二話

 ◇


「すっごい! これ、本当に菅原の家の島なの?」

 由依がはしゃいだ声を上げてパタパタと船から降り、両手を広げて浜辺の上でくるりと一回転した。長い髪が潮風に流れる。
「おい、危ねえだろ」
 弾けるようなその笑顔に思わず見惚れていると、背後から鋭い声が飛んできた。振り返ると、菅原くんが呆れたような表情で由依を見つめて立っていた。

 この夏、私は、由依の未来の夫ーー菅原くんの家が所有する島にある別荘に遊びに行くことになるこになっていた。
 この夏の記憶もちゃんとある。楽しかった高校時代の思い出。____三日後、夕日が島を覆う頃、由依が菅原くんに告白することも、私は知っている。

 菅原くんはかっこいい男の子だ。すらりと背が高く、色素の薄い髪と彫りの深い顔立ちは日本人離れしていて、外国の彫刻作品のような芸術的な美しさをもっていた。
 実家は有名な資産家で、私たちが住む田舎町で一際目立つ立派な日本家屋は彼の家だ。
 ちょっとガラが悪くて乱暴だけど、根はすごく優しくて。
 そして、由依のことが好き。



 各々に与えられた部屋に荷物を運び終えると、みんなは浜辺に遊びに行った。

 私は彼らには混ざらなかった。砂浜に立てられたパラソルの下に座り、浜辺でビーチボールを打ち合う三人をぼんやりと眺める。夏の強い日差しが砂浜に突き刺さり、辺りには熟れるような熱気が漂っていた。パラソルの影の向こう側に降り注ぐ白い光に、目が眩む。

 私は水着を持ってこなかった。持ってくるのを忘れたわけではなく、過去の私がこのとき水着を忘れたから、今回も同じようにそうしたのだ。

『____歴史を変えることは許されないんだ』

 小さい頃に読んだ漫画の主人公が、過去にタイムスリップしてしたときに言われていたセリフだ。高校時代にタイムスリップしてしまったと気づいたとき、真っ先にこの言葉が思い浮かんだ。

 歴史なんていうたいそうなものではないが、ここは私にとっては過去で、私はこれから起きることを全て知っている。私が当時の私と違った行動を取ったとき、これから訪れるであろう未来がどうなるのかはわからないし、元いた世界に戻ってしまった場合、その世界がどう変わってしまうのかもわからない。
 だから私は、当時の自分が取った行動を忠実に再現することが最も安全であると判断した。

 でも、想像してしまう。
 由依が菅原くんと付き合い、結婚するきっかけとなったこの旅行で、由依が菅原くんに告白する前に、私が本当の気持ちを伝えたら。そうしたら、何かが変わるのかもしれない、って。


「百瀬!」
 海に向かって駆け出した由依が振り返り、私に向かって手を振っている。私も小さく振り返した。
 ザブザブと細い足が海水を切り裂いていく。真夏の太陽にさらされた薄い肩が小さく揺れる。
 白い太ももの半分までが塩水に浸かったとき、由依の顔にパシャりと水がかかった。驚いて目をパチクリさせる由依の側では、菅原くんが悪戯っ子のような顔で笑っている。
 濡れた顔を拭った由依は頬を膨らませ、菅原に仕返しをすべく、細い腕いっぱいに水を掬って菅原くんの方にふりかけた。宙を舞う水飛沫が強い日差しを受け、キラキラと輝く。

 彼らの動作の一つ一つが、脳の奥に在る記憶にピッタリと重なり合った。
 由依の髪が夏の空気に踊る。南風に拐われてふつりと切れてしましそうな、細くて、美しい髪。
 跳ねる水。反射する光。透き通るような白い肌。どこまでも青い、夏の空。それらは映画のワンシーンのようで、その世界の中で、菅原くんに向かって笑いかける由依が一番美しい。
 その美しさは、まるで透明色だ。夏の空気にすっと消えてしまいそうな、目を話した隙にふっといなくなってしまうようなーーーー水面に浮かぶ泡のように儚くて幻想的な色だ。 
 その透明色が、私の心を掴んで、離さない。


「水着を忘れてくるなんて、幸坂(こうさか)は馬鹿だね」
 私のいるパラソルに涼みにきた羽山(はやま)くんが、そう言った。
「羽山こそ。せっかく海にきたのに泳がなくていいの?」
「俺、海はそんなに好きじゃないんだよね。ベタベタするし」
「そっか」
 羽山くんは太陽の光を拒むように切長の目を細めた。
 
 羽山(つかさ)くんは菅原くんと小学校のクラブチームが同じだったらしく、私とは中学校の時に知り合った。由依とも仲が良く、菅原くんと三人でいるところを何度か見かけたことがある。

