」と言い残し、去っていった。

 その背中を追って私の横を通り過ぎていく由依。風に流れる黒髪から、シャンプーの匂いが香った。