 それっきり私たちの間の会話は途切れた。気まずい沈黙の中、よく通る波の音だけが夏空へ駆ける。
 
「幸坂に聞きたいことがあるんだけどさ」
 羽山くんが唐突に言った。何のことかと一瞬ドキッとしたが、すぐに昔の記憶が引っ張り出され、「ああ、これね」と、あの日したこの会話を思い出した。これから彼が話す内容は完全に覚えている。
 私は高校生の頃の自分になりきって「何?」と相槌を打つ。
 そんなこととは露知らずな羽山くんは、これから話す言葉に迷っているようだった。
「なんていうか、確認、的な……」
 羽山くんが言葉に詰まったせいで、嫌な沈黙が流れる。ざあざあと寄せては引く波を目で追いながら、羽山くんが話すのを待った。


 海面に流れる白波を眺めていると、しばらくして羽山くんが意を決したように言った。
「……幸坂、新のこと好きでしょ」
「全っ然」
 あの時の私とと同じように、間髪入れず否定する。
 まったく、勘違いも甚だしい。どうして年頃の男の子は身近にいる男女を恋仲にしたがるのだろうか。
「いつも目で追ってるから」
「勘違いだよ」
 私が目で追うのは由依だ。菅原くんじゃない。
 羽山くんは「それならいいんだけど」とはにかんだ。その顔は暑さのせいか赤く火照っている。何が「いいんだけど」なのかはわからないが、記憶通りに事が進んでよかった。

 そのとき、一際強く南風が吹いた。その風に想起されたように、あの頃の感情が蘇る。

『もしかして、由依が好きなことがバレたんじゃ……』

 物ありげに話を進める彼に、微かな不安を感じた。だから、彼が口にした的外れな言葉に深い安堵の気持ちを抱いたのだった。
 あの頃は安心でいっぱいで、大事なことに気がついていなかった。

 ____由依、いつも菅原くんのところにいたんだ。

 私が見ていたのは由依だが、羽山くんには菅原くんを見ていると思われていた。つまり、由依は菅原くんといることが多かったのだ。
 当時の自分には気づけなかったこのことが、私の心をじんわりと傷つけた。

 私にとって由依は幼稚園のときからの親友だ。登下校も移動教室もいつも一緒で、他の子達と違い、特別な関係だと思っている。
 でも、由依と菅原くんも私とは違う種類での特別な関係だった。
 二人は親同士が仲良くて、生まれて間もない頃からの幼馴染だそうだ。だから、今でも双子のように仲が良く、その間柄を揶揄われたときも、「由依は妹みたいなもんだから」「いや、菅原が弟でしょう」なんていう会話をしたりなんかもする。二人っきりでいるとき、由依が菅原くんを「新」と呼んでいることを、私は知っていた。
 私は二人の輪には入ることができなかった。他者が介入することが許されない空気が二人の間にはあったのだ。

 いつもは双子のように仲が良いが、不意に手が触れるとドキッとしてしまうような、そんな関係。
 それは、由依に恋する私が喉から手が出るほど欲しい関係だった。
  
 別に、元から女の人好きだったわけではない。初恋は男の子だったし、中学の時には彼氏がいた。だから、由依への好意が恋心によるものだと気付いたときは少し戸惑った。同性、しかも親友の由依を好きになるなんて。
 女性を好きになる人をレズビアンというらしいが、私はそれには当てはまらないと思う。
 女だから好きになったんじゃない。由依だから好きになったのだ。恋愛対象は女性なのではなく、恋愛対象が由依だったのだ。その愛くるしい瞳に、背中まで流れる美しい髪に、綺麗な顔をくしゃりとさせて笑うその姿に、私は恋をした。
 でも、由依の恋愛対象は女性でもなければ私でもない。

 その度に私は性別を恨んだ。私が菅原くんのように背が高くて、声が低くて、指がゴツゴツしてて、ーーーー男の子だったら、迷わずこの気持ちを伝えられたのに。
 嫉妬という薄暗い感情が心に降り積もっていく。私は、この想い伝えることすらできないのだから。

 私だって由依のことが好きなのに。

 年甲斐もなく湧き起こった黒い感情によって、私の頭の中に一つのアイディアが生み出された。

『未来を変えて仕舞えばいい』

 由依と菅原くんが結ばれるを未来を変えてしまえば、この暗い感情を片付けることができる。

 由依が菅原と付き合わないからといって、その相手が私になるとは限らないし、その可能性はかなり低いだろう。それでも、二人の『特別な関係』が更に『特別な関係』になることを止められたら、二人が結婚しない未来を迎えられたら、それで少しは報われる気がした。

 それに、このタイムスリップが"神が私に与えたチャンス"だとすれば、由依の恋心が私に向くようになるという奇跡が起こるのかもしれない。
 そんな"もしも"の可能性に賭けてしまうほど、私は由依のことが好きだった。


 そのとき、私の頭の中から『当時の自分が取った行動を再現する』という考えは完全に消えていた。